環境の変化、生活上の変化、経済状況など、身の周りのことで忙しい毎日です。
 
 気心知れた友人にも会えず、アレクサンダー・テクニークのクラスにもなかなか顔を出せず悶々としてしまいます。

 しかしながら、御月参りで通っているお家のお婆ちゃんと畑で半日を過ごしたり、たまに来る観光のお客さんとの会話はなかなか乙なものです。ただ一人、自己流マッサージの得意な河本(仮名)さんを除いては(笑)。

 この河本さんのマッサージは独特で

「痛くなければマッサージじゃない」

と言わんばかりの腕力系の強力なヤツで、揉み返しのヒドイ僕にとっては、拷問に近いほどの代物なのです。してもらった代わりに、アレクサンダー的なワークをすると、

「ぜんぜん効かない。もっと強くしてくれなきゃわかんないよ」

とアドバイスしてくます。

「僕が習ってるアレクサンダー・テクニーク(河本さんは『西洋の整体』と思ってる。僕も説明が面倒なのでそのままにしている)は、マッサージではないので、強く揉んだりしないんですよ」

と言うと、

「それじゃーオラッちには合わねえーな。もっと強くしてくれねエーとな…」

と繰り返して言います。
そのままにしておけばよかったのですが、

「強くしたら、その時は、気持ちいいと思いますが、次はもっと強くしてもらわないと効かないんじゃないですか」。

河本さんは

「そうなんだよ。オラっちをやれるヤツは一人しかいないよ」

とは言いました。

「その時良くなっても、日頃の身体の使い方の癖や習慣があるから、また同じところが痛くなったり、凝ったりしますよね。」

「まーね。でも、すぐ効かなくちゃ。痛みを取りに行くんだから」

なるほど、やはり強さと即効性は河本さんにとってとても大切な要素だと思われました。


 この集落に来て、高齢者の方々と接するうち、

「自分自身でする」とか

「自分自身で気づいてゆく」

ということがなかなか言えなくなっている自分がいる。

「してもらって当たり前」

だからです。さらにお金を払って

「自分自身でする」、なんてご無体な。と思っているのだ。

 根気強く自分自身の習慣についての話を試みるしかないと今は思ってる。今までの習慣を悪者にせず。その人を何十年も支えてきたものだからだ。

面白いことに、脳梗塞などで足腰が傷んでいたり、長年の農作業によって弱っている方々は一様にリハビリ
が嫌いだ。
よっぽど病院嫌いなのか、ただ動かされたのか、性格の悪い(笑)理学療法・作業療法士にあたったのか?!とても興味深い問題である。お互いの認知の歪みを和らげることができれば…


 認知行動療法・認知運動療法には、とても興味がある。しかし、仏教もそうなんだが、よほどの内省や瞑想のできる人ではない限り、「ありのまま」の自分自身を見つめられない感じがある。僕自身にとっても、ただ「ありのまま」に見れないという認知に少しだけ近づけるのが精いっぱいで、「認知のゆがみ」を人に認知してもらえるかどうか。その人が自分自身で気づくしかない。「気づき」を強要することはできない。また、他人のことは客観的に見えたりするので、その「ゆがみ」を「正そう」としてしまうという怖さもあるのだ。


「認知運動療法の臨床×哲学 『運動とは知ることである』」

という帯の文言に惹かれ、今、『リハビリテーション身体論』(宮本省三「青土社」)を読み始めている。

名前の知らなかったその世界での偉人というものがいる。その引用文などが素晴らしく、

僕の脳に心に響く。

ちょっと言葉が難しかったりして、頭でっかちになりそうだが。

その内容をそのまま実践することはできませんが、それこそ自分自身の認知の整理、理解のために読んでいきたい。感動した処、気になった処、理解できない処を少しずつ紹介していきたい。

どうか、ご意見、ご感想をよろしくお願いします。

もし、本を持ってる方がおられたら、一緒に輪読しましょう。ぜん


プロローグより

「身体は動くことで回復するのではなく、感じること、思考することによって回復する。損傷を受けた脳の認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語)を適切に活性化することによってのみ、運動麻痺をゆっくりと回復させてゆくことができる」(p.11)

「世界に意味を与える身体」(ペルフェッティ)
この言葉がリハビリテーション身体論の柱である。(p.11)

 

 やはり昔の方々は、「生きること」は「動くこと」「働くこと」という考えが根強いと思う。

脳梗塞で半身麻痺になった本間(仮名)さんは、リハビリには通いません(たまに病院に行くとは言っていた)。

しかし、自宅の周りを根性で歩いています。

その成果かどうかはわからないが、今はだいぶ歩けるようになった。なんといったら良いかわからないが、手助けはいらない感じなのだ。

                  「根性」。
 なんか忘れていた精神概念である。

 昔、禅の修行道場では「ただ黙って坐れ!」と指導された。懇切丁寧な説明などない。そうして何十年も坐って、自分の姿勢の歪みを自然に整えてゆく。そういう文化装置というか教育ができていた。精神構造にも、ものすごい強度があったように思う。硬度経済成長である?!しかし、現代の我々は?社会的、政治的、環境的、精神的に「成長」や「増長」は「不安」を増すもののように無意識に感じているのではないか。そういったらすぐに「それは大人になれない子供だ」と決めつけられたりしてしまう。「健全な肉体に、健全な精神は宿る」と言われていた時代、今もそう考えている人たちもいるだろう。昨今の「健康ブーム」も「身体が健康ならば…」という盲目的な幸福論でしかない。「では健康っていったい何でしょう?」の疑問が思い浮かべないほど、「健康」に追い立てられ乗せられていい気に、健康になった気になってるのだ。一方、「うさぎ跳び」を称えた時代が終わり、「うさぎ跳び」は身体的に良くないからやめてもっと機能的なトレーニングをしましょうという合理的な時代の到来があった。「鍛える」「耐える」「扱き」は合理的な理由があってこそのものだ。

 だいぶ脱線している。

 べつに僕は「『精神論』より『機能論』だ」と言いたいわけじゃない。その人その人にとって、それぞれ良い方法があると思うのだ。いろんな「頑張り」があると思うのだ。老子に「努力を尽くして努力を忘れる」という言葉がある。「努力を忘れるために努力する」?!なんじゃそりゃあ!?そんなの意味ないじゃん!?そう意味がない。しかし意味って何だ?!意味は誰が決めるのだ!「世界に意味を与える身体」それは「世界から意味を与えられた身体」も含まれるのではないだろうか?

「努力とは何か?きっぱりとした意志をもたらすことです。意志とは何か。ある考えが不快であろうとも、それにしっかりした勝利をもたらすことです。またある考えが、とりあえず快いものであろうとも、それを禁止しつづけることです」(W・ジェームズ)
       「鼻孔正しければ則ち、一切皆正し」(『道元禅師語録』より)

 最近『からだ』に興味があるんです。そこで、今回は「『からだ』と『こころ』の関係」について、日頃思っていることを述べてみようと思います。

 カウンセリングの学習を通じて、私が実感したことは『からだが開けば、こころが開く』ということです。自分の気持ちの深いところを相手に話そうとしたり、また、反対に相手の深い思いを聞こうとすることは、緊張の連続です。精神的にも身体的にも力が入っているのでどっと疲れます。ある勉強会で首が痛くなり、休憩中、大先輩のオバ様に相談したら、「ちょっと仰向けになって」と言われ、首や後頭部を手で触れてもらいました。確か「あなた自身で頭を持ち上げようとしなくていいのよ、床に全部預けて」みたいなことを言われたような気がする。5分ぐらいだったと思いますが、首がすっとし、背中が広がった感じがありました。休憩後のトレーニングで、相手の人の言葉が自然に耳に入ってきたり、自分の気持ちが素直に言えたような気がしました。学習後の振り返りで「からだが楽になることによって、自分の心の中の動きが以前よりも見えてきたように思う。そして、楽に聞いたり、話せている自分に気づきました」と感想を述べました。
 
 そのことがきっかけとなって、「からだ」と「こころ」(気持ち)の関係に興味を持つようになりました。禅では「即心」といって、いきなり?心を取り扱ってしまいますが、直接「心」にアプローチするのはとても難しいことです。  

 そこで我が宗門には、すばらしいことに「坐禅」があります。坐禅は「調身」「調息」「調心」の行法といって「まず身を調え、次に呼吸を調え、最終的に心を調える」というプロセスと捉えられる一面もあります。強引ですが簡単に言ったら、「ちゃんと身を調えたならば、呼吸も心も自然に調ってしまう」のです。
 逸山禅師という方も

「坐禅の法は、着坐まず坐相を正さんことを要す、坐相正しければ心またこれに従う」

と言っておられます。そうすると『正しい坐相』というものが気になり始めますが、いったいその『正しい』とは、『ちゃんと』とは、どういうことなのでしょうか?

 私はこの赤肉団(しゃにくだん…ぴちぴちと生きている我が肉体)で、それを実証していきたいと思っています。「よかったら、皆さんも自身の赤肉団で試してみませんか!」

「あなたの鼻の孔はどこにありますか?」
「それはどんなことをしていますか?」

「だれでも正しくありたいと思う。しかし自分で正しいと思っていることが
正しいかどうか、だれも立ち止まって考えない」 
(F・M・アレクサンダー)
『坐禅とアレクサンダー・テクニークとわたし』

 現在、わたしは僧侶をしながら、アレクサンダー・アライアンス(京都)でアレクサンダー・テクニーク(以下AT)の教師養成トレーニングを受けています。遠隔地のため、レッスンはなかなかコンスタントに受けることができません。しかし、幸い私の宗門には「坐禅」という身心トレーニング?!法があります。毎朝、自分がATで学んだことを思い出したり、応用したりして坐ることは、とても心地よく「坐禅は安楽の法門である」(道元禅師)を身体的にも精神的にも頷ける感じがしています。修行道場での、あまり指導のないままの坐禅によって、腰を痛めたり、内臓を圧迫していたことがやっと理解できるようになりました。自分の勝手なイメージで「背筋を真っ直ぐにして」長い間坐っていたのです。これは現代の修行僧や参禅者(坐禅修行する一般の方)の方々にも同じ経験があると思います。今、比較的時間のあるうちに道元著作の『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』をテキストにしてわたしが学んだATによる解釈で身読してみようと思い立ちました。ATを学ぶ方達には「坐禅は坐禅なり」(道元)という身心学道としての禅の奥義の深遠さが少しでも伝わり、それぞれの方がそれぞれの日本的なATを創造する際の参考になったら存外の喜びになると思います。マイケル・ゲルブ著『ボディ・ラーニング―わかりやすいアレクサンダー・テクニーク入門―』の次のような言葉が私を励まし、勇気を与えてくれました。


 アレクサンダーが意識的な学習の発達のなかで体の役割に対してユニークな洞察を最初に発表してから、ほとんど百年になります。アレクサンダーの仕事は、自己認識を高め、習慣を変えるために強力な道具であることを多くのひとが発見しつつあります。それに加えて、ヨガ、瞑想、武道などの修行を行うために貴重な手段であるのが分かりはじめています。
                                (「はじめに」)

  ・アレクサンダーの洞察と、禅や老荘思想の類似点は何ですか。相異点は何ですか。
                     (第8章「目的と手順」チェックポイント)


『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』(現代語訳は『道元禅師語録』鏡島元隆 講談社学術文庫参照)


「原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本(どうもと)円通(えんづう)、争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん」

(よくよく考えてみるに、仏道は元来すべての人にまどかに行きわたっているものであるから、どうしてあらためて修行や証(さとり)を必要としよう)


 「道」という思想・概念は、東洋独特のものだと思いますし、説明するのは難しくまた不可能です。ここでは、道元禅師自身の問いかけだと思って進みます。「どうして道の真っただ中にいて道を尋ねるのか」と。
 AT的に解釈してみます。よくATではATを「自分自身の使い方」とか「自分自身の再教育・再学習」などと言ったりします。

「自分自身が一番よく知っているはずの自分自身なんだから、自分自身の使い方も自分自身が一番よく知っているはず」
と思ったりする人もいると思います。つまり
「自分自身が自分自身に『自分自身って何?』って聞いているようなもの」。
「知っているはず?の自分自身って何だ?」
これからは「道」ということを「自分自身」または「自己」として解釈していくことにする。次に進む前に、道元禅師の有名な文章を紹介しておきます。

 仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり。
                          (『正法眼蔵』現成公案)

 「自己を習うというは、自己を忘れるなり」の「習うこと」から「忘れること」に至るプロセス。そこに「学習の仕方を学習する」というAT独特のかかわり方があると思う。具体的な方法はテキストを読み進める過程で明らかにしていきたい。実際の坐禅の方法、体験を通じてからまたこの道元の言葉に戻ってくると思います。