1月も半ばを過ぎて、遅くなったけれど、
あけましておめでとうございますと、寒中見舞い。

昨年の12月の半ばから、ずーっと、家の猫と保護猫に、猫風邪が拡がり、病院通いで、その猫風邪がなんとか治まったと思ったら、今度は、人間私が風邪をひいてしまいました。

まず、家のハナが、調子が悪く、食べられなくなり、通院。
原因は、良くわからなかったけれど、「ビキカンエン」と、判明。
ワクチンはしているので、ビキカンエンの症状が、顕著でなく、くしゃみも、鼻水もなかった。
体温が低くなったときには、ハナは年取っているから、今年の冬は越せないのかと、半ば諦めた。
先生は、入院することを、勧めてくれたが、以前、入院して、病院で死んでいった猫のことが、頭をよぎり、
それに、入院費用は、少なく見積もっても、7、8~10万はするから、今回は、ハナは、家で、看取ってあげようと、思った。

ハナ用に、ヒーターを購入。ハナのケージの前で、ずっと、ハナの体を温めた。
体を温めたのが良かったのか、数日すると、ハナは自力で、食事が出来るようになった。
毎日、点滴と治療にも、通ったのも、良かったのかもしれない。

ハナの具合が良くなったころ、保護猫の若い猫達が、くしゃみをしだして、通院を余儀なくさせられた。
それで、ハナは、ビキカンエンであったのではと、なった。

ワクチンを打っていても、ビキカンエンには、猫は、弱い。
一度、家の中に、ウイルスが入ると、我が家のように、多くの保護猫がいて、猫密度が高い家は、必ず
猫の間に、ウイルスが蔓延していくことになる。

ハナ→保護猫①→保護猫②→保護猫③→保護猫④→保護猫⑤→保護猫⑥→保護猫⑦という具合に猫風邪は、我が家の保護猫に広がり、今は、アメショmixの保護猫が通院中だ。

アメショmixは、いたって元気だが、鼻が、くしゃみで、食事の匂いがわからないため、食事を食事と認識できず、お腹が空いているのに、食べられないという状態が、ずーっと続いている。
2週間近く、点滴、治療にも、通ったが、なかなか、鼻の状態がよくならない。

強制給仕をしても、固形物は、口から出すため、ミルクを、日に何回か、上げている。


ほんに、猫は、寒さに弱いと、思った、今年の冬であった。


そんなこんなで、ブログ休憩していました
が、今年も、すこしずつ、「トマスと一緒」を、書いていきます。

みなさま、どうぞ、よろしくお願いいたします。



diary0140

そういえば、あの公園には、シロとトマスの他に、数匹の猫がいたはずだ。

日本全国どこでもだと思うが、、、、なぜか、捨て犬捨て猫はどこにでもいる。
特に、公園と名のつく場所は、犬や猫を捨てられる場所だなと、つくづく思う。

あの公園にいつもいたキジシロオスは、今思うと、あんなに人なれしていたのだから、どこかの家猫で、飼い主が、あの公園に捨てた哀れな猫であったのだと、思う。

私は、その猫を、マウスと呼んでいた。
お顔が、少しねずみに似ていたのだ。
マウスは、一見すると、公園に隣接した民家の家猫であったと言ってもいいくらい、人を信じきっていた猫だった。
マウスは、公園で、私の餌を待っていて、餌を食べたあとも、私の後を追いかけてきて、団地の近くまで、数回、来たことがあった。

マウスは、いつも、私に、「ボクを、連れて行ってください。」と、訴え続けた。

私は、当時、おんぼろ自転車で、あの公園に出かけていたのだけれども、おんぼろ自転車は、おんぼろだから、いつも、ギコギコした音を出して走った。
そのおんぼろ自転車のギコギコした音を聞くと、公園の猫は、一斉に、私の方に、走って来るのだけれども、たいていの猫は、餌を食べたあとは、私にそっけなかった。
しかし、マウスだけは、食事が終わった後でも、私の自転車の音を、追いかけて、随分と一緒に走ってきて、私が、遠くに消えてしまうのを、ずっと見ていた。
その姿を見ると、本当に、かわいそうで、泣けた。

犬や猫に関する多くの経験をした今だったら、私は、マウスのように、捨てられても、人を信じきった猫は、出合ったら直ぐに保護するだろうと、思う。
しかし、当時の私は、マウスのような大きい猫は、だれにも、貰ってもらえないだろうと、100%信じて疑わなかった。
だから、里親さんを探してあげようなどとは、露ほど思わなかった。

それに、マウスは、オスだったのに、お腹が、他の猫より異常に膨らんでいた猫で、今思うと、餌の食べすぎで、お腹が大きかっただけだと思うが、当時の私の猫知識は、本当に貧弱だったから、本から得た猫に関するありきたりの知識から、もしかしたら、マウスはウイルス性の病気を持っているかもしれないから、お腹が大きいのだと思い込み、ウイルス性の病気だと、狭い我が家で、既にいるアランやトマスやヤズと一緒に飼うのは不可能だし、、、、などと、マウスに関しては、悩みに悩み、いろいろと逡巡した結果、かわいそうだけれども、公園で、できる限り面倒を見てあげようと、決めていた。

毎日、後ろ髪を引かれる想いで、マウスと別れた。

あの公園には、マウスのほか、たぶん小さい時にシロと共に捨てられたのであろうシロの兄貴の茶シロオスと、真っ黒のオス猫クロがいたはずだ。

シロの兄貴は、シロと全く同じ年恰好の茶シロオスで、風格は良いが、目やにの多い雑巾猫のような猫であった。
十分な餌をとれずに大きくなった猫の常であるように、その毛並みは、ぱさぱさしていて、汚かった。

猫は餌を食べると、体の毛づくろいをはじめる。
餌を食べれないということは、この毛づくろいが出来ないことでもある。
それに、たいていの猫は、回虫などの寄生虫がお腹にいて、野良猫は、寄生虫に、口から入れたわずかな餌の栄養をとられ続ける。

シロも薄汚れた猫であったが、シロの兄貴は、シロよりもっと汚かった。
そして、車の下で眠るのか、白毛は、エンジンで汚れ、ねずみ色に変色していた。

このシロの兄貴に関しては、私はあまり記憶を持っていない。
私が、公園に行きだしてから、シロの兄貴はしばらくは、公園の餌を食べに来ていたが、ある日、ピタッと来なくなったからだ。

主人と、シロの兄貴が、このところ公園に出てこないよと、心配したが、いなくなった猫を、探す手立てはなかった。
ある日突然、目の前から猫がいなくなるという経験をしたのは、このときが初めてだった。
いなくなった猫への想いは、人の方があきらめるべきなんだと、その時は、思った。
だから、積極的に、シロの兄貴の行方を、探さなかった。

シロの兄貴は、慢性の猫風邪にやられていたから、猫風邪で、具合が悪くなり、どこかで死んでしまったのかもしれないし、あるいは、オスであったから、発情したメスの後をついて、縄張りを移して行って、どこかであの公園より居心地のよい場所を見つけたのかもしれないが、シロの兄貴に関しては、風の便りのように、人から聞くことはなかったから、失踪の真相は、結局わからなかった。


真っ黒のオス猫クロは、外見はそれほどでもなかったが、年取った猫だったようだ。
なぜ、年取った猫と言ったかというと、公園周辺の住民から、そのように聞いていたからであり、また、クロは若い猫とは違った雰囲気があったからだ。

クロは年取った猫であったためであろうか、とても控えめな猫で、他の猫に遠慮していた。われ先に餌を食べようと、飛んで来るマウスなんかとは違って、餌は、残った最後の餌を貰えばよいというような、欲のない猫であったが、周りの様子をよく見ているところがあり、だから、私の様子を良く伺い観察していたのだと、思う。
私の行動パターンを理解していた。

私の行動パターンを認知しているのであろうか、クロは、天候の悪い日でも、雨風をしのいで、私が公園に会われれるのを、待っていた。

台風が多摩を襲った日、多摩に大雪が降った日、そんな日でも、私は、あの公園の猫が気になり、餌を持って出かけて行ったが、クロは、どんな日でも、体が雨や雪で濡れることなく、どこかで待っていて、私が、公園につくやいなや、直ぐに、私の目の前にあわられるのだった。

シロは、私が、シロ~と呼んで声を出すと、どこからともなくやって来るのだが、クロは、不思議と私が到着する時間がわかるのか、私が、声を出して呼ぶ必要はなかった。


あの公園にいた猫達のその後はというと、、、、

トマスは、その後我が家の家猫になり、シロもその後、私が引き取ることになったわけだけれども、
シロの兄貴は、上に書いたように、出会ってからしばらくしてある日突然いなくなったし、
クロは、私が、多摩から千葉に引越しを決めたころ、公園から少し離れたとあるお宅の物置で、老衰のため亡くなり、マウスは、これも、偶然だけれども、私が、多摩から千葉に引越しを決めたころ、交通事故で亡くなった。

クロの死は、クロが死んでいた物置の住民から聞いた。
年寄り猫であったから、寿命であったのだと、思う。
そして、マウスの死は、スーパー前で保護した老犬コロを、一時引き取ってくれた猫飼いSさんから聞いた。
マウスは、毎日Sさんの家に現れては、餌を貰っていたらしい。
人なれしていたマウスのことだ、私以外の家で、餌を、食べさせてもらっていたのだ。
やはり、人なれしている猫は、人を怖がる猫より、幸せだと思う。

Sさんからマウスのことを聞いて、マウスのお腹が膨らんでいたのは、毎日Sさんの家で餌を貰い、数時間後に、公園で私の餌を食べていたからだと、納得した。

マウスは、そういえば、シロの兄貴と違ってやせていなかったし、結構きれいであったから、毎日、お腹は満ちていたのだろう。
でも、お腹は満ちても、心が満たされていなかったのだ。
マウスが、毎日、公園に出てきたのは、私の餌が欲しかったのではなく、きっと、誰でもいい、人間の愛情に触れたかったからであろう。
マウスは、人が恋しかったのだ。

マウスは、実は、私の餌を、無理して食べていたのかもしれない。

マウスが、公園猫達の中で、一番先に、私に走り寄って来たのも、団地まで、私の自転車を追いかけてきたのも、
《人に捨てられたい今でも》、
「ボクは、人が大好きなんです。」と、私に伝えたいためであったような気がする。


今思うと、マウスは、ほんとうに、かわいそうな猫であった。


diary096



シロは、あの公園に、帰っていった。

シロが、不妊手術で、D動物病院に入院して、そして、主人の仕事場で、2日間すごしていた間、三毛と茶シロの子猫2匹は、公園に隣接した住宅地のとある民家の縁側で、ポツリと、2匹して、寂しく座っていた。

母親の後をついてばかりいた子猫であったから、シロが主人の仕事場にいる間、私の餌場にも出てこなかった。
だから、実際のところ、何処で、2匹がその2日間を過ごしたのかは、定かではない。

シロは、あの公園にリリースした。そして、あの公園から、住宅地へと消えた。
だから、あの公園から、子猫の元に帰って行ったのだと、思うが、シロが公園に帰ったその後、シロと子猫2匹が、連れ合っているところは、そんなに見なくなった。
子猫自身が、時期は少し早かったが、親離れをする時期であったことと、そして、シロの体に染み付いた動物病院のなんともいえない独特の匂いが、子猫にシロを母親と認識させなかったのかもしれない。

シロを、不妊手術へ連れて行ったその時が、シロと子猫2匹の離別の時期となってしまったようだ。

その後、三毛と茶シロの子猫は、シロとは別行動で、2匹連れだち、私の餌を食べに公園にやって来た。
毎日、毎日、決まった時間に、待っていたし、シロも、同じ場所で、餌を食べていた。
しかし、シロと子猫2匹の間には、少し距離があった。

私は、シロの不妊手術が終わったとき、簡単なチラシを作り、公園周辺の住宅地にポスティングすることを考えていた。

シロが、三毛と茶シロの子猫を産んで、育てた場所は、公園に隣接した古い家の物置で、この家の主は、若い男性であったが、私が公園の野良猫に餌を上げていることを、嫌っていたし、一度、野良猫のことで、その主と、話をしたことがあり、猫が自宅の物置で子猫を産むことに、相当迷惑をしている様子であったからだ。

若いその家の主に、
「餌をあげないでくれ。」といわれたが、
私が、
「野良猫が、自分の見えないところに行ってしまえば、それで、よいんですか。自分の自宅の庭から嫌なものがいなくなればよい、それで、いいんですか。」と、答えたら、
その若い男性は、黙った。

公園周辺の住民に、シロたちは、全面的に歓迎されていたわけではなかったわけで、まあ、私は、そんなシロたちに、少しでも、住みよい環境を、公園周辺の住民達が作ってくれたらと、願っていた。
せめて、シロたちが、虐待などされない環境をと、単純に考えた。

だから、チラシを作った。
ワープロに非常に簡単な文章を打ち込んだ。
「シロという野良猫がこの住宅地に住んでいて、何回もお産をしているので、不妊手術をしました。だから、今後、シロが子猫を産んで、野良猫が増えることはありませんので、温かい目で、シロを、見守ってください。」なんていう文であったと、思う。

ワープロで打った文章を、コンビニでたくさんコピーして、公園周辺の住民の各家庭に、ポスティングした。

このチラシを公園周辺に住む人たちに、読んでもらったことで、シロとの出会いは、私とシロとの出会いだけでなく、私とシロが住む公園周辺の人々との出会いにもなった。
私とシロとの関係が、シロを介して、私と、公園周辺の人たちとの関係に、広がった。


その後、シロの子供の三毛猫とその子供2匹を引き取ってくれ、また、主人がスーパー前で、保護した老犬コロを、団地住まいだから保護することが出来なくて困っていたところを、見かねて、手を差し伸べてくれたSさんとの出会いも、このチラシをポスティングすることがなければ、なかった。

しかし、このチラシを配布したことで、住民の中には、私に、捨て猫に関することを、全面的に頼ろうとする人たちが出てきたことも、事実だった。
ヤズを、引き取って、その後直ぐに我が家に来たアンリは、このチラシをみた住民が、捨て猫がいるよ、連れて行ってくれるんでしょうと言って、連絡をして来た猫だった。

私は、なぜか、その後、多くの日本人が持つ「他者依存」という体質を、犬猫のことを通じて、痛感することになった。
そして、「捨て犬・捨て猫に出会ったとき、その犬猫にコミットしたこと、《そのこと》に、責任の取れる人は、この日本には、なかなかいない。」ということを、アラン、トマスが、我が家にやってきてからの、その後の15年間で、私は、イヤというほど、経験することになるのだった。



nora


私が最初猫を飼ったのは、1990年の11月頃で、次の年の3月末には、トマスはもう我が家の家猫になっていたし、トマスが我が家に来たその2ヶ月後には、ヤズというオス猫を、例のD動物病院から貰うことになったから、考えてみると、私は、超スピードで、多頭飼い飼い主になっていったことになる。

ヤズ君は、私のHPの名前になった猫だけれども、生まれてまもなく、兄弟と数匹で捨てられ、D動物病院の保育器で、育った猫だ。
保育器で、病院のスタッフが、懸命に育てた猫だ。

へその緒が付いた子猫も、何回も保護しているが、母親の初乳を全く飲んでいない子猫は、まず100%と言っていいほど、育たない。

犬も猫も新生児は、薄い膜に覆われて生まれて、これを母親が、丁寧に舐めてきれいにしてあげるわけだけれども、この薄い膜に覆われたまま母親の初乳を一度も吸っていないまま捨てられた新生児を、保護したときには、人は、悲鳴をあげるような苦労をする。
そんな経験は、いっぱいある。
新生児を保護するたび、犬猫の母親の偉大な力を感じる。
捨てられた新生児は、まず、体を覆っていた薄い膜を、母親によって全くきれいに舐められていないから、新生児の手や足の小さな指の間などが、そのうち、腐敗し始めるのだ。
捨てられた新生児は、初めは人口乳をスポイトで少しずつ飲んでいくが、そのうち、必ずミルクを受けつけなくなり、そして、全く飲まなくなり、一気に弱りだす。

ミルクを飲まなくなったら、もうその新生児は、生きることはない。

D動物病院は、今でもだけれども、捨てられた子猫を預かっては病院の通りに面した側にあるちいさなウインドウの外から見えるように、ケージを置いて、里親探しをしていた。
病院には、一種の飾りウインドウがあり、その窓を覗き込むと、中には、飼い主を待っている子猫がいつも数匹じゃれあっていた。
ヤズ君は、保育器で、奇跡的に育ち、そして、D動物病院の飾り窓の中で、他の子猫と共に、飼い主を待っていた。


5月連休ごろから、子猫はたくさん生まれる。

トマスが我が家の猫になってから、2ヶ月が経とうとしていたころ、団地の子供たちが、がやがやと何かを持って一階の階段下の物置で騒いでいた。
何をしているのかと思い、
「どうしたの。」と尋ねたら、
一番小さな子供が、「捨てられていた子猫を、お母さん達に内緒で、この物置で、飼うんだ。」と教えてくれた。
物置といっても、下は土間で、陽は全く当たらないじめじめした場所であった。私はその場所を見た瞬間、この子猫は、多分直ぐに病気になるだろうな、そして、病気になった子猫を、子供だから、だれも、病院には連れて行かないだろうなと、思った。

「お母さん達が、飼ってはいけないというなら、やはり、この秘密の場所でも、飼えないのよ。」と私は言った。

子供たちのお母さんたちが、全員集まってきて、いろいろ話し合ったが、結局、子猫は、どの家でも飼えないという結論になった。
一番小さな子供の両手で抱えられた子猫の行き場所が、宙ぶらりんになってしまった。

私は、おもむろに、「飼ってくれる人を探そうよ。」と、言った。
そう言った手前、私が、その子猫を一時的にでも引き取るのが良いのだろうと思い、
「おばさんが、この猫は預かって、誰か飼ってくれる人を探すよ。」と子供たちに言った。
お母さんたちも、それが一番良い方法だと言って、「お願いします。」と、子猫を私の手に置いた。

子猫は、きれいな白地に薄い茶色が入った模様で、生後わずか1ヶ月位の大きさだった。
D動物病院に、すぐに健康診断のために、子猫を連れて行った。

病院で、蚤の駆除やら、検便やらを、していただいた。
そして、先生に子猫を保護したいきさつを少し話した。

院長先生が、「しばらく病院で子猫を預かって、里親さんを探してみましょう。」と、言ってくれた。
子猫は、病院にしばらく置いてもらえることになった。


病院のスタッフが、飾り窓の内側にある小さなケージを持って来た。
そこには、捨てられ飼い主を待っている子猫が数匹入っていたが、その数匹の子猫の中に、一匹だけ体の大きい白黒猫がいて、生後一ヶ月から2ヶ月の子猫たちに囲まれると、なにか違和感があるような図体の大きい猫で、顔も少しくしゃんで、あまり見栄えはよくない猫であったから、私は、フト哀れになり、その猫のことが気になり、先生に、「この猫は、生後どのくらいですか。」と、白黒猫を指差し、尋ねてみた。

「この猫は、赤ちゃん猫の時に、兄弟で捨てられ、この病院の保育器で育って、そして、里親さんを待っているんですが、なかなか貰い手がいないんです。」と、スタッフが説明してくれた。

「そうですよね。子猫を欲しがる人は、生後1ヶ月とか2ヶ月の子猫がいいんですよね。」と、私は、このケージに入れられ、多分3ヶ月以上の長い間、飼い主が現れるのを待っているその白黒猫の体の大きさを見て、ポツリと言った。

今後も、誰からも見向きもされず、気にも留められず、そして、誰からも忘れ去られていくであろうその猫のことが、胸につかえた。

「うちで、貰っても良いですか。」
思わず口から、出てしまった言葉であった。
そして、早口で、ためらうことなく、言ってしまった。
「私が、飼います。」

私が、子供たちから預かった白地の多い薄い茶色の模様の入った1ヶ月の子猫を、スタッフはケージに入れ、その代わり、もう4ヶ月になるだろう白黒子猫を、私の持参したキャリーバックに入れてくれた。

ケージの中の子猫たちは、白黒子猫がいなくなったら、みんなその背丈、大きさは同じで、なんとなく、私はほっとした。

これが、私とヤズ君との出会いの始まりだった。

トマスを引き取りその後直ぐにヤズ君が我が家の猫になった。

私は、恐ろしいほどのスピードで、猫族に、魅せられてしまったのだった。


病院からは、その後、白地の多い薄い茶色の模様が入った子猫の里親さんが見つかったと、連絡があった。

diary084




シロの不妊手術が無事終わったというので、シロを病院に迎えに行った。

D動物病院の不妊手術は、猫の体に本当に負担をかけない手術で、だから、猫は、手術当日に帰ることが出来た。
今では、D動物病院と同じような質の良い手術をしてくれる獣医さんも増えたが、当時は、D動物病院のような不妊手術が出来る動物病院は、珍しかった。

若い獣医さんが多く研修で来ていた病院であったが、シロの不妊手術は、院長先生が行ってくれた。
シロを迎えに、診察室に入ると、院長先生は、一通り、自分が行った避妊手術について説明し、そして、
「この猫は、よくお産が出来たと思います。一度、交通事故に遭っていて、お腹、お尻を、怪我していて、ヘルニアになっていました。ヘルニアになったところは、ついでですから縫い合わせましたが、最後の2、3cmで、麻酔が切れ初めましたので、最後までは縫い合わが出来ませんでした。」と話された。

シロの子供はたいてい交通事故に遭い、死んでいったと、公園周辺のおじさんおばさんに聞いていたが、シロ自身も、昔交通事故に遭っていたということが、院長先生のお話で、わかった。

シロは、交通事故に遭ったことがあったんだ。
そういえば、シロのお腹の一部は、たぷたぷしていた。
たぷたぷしていたお腹は、交通事故が、原因だったんだ。

日々、食べ物に恵まれない猫は、毎日食べることだけに追われる。
食べ物を恵んでくれる家があれば、車の量の多い道路でも、毎日平気で渡って餌を貰いに走る。
お腹が空くのだから、仕方がない。

シロもトマスも、毎日、毎日、お腹を空かせ、継続した空腹感の中を、何年も生きてきたのだろう。
あの公園周辺の家々の台所から出される生ゴミを漁ったり、公園周辺の人々のお目こぼしを、たまたま貰ったり、そんな風にして、生きてきたのだろう。
お腹が空いているから、いろいろな家を、渡り歩き、いろいろな道路を、横断したのだろう。

手術後、シロを、直ぐに公園に戻すのは、なんとなく、かわいそうであったから、2日間は、主人の仕事場で、面倒を見ることにした。

主人の仕事場に大きなケージを置き、その中で猫用トイレを入れ、そしてシロを入れた。
シロは、大人しく、じっとしていた。
騒ぐことはなかった。
しかし、その日の夜中、シロは、ケージの中に厚く敷いてあげた新聞紙を、がりがりと手を動かし、びりびりと粉々に裂いてしまった。
裂かれて、膨らんだ新聞紙の山が、シロの体の周りを覆った。

シロは、きっと、人との初めての、いや、捨てられてから初めての、人との生活が、少し怖かったのだ。

自分の体を、外界から見えなくするように、透明猫になるかのように、新聞紙を、体にまとい、粉々になった新聞紙の中に、頭を突っ込み、丸くなった。

そんな姿は、あの公園で、寒い冬の風を避けるために、親子共々3匹で体を寄せ合い、低木から落ちた枯葉の中に、体をうずめていたシロの姿と、まったく同じであった。

冬、多くの野良猫は、枯葉をまとい、枯葉の中で、まどろむ。

冬の、地面は、暖かい。
だから、枯葉も、きっと、暖かいのかもしれない。

シロは、新聞紙を、枯葉のように体にまとい、まる2日間は、主人の仕事場で過ごした。
食事も、十分に取った。

そして、シロは、あの公園に、帰っていった。

diary0113



シロは、避妊手術のため、K市のD動物病院に入院した。

私が、アランという猫を、最初に飼って、通った動物病院は、自宅近くのF動物病院だった。

アランは、4ヶ月位で我が家の猫になったのだけれども、女の子であるから、なるべく早めに不妊手術をしようと、決心していた。

アランを頂いた時は、秋も深まり、冬が始まる11月頃で、加藤さんは、子猫は2ヶ月と言っていたが、どうみても、猫は、子猫というより中猫という大きさであったし、猫の発情期は、春先、2月頃から始まるらしいと聞いていたから、この猫も、もう2、3ヶ月もすると、発情期が来るかもしれないと、心配した。

特に、猫が、ベランダに出るようになり、ベランダの手すりに登り、外を眺めるのが好きになってから、猫からは、目が離せなくなった。
発情期が来てしまったら、一目散に外に出て、家に帰って来れなくなるかもしれないと、不安な気持ちが、日々膨らんだ。

年明けの2月ごろには、手術をしようと思い、F動物病院に、手術の予約をした。
加藤さんのところから、アランを貰った後、アランが、猫風邪になってしまい、通院したことがあったので、病院の先生とは、一応面識があった。

動物病院は、同じ動物病院でも、人間の医者以上に、医者の持つ技術には、差がある・・・・とは、その時は、まったくわからなかった。

私は、動物の医者は、どの先生も、犬や猫が好きだから、動物のお医者さんになったのだろうと、単純に信じていたし、どの医者も、犬猫好きな優しい先生であると、安易に考えていた、お気楽な飼い主であったのだ。

年が明け2月になったころ、アランは、F先生のところに、不妊手術のために、入院した。

翌日、手術を終えた猫を迎えに行った私は、猫の、前日とはまったく変わり果てた姿に、気が動転した。

アランは、虐待にあったように、おどおどした目で、じっと宙を見つめ、私が病室に入ったのを知ると、か弱い声で、みゃーと鳴いた。
アランの腰を、見た。
腰の周りはざっくりと肉をえぐられたように、深く削られている。
アランのお腹には、10cmもの手術の跡があり、その縫い方も、実に雑であった。
アランが、苦痛を感じている様子は、明らかであった。
先生からは、これを飲むようにと、抗生剤が、渡された。

これが、犬や猫の不妊手術というものであるのか、、、、と、唖然となった。
人間側の都合で行う手術の残酷さに、涙がこぼれた。
アランが、不憫でならなかった。
こんな姿になるなら、手術はすべきでなかったのかもしれないと、後悔した。

このまま、この猫は、死んでしまうのかもしれないと、そんな不安が頭をよぎった。
それほど、猫は、身体的にも、精神的にも、ダメージを、深く受けていた。

家に帰ったアランは、押入れの暗がりに入り、その後、1週間、そこから出てこなかった。
抗生剤を、毎日飲ませた。
私は、せめてもの罪滅ぼしにと、ガーゼで、子供の金太郎腹巻とおなじような、猫用腹巻を作って、アランにかけて上げた。

猫の不妊手術の残酷さに仰天した私は、全面的に信頼してしまったF先生の評判は、実のところはどうなんだろうと、フト気になりだした。

ご近所で、猫を数匹飼っているOさんを、尋ねてみた。
「家の猫が、不妊手術をF先生のところで受けたのですが、虐待にあったようにおびえて、術後の経過も、良くなくて、困ったいるのです。F先生より、診立てのよい獣医さんを、ご存知ですか?ご存知でしたなら、教えていただきたいのですが。」
私の質問に、Oさんは、はっきりとした調子で、
「F先生は、評判がよくないこと。そして、少し遠いけれども、K市のD動物病院は、不妊去勢手術が上手で、評判の先生であること。」を、教えてくれた。
最後に、Oさんは、「K市のD動物病院を訪ねたらいかがですか。お勧めの先生ですよ。」と言ってくれた。

私と、主人は、アランを連れて、D動物病院を訪ねることにした。

D動物病院は、小さな病院であった。
しかし、待合室には、畜患があふれていた。
医者も数名おり、看護婦もたくさんいる、スタッフの多い病院だった。

狭い待合室で、少しイライラしながら、アランの順番の来るのを待った。
やっと、アランが診てもらえる順番になり、院長先生に、アランが受けた不妊手術の経過を話し、アランを診て貰った。
院長先生は、私の話を聞いて、「手術をした先生のところに、猫の様子がおかしいかったと、きちっと伝えるのが、一番良いのですよ。」と、言った。
私が、「ああ、本当は、そうしなければならないのですが、どうしても、もう、あの先生の所には、行きたくないのです。」と答えると、院長先生は、アランの抜糸を、無言でし始めた。

私は、その後、野良犬や、野良猫のことで、このD動物病院に、随分お世話になった。
犬や猫の不妊去勢手術も、たくさんしていただいた。
トマスを、入院させてもらったのも、この病院だ。

D動物病院の不妊去勢手術は、F動物病院の手術とは、雲泥の差のすばらしい手術であった。
良質な麻酔薬を使い、手術の切り口もわずか2cm程度、そして何より驚いたのは、手術を受けた犬や猫は、翌日から、まったく普通の生活が出来ることであった。

アランの不妊手術のことがなければ、私は、この病院を訪れることはなかったかもしれない。
そして、動物の医者の技術や、医者の畜患に対する気持ちは、人の医者のそれより、随分と差があるものだと、認識することはなかったのかもしれない。

私は、シロの不妊手術を、この病院にお願いすることにした。

シロの手術を、この病院にお願いすることにしたのは、アランが受けたような辛い手術は、もう二度と犬や猫に経験させたくなかったし、また、私自身が、犬や猫の痛みに苦しむ姿を、見たくなかったからだ。

シロを、手術に連れていくと、先生も、看護婦さんも、温かい眼差しで、薄汚れた野良猫シロを、迎えてくれた。

先生に、シロの手術をお願いし、動物病院を後にした私は、ああ、これで、私のシロに対する責任は、少しはまっとう出来たと、やっと気持ちが、安堵した。


木




私が、最初に飼った猫は、千葉の行徳で、動物愛護のボランティアをしている加藤さんという方から頂いた猫だった。
たまたまミニコミ誌の3行メッセージで、加藤さんの猫の里親募集が載っていて、ちょっと興味がわき、加藤さんに電話をしたのが、きっかけだった。
電話でいろいろお話をして、そして、行徳まで、猫を貰うために、出かける約束をした。

電話では、貰える子猫は、2ヶ月位と聞いていたので、自宅には、キャリーバックを用意していなかったが、その代わり、少し小さいけれど、蓋付ピクニックバスケットがあったから、これで代用できると思い、そのミニバスケットを持って行った。

加藤さんは、数人の友人と一緒に、熱心に犬猫の里親探しのボランティアをしていた方だった。
当時は、行徳あたりでも、捨て犬捨て猫は、多かったのだろう。

加藤さんのお宅は3階建てで、2階と3階には、ケージがたくさん置いてあり、たくさんの猫が、保護されていた。
加藤さん自身は、シーズーや、ペルシャといった純血種を飼っていた方で、1階には、シーズーなどの小型犬が、たくさんいたと記憶している。
加藤さんやその友人達は、純血種の飼い主さんであったが、身の回りに捨てられる雑種の犬や猫を、決して見捨てることが出来なかったのだろうと、思う。

加藤さんの友人が、私を駅まで車で迎えに来てくれたのだが、彼女はアメリカにしばらく住んでいたらしく、アメリカ帰りのご婦人と言ったいでたちだった。私を迎えに来てくれた車は、だからアメ車で、その車を、犬搬送専門の車として使っていると言った。
私と出会った第一声が、「車の中、犬のにおいがして、申し訳ない。」であった。

彼女の車には、ダルメシアンが一匹乗っていて、確かに洋犬特有のにおいが、車には、充満していた。
車の中は、動物愛護ボランティアの車が常にそうであるように、一種独特のにおいがした。

確かに、獣(けもの)には、その種独特のにおいがあるが、犬は、通常の獣に比べたら、そのにおいは弱く、ましてや、猫は、においのまったくない動物だ。
それでも、保護した犬を、いつも、何匹も、何匹も、搬送するのだろう。
車の中に、動物のにおいが、漂っているのは、至極当然だった。

加藤さんのお宅で、しばらくお話をさせていただき、いよいよ子猫を、貰って帰ることになった。
加藤さんは、この猫は、2ヶ月だと言った。
猫飼い初心者の私は、猫の月齢など、まったくわからなかったから、この位の大きさが、猫の2ヶ月の大きさなんだと、思い、「そうですか。2ヶ月ですか。」と応えた。

私にとっては、猫が、2ヶ月だろうが、3ヶ月だろうが、4ヶ月だろうが、そんなことは、どうでも良いことであった。
一期一会----たまたま、ご縁があった猫だ。
「ご縁」----それだけで、猫を飼う理由としては、十分だった。

猫を、蓋付ピクニックバスケットに入れ、電車に乗った。
猫は、バスケットが小さすぎて、背伸びが出来ず、顔を、前に突き出し、窮屈な様子で、にゃーにゃーと鳴いた。

電車に同乗した人たちが、うるさい音のする小さなバスケットを、じっとみている。
猫は、がたがたという、ごうごうという、電車の音が、怖かったのだろう。
ますます大きな声を出し、不安そうな目で、私を見つめ、家に帰るまで、ずっと鳴き通しだった。

やっと家について、窮屈なそのバスケットから、猫を出して上げた。
猫は、バスケットから出、少し伸びをすると、家の中を、探検し始めた。

猫は、非常に人なれしていた。
生まれたときから、この家にいるような、そんな様子で、お腹が空いたと、一声ないて、餌をねだった。

猫は、加藤さんが、近くのゴミステーションで、保護したそうだ。
ゴミステーションを、お腹が空いてうろうろしていたらしい。
加藤さんが言うには、多分、引越しをした人が、置き去りにしたんだろうということだった。

猫は、たらふく餌を食べた。
猫は、直ぐに、ソファの上ですやすやと眠りだした。
長い旅で、本当に、神経が疲れたのだろう。

私も、その夜は、早くに、床に就いた。

しかし、私も主人も、翌日朝早く、猫に顔を舐められ、起こされるとは、思っていなかった。
不覚だった。

猫は、翌朝4時、私ではなく、主人の顔をしきりに舐め、餌をねだった。

猫が我が家に来たその翌日から、主人は、毎日、猫に朝早くに起こされた。
夜遅くまで仕事をしていた主人が、朝早くに猫に起こされるのは、辛かったと思う。

主人は、猫を貰った翌日から、猫のために、朝早く、そっと布団から起き上がり、静かに台所で、猫に食事を用意する、猫の召使になってしまった。

それでも、主人も、猫が、家に来たことが、とてもうれしそうだった。

なぜ、猫が、私でなく、主人を、毎朝起こしたのかは、今でも良くわからない。

その後、猫は、「アラン」と名前を付けた。
いや、アランと名づけたのは、私ではなく、加藤さんだ。
「名前が決まっていないなら、アランはどう?
アランという名前の猫は、みんな幸せになるから。」と加藤さんが言ったから、猫の名前は、アランになったのだ。
そして、加藤さんは、アランと彫った迷子札を、私に送ってくれた。
加藤さんの、アランへの愛情が、私の心に、突き刺さった。

アランと言う名前は、男の子の名前だから、私は、アランを、「ランちゃん」と呼ぶことにした。


木






あの公園に出没するようになり、毎日公園猫に餌を運ぶようになってから、シロの避妊手術を考え出していた。
シロが公園に兄弟で捨てられ、長い間、過酷な生活をしてきたことは、その姿を見れば、明らかだった。
シロは、もう十分に、抱えられない位の重荷を背負って生きてきたのだから・・・・と、シロを、少し楽にさせてあげたかった。

当時、私は、どのようにして、人なれしない猫を捕まえ、避妊手術に連れて行けばよいのか、かいもく見当がつかなかった。だから、悩みに悩んだ。
今は、捕獲箱で、簡単に、野良猫を捕まえ、獣医さんに直行しているが、当時、猫飼い初心者だった私は、人なれしていないシロを、捕まえ、手術に連れて行くのは、容易ではないだろうと、思っていた。

シロは、三毛猫と茶シロを、産んだ。
そして、私は、子猫2匹が、ある程度まで、大きくなるのを、じっと待った。
子猫2匹が、おっぱいを吸い終わり、離乳食を食べだし、硬いドライフードを食べる時期が、シロを捕まえても良い時期だと、判断した。
その頃には、子育てを終えたシロの子宮も、ちょうど、手術をするのに良い状態に戻っていると、獣医さんにも、言われていた。

子猫2匹は、シロに長いこと秘密のようにして、育てられた。
シロは、警戒心のある猫だったから、直ぐには、子猫を、私の餌場まで、連れてくることはなかった。
そうこうする内、シロは、子猫を、公園に連れて来た。
シロは、子猫を呼ぶときは、一種独特の声を出した。
その声に応えて、子猫は2匹、公園の低木の中を、走る。
シロは、長い間、公園の低木に子猫を待たせ、私が持参した餌を、低木まで運び、子猫に食事を食べさせた。
しばらくすると、子猫は、ぐんぐん大きくなり、シロの後をついて、私がいる餌場まで、自力で、近寄るようになった。

いよいよ、シロを、捕まえなければならないその時が、迫っていた。

シロを捕まえる時は、主人に手伝ってもらうことにした。
キャリーバックを、上向きに置き、そのそばでシロに餌を上げ、シロが餌を食べているそのとき、シロを捕まえ、キャリーバックの中に入れるという作戦を、二人で練った。

作戦は、作戦であり、頭だけで考えた都合のよい方法であり、実際のところは、何が本当に起るかわからない。
だから、シロを捕まえる事ができる可能性は、五分五分だった。

主人は、シロを、みごとに捕まえた。
しかし、急に人の手で捕まえられたシロは、主人によって体を持ち上げらたと同時に、思いっきり、主人の手を、噛んだ。
その噛み方は、尋常ではなかった。
野生の動物が、自らの命を守るために、自分の身を守るために、敵に対して、戦いを挑むかのような、そんな強烈な、一噛みだった。

主人の手から、ひどく血が流れ出した。

私は、キャリーバックに入れたシロを、一生懸命なだめ、餌場から逃げてしまった子猫2匹に、
「お母さんは、2日したら、直ぐに戻るよ。大丈夫だよ。」と声をかけた。

主人は、人間の医者に直行し、私は、動物の医者に、直行した。

主人の手の怪我が、完治するまでには、随分と時間がかかった。
主人が、手に、深い痛手を負うだろうとは、シロを捕まえる前には、まったく想像だにしないことであった。


猫と向き合うのは、一種の戦いだなと、その時、ふと、感じた。


シロです




多摩の3月は、とっても寒い。
幼いころは、九州、関西を、転々とし、大学は、京都で過ごした主人は、関東の寒さを嫌った。
私は北海道と同じような寒さの富士の裾野で生まれたから、寒い冬は、幼い頃に戻ったようで、
冬になると、うきうきした。
雪が降る多摩の空は、暗いどんよりとしたグレー色で覆われ、空気は、しんしんと尖る。

多摩の野良猫は、そんな寒さの中を、何処で過ごすのだろうか。

トマスたちは、慢性の猫風邪を、ひいていたのかもしれない。
思えは、シロも、シロの兄貴も、長いこと、目の周りが、赤かった。

通称猫風邪は、正式には「ウイルス性鼻気菅炎」と言う。
猫がよくかかる病気だ。
たいていの野良猫は、この病気にやられる。
自力で、この病気を、克服する猫もいれば、克服できない猫もいる。
熱は出るし、くしゃみもひどい。
目は、目やにで、ぐじゅぐじゅになる。
くしゃみがひどいから、においがわからず、食べ物が、食べ物と認識できない。

トマスは、3月の末、雪の降る、寒い多摩地方で、この猫風邪にやられ、食べ物を、まったく食べられない状況になった。
そんな、トマスを、あわてて獣医さんの所に連れて行ったのだけれども、獣医さんの所で、私は、ある失敗をしてしまった。

「この猫を、入院させて欲しい。」と言うつもりで、「この猫を、預かって欲しい。」と言ってしまったのだ。
獣医さんは、一瞬、困ったような顔で、「それは出来ないんです。お宅のお風呂場かどこかで、面倒見てください。」と、返事した。
私は、「ああ、この猫は、入院させてもらえないのか。」と、がっかりして、タクシーを呼んで、家に帰った。
主人の仕事場に行き、獣医さんに言われたことを、伝えたら、
「預かってくださいという言葉が、いけない。なぜ、入院させてくださいと言わなかったのだ。」と、叱られた。
そうだ、「預かってください。」とは、「保護してください。」という意味だったと、そのとき、初めて、なぜ先生や、看護婦さんが、一瞬困った顔をしたのか、理解した。

私は、「預かってください」と言った。
その言葉は、「入院させてください」と言うつもりで出た言葉だった。
「預かってください」という私の言葉を、先生や看護婦さんは、「猫を、入院させて欲しい」のではなく、
「無料で、このかわいそうな猫を保護してください」と、解釈したのだ。
先生や看護婦さんの、私が発した言葉の受け取り方の方は、至極自然だった。
トマスが、病院に入院させてもらえなかったのは、当たり前のことだった。

主人は、仕事柄、言葉に敏感だった。
私は、この心の中にある気持ちは、どんな表現をしても、通じるものだという、甘さがあり、言葉を、軽視する傾向にあった。

主人に叱られてから、直ぐに、獣医さんに電話を入れた。
「あのう、、、先ほど、預かってくださいと言ったのですが、預かってくださいではなく、猫は、入院させていただきたかったのです、、、。」・・・・・
獣医さんは、「はい、わかりました。では、直ぐに猫を連れてきて下さい。」と、トマスの入院を、快諾してくれた。

私は、また、タクシーに乗り、トマスを、その獣医さんの元へと、運んだ。

私は、その後、たくさんの犬や猫を保護することになるが、
多くの獣医さんに、二度と、保護した犬や猫を、「預かってください。」なんて言うことは、なかった。

トマスは、今でも、目頭に、赤い目やにがつき、少し気管支が、ぜいぜいする。
きっと、幼いときの、猫風邪の後遺症が、まだ、残っているのだろう。

トマスです

トマスは、シロの何番目の子供であったのだろうか。
私が、トマスやシロと出合ったときは、トマスは、もう1才近い大きさで、あの公園に出没してくる野良猫たち、
シロ、シロの兄貴、クロ(黒猫オス)、マウス(キジシロオス)の中で、唯一若い猫であった。
シロは、トマスを、産む前にも、子猫をたくさん産んだという話だったが、そんな話の割には、シロの子供らしい猫は、トマス以外には、生き延びていなかった。
公園近所のおじさんおばさんの話、「シロの子供は、たいてい交通事故で死んだ。」は、やはり、本当であったのだろう。
公園の猫が気になり始め、ほぼ毎日のように、フードを、公園猫に持参するようになった。
もちろん私以外にも、公園の猫たちを、心配する人はいて、そんな人は、たいていは、おじいさんやおばあさんの年寄りで、時々は、残り物の焼き魚の残りなどを、持って来てくれて、ドライフードを持参した私と鉢合わせになったりした。

餌を持って行き始めると、猫たちは、私が現れる時間を、だんだん覚え、私が現れるであろうその時を、じっと、待ち続ける。当時は、午前中9時頃に、公園には出かけていたと、思う。
猫の辛抱強さは、それはそれは、人の営業マンも、見習いたいほどの、粘り強さだ。
何時間でも、餌を持ってきてくれる人を、待ち続ける。
それはそれは、涙ぐましいほどの、努力だ。
寒さのなか、雨のなか、猫は、自分のことを気遣ってくれる唯一の人を、待ち続ける。

私が現れる時間はるか前から、その公園で私を待っている猫たちと違って、トマスの現れ方は、実利的、かつ現実的だった。
他の猫は、私が現れると、餌が欲しくて、「みゃーみゃー」と鳴く。
その鳴き声を、何処からともなく聞きつけ、公園に隣接した民家の物置の屋根の上から、
ヌクッと、現れるのだ。
他の猫が鳴き出す声で、私が来たことを知り、餌が到着したことを、判断していたのだ。

トマスの現れ方は、ロックミュージシャンが、ステージに登場するさまに、似ていた。
他の猫が、餌を、むしゃむしゃ食べだす中、一人、悠然と、雄たけびをあげ、一鳴きしてから、それから、地面に、降りてくるのだった。
上を見上げると、いつも、トマスの姿は、威風堂々としていた。
マントをまとい、頭には王冠を、載せた、若き王の姿だった。
下界の下々の猫のことなど、くそ食らえと、飛び跳ねるトマス。
当時、私も、主人も、セックスピストルズが好きだったから、トマスを、パンク猫、パンク青年と、呼んでいた。
そんな、パンク青年の元気な若き猫も、病気にはめっぽう弱かったのだ。

トマスが、猫風邪で倒れたのは、多摩に雪が降る3月末のことであった。トマスです