昨日、浜岡原子力発電所からお知らせが来た。東北地方太平洋沖地震の知見を踏まえた津波対策の概要でした。新たにT.P.(東京湾平均海面)+18mの防波壁を設置し、さらにそれを超える津波が仮に発生した場合でも「冷やす機能」を確保するために防水構造のポンプ室を設置するという。「安全性をより一層向上」「より安定した高温停止を維持します」「より冷やす機能が回復し、機能喪失から一週間程度で冷温停止することが可能になります」
・・・「さらに…」「より…」・・・
備えというものには切りがないということか。「備えあれば憂いなし」って本当か?!
『世界』八月号に高史明さんと高橋哲哉先生の対談にこんな文章を見つけた。
高:私は今回の事態を受けて、朝永振一郎さんの『物理学とは何だろうか』(岩波新書)を読み直してみたのです。原子物理学者として日本で最も早くから問題提起し、現在の問題も言い当てているような視線がある。
たとえば「備えあれば憂いなし」という私たちの日常感覚を取り上げて、そうではなくてむしろ、
“憂いが増す”
という。
科学には罰せられる要素があるという目線が科学者には必要なのだ、と。原爆の爆発実験が成功した時のオッペンハイマ―の言葉が
「物理学者たちは罪を知ってしまった」
でした。朝永さんの言い方では
「備えがなければ心配だという衝動が科学者や技術者や政治家を駆り立てる」。
それでは科学の持っている罰せられる要素は克服できないと物理学者として説いておられて、説得力がある。
さらに言えば、どういう備えがあればよかったのかとか、技術的に何か足りなかったのかという次元の論理では追いつかないほどの大事故が起きたのだと思いますね。
そもそも人間にとっての「備え」とは何であるかが問われたのです。
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/08/111.html
(「備え」て善しとしてしまう人間性。その「備え」が覆された今回の震災。「備え」なければいけない。しかしその「備え」がさらに「不安」を煽ることになる)
高橋:不安なことに対して徹底的に備えようというのは近代の合理主義の思想ですが、特に日本社会にはその傾向が強いのではないでしょうか。それは、自分たちが自然をもコントロールできるという思い込み。完全にコントロールしてしまおうという傲慢につながる。
「欧米は自然支配で傲慢、日本は自然との共生で謙虚」
などという比較文化論は、明らかに虚構にすぎない。
(人間が自然を、そして人間をコントロールしようとするエネルギーって原子力より強いのでは?!それって歴史が証明している)
…高:近代世界全体がそれいけそれいけとなったのには、ヨーロッパ先進国のお手本が良くなかったと今でも思います。彼らは人類史に大きな功績を残しましたが、同時に植民地支配という形で、自分たちだけが儲かればいいという考え方を世界中に広めた。原子力開発がその線上にあることが危険極まりないわけです。
「備えあれば憂いなし」が危険な状況を生むという原子物理学者の指摘は、実は
「科学を重ねて備えあればよけい憂いが出てくる」
というところまで人間を見つめた時に、現代の人間の課題としてとらえることができるように思う。
「備えあれば憂いなし」式の合理思想では、備えをさらに万全にというだけで、
自分自身を見つめ直す視点につながらないのです。
(なんだか、もうすでに「憂いながら備えている」そうしてまた憂うのだろうな。そんな感じがする。人間の憂いと共に大地の憂いが聞こえてくるようだ。地下に原発を造ろうという動きがあるらしいが、ああ、何というか愚かというも愚かなり…原発が人間の自己中心性の象徴のように見える。そう、核は一人一人が持っているのかもしれない…)
この対談では、最後、合理主義的な福沢諭吉の目線から、親鸞の「自然(じねん)」への目線に転換していくことの急務を問うことで終わる。
最近、この土地に越してきてから、もっと原発のことが知りたくなりました。地域社会の課題の一つだからである。
近々、浜岡原発に見学に行ってこようと思う。もう科学技術の粋を集めた建築物ではないが、
実際に見て自分が何を感じるか、何を思うのか。
もしよかったら有縁の皆さんもどうぞ見学して、感想聞かせてください。その際はどうぞ自坊にも寄ってください。『異論反論オブジェクション!しゃべり場』しましょう。『世界』八月号の対談も輪読しましょう。勝手にシンポジュウム開いて、人が集まったら高さんを迎えていろいろ話し合いしたい。
「話し合いのないところに和解はない」のである。

・・・「さらに…」「より…」・・・
備えというものには切りがないということか。「備えあれば憂いなし」って本当か?!
『世界』八月号に高史明さんと高橋哲哉先生の対談にこんな文章を見つけた。
高:私は今回の事態を受けて、朝永振一郎さんの『物理学とは何だろうか』(岩波新書)を読み直してみたのです。原子物理学者として日本で最も早くから問題提起し、現在の問題も言い当てているような視線がある。
たとえば「備えあれば憂いなし」という私たちの日常感覚を取り上げて、そうではなくてむしろ、
“憂いが増す”
という。
科学には罰せられる要素があるという目線が科学者には必要なのだ、と。原爆の爆発実験が成功した時のオッペンハイマ―の言葉が
「物理学者たちは罪を知ってしまった」
でした。朝永さんの言い方では
「備えがなければ心配だという衝動が科学者や技術者や政治家を駆り立てる」。
それでは科学の持っている罰せられる要素は克服できないと物理学者として説いておられて、説得力がある。
さらに言えば、どういう備えがあればよかったのかとか、技術的に何か足りなかったのかという次元の論理では追いつかないほどの大事故が起きたのだと思いますね。
そもそも人間にとっての「備え」とは何であるかが問われたのです。
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/08/111.html
(「備え」て善しとしてしまう人間性。その「備え」が覆された今回の震災。「備え」なければいけない。しかしその「備え」がさらに「不安」を煽ることになる)
高橋:不安なことに対して徹底的に備えようというのは近代の合理主義の思想ですが、特に日本社会にはその傾向が強いのではないでしょうか。それは、自分たちが自然をもコントロールできるという思い込み。完全にコントロールしてしまおうという傲慢につながる。
「欧米は自然支配で傲慢、日本は自然との共生で謙虚」
などという比較文化論は、明らかに虚構にすぎない。
(人間が自然を、そして人間をコントロールしようとするエネルギーって原子力より強いのでは?!それって歴史が証明している)
…高:近代世界全体がそれいけそれいけとなったのには、ヨーロッパ先進国のお手本が良くなかったと今でも思います。彼らは人類史に大きな功績を残しましたが、同時に植民地支配という形で、自分たちだけが儲かればいいという考え方を世界中に広めた。原子力開発がその線上にあることが危険極まりないわけです。
「備えあれば憂いなし」が危険な状況を生むという原子物理学者の指摘は、実は
「科学を重ねて備えあればよけい憂いが出てくる」
というところまで人間を見つめた時に、現代の人間の課題としてとらえることができるように思う。
「備えあれば憂いなし」式の合理思想では、備えをさらに万全にというだけで、
自分自身を見つめ直す視点につながらないのです。
(なんだか、もうすでに「憂いながら備えている」そうしてまた憂うのだろうな。そんな感じがする。人間の憂いと共に大地の憂いが聞こえてくるようだ。地下に原発を造ろうという動きがあるらしいが、ああ、何というか愚かというも愚かなり…原発が人間の自己中心性の象徴のように見える。そう、核は一人一人が持っているのかもしれない…)
この対談では、最後、合理主義的な福沢諭吉の目線から、親鸞の「自然(じねん)」への目線に転換していくことの急務を問うことで終わる。
最近、この土地に越してきてから、もっと原発のことが知りたくなりました。地域社会の課題の一つだからである。
近々、浜岡原発に見学に行ってこようと思う。もう科学技術の粋を集めた建築物ではないが、
実際に見て自分が何を感じるか、何を思うのか。
もしよかったら有縁の皆さんもどうぞ見学して、感想聞かせてください。その際はどうぞ自坊にも寄ってください。『異論反論オブジェクション!しゃべり場』しましょう。『世界』八月号の対談も輪読しましょう。勝手にシンポジュウム開いて、人が集まったら高さんを迎えていろいろ話し合いしたい。
「話し合いのないところに和解はない」のである。
