文部科学省が作成した新指導要領では、小学校では「5年生から英語を指導すること」、そして高校では「英語を使って授業をすること」が明記されている。
「英語を中学から勉強しているのに話せるようにならない」「学校英語は役に立たない」という言葉を耳にすることは多い。しかし、「英語を早い時期に」教え、「英語で授業」をすれば、それは解消されるのだろうか。そして、そもそも「英語を話せるようになる」のがそんなに重要なことなのだろうか。
自分の貧弱な英語学習体験に照らし合わせてみても、新指導要領の内容には疑問を感じる。
そんな俺が最近読んで、自分の疑問の本質がはっきり分かったと思ったのがこの本。
英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー―
著者:寺島 隆吉
明石書店(2009-09-28)
販売元:Amazon.co.jp
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実はこの本、昨年9月に出版されていたのだが、この1年余りの間、俺はなかなか読む気が起きなかった。
その理由の一つは、アマゾンに載っていたレビュー。この本にレビューをつけたある人の文では、この本を「批判のための批判」と断定して☆1つで評価していたのだ。
「なんだ、そんな本か。なら読まなくてもいいな」と思っていたのだが、他の人のレビューが増えるにつれて、どうやらそんな内容の本ではないようだ、と思えてきた。
そこで実際読んでみたら…「批判のための批判」だなんてとんでもない。ものすごく誠実かつフェアで根拠もしっかりした、内容のある本だった。
さては最初のレビュアー、本を読まないでレビュー書きやがったな。または、筆者に悪意を持った人間だったのか。
筆者の寺島隆吉先生は、元岐阜大学教授で、長年現場で英語教育に携わってきた人。いわゆる「底辺校」への勤務経験もある、たたき上げの先生だ。
肝心の内容だが、まず「日本人が英語を使えない」の本質を、資料や文献を上げて詳細に分析している。それを簡単にまとめると、
1.英語と日本語は文法体系も語彙も全くかけ離れている言語であり(「言語的距離」を10段階で表すと、この二言語は最大の「10」離れている)、そもそも修得が困難である。
2.そして何より、「日常で使わない」。一歩外に出れば日本で「生活言語」として英語を使う機会はほぼ皆無である。
筆者は、英語の「生活言語」としての側面と、「学習言語」としての側面を明確に区別している。普通の学生なら英語を話す機会がほとんどない日本で、生活言語としての英語を教えることに意味はない、とする意見には、全くその通りだ、とうなずいた。
海外旅行のために覚えると言ったところで、生涯でそんな機会が何度あるのか(「ビジネスで世界を飛び回っている人ならたくさんいる」という人もいるかもしれないが、「だから高校では英会話を教えろ」というのは飛躍しすぎだ。詳しくは後述する)。
高校生に必要な英語とは、そんな数少ない英会話の機会に備えた「生活言語」としての英語ではなく、「学習言語」としての英語であり、論理的思考につなげることができるほどの深い「読み」の能力である、と筆者は言う。
深い「読み」の実践からそれを「書く」ことの実践へつなげ、それをもとに「聞く」「話す」能力へと発展させるべきだという筆者の主張は、言われてみれば当然と思えた。
ちなみに、筆者は「会話力が必要ない」とか「スピーキングやリスニング活動は必要ない」と言っているのではない。
外国語として英語を学ぶ者にとって、会話力の基礎となるのは、確かな文法と語彙、それらを駆使して「読み」「書く」力だ、と言っているのだ。
そして、高校はそういった基礎を学ばせる場とし、ビジネス英語などについては、必要になったときにすぐその場を提供できる体制を作ることで対応可能だ、としているのである。これももっともだ。
また、筆者はヴィゴツキーの「思考と言語」を引用して、英語の習得過程についても説明している。それによれば、母語として英語を身につける者と、外国語として英語を学ぶ者の習得過程は、全くの逆をたどる。つまり、母語話者が音声から入り、文法を意識せずに話すことを覚えてから、後にその文法構造を意識するのに対し、外国語として学ぶものはその逆の順で言語を身につけていく。
これは、「わたし『は』とわたし『が』の違いは何ですか?」と外国人に尋ねられたときのことを考えれば想像がつく(日本語については、並みの日本人よりも、日本語を学ぶ外国人の方が文法に詳しいことは、ままある)。
そして、外国語として学ぶ場合には、この「文法から学ぶ」ことは欠かせない。これは、例えば「韓国に旅行するとき、ガイドブックの『ひとこと韓国語会話」のフレーズを覚えて行くが、帰ってからしばらくたつときれいさっぱり忘れてしまっている」という例を考えてみればいい。文法に根差さず、しかも日常生活でも使わない言語知識は、「すぐに忘れる」のだ。もし英語で英文法を教えず、「ひとことフレーズ」のような会話練習に終始すれば、すぐ忘れるうえに、たとえ覚えていても応用はきかないだろう。
だから、「子どもは文法なんて知らずに英語を話せるようになるのだから、英文法なんて必要ないんじゃないか」という意見は、「生活言語」と「学習言語」を混同しているうえに、言語の習得過程も無視した暴論なのだ。
そして何より、会話力ばかりを強調する人は、「なぜ英語を学ぶのか」「英語を学ぶことでどんな力を身につけるのか」といった問題に対する考察も抜け落ちている(か、浅い)。
筆者は英語を学ぶことの意義を、自国語への感覚を高め、思考力を高めることに結び付け、さらには情報を読み解く「メディア・リテラシー」にまでつなげることを提唱している(これを筆者は、「アメリカのようにならないように、英語を学ぶ」と表現している)。これについても、全くの同意だ。逆に、そうでなければ、英語を学ぶ意義なんてないのではないか、と俺も思う。
新指導要領では、英語でディベートができることを一つの目標としているようだが、ディベートには高度な論理的思考が必要であり、日本語ですらそれができる高校生は決して多くない。それを日本全国の高校生の到達目標に据えるのは無謀そのものである。
そしてその無謀な目標をなんとかして具現化しろと全国の教員は圧力をかけられ、無駄にエネルギーを消耗させられている。
俺はこれが、「屏風の虎を捕まえろ、ただし虎を追い出すのもお前がやれ」と言われるのに等しい無理難題だと思う。
そんなことにエネルギーを費やすのはやめて、高校まででは日本人の多数に最も必要な「読む」「書く」の力をしっかりつけてやればいい。
ここ15年ほどでインターネットの世界は飛躍的に広がった。世界がコンピューターでつながるという、いまだかつて人類が経験したことのない時代で、まず必要なのは、世界にあふれる情報を「読み解き」、自分の考えを「書いて発信する」力ではないかと思う。
「ビジネスの場面でも通用する英語を」と大人が望むのは分かるが、それを日本人全員に望むのは無茶な上に、無駄が多い。
そんなことに労力と金を費やすのはやめて、全員に学ばせることと、希望者が学ぶことを分けてはどうなのか。
この本で筆者は、基礎的な「読み」「書き」は高校までで身につけさせ、その後は必要に応じて「無料の外国語研修の場」を提供してはどうか、と主張している。俺もこの意見に全面的に賛成する。
これなら大学等の施設を利用して実施できる。政府にとっては最小の労力で日本人の外国語の能力を最大限伸ばせるだろう。
他にも示唆に富んだ提言が多くなされているこの本、隅から隅までもっともな意見で埋め尽くされていた。
英語関係者だけでなく、子どもを持つ全ての親が読むべき本だと思う。