今年のGWは例年に比べると少し静かなようだ。
まさか、野党の審議拒否と国会エスケープの煽りをうけたわけじゃあるまいと思うが、なんとなく地味だ。
世界情勢の懸念や、天変地異の不安、野党のアホ劇場を鑑みれば、家でおとなしくしている方が正解なのかもしれない。
さて、本日はGW仕様で、引用がない。
というのも、ネタ的に引用の必要がないほどだからだ。
表題にあるセクハラやパワハラの件だ。
先日、筆者のフレから面白い告白を受けた。
曰く
「俺の感覚が古いんだろうが軍隊だの技能集団で起きる過度なシゴキも受け継がれるべき技能の一環やないかなあ
最初の5年は黙って殴られろといわれて、なんの疑問も抱かず殴られるやつが残れる世界があって何が悪いのか」
一定以上の年齢であれば、こういった意見があるのも否定できない事実だ。
実際、若い頃、シゴキというのは当たり前のものだったからだ。
同様に、セクハラについてもデビ氏が、んなもん家帰って口でも洗っとけ!騒ぎすぎだ!というような主旨の苦言を呈していた。
確かに、古い記憶を掘り起こしてみれば、パワハラ・セクハラというものも常態化しており、うまくいなせないやつが悪い的な価値観だったりした。
セクハラにしてもパワハラにしても、ずっと過剰でろくでもなかったのは事実だ。
むしろ、現在はずっとよくなっている。
だからこそ、かえって目立つということもあろう。
がしかし、筆者は根本的な違いを感じるのだ。
筆者の旧知の元芸者で、新橋で長く勤められ、引退後は日舞や常磐津の師範をされていた方がいた。
もうだいぶ前に鬼籍に入ってしまわれたのだが、生前、筆者に諭すようにこう言っていた。
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昔はね、やもりちゃん
政治家でも一本筋がピッと入っててね。
芸者あげて遊ぶって言ったって、そりゃもう、粋なもんだったよ。
お偉いさんが自分で三味線をはじいてサ。
かっこいい遊び方なんだヨ。
いまはもう、そう言う人は見ないねえ・・・。
思わずサ、見惚れちまうような男がサ、本物ってモンだヨ?
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そんな彼女も、70を過ぎても色っぽさを忘れない小粋な女性だった。
きっと彼女は、当時まだ若造だった筆者に、本物の男になれと願っていたんだろう。
筆者のアメーバのフレにスペシャリストがいる。
彼の師匠は大変厳しく怖い人だった。
しかし、底が測れぬほど深い愛情を携えた指導だった。
あれがあったからこそ今がある。
先述の筆者のフレの思わぬ本音の吐露に、筆者はこう答えた。
「しごきも愛だから、そこに愛があれば受け入れられる。
しかし昨今のは、いじめ模様が多い。
これはダメだ。
結局、指導側の人間力が問われる。」
セクハラだってそうだ。
相手を被害者にしてしまう愚かさがそこにある。
誤解を恐れずに言うなら、オシャレで粋で、被害者を生まないスタイルだってあるはずだ。
相手の人格を無視し、制御できない欲望をさらけ出し、心の傷を負わせるようなろくでもないセクハラは、本物がすることではない。
ただの自律できない獣の所業だ。
先日、投宿先で犬HKのTV番組を見ていたら、男色についての物語をやっていた。
戦国武将ですらマル秘の愛に燃え、井原西鶴ですら自由な愛の形を模索したという切り口だった。
あまりに浅薄すぎる解釈は、現代模様を現したものと言える。
世の中には普遍的に、全てに於いて打算の影がちらつきながらも、一般的に”愛”といわれる形が横行するきらいがある。
しかし、人間の本質を突き詰めた時、本物の愛というものはなにか?
井原西鶴は、元禄文化という虚飾溢れた時代にあって、一切の前提条件や打算による愛の形を廃して、人の本質を問いかけたに過ぎないのだ。
戦国武将も似たようなものだろう。
現代の生臭い価値観で過去の出来事を解釈すれば、それは自由奔放な愛に見えるかもしれない。
しかし実態は、もっと磨かれた精神を礎に、本質を模索した話なのだ。
パワハラとて同じことだ。
しごきと言うなら、かならず、しごけば成長してくれるはずだという期待と、その根底に愛がある。
それが解るからこそ、厳しい言葉にも耐えるし、感謝もする。
叱咤激励や指導とはそういうことだ。
自分のストレス発散しか頭になく相手を攻撃すれば、それはただの暴力でしかない。
寓話として名高いアーサー王の剣の物語も、何度か当ブログで取り上げている。
その資格があるものしか、世界を統べる力は得られない。
もし本物の力を欲するなら、その資格が得られるまで、切磋琢磨するべしと戒めているお話だと思う。
血族にあるものしか権利はないという話ではないのだ。
今、日本を牽引するイニシアチブ世代に問う。
日本を牽引している自覚はあるか?
次世代を育んでいる責任を感じているか?
自らの背中を後輩のお手本にしようと思っているか?
自らのふるまいは、何人にも後ろ指を指されないものか?
不惑を過ぎれば、望まなくともイニシアチブ世代の立場になる。
それが歳を重ねるということなのだ。
聖人君子になれとか、遊ぶなとは言わない。
全てがかっこよく、粋であるべきだ。
欲望に生きるとしても、それすらもお手本になるものとすべしだ。
筆者とて道半ばだから、人のこたあ言えない。
しかし、志があるのとないのとでは雲泥の差だとおもうのだ。
先般取り上げた大戦前後のイニシアチブ世代の中には、真剣に日本を憂う大局観を持った日本人が少なからず実在した。
世代は違えど同じ日本人なら、現代日本人として本質を追求してみたらどうだろうか。
野獣の性根は日本人たるありようではないと思う。
一方、現代人がさまざまなコミュニケーションツールを用いて流浪するのは、本質からかけ離れた、欲望渦巻く世界に違和感を感じているのではないかと推察する。
油断をすればエロ、心許せば蹂躙。
そんな世相に疲れ果てて、どこかに分かり合える仲間がいるはずだと、さまよい歩いているように筆者には見えるのだ。
今一度問う。
愛はあるか。
野獣のごとく自分の欲望だけを満たす”愛のようなもの”の話ではない。
相手が、満たされ喜びを感じる愛を持っているか。
さまよい歩く前に、自らが、尊敬に値する愛すべき人材に、一歩でも近づく方が早い。
最後は個々人の生き様の問題なのだ。
輪廻転生があるとするなら、野獣で最後を迎えれば転生先も本物の野獣でしかなかろう。
襟を正せ!イニシアチブ世代よ。
了
ガンバレ!日本!!
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