010 肉体の限界 | ブルーグッピーのスピリチュアリティ:自由に!無理なく!楽しく行う超能力開発。

ブルーグッピーのスピリチュアリティ:自由に!無理なく!楽しく行う超能力開発。

動物等の全ての生命を含めた私達の中にある潜在意識の能力がサイキック(超能力や霊能力)であり、誰もが無意識のうちにサイキックを使っている。

 

 

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こんにちは。

 

まさのぶです。

 

僕は全く勉強をしないタイプで、大学が何たるかも知りませんでした。

もちろん、どんな大学があるかも知りません。

僕は両親との縁が薄く、おばあちゃん子で、明治生まれのおばあちゃんが、教育について知らなかった影響と思います。

 

おばあちゃんに、非常に過保護に育てられ、あらゆることで放任されました。

 

保育園でさえも、僕が自然に起きるまで放っておかれ、起きてから保育園に行くように言われていました。

 

当然ですが、朝、登園しないで途中から行くような子供は、僕一人で、なぜ、それが許されていたかは、わかりません。

 

そんな感じで、僕は小学校入学以前に、すでに社会からドロップアウトした、おとなしい不良という事になりました。

 

悪ガキの不良では無くて、何もできない素直でおとなしい不良品です。

1977年に、高校を卒業した僕は、その後の進路のあてが、全くなく、途方に暮れました。

しかし、前述の記事で紹介したS君が、広い情報網を通じで


「コンピュータ・プログラムというものを作ると儲かるらしい」
 

と、名古屋の電子計算機専門学校を紹介してくれました。

今や、リモコンや時計の中にもマイクロ・コンピュータが内蔵されている時代です。

しかし、1970年代の当時は、リモコン程度の性能のコンピューター一台が数億円もする時代で、収納するのに空調管理されたビルが必要となるような大きさでした。

2010年代の初期のスマートフォン程度の性能を当時のコンピュータに持たせようとすると池袋のサンシャインビル位かそれ以上の大きさになるのではと思います。

当然ながら、一般社会にコンピューターなど存在しませんでした。

もちろん、パソコンや携帯電話など存在しません。

当然、コンピュータプログラムなどとは、何なのかも想像ができませんでした。

しかし、僕は直感しました。

僕は、学校の教科書を読んだことがありませんでしたが、図鑑や科学雑誌を読むのが趣味でした。

もちろん、勉強をするためではありません。

自然の生き物や自然現象に興味があり、子供心に原理に興味があっただけです。

そして、高校の物理のテストでは、一度も計算問題を間違えたことが無いという、特技を持っていました。

勉強嫌いな割には、物理のテストだけは、抜き打ちテストを含めて、3年間、常に満点でした。

全国を対象とした、化学の抜き打ち学力テストでは、全国でもトップレベルの得点を取っていました。

だから、コンピュータ・プログラムも、得意ではないかと直感したわけです。




コンピュータの専門学校の入試には、学校で学ぶ知識のテストはありませんでした。

適性検査のみでしたので、高成績で入学できました。

 

IQテストに近いもので、僕のIQは140程度です。

 

IQが高いというのは、学びのような記憶が良いというわけでは無くて、未知なる領域への対応が得意といった感じです。

 

現在であれば、学校でコンピュータのプログラミングをある程度、安定した環境で学習できます。

 

しかし、当時は、コンピュータの初期の発展途上であったため、常に新たな環境に速やかに対応できる能力が求められました。

 

まー、現在では、最新の量子コンピュータの開発の世界は、我々のような凡人の領域から逸脱し、未知の領域であるように感じますが。

そして、僕は、コンピュータの専門学校を卒業した後、東京の会社に就職し、すぐに実力を発揮しました。

しかし、当時は労働環境が、今より遥に過酷であり、働き過ぎの過労死が社会問題となった以前の社会です。

 

また、プログラマーが社会的に認知されていませんでした。

 

もちろん、世渡りが上手く、高学歴であれば、IBMなどの一流企業に就職し、高額な給料をもらえます。


その点で、僕は保育園の頃から学歴社会から完全にドロップアウトしています。

 

月に数百万も稼ぐ僕に対しての給料が、10万円程度で、残業も月100時間を超えました。

当時は、週休は1日で、土曜日も出勤していましたので、その上の残業です。

もちろん、会社の中で、プログラミングで大きく稼ぐことができるのは僕だけです。

しかし、僕は遊び感覚で仕事をしていたので、無理をしていると感じませんでした。

また、寮が鎌倉で、職場が港区という方道2時間の長距離通勤で、東海道線は日本一の殺人ラッシュで、背骨が折れるかと思うほど押されるという過酷さでした。

 

せめてもの救いはと言うと、ひんしゅくを買うかと思いますが、僕はひかくてき女性にもてる方で、満員電車では女性に後ろから抱き着かれて、よく逆痴漢をされいていましたが、殺人ラッシュなので身動きはとれませんが。

 

会社は、業績を伸ばし、学歴の高い人材を増やしていきました。


反面で、僕は、3年で体を壊し、その後、30年間、難病で苦しむこととなりました。

当時は、医療界においても、アレルギーや難病の知識が一般的ではなく、気持ちの問題とか、そういった感じでかたずけられていたのですが。


それを見かねた営業のU氏が、僕に一線の会社を紹介してくれ、
僕は、その会社に転職しました。

 

入社テストは、やはり、知能指数の検査に近い感じでした。

その会社は、僕が辞めてから業績が悪化し、倒産しました。

 

そのU氏のお父さんが脳外科医、お兄さんが三菱の技術営業として、アメリカのNASAと取引をしていて、妹が、三菱の創設者である岩崎弥太郎のひ孫の奥さんという、一流の家庭でした。

 

☆ 先端技術を担う会社

そのU氏に紹介してもらった、新しい会社は、まさに国家機密、企業機密のレベルのシステム開発をする会社でした。

 

そこの社長と会話をして、初めて、会話が成立し、


「自分が正常だった」

 

と、感動したことを覚えています。


その思いだけで、僕は救われた気がしました。

 

「醜いアヒルの子」という物語がありますが、白鳥の子でありながら、アヒルの群れに紛れ込み、醜いとののしられ続けます。

 

しかし、嵐に巻き込まれ、白鳥の群れに戻る事ができて、初めて自分が白鳥で、醜い鳥では無いと気づきます。

 

まさに、そんな感動です。

今までは、僕の理屈を理解してくれる人が、周りに、いませんでした。

最初の会社で、僕が収益をとれだけ上げ、実力をどれだけ証明しようが、


「たまたま」


と、かたずけられていました。

いくら正しい理論であっても、その正しさを現実が証明していても、多数決で負けると、自分が異常と思えるのです。

 

例えば、最初の会社で、極めて速やかに精度が高いプログラミングできる、画期的なシステムを開発しても、中身の理解が困難なブラックボックスでは、新人の教育にならないという理由で断念させられ、極めて、不合理な方法で暗礁に乗り上げ、精神的なダメージを受けた事もあります。

しかし、すでに体をひどく壊していた僕は、体が、コンピュータを拒否するようになり、新しい会社では、仕事が精神的に苦痛となっていました。

もちろん、仕事自体ができなかったわけではなく、手に力がなく鉛筆を持てなかったり、ひどい疲労に教わていました。


☆ 帰郷

そういう状況の中、三菱自動車の本社から、僕に電話がありました。

三菱からの電話の内容は


「岐阜の支社にコンピュータを導入するので、阿部君に来てほしい」

前の会社で、三菱関係の仕事をしていたので、その関係で、僕にやいばが立ったわけです。


僕にとって、故郷である岐阜に帰郷することは、一線から退くという意味であり、せっかく勝ち取った一流の道を捨てるのは、断腸の思いでした。

しかし、体が言う事を聞かない状態では、どうしても続ける事ができなく、三菱からのオファーを受ける事にしました。
 

☆ 結婚

また、最初の会社で知り合っていた、非常に美しい女性と一緒に岐阜に帰り、結婚をする事となったのです。

もちろん、このような状況で知り合った女性は、僕の心根や情緒を感じたり理解する事ができない、僕の才能に目を向ける女性でした。

僕も若く世間知らずだったので、外見重視でした。

僕が長期検査入院をしても、僕が何が悪いのか妻は知らなかったと思います。


最初の妻は、女子高の時代に、朝、毎日、下駄箱に違う男性からのラブレターが入っているという美少女で、段ボールに一箱、ラブレターが溜まったと話していました。

 

また、僕は、初期の男性アイドルである、オックスというグループサウンズのボーカルによく似ていると、妻は話していました。

 

妻は4才年上で、僕は世代では無いので、当時はインターネットやyoutubeも無いので、オックスのボーカルを確認できませんでしたが、今から確認すると、それほど良い男とは思えないので、流行という事でしょう。

 

自分と似た人気ボーカルがいたなんて、ラッキーな話です。

 

これも何かのシンクロでしょうか?

 

学生の頃は、その影響か、年上の女性にもてていて、18才の頃は、故郷の岐阜でも、3才年上のとんでもない美女からアプローチされて、付き合っていました。

 

東京に上京する事で別れてしまいましたが、大きな心の傷になりました。

 

僕は、自己評価が非常に低かったので、女性も含めて誰かが僕を選んでくれる事はありえないと考えていました。

 

とりあえず自分の生活費を稼いで、他人の迷惑にならないように生きることができれば、上等であり、社会の底辺であっても、自分が食べる程度の経済的な自立が人生の目的です。

 

よって、子供の頃は恋愛は自分とは関係ない世界と考えていたので、どうして、もてるのか不思議でしたが、妻の話で、納得がいったような気がしました。

 

当時は子供なので全く気付きませんが、僕が母の喫茶店を手伝っている時も、僕を目当てに来ていた女性がいたかもしれません。

 

しかし、最初の妻の間には、子供をが2人でき、体調が最悪でも、自分さえ我慢すれば、楽しい人生を歩む事ができました。

また、子供を育てる事で、激しい疲労や激痛の中でも働き続ける事ができました。

 

子供がいなければ、寝込んでいたかもしれません。

子供のためであれば、何十倍もの力や忍耐力を発揮できるのは、動物としての本能といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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★★★ FIN ★★★