彼の声 2026.2.24 「金融知識の活用」
voice-173
現状では何かの揺り戻しに賭けている者が
いる一方で、それが揺り戻されずにそのまま
落ちて行ってしまうのではないかと恐れてい
る者の方が多いからこそ、現時点の情勢が悲
観的な方向へと振れていると思いたいのだろ
うが、しかもそう思いたいのに、実際に動い
ている方向が、それとは逆向きに動いている
としたら、いったいなぜそうなってしまうの
かと考えてみても、通常で考えられる理屈や
論理では説明できないわけでもないが、過去
の特徴的な傾向が繰り返されるとも思えない
一方で、今が通常の状況なのかというと、恐
れている者たちは絶えず非常事態を想定して
しまうが、非常事態が常態化していること自
体がおかしいわけで、よく考えてみればそう
なのだが、では怖がり過ぎなのかというと、
それが通常の状況だとしたら、通常の状況で
も怖がり過ぎなのだから、状況と感覚の間に
乖離が生じているのも通常の状況だと言えな
いこともなく、そんな状況の中で実際に何か
が起これば、それに反応してどちらか一方へ
一時的に振れるだろうが、振れた反動も起こ
るだろうから、そんな揺り戻しに賭けている
者がいる一方で、それが揺り戻されずにその
まま落ちて行ってしまうのではないかと恐れ
ている者の方が多いからこそ、現時点の情勢
が悲観的な方向へと振れていると思いたいの
だろうが、そんなふうに何かが繰り返されて
いる現状の中で、何をどう判断すればいいの
かよくわからなくなっている人も多そうで、
よくわからないから不安になってきて、そん
な不安感が現状の社会の空気や雰囲気を醸し
出していると考えたくなってしまって、いつ
もながらの何の根拠もないいい加減な憶測に
なってしまいそうだが、何かそれに関してい
い加減にならないように歯止めとなるような
確かな根拠や感触を探しているでもなく、い
つものようにAIに頼りたくなってしまうが、
一方ではそうなっているとしても、それに対
して必ずヘッジが利いている状態となってい
るから、そんな状態とは、保有する資産や取
引において、為替変動、金利、株価下落など
のリスクが、先物やオプションなどのデリバ
ティブ取引や分散投資によって実質的に相殺
され、損失が最小限に抑えられている状態を
指し、主に、保険のように価格変動の影響を
回避できていること示すそうで、ヘッジが利
いている状態の具体例として、為替ヘッジあ
りの外国投資信託では、円高局面でも為替予
約により、為替差損が回避されている状態だ
そうだが、為替予約は、将来の外貨売買レー
トを事前に確定させることで、円高局面でも
為替差損を回避・軽減する有効な手法だが、
将来の換算レートが確定するため、円高によ
る資産減少を阻止できるメリットがある一方
で円安時の利益は享受できず、ヘッジコスト
が発生するから万能ではないということなの
だろうが、株価下落への対応として、下落を
予想し、先物取引で売りのショート・ポジシ
ョンを持っておくことで、現物の損失を補填
することもできるが、自分のような素人が普
通にやっているのは、リスク分散であり、異
なる性質の銘柄を複数持つことで、一つの銘
柄が暴落しても全体への影響を限定させてい
るわけだが、大暴落が起これば全ての銘柄が
下がってしまうから、そうなれば分散投資も
有効ではなくなってしまうだろうが、ヘッジ
が利いていることのメリットは、それによっ
て安定した運用が可能になり、予期せぬ大き
な損失を防ぐことができるわけだろうが、デ
メリットとしては、為替予約の金利差などの
ヘッジコストがかかり、円安や株価上昇のチ
ャンスを逃すといった機会損失につながる可
能性があるから、ヘッジが適切に機能してい
るか、その有効性を定期的に確認することが
重要だそうだが、この状態は金融取引だけで
なく、将来起こり得るリスクの対策という意
味で、ビジネスシーンでも使われるそうで、
その種の専門人が専門用語を駆使してもっと
もらしく説明する分野なのだろうが、よくユ
ーチューバーなどがリスクヘッジとして貴金
属の金に関連する金融商品の購入を推奨して
いるが、もうすでにだいぶ高騰しているのに、
ここからさらに高騰すると踏んでいるのだろ
うが、金鉱株ETFと金ETFをいったん買
って、停滞していた頃に手放してから急騰し
てしまったから、もうすでに買うタイミング
を逸してしまって、あの時売らずに持ってい
れば、といつもながらの後悔先に立たずな心
境となっているので、今さら買えないわけで、
馬鹿な素人の典型例でしかなく、その程度で
構わないというか、自分の勘がそうさせると
思うしかないが、それにしても金を大量に買
い込んでいるのが、中国やロシアなどのヤバ
そうな国々の連中であるだけに、今後何かあ
った時にどうなるか見ものではあるわけで、
普通に考えて有事の金と言われるのだから、
有事になったら金の価格が上がるから、とい
うか有事を起こした国の通貨価値が下がると
考えておいても構わないのだろうが、しかし
有事を起こしているロシアや、これから有事
を起こしそうな中国の連中が金を大量に購入
しているというのが、引っかかるわけで、そ
んなロシアや中国と連携しているのがトラン
プ政権だという陰謀論の類いを状況証拠も絡
めて広めたい人も一部にはいるのかいないの
か、その辺もあまりひねくれた見方はしたく
ないのだが、確かにこれから有事が起これば
金価格は高騰するだろうが、そんな有事が収
まれば価格が下落する傾向もありそうで、今
はトランプ政権がイスラエルとの同盟がらみ
で、金を大量に買い込んでいるロシアや中国
と同盟関係にあるイランにちょっかいを出し
ている最中だから、とりあえずイランを叩い
て、その背後にいるロシアや中国を刺激して、
さらなる有事を起こしてもらうきっかけを作
っているのかどうかも、その前にアメリカが
有事を起こしているだろうし、地政学的な不
安や緊張が高まっているうちは、金価格が上
昇しやすいから、株やビットコインなどのリ
スク資産を売って、金を買う流れになってい
そうだが、有事が起きてから買うと高値づか
みになるリスクがあるものの、何か微妙に自
意識が気づいていないところで勘が働いてい
るような気がする限りで、今までに勘が働い
た感じからしても、今後思いがけないことが
起こると踏んでいるみたいが、そうなってか
ら、なるほどこういうことだったのかと納得
できれば、さらに自分の勘の確かさを信じた
くなってしまうだろうが、それがアナリスト
のもっともらしい分析とは違うレベルで感じ
取っていることだろうから、自分以外の他人
が信じるようなことでもないのだが、今の自
分の現状から言えることがあるとすれば、大
した投資金額ではないにしても、米国株のリ
スクヘッジとして日本株が利いている感じで、
もちろん持っている割合としては、米国株の
二倍以上日本株を持っているのだから、ヘッ
ジどころではないのだが、実態として米国株
から資金が逃避している先の一つとして、日
本株にも資金が流入しているのだろうから、
わざわざ金や新興国株を買わなくても、日本
株を買っておけば間に合ってしまうような成
り行きではあるのだろうから、それが今後い
つまでも続く保証もないだろうが、だから高
市政権の財政拡張政策によって円安・株安・
債券安のトリプル安になるなんて、今のとこ
ろは日本売りにもなっていないどころか、急
激な円安局面でもなく、円安が進行していな
いのに株高傾向にはなっていて、しかも長期
金利が上昇して債券安になる傾向にも、ある
程度は歯止めがかかっているような状況でも
ありそうで、トランプが暴れているうちは、
そっちに世界中の関心が集まるだろうから、
それと比べたら日本の高市政権などに世界の
関心が向かうとも思えないし、そういうとこ
ろでうまく物事が噛み合っている感触なのだ
が、機会をうまく捉えて的確に投資するとか、
素人の自分にはできないにしても、むしろ絶
好の投資機会を逃して悔しがっている程度で
構わないのかも知れず、有能なユーチューバ
ーの方々が絶好の投資機会を知らせてくれて
はいるのだろうが、ちょっとぐらいはそれに
従っている傾向もありそうで、ちょっとだけ
その的確な助言のおこぼれには与っていると
しても、その程度で済ませておくことが肝心
なようで、調子に乗ってそういう方面へと自
意識がのめり込んでしまうことが、危ない兆
候なのかも知れず、その辺のさじ加減やバラ
ンス感覚が微妙にうまく行かない程度にとど
めておけば、かろうじてそこから抜け出せる
可能性を残しておくには必要なのかも知れな
いが、抜け出せたところでどうなるわけでも
なく、ただ単に現状に中途半端にかかわって
いるに過ぎないわけだ。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.23 「ちょっとした小競り合いの顛末」
voice-173
ちょっとしたきっかけから何かの均衡が崩
れて、そこから矢継ぎ早に事態が進行して行
くかどうかも、今後の情勢次第だが、今のと
ころは何も起こらないし、あちらでもそうか
も知れないが、こちらから仕掛けないと何も
起こらないわけではないが、何かの仕掛けに
反応して、それに対するカウンターとなるよ
うに打撃を繰り出したつもりで、それに対し
て全く反応がないようで、かなり効いている
わけでもないだろうから、それが何かの小競
り合いに発展しているとしても、そんなやり
取りでは何ももたらせはしないと侮っている
のなら、それでも構わないような気がするわ
けで、何ももたらしていないのだから、それ
が嘘だとは思えないが、嘘でも構わないと思
っているわけで、無理を押し通せば遠からず
綻びが出始めて、やがて無理した分が負担と
なって返ってくるだろうから、あとは向こう
が自壊するのを待っていればいいとか、そん
な虫のいい話でも構わないわけではないとし
ても、何となく話の流れとしてはそうなるよ
うな気がするわけでもないのだが、そんな気
がしないというのは、案外そんな予想が外れ
た方がおもしろそうな予感もしていて、何を
予想しているのかというと、今も微妙な雰囲
気を醸し出している世界情勢とリンクした日
本の政治経済情勢だと思っているのかいない
のか、誰がそんなことを思っているとも思え
ないが、たぶんこういう成り行きになってし
まうのも、それに乗じて何か利いたふうなこ
とを述べてしまうのも、何となく笑ってしま
うと言ったら、そんなことを言うはずもなく、
もっと事態を深刻に受け止めておいた方が良
さそうなのだが、それでも笑ってしまうのだ
から、それが何かの強がりや虚勢を張ってい
ることの証拠かも知れないのだが、呪いとい
うのが気の病なのはわかりきっているが、祟
られていると思い込めれば、呪いの効き目も
ありそうに思われて、呪いや祟りといった超
常的な現象が、実際に信じる心や恐怖心や不
安といった心理的な要因によって引き起こさ
れる身体的かつ精神的な不調を指すそうだが、
今でも結構な人数の者たちに向かって日々弛
まず呪いをかけているらしい誰かのことをど
う思うかといっても、そんな気を緩めず怠け
ず粘り強くひたすら執拗に自身の信念につき
動かされながら物事に取り組む様子を、一歩
一歩着実に努力を続ける姿勢に敬意を表する
しかないし、畏敬の念を抱いてみたところで、
何でもないことには変わりなく、祟りを恐れ
る怯えが病の原因になるという考え方や、民
間伝承におけるもの憑きなどの憑依現象を単
なる迷信として片付けず、それを信じてしま
う民衆の心性そのものが問題であり、病だと
捉える視点に立っているわけでもなく、呪い
を信じることで強いストレスを感じ、それが
身体症状として現れているわけでもなく、呪
いや怪異そのものではなく、それを恐れる臆
病な心が病気を引き起こすと考えているわけ
でもないし、物理的な呪術の効果よりも、民
俗的な信仰や心理的な依存関係に起因する現
象だと解釈したいわけでもないのだが、呪い
は、その人の心の持ちようや、信仰心から生
じる心の病だなんて思ってもいないようでい
て、自身に呪いがかかっていることに気づい
ていない方が、何よりも無難な心象なのかも
知れないが、だからといって何も特筆すべき
欠点やリスクがなく、誰からも悪く思われな
いように、相手から当たり障りがない印象を
得られることを目指しているわけでもないの
だが、わざと馬鹿そうに振る舞って相手に安
心感を与える一方で、これとって特徴が薄く
記憶に残りづらい心理的傾向へと持って行け
るなんて、そんな芸当を身につけているとも
思えないし、無理して安心感や協調性や問題
のなさを醸し出そうとしても、個性がなく印
象に残りづらく情熱が感じられないような装
いを身につけているわけでもないのだから、
シンプルで、どんな場でも浮かないスタイル
を目指すことに何の意味があるとも思えない
し、ひたすら波風を立てず、標準的な礼儀作
法で接する対応を心がけても、できるだけリ
スクを冒さず、確実に実行できる計画を立て
ようとしているわけでもなければ、自身の内
面に浮かぶ心象が他人の心象と同じだとは限
らないし、相手が特に対処しなくていいよう
に安全であると感じられるように振る舞いた
いわけでもなく、振る舞おうとして振る舞え
るほどの演技力もないだろうし、それが自然
に身についているわけでもないから、別に心
象が悪くても、それは仕方のないことだとあ
きらめるしかないわけだが、何かが足りない
わけで、しかもその足りない何かが足りるこ
とによっても、結果が同じだとしたら、足り
るとか足りないとかとは関係のないところで
物事が進んでいるようにも思われてしまうか
ら、それが表情や言動に表れているように感
じられること自体が、普通は心の中の感情、
気分、または健康状態や心理的な変化が、顔
の表情や目つきとして、また言葉の激しさや
抑えた口調が、外に向かって現れることを意
味するのだろうが、それがわざとでないにし
ても、誇張された喜怒哀楽、不安、疲れなど
の内面的な要素が、無意識に顔に表情として
見える形になっているとしても、焦りの色を
隠せないとか、何とかして言説の標的となっ
ている者が劣勢に立たされているように表現
したい気満々な言い回しに持って行く過程で、
実際に焦っているのはそんな言説を弄してい
る当事者になってしまいそうだが、たぶんそ
こでもマウントを取ろうとしてしまってはま
ずいのかも知れず、そんなことを考えながら
も、否応なく巻き込まれている成り行きに身
をまかせるしかないようで、実際、ホモ・エ
コノミクスについての古典的な考え方におい
て、経済的人間とは、交換する人間であり、
交換相手であり、交換のプロセスにおける二
人の交換相手のうちの一人で、そこに含意さ
れているのは、有用性という観点から行動様
式や振る舞い方を分析することであり、それ
は必要の問題系にかかわるものとなり、必要
から出発してこそ、交換のプロセスを導くこ
とになる有用性が特徴づけられたり、規定さ
れたり、基礎づけられたりすることが可能と
なり、交換相手としてのホモ・エコノミクス、
必要の問題系から出発した有用性の理論が、
ホモ・エコノミクスの古典的な考え方を特徴
づけるものとなるそうだが、新自由主義にお
いても、確かにホモ・エコノミクスの理論が
見出されるが、そこでのホモ・エコノミクス
は交換相手のことでは全くなく、それは、企
業家であり、自分自身の企業家であって、交
換相手としてのホモ・エコノミクスを自分自
身の企業家としてのホモ・エコノミクスによ
って絶えず置き換えることが分析に賭けられ
るものとなり、自分自身にとっての自分自身
の生産者、自分自身にとっての自分の所得の
源泉としてのホモ・エコノミクスとなるが、
それについてベッカーは、消費について、そ
れをただ単に、交換のプロセスにおいていく
つかの生産物を獲得するために購買を行い通
貨の交換を行うことであると考えては決して
ならないと述べているそうで、消費する人間、
それは交換における諸項のうちの一つではな
く、消費する人間は、消費する限りにおいて、
生産者であり、ではいったい何を生産するの
かというと、彼が生産するのは、自分自身の
満足に他ならず、そして消費を、企業活動の
ようなものとみなさなければならず、そうし
た企業活動としての消費によって、個人は、
自分が自由にできるある種の資本から出発し
つつ、自分自身の満足となるような何かを生
産することになるらしいが、何だか屁理屈の
ようで笑ってしまいそうだが、要するに必要
な物資を通貨と交換できない貧困層への同情
心をよりどころにして民衆からの支持を当て
にしている左派リベラル勢力が、退潮傾向と
なっているのに対して、企業活動を盛んにし
て、消費によって自分自身の満足感を生産し
たい多数派の一般大衆を味方につけた右派保
守勢力やポピュリズム勢力が、先進諸国では
優勢となっていると解釈できそうだが、その
実態がどうなっているのかと考えても、左派
リベラル勢力がそれを批判するための餌が絶
え間なくメディアによってばら撒かれている
現状では、誰もがそれとなく気づいていそう
な情勢の中で、彼らがそんな煽り立てを真に
受けて批判を繰り返してしまうのを逆批判す
るわけには行かないわけだ。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.22 「新自由主義における労働の定義」
voice-173
中道の小川代表が高市の施政方針演説に対
してコメントしている動画を見て、いつもな
がらの二項対立的なものの見方だと思ってし
まったが、なるほどああ言えばメディアウケ
が良いんだと、その後のメディアの伝え方を
見ながら、改めて感心してしまったのだが、
それと関連しているかどうか、微妙にずれる
ようなことかも知れないが、またもやフーコ
ーの講義から、その要約を紹介してみるが、
アメリカ新自由主義の考え方において興味深
く思われることの一つが、人的資本理論であ
り、経済分析がそれ自身の領域の内部におい
て分析が行き詰まったままであった点におい
て、古典派政治経済学は、財の生産は、土地、
資本、労働という三つのファクターに依存す
るが、その中で労働は未踏査のままにとどま
っていて、労働そのものを分析してこなかっ
たと言えて、労働を時間というファクターへ
と押し戻すことによってニュートラル化する
ことに尽力してきたそうで、リカードは、労
働の増加とは何か、労働というファクターと
は何かを分析しようとして、増加をただ量的
なやり方によって、時間的可変項に従って規
定して、労働の増加、労働というファクター
の変化、市場における労働者数の付加以外の
何ものでもあり得ないもの、労働時間という
唯一の量的可変項と引き換えに労働の本性そ
のものがニュートラル化されたということで
あり、古典派経済学がここから脱出すること
は決してなく、ケインズのうちに見出される
労働の分析も、というよりもむしろ労働に関
する非分析は、労働とは生産のファクター、
生産するファクターであるが、その用途、活
動、現在性において見出すのは、一定の投資
水準のおかげにすぎず、その水準が十分に高
いという条件のもとに過ぎないのであり、結
局のところ、新自由主義者たちの問題は、労
働を経済分析の領野の中に再導入することに
なるが、リカードが労働の分析を全面的に時
間の量的可変項の分析に還元してしまったと
いうのが本当であるとしても、その反面、マ
ルクスが労働を分析するとき、労働者が売る
のは自分の労働ではなく、労働者は自分の一
定時間にわたって自分の労働力を売り、それ
と引き換えに、労働力の需要と供給の間の均
衡に対応する市場の一定の状況から出発して
打ち立てられた賃金を得て、その一部が労働
者から強奪されてしまうような一つの価値を
創造するものとしての労働のプロセスの中に、
資本主義の論理を見るわけだが、その論理と
は、そのような労働が抽象的なものであって、
具体的な労働が、労働力によって変形され、
時間によって測られ、市場に置かれて賃金と
して支払いを受けたものであるということで
あり、それは具体的な労働ではなく、人間的
現実の全体から切断され、その質的可変項の
全てから切断された労働で、資本主義の論理
は労働に関してその力と時間だけしか考慮に
入れておらず、資本主義は労働を商業製品と
し、生産された価値の諸効果だけしか考慮に
入れていないというわけだが、そのように労
働を時間という可変項を通じてしか現れるこ
とのないものとして抽象化したのは、現実の
資本主義ではなく、資本主義的生産に関して
作られた経済理論によるものであり、抽象化
は、経済プロセスの現実のメカニズムに由来
するものではなく、古典派経済学において考
察されたやり方に由来し、古典派経済学が労
働をその具体的種別性とその質的変調におい
て分析できず、その理論の中にそうした白紙、
欠落、空白を残しておいたからこそ、哲学、
人間学、政治学がこぞって労働へと駆り立て
られたのであり、マルクスはその代表格なの
であり、したがってなすべきことは、現実の
資本主義が労働の現実を抽象化してしまった
と非難するマルクスの現実主義的批判を継続
することではなく、経済学者たちがかくも抽
象的なやり方で労働を見るとしたら、彼らが
労働の種別化、質的変調の経済的諸効果を取
り逃しているとしたら、それは古典派経済学
者たちが、経済学の対象を、資本や投資や機
械や生産物などのプロセスとしか見ていない
からで、ここで新自由主義的分析をその一般
的背景のもとに置き直す必要があり、新自由
主義的分析による認識論上の本質的変換は、
その分析が、それまで経済分析の対象、その
対象領域、その経済分析は、所与の社会構造
の内部における生産のメカニズム、交換のメ
カニズム、消費の事実を、それら三つのメカ
ニズムの相互干渉とともに研究していたが、
経済分析とはそうしたメカニズムの研究を行
うものではなく、競合する諸目的、つまり二
者択一的諸目的、互いに重ね合わせることの
できない諸目的に対し、希少資源が割り当て
られるやり方に関する研究と分析を行うもの
でなければならないそうだが、この辺が自分
にはわかりにくいところなのだが、ロビンズ
は、経済学、それは人間の行動様式に関する
科学であり、つまりそれは、諸目的と、互い
に排他的な用途を持つ希少手段との間の関係
としての、人間の行動様式に関する科学であ
ると定義したそうで、このような定義によっ
て経済学の任務として提案されるのは、資本、
投資、生産といった種類の事物やプロセスの
間の関係のメカニズムを分析することではな
く、そのような分析では労働はただ歯車とし
て挿入されているだけとなってしまい、人間
の行動様式の内的合理性についての分析が欠
けていて、労働を経済分析の領野に導入する
ためには、労働する者の視点に身を置く必要
があり、労働を、労働する者自身によって実
践され、活用され、合理化され、計算される
経済的行いとして研究する必要があるという
ことで、労働する者にとって労働するとは何
か、労働活動はいったいどのような選択のシ
ステム、どのような合理性のシステムに従う
のか、このような問い、戦略的な合理性の原
理を労働活動に投影することから出発して、
労働の質的差異が経済タイプの効果を何にお
いてそしていかにしてもたらしうるのかがわ
かるそうだが、したがって問題は、労働者の
視点に身を置くことであり、労働者を経済主
体にすれば、労働者が、労働力という形態に
おける需要と供給の対象ではなく、能動的な
経済主体となり、人々はなぜ労働するのかと
いえば、もちろん賃金を得るためであるが、
賃金とはいったい何かといえば、賃金とは所
得に他ならず、労働者の視点から言えば、賃
金とは、自らの労働力の売値ではなく、所得
であり、所得とは、資本による生産物あるい
は収益に他ならず、逆に、何らかのやり方で
未来の所得の源泉でありうるものの全ては資
本と呼ばれるのだから、それを勝手に自分が
単純化するなら、労働者も資本家であり、む
しろ労働者こそが資本家だと言えないことも
ないが、その辺が、労働者と資本家を二項対
立として取り上げてイデオロギーを練り上げ
るどこかの政党の論理は疑わしいのだが、中
道の小川代表も生産者サイドと消費者サイド
を二項対立として取り上げて、高市が生産者
サイドの事情を強調しているから、こっちは
消費者サイドの事情を強調して、それをメデ
ィアが小川節が炸裂だ!と持ち上げて、いい
気になっているように報道されてしまうと、
何だか間抜けな奴だと思われているんじゃな
いか、と皮肉な笑みを浮かべながら見ている
人も多そうな予感もしてくるのだが、それと
は関係なく、フーコーが言うには、労働者は
いわば一つの機械であり、この辺はドゥルー
ズ=ガタリの『千のプラトー』でも読んだの
か知らないが、坂本龍一も『千のナイフ』と
いう曲があるが、ただしそれは、ポジティブ
な意味に理解された機械であり、というのも
それは、所得の流れを生じさせることになる
機械であるからで、それは所得の流れを生じ
させるのであり、所得を生じさせるのではな
く、というのも、労働者の能力によって構成
された機械は、労働市場において一定の賃金
と引き換えに単発的なやり方で売られるわけ
ではなく、実際にはこの機械は、その寿命、
その耐用期間を持ち、旧式化したり老化した
りするから、この労働者の能力によって構成
された機械、能力と労働者とがいわば分離不
可能なやり方で結びつくことによって構成さ
れた機械、これをある期間の間に一連の賃金
を報酬として支払われることになるような機
械と見なさなければならず、つまり、最も単
純なケースを考えるなら、そうした機械が使
用され始めるときには、比較的低い賃金から
始まり、次いでそれが上昇し、それから機械
の旧式化、あるいは機械としての労働者の老
化に伴って下降することになり、そう考えれ
ば、一つの企業に投資される資本に対して市
場価格で売られるべきものとしての労働力と
いう考え方の、完全なる対極の概念になるそ
うだ。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.21 「トランプの違法行為」
voice-173
自分勝手に振る舞うのが自由な状態とは言
えないとしたら、許容可能な範囲内で身勝手
に振る舞うように仕向けられているとも見え
ないが、そんな行為や言動が許されるかどう
かも、それがちょっとした認識の違いで済む
はずもなく、それを過剰に受け止めるわけに
は行かないとしても、そう行動することが何
かの突破口のような気がしてしまうのだから、
勘違いでも構わないから素直にそう思ってお
くしかないわけで、それによってまがい物が
一掃されて目の前の視界が開けたと思ってし
まうのも、そうなった前と後とで、言ってい
ることが全く変わらないのも、何だかその人
の言っていることが信用できないような気が
してしまい、それでも構わないような立場か
ら物申しているつもりなのかも知れないが、
こちらもそうなる前から、すでに疑念を抱い
ているわけだから、そうなってからさらに疑
念が深まったに過ぎないにしても、何か適当
に物申す立場になると、そんなことしか言え
ないのかも知れず、だからそういう物言いは
そういうことだと受け止めていて、参考意見
の一つとしてそんな物言いでも構わないよう
な成り行きの中でまかり通っているのだろう
が、それが本来の意味での身勝手や自分勝手
とは違うわけもなく、他人の都合や迷惑を顧
みない理由でもあるだけに、自己中心的な振
る舞いのように感じられるのだが、そこでは
そうだとしても、それとは違う方面ではそう
ではないのかというと、それとは違う方面が
どんな方面なのかも、にわかには思い浮かば
ないのだが、身勝手とは他人の都合や迷惑を
考えず、自分の都合や欲求だけを優先させる
態度のことである一方で、自分勝手な人は自
分の欲求にとても素直なので、周りのことは
気にせず行動しがちだと、何か微妙な違いが
あるかのように語られてはいるのだが、もの
は言いようで、言いようによって、何か違い
があるかのように語られている一方で、実質
的にはほぼ同じ意味で用いられていると、勝
手にそう受け止めておけば良さそうに思われ
るのだが、少なくともトランプは、自分の都
合だけで行動しているわけでもないだろうか
ら、それが身勝手な行為のように言われると
しても、周辺諸国や同盟国に迷惑をかける利
己的なことをやっているように見えるとして
も、自分の意見や都合を優先する自分勝手な
言動であるかのように感じられるとしても、
それをわがままだと批判するのもちょっと違
うような気がするとしても、わがままは子供
の愛らしい様子を含む場合がある一方で、自
分勝手や身勝手は、基本的に相手に迷惑をか
けて、否定的な意味で使われるそうだが、そ
れに関連して、自己中、利己的、一方的、エ
ゴイスティック、独りよがり、手前勝手など
と、トランプを批判する上でその種の言葉が
よく使われるかどうかも、普段はあまり気に
とめていないので、何とも言えないところだ
が、たとえ利己的で配慮にかける人や自己中
心的な行動をとる人を非難したり注意する際
にはそんな言葉が使われるとしても、それが
戦略的な配慮から装われた行動や行為や言動
である限りは、わざとそう見せかけていると
解釈できるかどうかも、普通にそんなふうに
は見えないわけだから、そんな分析も説得力
に欠けるだろうが、それに関する言説と実際
に行われているレベルで自分が何かと何かを
混同して勘違いしているわけだが、政治とし
て行われているのだから、トランプ一人の意
向が反映しているわけでもない限りで、その
種の否定的な表現を使った言説は無効なので
はないかと考えてしまうし、だからわざとお
かしなことを述べて何を伝えたいのか、自分
でもよくわからないのも毎度のことだが、言
わんとすることが、さらにここから語って行
くにつれて自分でもわかってくるかどうかも、
やはり何とも言えないところで、それでも何
か引っかかるものを感じているのだから、そ
れを述べないわけにも行かないわけで、相変
わらずわけのわからないことを述べてしまい
そうだが、人は誰でもゲーム脳になっている
面も時もありそうで、それが通常言われる悪
い意味で言われるようなゲーム脳ではなく、
活性状態や興奮状態を伴っている時にそうな
っていると考えてしまうと、ゲーム脳を否定
的に定義している脳科学者などとは見解が異
なってしまうのだが、その否定的な定義によ
れば、脳科学者の森昭雄という人が二十数年
前に提唱した造語だそうで、長時間ゲームに
没頭することで、脳の前頭前野の活動が低下
し、理性、感情コントロール、記憶力に悪影
響が出ている状態を指す概念だそうで、感情
の抑制が難しくなり、ちょっとしたきっかけ
からキレやすくなると共に、無気力、物忘れ
が多いなどの傾向があると主張されるらしい
が、その特徴として、ゲーム中に脳のベータ
波が減少・消失し、アルファ波が増大する状
態となり、原因としては、脳の前頭前野の機
能が低下し、認知症の高齢者と似た脳波パタ
ーンを示すとされ、一日一時間以上のゲーム
プレイでゲーム脳の疑いがあり、毎日長時間
行うと脳の反応が低下し、日常的なイライラ
や生活習慣の乱れに繋がると言われるが、ゲ
ーム脳は医学用語ではなく、根拠が不明確で
あるとして、疑似科学との批判も多く、ゲー
ムを控える生活を送ることで脳の機能は回復
に向かうとされ、症状の改善には運動や、指
先を細かく使う作業が効果的とされて、その
一方で、適度なゲームはワーキングメモリや
空間認識能力の向上など、プラス面をもたら
すという研究もあり、この概念はゲーム依存
症のリスクや、子供の脳の発達・暴力性との
関連性がメディアで報道される際に引き合い
に出されることが、二十数年前は確かに多か
ったのだろうが、今ではコンピューターゲー
ムの類いなど、もはや一般的なメディアの関
心事ではなくなってしまったかのようにも思
われるから、関心のない人にとっては気にも
とめない分野だろうが、そういう類いのゲー
ム脳ではなく、例えばシドニィ・シェルダン
の小説『ゲームの達人』の登場人物たちが囚
われている状態がそうだと言えるような気も
するが、トランプとその取り巻きたちがビジ
ネスライクに事を進めているのに、それとは
別の方面から、漫画の『ドラえもん』に出て
くるジャイアンだと言ってみたり、それでも
そういう表現を使っている人の取り組んでい
る分野では通用しそうだが、首相の高市の施
政方針演説の内容を額面通りに受け取って、
それを批判してみせる芸にも、退屈している
人が多そうだが、それもそれについて述べる
にはその内容を額面通りに受け取らざるを得
ないのだから、それを批判をする人はそうな
らざるを得ないと受け止めるしかなく、そん
な人を逆批判する筋合いなどないのも、普通
にわかりきったことなのだが、戦略的にそう
いう方向へと誘導されていると考えるのも、
そんなことではないとはわかっていても、な
ぜか結果的にはそうなっているわけで、トラ
ンプも高市もそうなってしまうことが、トラ
ンプや高市が個々の存在として今後どうなろ
うが知ったことではないような成り行きに巻
き込まれていると見ておくしかないようなこ
とだと考えざるを得ないし、その一方で人権
派の憲法学者などが、自身の専門的な領域か
ら何を述べようと、それがビジネスライクに
行われていることをビジネスライクではない
方面から批判していること自体が、そういう
方面から批判しているのだから、そういう方
面の論理に照らし合わせれば、何かもっとも
らしい意見のように感じられるとしても、少
なくともビジネスライクに対応するなら、外
部の部外者から発せられる雑音だと理解でき
る範囲内では無視しておいても構わないだろ
うが、それが全体的な効果や成果としてどう
なっているかなんて、それらの物事に関わっ
ている人たちでさえ、そんなことは考察の対
象とはならなそうだが、全体としてうまく物
事が噛み合っているような気がするわけで、
それらに関わっている個々の取り組みが結果
的にうまく行かなくても、それで構わないよ
うな成り行きがもたらされているのではない
かと肯定的に捉えたくなってしまうわけだが、
なるほどそういう反応をしなければ彼らの聴
衆が納得しないんだと皮肉な笑みを浮かべな
がら見ているわけでもないのだが、こちらも
そんな余裕などない成り行きの中で、何かそ
れに対して述べるとなると、何となくこうな
ってしまうような結果しかもたらせないわけ
だ。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.20 「語りにくさの背景」
voice-173
世の中で推し進められている何に期待して
も、結局は他力本願となるような気がして、
それだけ自分でやっていることに対して実質
的な手応えを得られていないことの裏返しに
なりそうだが、物事の本質から外れた枝葉末
節なところにそうなった理由や原因を探し求
めてしまうのも、自身ではどうすることもで
きない物事の本質には触れたくないことの表
れかも知れず、では物事の本質とは何なのか
というと、それが単純な作用反作用の法則と
いうか、トータルでゼロとなるようなゼロサ
ム的な力の及ぼし合いだと考えてしまうのも、
何だか的外れのように思われて、そうではな
いとしたら何なのかというと、物理的なエネ
ルギー保存則とエントロピー増大の法則の組
み合わせのような結論になるのではないかと
想像してみても、それも人間社会の面倒でや
やこしいやりとりを説明したくないから、物
理世界へと意識が逃げ込んでいるような気も
して、そこから世界の真理を知れと諭されて
いるとも思えず、逆に世界の真理とは別の下
世話で通俗的な方面へと自意識が誘導されて
いるような気がするわけでもないが、しかも
そこで何かをわかりかけているのに、もう少
しでそれがわかる手前で邪魔されているよう
な、不安を煽られ気を逸らされて、別の方面
へと関心が向かうように仕向けられていると
被害妄想を抱くような成り行きに囚われてい
るとも思えないが、そんな悪意を伴った意図
や思惑を妄想してしまうこと自体が、かなり
方面が違うのかも知れず、もっと中立的で無
関心な方面から影響を及ぼされて、誘導され
て行った先で誰がどうなろうと知ったことで
はないような、誘導そのものが意味をなさず、
目的や目標もないような方面へと自身の活動
が持って行かれているように感じられるから、
それが自然からの誘導だとしたら、自らの利
害とは無関係に従うしかなさそうで、だから
何だというわけでもないが、たぶん世間的な
期待とは裏腹の事情を伴った何かが進行中だ
からこそ、それに対して疑念を覚える者たち
が、何かしら探偵の真似事をやっているのか
も知れないし、しかもそんな真相究明が空振
りに終わってしまうからこそ、物事の真相な
ど安易に求めるには及ばないわけで、絶えず
メディアを通じて流布される好意的なイメー
ジや評価から、世間的に勝手な期待が生じて
しまう一方で、それがプロパガンダやイメー
ジ操作だと批判されると世間的な反発も起こ
り、実際よりもよく見せるための宣伝や政治
的な情報操作が先行していると疑われて、事
の真相を見抜く思考力や直感力や観察眼など
が試されているわけではなく、真相を知られ
ては困るから試さないでほしいと誰が願って
いるわけでも、見抜かれないように隠蔽工作
を画策しているとも思えないが、そうなった
結果からそれを説明する際には、何か一般大
衆が気づきにくいような陰謀の類いが巡らさ
れていると仮定すれば、説明がわかりやすく
なるわけでもないが、説明する側は何とかし
て善と悪の二項対立となるような単純で図式
的な構図を伴った背景を言説上で構成したい
のだろうが、そんな当てが外れると話がこじ
れてしまい、何か面倒でややこしくて込み入
った事情が明らかとなるわけでもないだろう
が、そこで説明者の言語能力を超える何かが
起こっていることが示唆されるとも思えない
し、たぶん説明できる範囲から逸脱する何が
あるとしても、それが興味や関心の対象外で
あるなら、そんなことは無視されるだろうか
ら、それで構わないわけでもないが、そうな
らざるを得ないなら、そんな成り行きに囚わ
れながら事の真相を語るしかないだろうが、
実際にこれが何らかの事件の真相だとこれ見
よがしに語るユーチューブ動画があるのかど
うかも誰の知ったことでもないだろうが、た
ぶん探せばありそうだと予想しながらも、そ
んな話の逸脱が許されるのかと反発したいわ
けでもなく、何かそうではないようなことを
語ろうとしていたのだろうが、それにしても
誰か自分以外の他人を悪人に見立てて断罪し
たい気分というのも正義の味方気取りに特有
の精神構造に起因すると貶すわけにも行かな
いから、それどころか資本主義に育まれ養わ
れた大衆市民社会を否定したい気満々に語る
のも、世間的な感覚からはちょっとかけ離れ
た印象を伴ってしまうだけに、なるべくそう
いう成り行きに持って行かれないように、突
然目の前に飛び出してくる言説的な障害物を
避けながら語ろうとするややこしさや煩わし
さを無視するわけにも行かず、そんなわけの
わからない疑念と共に何かしら言説を構成し
ているつもりになっているようでいて、わざ
とそれらを言説の中に事の真相として放置し
ているようにも感じられるから、何だか全体
として支離滅裂な内容となっているような気
はするが、言いたいことが言われていないわ
けではなく、言いたくても言えないというニ
ュアンスが伝わってくるように言説を構成し
ようとしているようでいて、何か取り立てて
具体的な事例が説明されているわけでもない
から、それらのゲームの中では、批判対象を
直接に断罪したり糾弾してしまう者たちから、
彼らの負けが宣告されて退場させられてしま
うようなルールが、新たに設定されているよ
うにも思われるわけで、それがどういう経緯
でそうなってしまったのかも、それを言語ゲ
ームだと見なすわけにも行かない事情が彼ら
に生じている限りで、事の真相が究明されな
いままとなってしまいそうだが、後期ウィト
ゲンシュタインによれば、言葉の意味はその
使用や状況によって決まり、言葉は辞書的な
意味を持つだけでなく、日常生活における具
体的な文脈や役割や行動の中で機能するそう
で、言葉を実在の写しとする従来の考え方を
否定し、文脈依存の言語理解を提示したらし
いが、そんなことをいきなり言われても何の
ことやらさっぱりわからずちんぷんかんぷん
となってしまうが、そんなはぐらかしに気を
取られているうちに、ゲームの勝敗が決して
しまったようで、以後は負けた側が不服を申
し立てるいと間も与えられないまま、事態が
進展している最中なのだろうから、うまくし
てやられたと思う間もなく、退場者の存在も
やがて世間から忘れ去られてしまうかも知れ
ず、たぶんそんなことにはお構いなく、日常
生活の中で絶えず言語の意味と使用が更新さ
れて行った先に待ち受けていたのが、大衆市
民社会だと解釈できるわけでもないが、すで
に大衆市民社会の中でそんな事態が進行して
いたわけだから、結果であるよりも過程の中
でそんな事態が進行していたはずだが、それ
が結果としても言えるようなことであって、
分析者がいつも物事の結果からそれを理解し
ようとする限りで、もうすでに手遅れとなっ
ていて、済んでしまった事態を動かせるわけ
でもなく、言葉では動かし難い現状を何を用
いて動かそうとしているのかといえば、彼ら
が権力や権限を持っているかというと、ゲー
ムに負けた時点で権力も権限も失ってしまっ
たように見えるだろうが、ではゲームに勝っ
た側に権力や権限が付与されるかというと、
普通に考えてゲームを主催・運営している組
織や団体の側にゲームそのものに関する権力
や権限がありそうなのだが、その辺で微妙な
力関係の強弱が伴ってきて、必ずしもそうと
は限らないところがわかりにくいのかも知れ
ず、そもそも権力の行使や権限の付与がゲー
ムそのものに関係する行為なのかどうかも怪
しいわけで、しかもこれから始まろうとして
いるのが、それとは違う別のゲームでもある
わけだから、それが言語ゲームとどう違うの
かも、そもそもゲームと言えるかどうかも、
やってみなければわからないわけではなく、
やらないかも知れないし、やらなくても、や
っているつもりもなくても、勝手にゲームが
行われている実態もあるらしいから、その気
もないのに勝手にやりたくもないゲームに参
加させられていることに気づくわけでもなく、
誰も参加しているつもりも気もしないのに、
勝手にそこでゲームが成立してしまうとすれ
ば、いったいそれが何のゲームなのかといえ
ば、言語ゲームの類いなのかも知れないが、
直接会話したり文章を記したりしている当事
者たちにはゲームをやっている自覚などない
わけだから、それをゲームだと強引に決めつ
けるのも、何か屁理屈のような感じがして、
気が引けるのだが、そこではゲームという言
葉の定義も辞書に記されているものだけとは
限らず、その使用や状況によって決まってく
ると解釈すればいいのかも知れない。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.19 「事態を前向きに捉えること」
voice-173
やっていることが一筋縄では行かないのは
百も承知で誰もが各々に取り組んでいる何か
があるらしいのは、確かな感触を伴ってそう
思われるが、その一方で、それが偶然にそう
なったとしか思えないような思いがけない事
態に直面して驚いてしまうのもまれに起こる
ことで、なぜか知らないが否応なくそうなっ
てしまい、そうなる理由がわかっていても逆
らえない成り行きにもなるから、そんな方面
へと自然に引き寄せられて行ってしまうと、
そんな傾向から抜け出られなくなってしまっ
て、そうなることが気に食わなくても嫌な感
じがしても抵抗感を覚えながらも、どうやっ
てもそうならざるを得ない事態を受け入れる
しかなく、それが自身の能力を超えてそうな
ってしまうと考えれば、確かにあきらめるし
かないだろうが、それでも無駄な抵抗を繰り
返しているような嫌な感じがして、あきらめ
きれずに未練がましく事態に逆らっているよ
うにも感じられて、それをどう捉えたところ
でみっともない醜態をさらしているようで、
何がそうなのかと考えてみたところで、いっ
たんどうにもならない状況へと追い込まれて
みないことには、そんな心境にはなれないわ
けだが、そのどうにもならない状況を、どう
にかなるようにしようとしてもうまく行かな
いから、さすがにそのまま放置したくなって
しまうのだが、しかもそんな状況でも利用し
たくなってくるから、どう利用しているのか
も自分でもよくわからないなりにも、なぜか
それを利用して考えているようで、何をどう
考えているのかというと、結果的にそうなっ
てみてから、これで良かったんだと思えるよ
うになってしまうのだから、それがどう考え
てみても納得が行かないとしても、そう思わ
れてしまう限りで、なぜかうまくやったよう
にも思われるわけで、大失敗な結果なのに、
一方では失敗することに大成功したようにも
感じられて、それが何なのかもよくわからな
いのだが、結局は多くの者たちがまんまと逃
げおおせることに成功したのかも知れず、そ
んなふうに責任逃れができてほっとしている
者たちも相当数に上りそうで、もちろんそん
な自覚など当人たちにはないだろうが、それ
で構わないわけで、しかもこれから何をどう
やるのかではなく、来るべき事態にどう備え
るのかでもなく、もうすでにこんな事態にな
っているわけだから、そんな自覚もなく対応
した結果が、まんまと逃げおおせることに大
成功したと結果を都合良く捉えておいても構
わないのではないかと、少なくともそんなこ
とまで考える立場でもないらしい自分にはそ
う思えるわけだが、そんな結果を受けてすで
に動き出している成り行きも表向きにはそう
ではないこともわかりきっているが、それは
主導権を握った勢力にまかせておけばいいわ
けで、あとは意味不明な高笑いと共にのらり
くらりで構わないような気がするものの、さ
すがに間抜けだったのが大成功した側だと逆
説的な負け惜しみのように事態を捉えること
などできないものの、それでも大失敗した側
が高みの見物を決め込んでいるのを非難する
筋合いなどなさそうで、文句も言わずに批判
も何もしなければ良いわけだから、ひたすら
沈黙を守っておいても構わないだろうし、そ
んな事態の受け止め方が世間で通用するとも
思えないが、それもたぶん通用しないだけに、
通用しないならやらなければ良いだけで、そ
れをやらずに済ませられるなら、それに越し
たことはなく、何かそれについてもっともら
しく律儀に検証作業などやらないに越したこ
とはないようにも思われるから、何の検証も
しないで結果を放置しておくのも世間的には
許されないことであるにしても、成り行き的
にはそうなってしまうようにも思われて、実
際にはそうはならないにしても、現状ではあ
り得ないようなことだと思ってしまうのだか
ら、そう思うに越したこともないようで、事
の終わりを乗り越えた先に待っていたのが、
そんな状況であったわけでもないだろうが、
現状が現状を乗り越えるとはそういうことな
のではないかとも思われるから、それもそれ
で構わないようなことなのかも知れないし、
少なくとも一世紀後には忘れ去られてしまう
ような者たちがこれから何をどうやっても、
それが大した成果をもたらすようなことでも
なく、なぜそう言い切れるのかも、根拠など
何もなくても、何となくこれまでの経緯から
そう思われるだけで、それが大した成果だと
世間的に評価されるとしても、今から百年前
にもそう評価されていた何かがあったらしい
のだから、それとこれとを比較できるわけで
もないとしても、百年単位で歴史を区切るの
もおかしくはないが、数字的に区切りが良い
だけで、それ以外にこれといって理由などな
いわけだが、イメージだけで好感を得られて
いると感じられる限りで、内容など何もなく
はないにしても、その内容というのが特に否
定的な感触を伴っているわけでもないからこ
そ、そんな雰囲気に世の中の風潮が呼応して
いると捉えてみても構わないような気もする
わけで、それが何でもないことの証しとなる
わけでもないのだが、あとはまんまと逃げお
おせた者たちがどれほど黙っていられるかが、
事の成否の鍵となると考えるのも、ちょっと
違うだろうが、当人たちが逃げおおせたなん
てこれっぽっちも思っていないのは誰もがわ
かっていることだとしても、それも負け惜し
みではない範囲内でそう捉えておきたいわけ
で、でもそれによって強がって見せてはまず
いだろうから、あくまでも黙っておくことが
前提で成り立つようなポジションなのかも知
れず、しかも否応なく存在を無視されるよう
な成り行きへと持って行ければ、そんな役割
をうまく演じていることになると思われるの
だが、それも自分が勝手にそう思っているだ
けで、たぶん世間の受け止め方はそうはなら
ないだろうし、その辺も自分の感覚が世間の
感覚とはかなりずれていることを物語ってい
るかも知れないものの、それも少なくとも現
状の世間の感覚など今は多くの人々が無視で
きなくても、時の経過と共に、どうでもいい
感覚となって忘れられてしまうだろうから、
その程度のことだと事態を捉える限りで、や
はり世間の感覚とかなりずれた感覚なのだが、
今年の日本や世界情勢が、後から振り返れば
何かの分岐点だったように思われるなら、確
かに現状ではここから別の道へと分岐するよ
うな成り行きだとも思われないのだが、人々
が選ばなかった別の可能性というのが、それ
を選ばなかったことが取り返しのつかない過
ちや誤りだとは思われない限りで、妥当な選
択をしたと自信を持って誇れるようなことか
ということ自体も、それを誇れるのは妥当な
選択などではなく、正しい選択をした時だろ
うから、そこでもちょっと違うような気がし
て、しかも正しい選択肢などなかったと結果
から言えるような現状なのかも知れないから、
それも少なくとも政治的にどうにかできるよ
うなことではなく、経済の方面で進行中の事
態に対して、政治が口を挟むべきではないが、
口を挟むのが政治の役目なのだろうから、大
いに口を挟んでもらえばいいわけだが、口を
挟んだからといって、何が変わるわけでもな
いとは言えないにしても、口を挟むことによ
って変わるのが経済情勢ではなく政治情勢の
方だとしたら、それこそ誰かの思惑通りだと
思ってしまうのだが、そこで誰かが誰なのか
といえば、まんまと逃げおおせることのでき
た者たちであるなら困った事態かも知れない
が、たぶんそれもそうではなく、誰もそうだ
とは思えないようなどうでもいい存在であり、
何の権力も権限もなく、そんな者が世界を動
かしているなんて誰もそうは思わないだろう
が、実質的にもそうなのだが、不必要に威張
っているから目立ってしまって、ではトラン
プがそうなのかというと、そうではないとし
たら他に誰が威張り散らしているのかと疑う
つもりもないが、特定の誰が世界を動かして
いるわけでもなく、動かそうとして絶えず何
かしら仕掛けているのがトランプであること
は確からしいし、メディア的にもそんなふう
に見せかけられているのだから、そう思って
おいても構わないのだが、逆に日本の政治情
勢の中で何かが温存されていると考えるなら、
それが具体的な政策ではなく、一つの振る舞
い方であるように思われて、また一つではな
く複数の何かが重層的に折り重なっているよ
うにも思われるなら、要するにそれらが彼ら
の意志や思考とは違う振る舞いをもたらして
いるからこそ、未だに結果に至っていないと
しても、結果に至る手前で、まんまとそこか
ら逃げおおせたような集団離脱現象が起こっ
たと事態を捉えたいわけで、今のところはそ
れが意味不明な現象だが、果たして今から数
年後にその答えが出るかどうかは、残された
者たちの奮闘次第だとも思えないし、それも
世間を構成する多数派市民の意向次第なので
はないか。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.18 「マックス・ヴェーバーの分析」
voice-173
マックス・ヴェーバーにおける資本主義社
会の合理性と非合理性の問題は、AIによれ
ば、近代社会が神秘的なものを排除すること
によって、合理化を極限にまで推し進めた結
果、逆に人間にとって非合理的な結果をもた
らすという逆説に焦点を当てたもので、ヴェ
ーバーは、近代資本主義を形式的合理性や計
算可能性・効率性の極致と見なす一方で、そ
れが最終的には人間を拘束する鉄の檻になる
と警告したそうで、ヴェーバーは近代資本主
義の根幹にある合理化を、世界が計算可能で
あり、予測可能であり、効率的にコントロー
ルできるものとして捉えられるプロセスと定
義して、近代資本主義は正確な帳簿と計算に
基づく合理的な利益追求を特徴とする一方で、
伝統、宗教、呪術的要素が排除され、全てが
事務的、技術的、数学的に計算可能になり、
効率性を高めるために、官僚制的な組織が経
済だけでなく社会のあらゆる分野に浸透し、
社会そのものを計画的に管理しようとして、
個々人の自由が制限されてしまうから、それ
が人間を拘束する鉄の檻として機能して、ヴ
ェーバーが最も懸念したのは、技術やシステ
ムを活用する合理的な手段が目的そのものに
なって、人間がその手段に縛られるという非
合理な結果が生じるという点で、近代人は、
自ら作り出した合理的な組織やシステムであ
る経済システムや官僚制の中に閉じ込められ、
自由な精神を失い、機械的に行動することを
強いられるようになり、精神なき専門人、心
情なき享楽人と呼ばれる、包括的な意味や価
値を見失い、ただの機械的な専門業務のみを
遂行する人間が出現し、計算の効率性という
形式を追求するあまり、そのシステムが何の
ためにあるのかという実質的な目的である幸
福や倫理や意味が問い直されなくなり、最終
的には本質的な目的が失われ、合理化の極致
として社会が感情や伝統を失うと、逆に神秘
主義やカリスマ的指導者など、非合理的なも
のへ依存する再魔術化の傾向が生まれるそう
で、ヴェーバーは『プロテスタンティズムの
倫理と資本主義の精神』において、この合理
的社会が生まれた背景に、カルヴァン主義な
どの禁欲的な宗教倫理があったと指摘して、
その倫理とは、神に救われていることの証拠
を求めるために、世俗的な仕事を天職として
邁進し、欲望を抑制し、全てを目的達成のた
めに合理的にエネルギーを注ぐ行動が、資本
主義の精神を醸成したが、しかしそれに伴っ
て、かつての信仰という目的が失われ、ただ
金銭増加という形式的合理性だけが残ったの
が現代である、とヴェーバーは分析したそう
で、ヴェーバーが提示した資本主義の問題は、
合理的であるはずのシステムが、人間を人間
として扱わない、非人間的で非合理な結果を
もたらすという点にあり、これは効率性と計
算可能性を追求しすぎた結果、人生の意味が
消滅するという、現代の官僚制社会にも当て
はまる根本的なパラドックスだそうだが、ヴ
ェーバーが言うような官僚制的な組織がこな
す事務的、技術的、数学的に計算可能な機械
的な業務を、機械人間たちに代わってこなし
てくれるのがAI技術になるかどうかも、今
後の技術的な進展次第かも知れないが、その
一方でマルクス主義者の指摘する資本とその
蓄積の矛盾した論理というのも、AIがもっ
ともらしく説明してくれるから、ニヤけてし
まうが、資本とその蓄積における矛盾した論
理は、マルクス経済学の核心部分であり、資
本主義が永続的な拡大を目指しながらも、同
時にその構造的な限界と危機を自ら作り出し
てしまうメカニズムを指し、主な矛盾した論
理は、次のような循環として説明され、資本
は利潤を求めて剰余価値を生産し、それを新
たな資本として再投資する蓄積を無限に繰り
返し、この蓄積の論理は、生産力の限界なき
拡大を要求するが、同時に、資本家はコスト
に含まれる賃金を低く抑えようとするため、
労働者階級の購買力と消費が生産の拡大に追
いつかなくなり、商品は増えるのにそれを買
う市場の需要が相対的に小さくなり、商品が
売れ残り、過剰生産恐慌を引き起こす一方で、
蓄積が加速すると、資本家は競合他社に勝つ
ために、可変資本である労働力への投資より
も、不変資本である機械や原材料への投資を
増やし、これにより、生産に占める資本の有
機的構成である機械の割合が高まると、剰余
価値である利潤を生み出す源泉は労働力であ
るため、機械が増えて相対的に労働者が減る
と、資本全体の利潤率が低下して、投資の意
欲が削がれ、蓄積のペースが鈍化し、経済危
機をもたらすそうで、また資本の蓄積過程は、
個々の資本が互いに競い合い、より大きな資
本が小さな資本を飲み込む集中を引き起こし
て、これにより資本が高度に集積されるが、
同時に、機械化によって労働者が解雇され、
産業予備軍と呼ばれる失業者の相対的過剰人
口が増大して、生産力は増大するが、貧富の
差が拡大し、貧困の蓄積と共に、社会的な不
安定化を招き、さらにローザ・ルクセンブル
クが指摘したように、資本は生産され、売却
されることを必要としているが、蓄積が続く
につれて、資本主義的な市場内部だけでは再
投資された剰余価値を全て実現するために利
潤として回収することが困難になり、拡大再
生産を続けるためには、資本主義化されてい
ない外部市場である非資本主義地域を併合し
続けなければならないから、その結果、帝国
主義的な軍事進出や海外市場の開拓が不可欠
になるそうで、資本の蓄積は、拡大ー過剰生
産ー利潤の低下・恐慌ー再編というサイクル
を繰り返し、このもっと資本を増やしたいと
いう欲求が増やせば増やすほど利潤が出にく
くなるという矛盾を孕むことこそが、資本集
積の限界と危機を本質的に限定している論理
だそうだが、ヴェーバーやマルクス主義者の
指摘がごもっともな指摘ではあるにしても、
主張のある面では正しいという、まるでれい
わ新選組の人たちが言っていることのように
感じられる限りで、たぶん全面的に正しい主
張などできない限りで、部分的には正しい主
張が可能である範囲内でもっともらしく感じ
られるわけで、それを全面的に正しいと錯覚
して信じてしまう人々が、れいわ新選組の支
持者になってしまったり、ヴェーバーやマル
クス主義者の言っていることを真に受けてし
まうのだろうが、少なくとも自分がそれらの
主張に対して反論できるかどうかというより
は、彼らの主張通りになった結果が、一応は
世界各地で実際に起こったのだろうし、実際
に起こっている最中かも知れないし、これか
らも起こり続けるかも知れないのだが、起こ
り続ける経過の中で人々が生きているわけで、
だから全面的にそうなっているわけではない
し、全面的にそうなった結果がもたらされて
いるわけでもないのだが、それに対して彼ら
は全面的にそうなるだろうと予言したいわけ
で、それはこのまま高市政権が続いて行った
ら日本経済が破綻すると危機感を煽る者たち
にも言えそうなことなのかも知れないが、そ
れに関して示唆に富んだ事例があるかという
と、何となく思い浮かんだのだが、それが万
人に当てはまるわけでもないのは承知で紹介
しておくと、JFKの父親で、ジョセフ・ケ
ネディはウォール街の株価大暴落をきっかけ
にして起こった世界大恐慌をいち早く予見し、
資産を売り抜けて巨万の富を築いた伝説の投
資家として知られて、1920年代の後半の
狂騒の20年代において、市場に一般大衆や
素人が熱狂して参入している状況を危険視し
て、有名な逸話では、靴磨きの少年から株の
助言を受けたことで、こんな素人までが株を
買っているなら今が天井だと悟り、保有する
株式を全て売却し、株を売り抜けただけでな
く、さらなる株価下落に賭けて空売りを行い、
大暴落で巨額の利益を上げて、株式市場から
引き揚げた資金を不動産や安全な政府証券に
投資して、資産を保護・強化したそうで、こ
んなのは誰もが知っている有名な逸話だろう
が、要するにヴェーバーやマルクス主義者や
れいわ新選組やこのままでは日本経済が破綻
すると危機感を煽っている識者の言った通り
になっても、なおそれでも構わないどころか、
それを利用して社会の中で有利な立場を占め
ようとする人々や勢力もいるわけだから、賢
い者たちは今も虎視眈々とそんな機会が巡っ
てくるのを待ち構えているような気もするわ
けだ。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.17 「シュンペーターと新自由主義の違い」
voice-173
歴史上で世界の三大経済学者は誰かという
と、アダム・スミスとマルクスとケインズが
挙げられそうだが、その中でもマルクスは肩
書が学者ではないし、左翼活動家崩れの無職
の一般人だろうから、他に誰が挙げられるか
というと、シュンペーターやハイエクなどが
挙げられるらしく、フーコーがシュンペータ
ーについてもちょっとだけ語っているから、
前回のハイエクに続いて、シュンペーターも
紹介してみるが、二十世紀後半のドイツで戦
後経済復興の過程で実践されて、その後欧米
や日本にまで広まった新自由主義における、
自由主義的統治術のある種の刷新のような何
かに関して、統治術の種別性、歴史的にそし
て政治的にそこで賭けられているものについ
ては、シュンペーターと対比させることによ
って把握できるとフーコーは思っているよう
で、結局、シュンペーターにせよ、レプケに
せよ、オイケンにせよ、これらの経済学者た
ちのすべては、資本主義社会の合理性と非合
理性というヴェーバー的問題から出発してい
て、シュンペーターはオルド自由主義者たち
と同様に、次のように考えたそうで、マルク
スあるいはマルクス主義者たちは、資本主義
社会の合理性と非合理性の排他的で根本的な
起源を、資本とその蓄積の矛盾した論理の中
に探す点において間違っていて、資本とその
蓄積の論理の中に内的な矛盾はなく、したが
って、経済的視点、純粋に経済的な視点から
見れば、資本主義は完全に生き続けることが
できる、と考える点においてはシュンペータ
ーとオルド自由主義者とに違いはないが、シ
ュンペーターによれば、実は資本主義は、歴
史的に、具体的には、独占へと向かう傾向と
切り離されることができず、そうした傾向は、
経済的プロセスに起因するものではなく、競
争のプロセスの社会的帰結に起因するもので
あり、競争の組織化そのもの、競争のダイナ
ミズムによって、ますます独占的となる組織
化が呼び求められるようになり、したがって、
シュンペーターにとっての独占の現象は一つ
の社会現象であり、競争のダイナミズムに矛
盾しないものであるとはいえ、競争そのもの
の経済プロセスに内在的なものではなく、中
央集権化への傾向があり、つまり、経済を行
政と国家にますます近くなる決定の中心に組
み込もうとする傾向があるということで、こ
れは資本主義の歴史的断罪であり、しかし矛
盾という観点からの断罪ではなく、歴史的宿
命という観点からの断罪だが、シュンペータ
ーにとって、資本主義とは、そうした集中を
避けることができないもの、つまり、自らの
発達の内部そのものにおいて、一種の社会主
義への移行が避けられないものとなり、とい
うのも、シュンペーターにとっての社会主義
とは、中央官庁が生産手段と生産そのものと
を管理できるようになるシステムと定義され
ていて、したがって、社会主義へのこうした
移行が資本主義の歴史的必然性の中に組み入
れられるが、しかしそれは資本主義経済に固
有の非論理性ないし非合理性によるものでは
なく、競争市場によってもたらされる組織上
および社会的な必然性を原因とするものであ
り、そして社会主義への移行にはもちろん、
ある種の政治的コストが伴うことになり、こ
れについては確かにそれは高くつくかもしれ
ないが、全く支払い不可能であるわけでもな
く、全く耐え難いものでも修正不可能なもの
でもなく、その結果一つの社会主義社会へと
向かうことになるが、当然のことながらその
政治構造は、ある種の代償を避けるために、
つまり全体主義という代償を避けるために、
高度に監視され練り上げられなければならず、
それが現代では中国政府が目指している監視
社会と重なり合うものなのかどうかも、何と
も言えないところだが、このような資本主義
についての分析であると同時に歴史的かつ政
治的予測であるような分析、シュンペーター
のペシミズムと呼ばれたものに対し、オルド
自由主義者たちはシュンペーターの分析を逆
に辿り、次のように語るそうで、第一に、社
会主義体制のもとで支払わなければならない
ことになるとシュンペーターが語っている政
治的コスト、自由の喪失という政治的コスト
は、それが受け入れられうるものであるなど
と信じてはならず、そうしたコストは受け入
れられうるものではなく、なぜかといえば、
それがただ単に計画化タイプの経済に近接し
た不都合ではなく、計画経済には不可避的に
政治的コストがかかり、すなわちそこでは、
自由という代償を支払うことが不可避で、そ
の結果いかなる修正も不可能になり、いかな
る整備を施したとしても、計画化の必然的な
政治的帰結として自由の喪失を回避できず、
ではなぜ計画化においてはそうした自由の全
面的喪失が不可避なのかと言えば、それはた
だ、計画化が一連の根本的な経済的誤りを含
んでいるゆえに、そうした誤りを不断に改め
る必要があるからで、そして計画化に内在的
なそうした誤りないし非合理性を改めるには
根本的自由を除去することが不可避であるか
らで、そのような計画化の誤りを避けるには
どうすればいいのかと言えば、それがまさに
シュンペーターが資本主義の中に認めた傾向、
彼が見てとった通り経済プロセスの組織化や
中央集権化や吸収への傾向が、修正を施され
るようにすることによって、それもまさしく、
社会介入によって修正を施されるようにする
ことによってであり、社会介入、社会本位政
策、法的介入主義、法治国家ないし法の支配
の法則のような厳密に形式的な一つの法制に
よって保護された、経済の新たな制度的枠組
みの定義、こうしたものが、資本の論理では
なく資本主義社会に実際に内在する中央集権
への傾向を消し去り、吸い取ることを可能に
してくれるはずで、そうしたものこそが資本
の論理をその純粋さにおいて維持することを
可能にするだろうし、その結果、厳密な意味
での競争市場を機能させること、すなわち、
現代社会において確認された独占の現象、集
中の現象、中央集権の中で転倒するリスクの
ないような競争市場を機能させることも可能
にするだろう、というわけだそうだが、大し
て文章構成力もない自分が、うまく要約でき
ずに、微妙に不明確なところも結構ありそう
で、とりあえず組織が中央集権化すれば、権
力も一点に集中する傾向が出てきて、それに
伴って融通も利かなくなって、何事も上の言
う通りに事を進めることになれば、自然と計
画通りに事を進めなければならなくなると共
に、やっていることの自由度も制限されるよ
うになるだろうから、計画の途中で下っ端が
計画の誤りを発見しても指摘しても、下っ端
には権力や権威がないから無視されることに
なって、一度動き出した大規模な計画はそれ
が破綻するまで突き進んで、途中で止められ
なくなる傾向にはなりそうで、そういう意味
では計画化が根本的な誤りを含んでいること
になるから、途中で絶えず誤りを指摘して修
正するための機構も欠かせないことにはなり
そうで、それが企業間競争の中で起こること
であれば、計画が途中でうまく行かなくなれ
ば、業績が低迷して収益も下がって株価も低
迷してしまうから、そんな企業が倒産しても、
他の企業が同業他社として同じような事業を
推し進めるから、それで経済的な面では間に
合ってしまうことは確かで、また資本とその
蓄積における矛盾した論理は、主にマルクス
経済学において、資本主義が成長を追求すれ
ばするほど、自らの基盤を崩すような問題を
引き起こすという構造を指して、資本の蓄積
は生産力の大発展をもたらす一方で、利潤率
の低下、過剰生産、貧富の格差の拡大といっ
た矛盾を内包しているそうだが、確かシュン
ペーターが絶え間ない技術革新によってそれ
を克服できるとか述べていたように記憶して
いるが、その技術革新が現代でも話題となっ
ている、AI革命だとすれば、今後その成否
が明らかになるのかならないのか、自分の生
きているうちにそれが明らかになるかどうか
も何とも言えないところだが、それに関して
イーロン・マスクが、一人一人にただで年間
千数百万円支給して、仕事するかしないかも
自由に選択できる社会が到来するとか、どこ
かで言っていたらしいが、今のところはそん
なことは誰も信じないようなホラ話の類いだ
と誰もが思っているのではないか。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.16 「ハイエクと法治国家」
voice-173
新自由主義系の者たちが目指していた法治
国家とは何なのかというと、法治国家は、専
制国家とは異なるものとしての内政国家にも
対立し、公権力の行為が、それをあらかじめ
制限する法律によって枠組みが定められてい
る国家として、公権力は法律の枠組みの中で
しか作動できないということであり、公権力
の強制的な性格の原理および起源となるのは、
主権者やその意志ではなく、法律の形式であ
り、法律の形式がある場所で、法律の形式に
よって規定された空間の中で、公権力は正当
なやり方で強制的なものとなり、法治国家に
おいては、普遍的に有効な一般的措置であり
それ自体主権の行為であるものとしての法律
と、公権力による個別の諸決定との間に、本
性上の差異、効果上の差異、起源の差異があ
り、法治国家とは主権の表現としての法律上
の規定と行政的措置とが、その原理、その諸
効果、その有効性において区別されるような
国家であり、そこからさらに時代が進むと、
ただ単に法律に従って法律の枠組みの中で作
動するような国家ではなく、法権利のシステ
ムを持つ国家、法律を持つと同時に、個々人
と公権力との間の諸関係を仲裁する司法的審
級を持つような国家となるように、市民は公
権力に対抗するために、仲裁の機能を担うこ
とになる行政裁判所のような種別化された裁
判所に訴えることが可能かつ必要であるのか、
それとも逆に市民が公権力に対抗するために、
通常の裁判所に訴えることができるのか、と
いう問いをめぐる議論と共に、法治国家は、
公権力と市民との仲裁を行うものとしての、
行政に組み込まれた行政の影響力を受ける行
政裁判所を自ら組織するような国家としてで
はなく、市民が通常の裁判において公権力に
対する訴えを申し立てることができるような
国家としてはっきり定義され、法治国家とは、
何らかの制度による、市民と公権力との間の
司法的仲裁の可能性を持つ国家になるわけだ
が、ここに自由主義者たちが資本主義を刷新
するやり方を規定しようとする際の出発点が
あって、資本主義を刷新するそのやり方は、
法治国家の一般的諸原則を経済法制の中に導
入するというものになり、それが表向きには、
ヒトラー的国家を拒否するための一つの具体
的なやり方であったが、ヒトラーの実践にお
いて国家は法権利の主体であることをやめて
いて、法権利の起源は人民にあり国家ではな
く、国家は人民の意志の道具化以外の何もの
でもあり得ず、国家が法権利の原理として理
解された法権利の主体となる可能性、何らか
の裁判所に召喚することのできるような法的
人格として理解された法権利の主体となる可
能性は、完全に排除されていたので、実際に
は、経済秩序における法治国家についての探
求は、全く別のものに照準を定めていて、そ
れは、当時の民主主義的国家が実践していた
経済秩序へのあらゆる形態の法律上の介入、
アメリカのニューディールにおける国家によ
る法律上の経済介入、さらにはイギリス型の
計画化の全体であり、経済秩序への国家の法
律上の介入がありうるのは、法律上の介入が
形式的諸原則の導入というかたちをとる場合
であり、ただその場合においてのみであると
いうことで、形式的な経済法制のみがあるこ
と、これが、経済秩序における法治国家の原
則で、法律上の介入が形式的なものでなけれ
ばならないとは、どのような意味なのかとい
うと、ハイエクがその著書の中で、法治国家
ないし法の支配の原則の経済秩序への適用が
意味すべきことを定義していて、実のところ
それは非常に単純で、法治国家、あるいは形
式的な経済法制、それはただ単に、計画の反
対物であり、計画化の反対物であるというこ
とで、計画とは何かというと、経済計画、そ
れは究極目的を持つ何かで、そこではまず、
明白なやり方で成長が探求されたり、ある種
のタイプの消費、ある種のタイプの投資を発
達させることが求められたり、様々に異なる
社会階級間の所得格差を縮小することが求め
られたりして、明白に規定された経済目的が
与えられるということになり、計画において
はそうした諸目標の存在に応じて、修正、訂
正、措置の中断、代替措置を、適当であると
判断されたときに、求められた効果が達成さ
れるか否かに従って導入する可能性が常に与
えられ、計画において公権力は、経済的決定
機関の役割をもつものとして現れ、公権力は、
決定の原理として個々人にとって代わり、そ
の結果、個々人に対し、例えば一定レヴェル
の報酬を超えてはならないなどといったあれ
これの義務を課し、公権力はまた、例えば公
共事業に投資する経済主体であるという点に
おいても、計画においても公権力は決定機関
の役割を果たすことになり、公権力が、経済
プロセスの総体を統御しうる主体を構成する
可能性が想定されて、つまり国家の大いなる
決定機関は、経済プロセスの総体について明
晰な意識を持つもの、あるいはいずれにして
もそれについて可能な限り明晰な意識を持つ
べきものでもあることになり、国家の決定機
関は、経済に関する普遍的な主体である、と
いうわけで、それが計画とは何であるかとい
う説明になる限りで、現代では中国当局がそ
んな感じの決定機関として機能していそうだ
が、ハイエクが言うには、法治国家は、もし
我々がそれを経済秩序の中で機能させようと
望むのであれば、そうした計画とは正反対の
ものでなければならないそうで、すなわち、
法治国家は、一般的な性格を持つ幾つかの措
置を定式化するかも知れないが、ただしそれ
らの措置は全面的に形式的なものにとどまら
なければならず、決して個別の目的を自らに
設定してはならないし、所得格差を縮小させ
なければならないと語るのは国家の役割では
なく、あるタイプの消費を増大させたいと語
るのも、国家の役割ではなく、経済秩序にお
ける法律は、厳密に形式的なものにとどまら
なければならず、法律は、人々に対してなす
べきこととなすべからざることとを語らなけ
ればならないということであり、包括的な経
済選択の内部に組み入れられてはならないと
いうことであり、法律が経済秩序において法
治国家の諸原則を尊重するものであるとする
なら、固定した諸原則の形でアプリオリに構
想されなければならず、生じた諸効果に応じ
て修正されることの決してないようなもので
なければならず、法律は、一つの枠組みを規
定し、その内部に各々の経済主体が、自分の
行動に対して定められた法律上の枠組みが不
変のものであることを知っているまさしくそ
の限りにおいて、完全に自由な状態で決定を
行うことができるようにしなければならず、
形式的法律は、他と同じく国家をも拘束する
ことになる法律であり、公権力がどのように
行動するかを一人ひとりが正確に知ることを
可能にするような法律でなければならず、以
上からわかることは、経済秩序における法治
国家についてのこうした考え方によって、結
局、経済に関する知の普遍的主体はあり得な
いことになり、実際には、国家は、経済プロ
セスに対して盲目でなければならず、国家は、
経済に関係する全てあるいは経済に関係する
現象の総体を、知っていると想定されてはな
らないし、個々人にとってと同様、国家にと
って、経済は一つのゲームでなければならず、
経済は規則づけられた活動の総体でなければ
ならず、そこでの規則は誰かによって誰かの
ために決定されたものであってはならないと
いうことであり、それは、極端な場合には誰
もその結末を知らない一つのゲームを一人ひ
とりがどのようなやり方で行わなければなら
ないかを決定する、諸規則の総体で、経済は
一つのゲームであり、経済に枠組みを与える
法制度はゲームの規則として考えなければな
らず、法の支配と法治国家によって、統治の
行動が、経済ゲームに規則を与えるものとし
て、形式化されることになり、その経済ゲー
ムを行う者、その現実の経済主体は、個々の
人のみ、あるいは企業のみになり、国家によ
って保証された法的かつ制度的枠組みの内部
において規則づけられた、企業間のゲーム、
これこそが、刷新された資本主義における制
度的枠組みとなるべきものの一般的形式であ
り、意図的な経済的かつ社会的管理ではなく、
経済における法治国家ないし経済における法
の支配のこのような定義こそ、ハイエクが、
非常に明快であるとフーコーには思われる一
節の中で特徴づけているものだそうだ。
https://www.koike-t.org
彼の声 2026.2.15 「良く言えば悪く言う」
voice-173
悪く言えば、ああ言えばこう言うの延長上
で、批判するのに都合の良いことだけもっと
もらしく主張してみせるのも今に始まったこ
とではなく、思い通りの結果にならなければ、
それに合わせて以前からわかっていた問題点
を改めて指摘して、それが思い通りの結果に
ならなかった原因であるように説明してみせ
るのも今に始まったことではなく、現状を認
め難い者たちの言っていることも、そんな言
い訳で間に合ってしまうようでいて、何か他
に目新たらしいことを述べているのかという
と、そうなってしまうのもさもありなんと思
われるようなことしか言わないのも今に始ま
ったことではなく、それが彼らの欺瞞を物語
っているとしても、その一方で他人の欺瞞を
指摘して糾弾するのも今に始まったことでは
ないわけで、そんな現状も肯定しなければな
らないとは思わないが、否応なく肯定するよ
うに仕向けられてしまう現状でもあるようで、
少なくとも選挙で投票に行かなかった奴らは
あんたらの味方じゃないし、あんたらを支持
しているわけでもないことは付け加えておく
べきなのかどうかも、何となくそんなことは
今さら言うまでもないことのような気がして
しまい、たぶんそんな現状も肯定的に捉えて
おく必要がありそうなのだが、何をどう言っ
てみても、良く言えばそう言えるようなこと
が、悪く言えばそうは言えないようなことに
なってしまうなら、その辺が言い方次第でど
うとでも良い方にも悪い方にも言えそうなこ
とだから、そういうのは相対的に言える範囲
内でそんなことを言っているだけのようにも
感じられて、そんなことを言っている者たち
に同情したくなるにしても、同情するなら金
をくれという台詞も、昔のテレビドラマ経由
で思い出されるだけに、そんな流行語を生み
出したテレビドラマなどまともに見たことも
ないのだが、今や一時的には負け犬と成り果
てたジャーナリストや識者やコメンテーター
などが何を言おうが、何の説得力もないわけ
でもないのだが、これで彼らの言っているこ
とを信用する民衆も相対的に減って、言葉巧
みに丸め込まれる心配もなくなったわけでも
なく、その一方で何も変わらない現状もあり
そうで、相変わらず愚かな者たちを味方につ
けた愚かな者たちが愚かなことをやっても、
それが何になるわけでもないことが証明され
たところで、愚かな者たちはそれを無視する
しかないが、それに乗じて愚かな者たちが愚
かな者たちを批判するターンも回ってくるの
だろうが、それ以前に愚かな者たちが賢い者
たちでもあるわけだから、愚かだからこそ賢
いわけで、また賢いからこそ愚かなのだから、
愚かさと賢さが分離できないほど硬く結びつ
いていて、愚かなことが賢いことの証しであ
り、賢いことが愚かなことの証しでもあるか
ら、一見賢そうなことを述べている者が愚か
であるのが火を見るより明らかな場面に遭遇
するのがSNSだと言えそうで、理性的なこ
とを述べながらも利いたふうなことも述べて
いるイヤミなユーチューバーなどがその典型
例となってしまいそうだが、それを見ながら
笑いが止まらなくなるわけでもないにしても、
エンタメとしてはそれで構わないのだから、
何かそういうところでおかしいと感じるわけ
でもなく、逆にそれで構わないと肯定したく
なってしまって、後からあの時のあれが悪か
ったと言えるわけだから、良識派気取りの誰
かがそんなことを述べる度に欺瞞の度合いも
高まって行くプロセスに囚われているような
気もして、なるほどその誰かが反面教師の典
型例のように思われる度に、そんなことは言
わないようにしようと心の中で硬く誓うほど
のことでもないのだが、そんなふうにして批
判するのに都合が良いことだけ批判する賢く
も愚かな者たちが衰退しつつある兆候と共に
世の中が良い方へ向かっている最中だと感じ
られてしまうこと自体が、自分の勘違いなの
かどうかも含めて、それをどう捉えたらいい
のかよくわからないのが率直な感想なのだが、
彼らの化けの皮が剥がれたと思うなら、彼ら
の批判対象となる者たちはどうなのかという
と、彼らとは利害が異なるにしても部分的に
限定された範囲内で通用している損得勘定に
従って動いているのだから、それはそれでそ
ういうことでしかなく、そういう行動や言動
が世の中で通用しているうちは、そうなるの
が当然の成り行きだと思うしかなく、果たし
て今後それが通用しなくなるようになるのか
と考えても、考えるまでもなく、そうなれば
なったで、それとは違うやり方が通用するよ
うになるだけで、そうなればすでにそういう
やり方が世の中でまかり通っているわけで、
そんなやり方はおかしいんじゃないかと批判
する者たちはそれを後追いで批判するしかな
く、そうなっている時点で出遅れているわけ
だから、批判者には全く勝ち目がないわけで
もないにしても、常に不利な状況を強いられ
ていると思っておかなければならなそうで、
だから彼らの出遅れ状態を嘲笑っても、他人
の不幸を喜ぶようなものだから、あまり良い
気はしないわけだが、ではそれに対して自分
は何を言えばいいのかというと、自分も何か
を批判しているのだろうが、それが彼らの批
判対象とは重ならないように感じられて、そ
の辺で微妙にずれてくる傾向がありそうだか
ら、それが何なのかと見極めなければならな
いとは思っているのかもしれないが、未だに
よくわからないものだから、今のところは無
理にそれをはっきりさせる必要は感じられな
いままに、例えば資本主義の歴史は経済的か
つ制度的な歴史でしかあり得ず、マルクス主
義的な観点から、資本主義の歴史において決
定的なのは資本とその蓄積の経済的論理であ
るということを認めるとするなら、資本の論
理がただ一つしかない以上、実際にはただ一
つの資本主義しかないということになって、
ある制度はそれにとって有利に作用したが、
別の制度はそれにとって不利に作用したなど
ということを言いうるのみとなって、資本主
義が現在陥っている袋小路は、それが結局の
ところ資本とその蓄積の論理によって最終的
に決定されるものである以上、当然のことな
がら、歴史的に決定的な袋小路であるという
ことにもなり、資本主義のあらゆる歴史的形
象を資本とその蓄積の論理に関連づけようと
する限りで、資本主義が現在表明している歴
史的袋小路によって資本主義の終焉がしるし
づけられることになる、なんていうフーコー
的なマルクス主義批判をそれほど深刻に受け
止められるわけでもなく、最近日本のマルク
ス主義者がこれと同じようなことを言ってい
るのを聞いて、なるほどこいつらも愚かしく
も賢い連中にカテゴライズされるのかと思っ
てしまったが、しかしもし逆に、経済学者た
ちによって資本と呼ばれるものが、実際には
純粋に経済的な一つの理論に属する一つのプ
ロセスでしかなく、経済制度としての一つの
資本主義の内部においてしか歴史的現実を持
たないし、持ち得ないとしたら、我々の知る
歴史上の資本主義が、資本の論理の唯一の可
能かつ必然的な形象であるものとして演繹さ
れうるものではないことがわかるそうで、実
際には、歴史上一つの資本主義があって、特
異性を持つとはいえ、しかしまさにその特異
性を通じていくつかの制度的変容とその結果
としての経済的変容をもたらし、それによっ
て自らの前に一つの可能性の領野を開くよう
な、一つの資本主義があるということになり、
資本とその蓄積の論理に全面的に準拠してい
る第一のタイプの分析においては、ただ一つ
の資本主義のみがあり、したがってまもなく
資本主義など完全になくなってしまうという
ことになるが、これに対して、もう一つの可
能性においては、経済的かつ制度的な一つの
形象の歴史的特異性があることになり、その
結果、少なくとも少々歴史的距離を取り、少
少経済的想像力を働かせるならば、その特異
性の前に一つの可能性の領野が開かれること
になって、つまり、資本主義の歴史をめぐる
戦い、資本主義において法権利や規則にかか
わる制度が果たす役割の歴史をめぐる戦いの
中には、政治的に賭けられているものがある
そうで、そこでは、矛盾、袋小路、非合理性
といった資本主義社会に特徴的な諸効果、資
本の論理に起因するのではなく、そうした経
済的かつ法的な複合体の明確で個別的な形象
にのみ起因するような諸効果を、制度的に機
能させる新たなやり方を発明することによっ
て乗り越えうることを、新自由主義系の者た
ちは示さなければならなかったそうだが、実
際にこんなことが述べられてから半世紀が経
過した今でも、未だにマルクス主義者が資本
主義の終焉を予言し続けている現状もあるら
しいから、何だか奇妙な感覚に陥ってしまう
わけだ。
https://www.koike-t.org