彼の声

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

彼の声 2026.6.13 「自分語りの罠」

voice-175

 現状でうまくいっているとかいっていない
とかが、現時点の結果からわかるとすれば、
自分にとって都合の良い点だけ選んでそこを
強調すれば、うまくいっているという幻想を
抱けるが、それが幻想に過ぎないことを理解
できるかというと、人間は無意識のうちに自
分の先入観や思い込みを肯定しようとする確
証バイアスを持っているそうで、この作用に
よって、良い結果ばかりに目を向け、自分に
とってネガティブな事実を無意識に無視した
り過小評価したりすることで、心の安らぎや
満足感を得ることは、人間の防衛本能の一つ
だそうだが、そんな心理的メカニズムに起因
するリスクとしては、自分に都合の良い情報
だけを集めて、全体を客観視できなくなる状
態に陥ったり、都合の悪い現実を直視できず、
自分を納得させるための言い訳を作ってしま
ったり、自己評価と客観的な状態に乖離が生
まれ、周囲との摩擦や信頼関係の悪化を招く
ことがあるそうだが、都合の良い部分に注目
して前向きなエネルギーに変えることはモチ
ベーション向上に役立つこともあるが、それ
が現実逃避になっていないか、その全体像を
客観的に把握できているかを見極めることが
大切だそうで、もし現時点での自分が置かれ
た状況を客観的に評価したい、あるいは偏っ
た見方から抜け出したいのであれば、現状の
中でうまくいっていない点を書き出してみる
とか、第三者から見てどう映るか想像してみ
るとか、理想と現実のギャップを冷静に数値
化してみるとか、そういった観点から整理し
てみることも有効だそうだが、そういうこと
ではないような気がするなら、何なのかとい
うと、例えば自分が今までに歩んできた人生
の経験をよくできた物語のような構造にまと
め上げたくなる心理との関連で指摘できるの
は、一貫性のない出来事に意味を見出し、自
己のアイデンティティを確立し、未来へのモ
チベーションを高めるために、そんな心理的
合理化作用が生じるらしく、心理学や脳科学
では、人間は単なる事実の羅列よりも、感情
や背景が伴うストーリーで物事を理解するよ
うにできているそうで、過去の選択や失敗に
筋道を通すことで、今の自分がここにいる理
由を説明しやすくなり、苦難の経験やその時
期を成長のための試練として物語に組み込む
ことで、つらい記憶をポジティブに再解釈で
き、過去・現在・未来をひと繋ぎにすること
で、自分が物語の主人公として今後どう動く
べきかという指針を作り出すそうで、脳は本
質的に論理の加工装置ではなく、物語の加工
装置であり、情報に因果関係を持たせること
で連続的な印象を加え、これまで歩んできた
自分の人生を記憶しやすくするそうだが、そ
んなポジティブな人生の物語体験が幻想に過
ぎないことも確かで、それに対してシニカル
な視点を持つことが何を意味するのかといえ
ば、そんなご都合主義に染まった自己欺瞞の
打破、他者の視点の獲得、そして新しい物語
への再構築を意味するそうで、主観的なナラ
ティブを伴った自分語りの罠に気づき、より
客観的かつ柔軟に生きるためのプロセスで、
失敗を成長の糧と無理に結論づけるなど、過
去を都合よく解釈してきた自分に気づくこと
で、きれいごとの裏にある嫉妬、恐怖、エゴ
といったドロドロした本心を認め、傷つかな
いために張っていたプライドや嘘のストーリ
ーを剥ぎ取り、自分がどう生きたかだけでな
く、それが他者にどう映っていたかを想像し、
時には被害妄想気味に抱く自分は悲劇の主人
公だという思い込みを疑い、客観的な事実へ
と切り離すことで、成功を自分の実力と過信
せず、偶然の巡り合わせや環境のおかげとい
う側面に気づき、そんなふうにして固定化さ
れた自分のストーリーを一度壊し、書き換え
る余白を作ることで、完璧ではない現実を受
け入れ、等身大の自分として今後の選択の幅
を広げて、変化する世の中の情勢に対応でき
る柔軟性を確保しようとするが、このように、
シニカルな視点は単なる自虐や絶望ではなく、
自分自身を縛っている物語の呪いを解くため
の強力なツールとして機能することもあるそ
うだが、こんなふうにAIの助けを借りても
っともらしく述べてくると、思いっきり嘘っ
ぽいことを語っているみたいで笑ってしまう
が、主観的な語りは個人の経験に基づく解釈
となって、一般的にはナラティブと呼ばれ、
ナラティブは、客観的・絶対的な事実そのも
のではなく、その人が世界をどう捉え、どの
ような意味を見出しているかという主観的な
ストーリーテリングを重視する概念で、その
主な特徴は、一人称の視点で語り手自身の経
験や感情が中心となり、主観的な意味づけを
伴い、起きた出来事に対して、自分がどう感
じ、どう解釈したかに焦点を当て、他者との
コミュニケーションを通じて自身の解釈を再
構築していくプロセスとなり、客観的で作り
込まれた筋書きを示すストーリーとは異なり、
個人の内面や生の体験に寄り添う語りとして
心理学、医療、ビジネス、社会学などで広く
使われているそうで、客観的な事実ではなく、
語り手の主観的な経験、感情、そしてそこか
ら生じる意味づけに焦点を当てた語りとなる
ために、固定された結末があるわけではなく、
聞き手の解釈が加わることで意味が変化し続
ける双方向的なプロセスを伴い、ビジネス・
マーケティングにおいて、企業発信の広告で
はなく、ユーザー各々の体験や価値観を主体
とする共創を重視する手法となり、ユーザー
が自身を主人公として語ることで、ブランド
との深い結びつきを生み出し、臨床心理・医
療の分野においては、患者自身が自分の抱え
る問題を物語として語り、それを医療従事者
が傾聴し受け止める、ナラティブ・アプロー
チが代表的で、患者自身の思い込みによる支
配的な物語から、別の解釈を見つける手助け
をし、エンターティンメントにおいては、決
まった結末をただ追うのではなく、プレイヤ
ーや観客が自分の選択や解釈を通じて物語を
体験・補完していく形式を指し、政治・社会
の分野においては、ある事象をどのように語
るかによって、人々の現実理解や意識を形作
る手法として分析されるそうで、単なる情報
の羅列や結果をそのまま提示するのではなく、
その背景にあるプロセスや価値観を共有する
手段として注目されているそうだが、ナラテ
ィブ的な語りの構造には語り手自身の経験、
主観、感情が強く反映されるため、客観的な
事実や他者の視点が抜け落ちやすい傾向があ
り、具体的には、客観的な事実、弱者や無関
係な第三者の声、沈黙している事象、社会の
構造的要因、そして多面的な解釈が欠けがち
な要素として挙げられ、そんなのはわかりき
っていることだろうが、ナラティブは個人の
主観的真実を優先するのと裏腹に、科学的な
証拠や統計的事実が無視されることがあり、
語り手にとって都合の良い情報が強調されが
ちになるため、他人の視点や異なる背景が省
略され、語る能力や機会を持たない人々の視
点が欠落し、語りの中に登場しない第三者の
存在が無視されがちになり、個人の選択や運
命を伴ってドラマチックに語られると、その
背景にある社会構造や制度上の問題が隠れや
すくなり、またナラティブは意味のある筋書
きを好む傾向があり、意味づけできない偶然
の巡り合わせや混沌としたその場の情勢が見
えにくくなり、そうなると共同幻想として共
感を呼ぶ一方で、無意識のバイアスを生むリ
スクも伴い、そして客観性の欠如や倫理面で
の課題などの注意点と限界が存在し、過度な
脚色による信頼性の低下、事実の歪曲、そし
て個人の解釈に依存するため、客観的なデー
タとして扱えない点などが挙げられ、注意点
としては、ストーリーを魅力的に見せようと
して、事実から逸脱した演出をしないこと、
語り手のプライバシー保護や、過去のトラウ
マを刺激しないための慎重な対応が必要、一
つの物語が唯一の正解ではないことを認識す
ること、語りには虚偽が混ざる可能性もある
ため、ファクトチェックを怠らないこと、な
どが挙げられ、ナラティブの限界としては、
あくまで特定の個人の解釈であるため、大規
模な集団や普遍的なデータとして扱うことが
できず、語り手の意図とは異なる伝わり方を
したり、反発を招いたりするリスクがあり、
ナラティブは定性的な情報であるため、数値
などの定量データで示すべき客観的根拠の代
わりにはならない、などが挙げられるそうだ
が、普通はこれがナラティブだなんて前置き
して語られるわけでもないから、話の途中か
らナラティブ的自己体験談へと引き込まれて、
個人的な感想の類いに共感して、そうやって
集団の中で共同幻想として特有の偏見やこだ
わりや固定観念などが集団内のルールや慣習
を伴って定着してしまうと、そんな幻想を共
有しない他の集団や他人との間で面倒でやや
こしい摩擦や争いが起こる場合もあるわけだ
が、その当事者になれば、自身と価値観を共
有しないよそ者と敵対関係を形成しておいた
方が、自身が属する集団の内部では居心地が
良くなるのではないか。

https://www,koike-t.org

彼の声 2026.6.12 「波動的な作用」

voice-175

 それが何の波なのかよくわからないのだが、
その波に乗り切れないような感じなのだから、
勝手な思い込みかも知れないが、言葉や思考
や感情が放つエネルギー的な波動が、周囲や
自分自身に影響を与えていると感じられるの
は、大抵は気のせいで片付けられる程度のこ
とに過ぎないが、それが何から影響を受けて
そうなっているのかということが、言葉や思
考や感情が世の中の社会情勢や政治情勢や経
済情勢から影響を受けて生じてくるのは、何
となく誰もがそう感じられることだとは思う
が、それが何やら新自由主義的な社会情勢か
ら生じてくると考えるのも、それだけではな
いと考えるのが、普通の感覚だとは思うが、
最近はそんなことは意識しないが、社会の潜
在的な領域で働いている暗黙のルールという
か、それが決まりきったルールでもないのだ
が、すでに何十年も前から普通に市民権を獲
得しているので、それを改めて新自由主義的
統治だなんて強調しては言われないだろうが、
新自由主義的統治術とは、国家が直接的に市
民を統制するのではなく、もちろん直接的に
統制している面もあることは踏まえた上で、
市場原理や競争メカニズムを利用して人々の
自発的な行動を促し、管理・調整する政治・
社会的な手法を指し、個人を自立した経営者
として振る舞わせることで、社会全体を効率
的に運営しようとする仕組みだそうで、この
統治術は、単なる経済政策にとどまらず、人
人の生き方や考え方にまで市場のロジックを
浸透させ、国家は最低限のセーフティネット
のみを提供し、個人の生活やキャリアは自己
責任で管理させ、自分自身の能力、健康、時
間などを資本とみなし、市場の価値を生み出
すために絶えず自己投資を行い、企業だけな
く、個人や学校、自治体に至るまで、あらゆ
る組織や関係性を競争原理で評価するという、
そんな新自由主義的なルールを社会全体に浸
透させる統治手法となるだろうが、かつての
規律社会の中で行われていた統治は、法律や
ルールなどを権力によって直接的に人々の行
動を禁止・強制していたが、そういった統治
手法も程度の差はあるものの、依然として現
代でも続いているのだが、それに加えて新自
由主義的統治術では、人々の、豊かになりた
い、成功したいという欲望や自発性を刺激し、
自ら進んで競争社会に適応するように仕向け
るのが最大の特徴だそうで、そういった手法
をリベラル的な価値観から否定的・批判的に
取り上げるなら、具体的な制度で、例えば評
価システムの導入については、公務員や教員、
研究者への成果主義やKPIという重要業績
評価指標の導入や、民営化と規制緩和につい
ては、公共サービスの民間委託や、非正規雇
用の拡大による労働市場の流動化や、自己啓
発の推奨については、スキルアップや自己投
資が社会的に推奨され、それが強迫観念に変
わる現象などが挙げられるそうだが、そんな
統治術により、経済の効率化や個人の自由な
選択肢が増える一方で、競争に敗れた者や自
己管理が困難な者が社会から排除・孤立しや
すくなるという問題も指摘されているそうだ
が、そういう面を強調してそれを批判に活用
すれば、何やらもっともらしいことを述べて
いるように感じられるとしても、そういう批
判が歯止めとして作用するから、社会が全面
的にそういう傾向にはならないことが重要で、
その辺の調整が働いている状態を保つことが、
新自由主義的統治術における調整作用だと言
えるとすれば、そんな批判から何が生じてく
るのかと言えば、市場原理や自己責任を絶対
視する手法から脱却して、国家による積極的
な介入や再分配、環境・社会問題の解決を重
視する、ポスト新自由主義や新たな枠組みが
生じてくるそうだが、市場の自己調整機能を
過信せず、完全雇用や社会公正、格差是正の
ための国家主権と再分配を強調し、気候変動
や地政学リスクに対し、国家が主導して戦略
物資のサプライチェーンの再構築やグリーン
産業への大規模投資を行い、事後的な救済や
福祉ではなく、教育や育児など人的資本への
事前投資を重視し、社会全体の包摂性と競争
力を両立させ、AIやビッグデータを駆使し
て、個人の行動を誘導しながら、結果的に効
率的で最適化された社会秩序を構築しようと
するテクノロジー主導の統治が構想されるそ
うだが、これらは従来の小さな政府から積極
的な役割を果たす政府への移行を共通の基盤
としているそうで、予想通りの国家主義への
回帰が見られるわけだが、政府の官僚機構を
未来永劫持続させるための統治術だと揶揄す
るわけにも行かないが、国債を発行し過ぎて
絶えず債務超過の危機にある政府が、小さな
政府であったためしなどなかった前提をあっ
さり忘れて、債務超過状態を何とかして改善
させようとしていた時期を、小さな政府と言
えるわけでもなく、資本主義市場経済を絶え
ず政府のコントロール下に置こうとする意図
がどこから生じてくるとも言えないが、政府
の統治対象として何が導き出されるかといえ
ば、一般的にはそれが市民社会であると同時
に、政府自体が市民社会によって構成されて
いると言えなくもなく、リベラル勢力の政治
活動の大前提として、政府や行政の力で困っ
ている人々を救いたいという意向が絶えず窺
えるのだが、資本主義市場経済によって絶え
ず生活に困窮する人々が生み出されるという
認識もありそうで、だから何とかして政府主
導で資本主義市場経済をコントロールして、
その種の困っている人々が生み出されないよ
うな経済の体制や制度を構築しなければなら
ないと考えているわけでもないだろうが、そ
れが社会そのものから生み出される困ってい
る人々を政府の力で何とかして救い出したい
という意向の表れでもありそうで、そういう
ところでも必要最低限の生活を保障する生活
保護制度が講じられている面もあるが、必ず
しも全面的に救われるわけでもないことが重
要であるように思われるのだが、行政の側で
は絶えず生活保護受給者を減らしたいという
思惑が生じてくる一方で、その対象となる人
人が現にいるのに救わないのはおかしいと批
判して、行政の思惑や対応に待ったをかけよ
うとする勢力が出てくることも、そういうと
ころでもそうしたせめぎ合いの中で調整が行
われていると考えるなら、それも新自由主義
的な統治術に含まれるわけでもないが、そう
いうところで何とかして公正な制度にしたい
と働きかけを行なっている勢力が活動してい
る限りで、調整的な政府の役割が生じてくる
わけだが、それも全面的にそういう役割が生
じてくるわけではなく、絶えず部分的に生じ
ている限りで、他にも様々な役割がある中で
調整を伴っていて、そのような役割に費やす
予算を絶えず小さな規模に抑えたいという思
惑も生じてくるだろうから、そこでもどの方
面にどれだけ予算を配分するかをめぐって、
普通に予算を増やしたい側と削りたい側との
間で絶えずせめぎ合いが生じていると想像で
きるが、現状でもそうなっていると考えるな
ら、そうした状況が一見すると危ういバラン
スの上でかろうじて均衡がとられているよう
に見えるかも知れないが、絶えず揺れ動いて
いることは確かで、そんな中でも何か一方的
な主張や批判を仕掛けてくる人や勢力が目立
ってしまうのを、危機感を抱きながら危うい
傾向だと受け止めても、昔からそんな主張や
批判を繰り返しているのがわかっている限り
で、そういう方面で絶えずそんな主張や批判
がまかり通るように仕掛けているわけだから、
それが今に始まったわけでもないことが認識
されるわけで、絶えずそうやって互いに受け
入れがたい主張や批判を仕掛ける様々な人や
勢力による競合状態や競争状態を、政府が維
持しようとしているわけでも、それをコント
ロールしようとしているわけではなくても、
自然にそうなっているように感じられるなら、
そんな自然状態を放置しているわけでもなく、
絶えずそこに介入しようとしていることも確
かだが、全面的に介入しようとしているわけ
ではなく、それなりに圧力を加えてコントロ
ールしようとはしているとしても、それも完
全にコントロールすることはできないわけだ
から、それを新自由主義的統治術が効果を発
揮しているからそうなっているとも言えない
ような中途半端なところでうやむやなままに
情勢が推移していて、それをあからさまにそ
うなっているのを何とかしろと批判すると、
そんな批判が空回りしているような印象を受
けるわけで、だからといって批判するには批
判対象をあからさまに批判しないと、批判と
は言えなくなってしまうから、批判せずには
いられなくなってしまい、そんな全面的な批
判をどう受け止めれば納得が行くわけでもな
いから、批判対象となっている人物や勢力を

批判している者たちと一緒になって批判する

気にはならないところが、なるほどそう思っ

ている自分が彼らとも競合状態や競争状態に

置かれているのだと認識しないわけには行か

ないわけだ。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.11 「批判を避ける口実と対案としての構想」

voice-175

 例えば国会での質問と答弁のやり取りが、
何かの口実としてそんなことが行われている
としたら、それが何なのかというと、まさか
資本主義社会と何か関係があるとか、それと
これとは次元の異なる現実なんじゃないかと
は思うが、資本主義における経済的合理性と
は、コストを最小化し利益を最大化する効率
的なメカニズムを指すそうだが、その一方で
非合理性とは、全体の最適を追求した結果と
して生じる環境破壊や社会格差、過剰競争な
ど、システム全体にとって不条理で矛盾した
現象を意味するそうで、経済的合理性が、市
場原理を通じて資源の最適な配分や技術革新
を促す仕組みであり、需要と供給のバランス
で価格が自動的に調整され、企業が利益を求
めて競争することで、優れた製品やサービス
が生まれ、分業や機械化によって、生産が飛
躍的に高まり、新しい技術や市場への投資が
活発に行われる反面、そんな経済的合理性を
極限にまで追求する過程で、社会や人間性に
とってマイナスとなる構造的矛盾・非合理性
が生じ、人間を豊かにするための経済が、利
益拡大のために人間を従属させる現象が起こ
り、資本の自己増殖が極端な所得格差を生み、
社会の分断を招いて、利益にならない自然環
境の保全コストなどが無視される一方で、企
業間の激しい競争が過剰生産やバブル崩壊な
どの経済的混乱を引き起こすようになり、そ
んな資本主義が抱える非合理性を克服するた
めに、現在では様々な新しいアプローチが模
索されて、従来の利益率などの財務情報に加
えて、環境・社会・ガバナンスという三つの
非財務情報を考慮して投資先を選別する手法
として、ESG投資や、財務的な利益の追求
と並行して、社会課題や環境問題の解決に貢
献し、そのポジティブな効果を測定・管理す
る投資手法として、インパクト投資や、株主
利益だけでなく、従業員や地域社会などのス
テークホルダーの幸福を重視する考え方とし
て、公益資本主義などがあるそうだが、ES
GのEが環境、Sが社会、Gがガバナンスで、
気候変動への対策、温室効果ガスの削減、再
生可能エネルギーの活用、水資源の保全、廃
棄物削減などが環境投資で、人権の尊重、労
働環境の改善、多様性の推進、地域社会への
貢献が社会投資で、法令遵守、経営の透明性、
役員報酬の妥当性、不正防止の取り組みなど
がガバナンス投資で、従来の企業価値は売り
上げや利益など財務情報の数字で測られてき
たが、気候変動による災害リスクや、労働問
題による企業イメージの失墜、不祥事など非
財務的なリスクが企業経営に致命的な打撃を
与えることが認識されるようになり、そのた
め中長期的に持続可能な成長ができる企業を
見極める尺度としてESGが重視されるよう
になり、実際にESGに配慮した企業は、環
境・社会リスクへの対応力が高く、長期的な
リスクマネジメントに優れているため、安定
したリターンが期待できるそうだが、ESG
の評価基準は格付け機関によって異なり、統
一された絶対的な基準はなく、投資を行う際
には、スコアの数値だけでなく、どのような
取り組みを行なっている企業なのかを自身で
見極めることも重要だそうで、これも何かの
口実でこういう評価基準を設定していること
は確からしいのだが、それとは意味合いが違
うようなインパクト投資に関して、国際的な
ネットワークであるグローバル・インパクト・
インヴェスティング・ネットワークや金融庁
の指針では、インパクト投資の4大要素とし
て、次の4つの要素を満たすことが求められ
ているそうだが、まずは投資前から明確な社
会・環境的課題の解決を意図していること、
次いで投資収益の創出を目指していること、
さらに株式や債券、ファンドなど幅広い投資
資産を活用することであり、そして投資後、
生み出された社会的・環境的効果を定量・定
性的に測定し、管理することが挙げられてい
て、ESG投資が、環境・社会・ガバナンス
への配慮を怠らない企業を選別して、投資リ
スクを減らすことに主眼を置くのに対し、イ
ンパクト投資は、投資を通じて社会や環境に
直接的で具体的な良い変化・インパクトをも
たらすことを直接的な目的としているそうで、
温室効果ガス排出量の削減、マイクロファイ
ナンスでの途上国支援、多様性の尊重やジェ
ンダー平等の推進など、日本においても金融
庁がインパクトファイナンスに関する基本指
針を公表するなど、新しい資本主義の形とし
て推進されているそうだが、その他にも、公
益資本主義とは、株主の利益だけを最優先す
るのではなく、従業員、顧客、取引先、地域
社会、環境など、企業に関係する全てのステ
ークホルダー・利害関係者の利益を重視し、
社会全体の幸福や豊かさを追求する経済のあ
り方が提唱されていて、実業家の原丈人氏が
2007年に提唱した概念であり、近年の株
主至上主義による経済格差や社会の分断を解
決するための新しい資本主義の形として注目
されているそうで、従来の資本主義との違い
は、米英型の株主資本主義が、会社は株主の
ものと定義し、短期的な株価上昇や長期的な
配当の最大化を最優先するのに対し、公益資
本主義は、会社は社会の公器と定義し、持続
的な成長と生み出した利益の公正な分配を目
的としていて、公益資本主義の理念を実現す
るため、企業経営において次の3点が重要視
されているそうで、第一に利益を株主だけに
偏らせず、従業員や取引先などへ適正に還元
し、第二に短期的な利益追求だけでなく、長
期的な視野を持って事業や人材育成に投資し
て、第三に既存の枠組みにとらわれず、社会
に貢献する新技術や新サービスに果敢に挑戦
する姿勢が重視され、日本では古くから、三
方よしという、売り手よし、買い手よし、世
間よしの精神が根付いていて、公益資本主義
はこの考え方を現代のグローバル経済に合わ
せてアップデートしたモデルと言えるそうだ
が、いかにも日本の立憲民主党あたりの政治
家に好まれそうな修正資本主義的な考え方で
あるように思われるのだが、こうした考え方
が十九世紀に生きたマルクスが『資本論』な
どで指摘した、資本の矛盾した論理を改める
ような認識を得られているかというと、もち
ろん今の時代は、マルクスが生きていた時代
より経済的に豊かになっていると言える人々
もいるにはいるだろうが、資本の矛盾した論
理とは、資本主義というシステムが自らの成
長を追求する過程で、必然的に自己破壊的な
要素を生み出してしまう構造的なジレンマを
指し、主な矛盾は、利潤の最大化を目指す行
動が、結果的に経済全体の成長を阻害し、格
差や恐慌を引き起こす現象として現れ、製品
は多くの労働者が協力して作り上げるのに対
して、その利益は生産手段を持つ資本家が独
占し、生産力が高まるほど、富の偏在と社会
的な分断が深刻化し、企業は競争に勝つため、
機械化や設備投資などの不変資本を増やし、
利益の源泉である生身の労働者などの可変資
本の割合は相対的に低下し、その結果、投資
額に対する利益率は長期的に低下傾向に陥る
が、技術革新がその都度、利益率の低下を食
い止め、資本家は利潤を増やすため、労働者
の賃金を低く抑えようとして、多くの労働者
は商品を買う購買力を失い、最終的に消費さ
れない商品が溢れ、過剰生産恐慌を引き起こ
す前に、生産調整を迫られるだろうが、今で
はマルクスが生きていた時代とは違って、各
種の調整がそれなりに機能するから、定期的
な経済恐慌など起こらないわけだが、現状を
批判的に捉えるための口実として利用される
のが、マルクス的な資本の矛盾した論理の強
調だとすれば、そうした論理を深刻なことだ
と問題視しておいてから、それに対してリベ
ラル的な構想が主張されると、何やらうまく
行くような幻想が得られそうなのだが、例え
ば資本主義における利潤追求のための環境破
壊、格差の拡大、労働の疎外などの経済的非
合理性を解消する新たな社会的合理性とは、
交換価値の最大化ではなく、人間と自然の共

存・発達を基準とした価値の充足を中心とす
るシステムであり、市場原理を乗り越え、民
主的計画や社会ニーズに基づき富の生産と分
配を組織する思想として構想されて、この合
理性は、既存のシステムを根底から否定する
わけではなく、協同組合、NPO、地域通貨、
参加型予算制度など、現在の社会の内部で芽
生えつつある実践を拡張していくことによっ
て具体化されていくそうで、たぶんそういっ
たリベラル的な構想から外れる論理が、新自
由主義的統治術によって実際に実践されてい
る現実があるらしいのだが、それが見えにく
いというか、今ひとつわかりにくいというか、
少なくともリベラル的な言説の中では無視さ
れているように感じられるわけだ。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.10 「何か騙されている感覚」

voice-175

 現状がこうなっている原因や理由を見つけ
出そうとしても、いくらでも原因や理由が見
つかってくるわけでもないだろうが、AIが
それをもっともらしく説明できるということ
が、何か違うような気がして、だからといっ
て、システム的にもっともらしく説明しない
わけにはいかないのだろうが、現状が現状で
ある理由や原因を説明しようとする動機は、
主に問題解決や目標達成のためには必要だと
思われ、現状と事前にこうあるべきと考えて
いた理想とのギャップや、先行き不透明で不
確実な世界において、なぜこうなっているの
かについてもっともらしく説明できれば、心
理的な安心感や納得感が得られるだろうし、
そしてそんな説明から将来への肯定的な展望
や予測などを導き出せれば、なおのこと安心
や納得が得られそうだが、それが幻想に過ぎ
ないなんて先回りして不安を煽るのも、何か
マッチポンプのような欺瞞を覚えるが、少な
くとも現状で顕在化している問題を解決する
には、それが解決できるなんて到底思えない
としても、一応は理想と現実のギャップを客
観的に認識するには、現状の課題を発見しな
ければならないだろうし、何か不具合や問題
が発生していることに気づいたら、そうなっ
ていることの根本的な原因を突き止めて、そ
れを何とかしなければいけないとは思うが、
そういうことじゃないとわかっているような
気もしてくるから、要するに根本的な原因な
どないんじゃないかと考えたくなってくるよ
うな現状なのかも知れず、単純に不具合の原
因を突き止めてそれを直せるなら実際にそう
しているわけで、現実にはそれができないか
ら、あるいはできそうにないから困っていた
り悩んでいたりするわけで、そういうところ
で単純にアドバイザー的な立場の者に助言を
求めるような成り行きにはならないだろうし、
理由や原因のわからない不透明感や不確実性
から生じてくる不安や恐怖に耐えるしかなく、
それをお悩み相談のような気休め的なアドバ
イスでは解消できそうにないから、実際に行
動や言動に訴えることで、現状をどうにかし
ようとしているわけで、しかも考えているこ
ととやってることの辻褄が合わないというか、
考えていることがダイレクトに行動へと出力
されるわけではなく、どう考えても問題解決
の行動には結びつかないのに、むしろさらに
事態をややこしくしているようにも思われる
としたら、なぜそうなってしまうのかと考え
てみても、そう考えること自体も、さらに事
態をややこしくしてしまうような行動にしか
結びつかないとしたら、そもそも問題の解決
を考えることが、問題解決のための行動や言
動がつながっていないということにもなりそ
うで、それに結びついたりつながったりする
行動が何なのかというと、なぜか考えられる
のが、物や情報やサービスの売買であるなら、
問題解決に必要な物や情報やサービスを手に
入れるために売買するのだろうが、もちろん
売買の他にも貸借があるわけだが、問題解決
に必要な物や情報やサービスを得るための売
買や貸借が、さらなるややこしい問題を生じ
させるとしたら、それが何なのかというと、
要するにその種の売買や貸借から生じてくる
問題であり、第一に金銭トラブルの類いにな
りそうだが、第二にそうやって得た物や情報
やサービスが役に立たなかったり、しかも単
純に役に立たないだけではなく、問題解決に
は確かに役に立ったとしても、それ以外のと
ころから新たな問題が生じてくる可能性もあ
るわけで、何かやればやっただけ、そこから
思いがけない問題が生じてくるわけで、トラ
ブルを解決しようとした行動が新たなトラブ
ルの火種になるなんてよくあるケースだろう
が、そんなことは百も承知だと、そうなった
後から冷静になって自身がやったことを振り
返れば言えるようなことなのだろうが、そう
いうところで不具合や誤りに気づいて、それ
を直せる手段がわかっているなら、可能な限
りで直そうとすれば良いが、直そうとするこ
とによって新たな問題が生じてくることもわ
かっているかというと、そんなのは実際に直
そうとしてみないことには何とも言えないケ
ースが多いのかも知れず、具体的には、問題
解決のために物や情報を売買・貸借すること
が、かえって生み出す、さらなるややこしい
問題とは、所有権や権利をめぐる法的トラブ
ル、金銭的な依存関係や経済的リスク、そし
て情報の非対称性から生じる搾取や詐欺だそ
うで、これらは解決したはずの問題をより複
雑な構造に変えてしまい、具体的に引き起こ
される問題は、例えば、譲渡したはずの物が
第三者に転売され、誰が本当の所有者かわか
らなくなったり、情報を借りた、または購入
した側が勝手に二次利用し、著作権侵害や情
報漏洩を招いたり、貸与されたシステムやサ
ービスに不具合が生じた際、解決責任が貸し
手、借り手、開発者のどこにあるか紛糾した
り、権利と責任の複雑化が生じたりするケー
スや、維持費や更新料が想定以上に嵩み、資
金繰りが悪化したり、特定のサービスやシス
テムに依存し過ぎてしまい、他への乗り換え
ができなくなったり、解決資金を借り入れた
ことで新たな返済負担を抱え、本来の目的以
外の資金繰りに追われたりする、金銭的リス
クや依存の問題が生じてくるケースや、他に
も専門知識の差を利用されて、役に立たない
情報や高額なサポートを高値で売りつけられ
たり、専門サービスに頼り切ることで、問題
の根本原因が理解できず、自力での解決能力
が失われるブラックボックス化に追い込まれ
たり、複雑な利用規約やリース契約により、
不利な条件を押し付けられたりするケースが
あるそうだが、それらを思いがけず自作自演
でやってしまっているとしたら、もちろんそ
れに気づいていないわけで、それが何なのか
というと、それこそがマッチポンプなのだろ
うが、自分で問題を起こしておきながら、自
分で解決策を講じようとして、それに成功し
たり失敗したりする中で、周囲を巻き込んで、
周囲から利益を得ようとしたり、そんなこと
ができるかというと、それもよくあるケース
として、自分の利益や評価を得るために自作
自演で問題を起こし、自分でそれを解決して
恩を着せるような偽善的な手法や行為が想定
されるらしいが、放火魔が放火の第一発見者
で、火事を発見して消防に通報した者が放火
を疑われるのもよくあるケースかも知れない
が、具体的な使われ方として、欠陥住宅を売
りつけておいてからリフォーム業者を装って
訪問して、欠陥を指摘してリフォーム費用を
稼ぐなどの手法も想定されそうだが、それも
単純にそうなるわけでもなければ、そうなっ
た結果からそういう解釈もできる程度のこと
なのかも知れず、何らかの問題や課題に対し
て、状況を改善するための具体的な手段や対
策を考え、実際に実行に移すまでには至らな
いことも多いわけで、そのために必要な現状
の分析、原因の特定、適切な対策の立案とい
った流れに持っていけるかどうかも、そうい
ったプロセスの中で紆余曲折の迷いや逡巡を
繰り返している間に、どうでもよくなってし
まえば、どうでもいいようなことでしかなか
ったのだろうが、というかそこで繰り返して
いる紆余曲折の迷いや逡巡が問題解決の行動
そのものであったりして、そんなわけがない
と思うなら、そう思っておいても構わないだ
ろうが、それが明確な問題解決にはつながら
ないことが肝要なのかも知れず、また明確な
問題解決に導かれるような成り行きが結果的
に示されたり、それが成功例として好意的に
語られたりするメディア的なプレゼンの類い
には何か裏があると疑ってしまうが、そうは
いっても何でもかんでも疑ってかかるのも、
その程度や傾向にもよるだろうが、絶えず問
題意識を抱きながらそれについて考える機会
を求めているような姿勢や態度というのも、
それが実際の行動や言動に結びつけばジャー
ナリストのような立場になれるだろうが、そ
れに対しても何か騙されている感覚を覚える
としたら、うまくそれらの問題をやり過ごそ
うとしていると現状を捉えたくもなり、実際
に今も自分が多少なりとも関係している問題
や課題の類いを、ややこしくも都合の良いよ
うにねじ曲げて捉えながらも、何とかしてや
り過ごそうとしている最中なのかも知れない。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.9 「自由主義的統治術」

voice-175

 自由主義には政治的自由主義と経済的自由
主義があり、政治的自由主義は個人の権利と
民主的な政治参加の自由を守ることを目的と
し、経済的自由主義は国家の介入を最小限に
抑え、自由な市場競争を重視することを目的
とする思想で、政治の文脈では国家からの個
人の自由を求め、経済の文脈では国家からの
市場の自由を求めるが、果たしてそんな区別
でいいのかというと、一般的にはそうだが、
そもそも国家とは何なのかと考えてみるまで
もなく、フーコーによれば、自由主義を広い
意味に理解しなければならず、ただ単に外的
な法権利によるのではないような統治の制限
の原理を正確にどこに見出せばよいのか、そ
して、そうした制限の諸効果をどのように計
算すれば良いのかが問われて、自由主義、そ
れは、より狭い意味では、統治行動の諸形態
と諸領域を最大限に制限しようとする解決法
であり、また、自由主義とは、統治実践の制
限を規定するための取引方法の組織化でもあ
り、憲法、国会、世論、報道、委員会、アン
ケートなど、また近代的統治性のうちの一つ
は、次の事実によって特徴づけられ、すなわ
ち、法陳述によって形式化された諸限界に衝
突する代わりに、真理陳述という観点から定
式化された内在的諸限界を自らに与える、と
いう事実によってだが、もちろんそれらは、
相次いで登場する二つのシステムでもなけれ
ば、克服しがたく衝突することになる二つの
システムでさえもなく、その異質性が意味す
るのは、矛盾ではなく、緊張、摩擦、相互的
非両立性、調節の成功ないし失敗、不安定な
混合などであり、それはまた、決して完了す
ることがないために絶えずやり直される任務
で、一致を打ち立てたり、あるいは少なくと
も共通の体制を打ち立てたりする任務を意識
していて、それは知が統治に対して命じる自
己制限を法権利のもとで定めるという任務で
あり、その任務は十八世紀から今日に至るま
でに二つの形態をとることになり、統治理性、
それは統治理性自身の制限の必要性に問いか
けて、統治実践の中で到達し地位を与えるこ
との可能な法権利を、自由なままにしておく
べきことを通して見分けようとすることで、
そのようにして、啓蒙された統治すなわち自
己制限された統治の目標、方策、手段につい
て問いかけ、そうした統治は、所有の法権利、
生活物質の法権利、労働の法権利などに場を
設けることが可能であるかを判断し、根本的
な法権利に対して問いかけ、その全てを一気
に価値づけるという形態、そしてそこから出
発して、統治の自己調整がそうした法権利の
全てを再生産するという条件でのみ、統治を
形成させておくこと、統治の従属の革命の方
法、必要十分な法的残余に基づく方法、それ
が自由主義的実践であり、徹底的な統治の条
件付けの方法、それが革命の手続きであり、
第二の指摘として、自由主義に特徴的な統治
理性のそのような自己制限は、国家理性の体
制に対して異質な関係にあり、国家理性は、
統治実践に対し無際限の介入領域を開く一方
で、他方においては諸国家間の競争に基づく
バランスという原理によって制限された国家
的目標を自らに与えるが、それに対して自由
主義的理性による統治実践の自己制限は、国
際的目標の分裂と帝国主義による無制限の目
標の登場とをもたらしたわけで、国家理性は、
諸国家間の競争に基づく均衡のために帝国的
原理が消滅したことと相関的なものであった
のに対し、自由主義的理性は、帝国的原理の
活性化と相関的であり、ただしそうした活性
化は帝国という形態のもとではなく、帝国主
義という形態のもとで行われ、そしてこのこ
とは、諸個人間、諸企業間の自由競争の原理
と関係していて、内的介入の領域と国際的行
動の領野に関して、制限された目標と無制限
の目標との間の相互浸透があり、第三の指摘
として、自由主義的理性は、そのような統治
に固有の諸対象と諸実践の自然性から出発し
て、統治の自己制限として打ち立てられると
いうことであり、この自然性とはどのような
ものなのかというと、それは富の自然であろ
うか?確かにその通りであるが、ただし、増
大したり減少したり、停滞したり流通したり
する支払い手段としての富の自然性であるが、
しかしそれはむしろ、生産されるもの、有用
であり利用されるもの、経済上のパートナー
の間で交換されるものとしての財の自然性で
あり、それはまた、諸個人の自然性でもある
が、もっとも、従順であったりそうでなかっ
たりする臣民としての諸個人ではなく、経済
的自然性に結びつけられたものとしての諸個
人で、その数、その寿命、その健康、その行
動様式が、経済プロセスと複合的かつ錯綜し
た関係にあるようなものとしての諸個人であ
り、政治経済学の出現とともに、つまり統治
実践そのものへの制限的原理の導入とともに、
重要な置換、というよりもむしろ二重化が起
こり、というのも、政治的主権の行使の対象
であった法権利の主体が、それ自身、統治に
よって運営される必要のある人口として現れ
るからであり、ここに生政治の組織化がその
出発点を見出すが、しかし一見して明らかな
通り、そこにあるのは、それよりもはるかに
大きな何かの一部、すなわちあの新たな統治
理性の一部に過ぎないなら、自由主義を、生
政治の一般的枠組みとして研究することが重
要であるそうで、確立しつつある自由主義的
な統治実践は、しかじかの自由を尊重したり、
しかじかの自由を保障したりすることに甘ん
じるものではなく、より根本的な言い方をす
るなら、この統治実践は自由を消費するもの
であり、というのも、この統治実践が機能し
うるのは、実際にいくつかの自由がある限り
においてのみ機能し、すなわち、市場の自由、
売り手と買い手の自由、所有権の自由な行使、
議論の自由、場合によっては表現の自由など
が実際にある限りにおいてのみ、そのような
統治実践が機能しうるということであり、し
たがって新たな統治理性は自由を必要とし、
新たな統治術は自由を消費するのであり、自
由を消費するということはつまり、自由を生
産しなければならないということでもあり、
自由を生産し、組織化しなければならないと
いうことで、したがって新たな統治術は、自
由を運営するものとしての自らを提示するこ
とになり、もっともこれが意味するのは、自
由であるべしという、ただちに見つかるよう
な矛盾を備えた命令ではなく、自由主義が定
式化するのは単に、私はあなたが自由である
ために必要なものを生産しよう、私は自由に
振る舞う自由をあなたに与えよう、というこ
とであって、そして同時に、この自由主義が
自由の命令であるよりも、むしろ自由であり
うるための諸条件の運営であり組織化である
とするなら、そうした自由主義的な実践の核
心そのものに、問題を孕んだ一つの関係が創
設されることになり、すなわち、自由の生産
と、自由を生産しながらもそれを制限し破壊
するリスクを持つようなものとの間の、常に
変化し常に動的な一つの関係が、そこに創設
されるということであって、フーコーが考え
ているような意味での自由主義、十八世紀に
形成された新たな統治術として特徴づけるこ
とのできる自由主義は、その核心そのものに
自由との生産的および破壊的な関係を含意し
ていて、一方では自由を生産しなければなら
ないが、しかし他方では、自由を生産すると
いう身振りそのものが、制限、管理、強制、
脅迫に基づいた義務などが打ち立てられるこ
とを含意していて、これに関してはもちろん
数々の例があり、もちろん交易の自由が必要
だが、もし管理せず、制限しないならば、そ
うした自由は実際にいかにして行使されうる
か、一国の他国に対する覇権によって交易の
自由が制限され限定されてしまうことを避け
るために、一連の措置や予防策などを組織し
ようとしないならば、いかにして自由が実際
に行使されうるのか、これは、十九世紀初頭
以来、ヨーロッパのすべての国々とアメリカ
が出会うことになる逆説で、この時期、十八
世紀末の経済学者たちの説を受け入れた統治
者たちは、交易の自由の秩序を打ち立てよう
として、イギリスの覇権に出会うことになり、
そしてたとえばアメリカの統治は、この問題
をイギリスに対する反乱のために利用しつつ、
十九世紀初頭からすでに保護関税を打ち立て、
イギリスの覇権によって危うくなると思われ
る交易の自由を救い出そうとすることになり、
同様に、国内市場にももちろん自由が必要で
あるから、自由な市場があるためには、売り
手だけではなく買い手もいなければならない
から、場合によっては市場を支援し、援助の
メカニズムによって買い手を作り出すことが
必要となるわけだ。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.8 「生産的な議論」

voice-175

 それをたわいないと馬鹿にしたり貶してし
まったらそれっきりとなってしまいそうだが、
他人の言動が何に反応してそうなるのかも、
そうなった後からもっともらしく説明できる
に越したことはないが、実際にどうなったの
かというと、他人ではなく自分の言動の方に
興味が向くなら、軽はずみな発言や行動とは、
物事の結果や他者への影響を十分に考えず、
ちょっとした思いつきやその場の勢いで言動
に及んでしまうことを指すそうで、ビジネス
や人間関係において、信用を大きく損なう原
因となるから注意が必要だそうだが、果たし
てそれが信用を大きく損なう言動なのかどう
かも、違うような気がする程度のことなのだ
が、議論している相手の言葉尻を捉えて批判
しているような気もしなくはないから、そう
なるのも普通に考えられることで、相手の発
言の本質や文脈を無視して揚げ足を取るよう
に些細な表現のミスや不適切な単語だけを切
り取って攻撃することになってしまっても、
建設的な議論を妨げる不毛な論法であるのも
わかりきったことで、その種の論点のすり替
えや揚げ足取りや本質の無視やマウンティン
グの類いも、ディベート術の一種だと捉えて
おけば良さそうで、それがなぜ起こるのかと
問われるまでもなく、劣勢に立たされて、本
筋の議論では勝てないことを悟っているから、
相手を感情的にさせ、議論の主導権を奪いた
いだけの、その場の論争に勝つことや、相手
を論破することだけが目的だと受け取られて
も仕方がないような言動に及んでしまえば、
別にそれがどうしたわけでもなく、そういう
ことかと受け止めるしかないが、今時そんな
不毛な議論もないだろうと軽く無視するなら、
何やら粗雑なフィクションの中で架空の対話
が再構成されているに過ぎず、利害を意識で
きないならあまり気にするようなことでもな
いだろうが、本来は相手の論理の矛盾や根拠
の弱さを指摘し、より良い結論を導き出す目
的で討論が行われるとしても、ただ言葉尻を
捉える批判は相手を打ち負かすことが目的と
なっているから、生産的な結果を生まない不
毛な議論となるにしても、それで構わないと
判断しているからそうなる場合もありそうで、
言葉尻を捉えられた場合、それに反論しよう
とすると相手の土俵に乗せられてしまうから、
私が言いたかったのは〇〇ではなく、〜とい
うことです、と本来の論点に引き戻すのが最
も有効な対処法とされているそうだが、生産
的な結果を期待するというのも勝手な幻想に
過ぎないとしたら、不毛な議論でも困らない
立場を維持できるなら、その種の議論から得
られるものが、エンタメ的に不毛な議論をお
もしろがる人々の需要を当てにしていると言
えそうで、かえって中身のない議論である方
が都合が良いから、エンタメ的にその種の不
毛な議論へと持って行こうとしていると認識
しておけば良さそうで、楽しむ分には何やら
明らかにされては困るような不都合な真実を
暴露されるような不測の事態を招かずに穏便
に事を収めようとするなら、議論の途中から
頃合いを見計らって、論点のすり替えや揚げ
足取りや議論の本質を無視したマウティング
の取り合いなどへと誘導して、ぐだぐだな話
の展開へと持込めれば、うまくやったことに
なるのかも知れず、そういったはぐらかし戦
術が繰り広げられている限りでその場をコン
トロールしていると言えるなら、それ自体が
交渉術に含まれている可能性も想定しておい
た方が無難なのかも知れないし、ではそこで
何が交渉されているのかといえば、議論して
いる双方が痛み分けとなる程度の決着で妥協
しようとしていると捉えられなくもなく、お
互いに都合の悪い点には触れないようにしよ
うという暗黙の申し合わせが前もって成立し
ていなくても、議論して行くうちに共通の利
益としてそれが認識されてくれば、もうこれ
以上は痛いところを突かれないようにするた
めの自己防衛本能が働いて、まるで示し合わ
せたかのように、あうんの呼吸でぐだぐだな
話の展開へと持って行ければ、なるほどこう
いう話の顛末にしておけばいいんだなと納得
できるわけでもないだろうが、それが何かの
見せ物として議論している者たちの共同作業
の一部始終が提示されているなら、それを観
ている者はそういうことなんだと受け止める
しかないが、それがエンタメ的な見せ物なの
ではなく、実際の会議か何かで交わされる議
論であるなら、これ見よがしなことはあまり
行われないだろうし、中身などつまらなくて
も構わないし、議論自体の質が問題なのでは
なく、では何なのかというと、そこで決めら
れたことに基づいて物事が動いて行けば、行
われた議論もそれなりに効果を上げたことに
なるはずだが、話がまとまらず、何も決まら
なくても、そこで議論を行なったことによっ
て、その後の事態が好転するなら、それでも
構わないだろうから、たとえ事態が好転しな
かったとしても、それでも構わない立場とい
うもありそうだが、議論しても好転も暗転も
しないなら、議論自体が無駄だったのかとい
うと、無駄であっても構わない立場というの
もありそうだが、いくら不毛な仮定を挙げて
行ってもきりがないが、いくら議論してもき
りがないなら、それもそういうことだと受け
止めるしかなく、では議論の必要性とは何な
のかといえば、それをもっともらしく示すと
すれば、議論は、単一の視点による偏りや見
落としを防ぎ、より質の高いアイデアや意思
決定を生み出すために不可欠で、関係者間の
認識を議論によってすり合わせることで、物
事を実行に移すための合意形成をスムーズに
する役割を担っていて、自分一人では気づけ
なかった盲点や新しいアイデアを発見でき、
互いの意見をぶつけ合い、問題を精査するこ
とで施策や結論の質が高まり、リスクやデメ
リットを事前に洗い出し、深い洞察が得られ、
議論のプロセスを共有することで関係者の納
得感が高まり、建設的な議論にするためのポ
イントは、相手の指摘を人格攻撃と捉えず、
課題解決のチャンスと考え、相手の意見を最
後まで聞き、多様な価値観を認め、それが何
を決定し改善するための議論なのかを常に意
識することが肝要だそうだが、そういう建設
的な議論の型にはまるような議論になるとは
限らず、相手の非を追及する裁判的な討論に
なると、お互いの理解や課題の解決を放棄し、
ひたすら相手の過失や責任を証明して負けを
認めさせることに執着する不毛なコミュニケ
ーションとなるが、未来の解決策よりも、過
去の言動の矛盾を責め立て、相手を論破する
ことを目的とし、責められた側も自己保身に
走り、建設的な意見交換が完全に停止すると
共に、非を認めると立場や評価が下がると恐
れて、逆ギレして攻撃的な態度を取るように
なり、論理的な問題解決よりも自分を否定さ
れたという感情の反発が勝り、自分が正しい
ことを証明し、相手を間違った存在に仕立て
上げようとするそうだが、そうなればしめた
もので、やはりそういう不毛な議論へと持っ
て行くことで、議論と並行して行われている
ことから、議論に加わっている者たちやそん
な議論にならない議論を観て嫌気がさして否
定的な感情を募らせる人々の関心を逸せるこ
とに成功したことになるが、その議論と並行
して行われていることが何なのかということ
が、意外と誰もが気づかない盲点となるのか
も知れず、要するにそこから関心を逸らせる
対象となる者たちが邪魔なのであって、それ
が何の邪魔になるのかというと、議論と並行
して行われていることの邪魔になるわけで、
だから邪魔な奴らは不毛な議論に関心を奪わ
れるように仕向けられて、実際に行われてい
ることから除外されてしまうわけで、除外と
いっても、関心を奪われながらも、気づかな
いうちに関係していることになるだろうが、
同じ社会の中で生活しているわけだから無関
係であるはずがないのだが、だから世の中で
不毛な議論や、その議論の中で攻撃対象や責
任追及の対象となっている者や勢力を、攻撃
していたり責任追及している者たちや勢力と
一緒になってそこへと関心を向けながら騒ぎ
立てていると、気づかないうちに梯子を外さ
れて、不利な立場に陥ってしまうとも限らな
いが、だからといって意識してうまく立ち回
ろうとしなくても、絶えず物事を生産する役
割を意識していれば、そこで生産されている
物事が自分にとって足しになるのか、それと
も足しになるどころか、かえってそれに関わ
ってしまうことによって、足を引っ張られる
ことになるのかを見極める必要に迫られてい
ても、意外とそれにも気づきにくいわけで、
世間で話題となるようにメディアが盛り上げ
ようとしているのだから、少しはその種の不
毛な議論にも目配せしておかないと、世間の
話題に疎くなるから、それも心配だとしても、
その辺の加減や配分を自分でも気づかないう
ちに調整しているような感覚なのかも知れな
い。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.7 「カントの怪しげな理屈」

voice-175

 自然の成り行きや偶然の巡り合わせではそ
の現象を説明できないとしたら、説明も何も、
ちゃんとした道理や理屈や論理や理論などを
用いて説明しないと、説明とは言えないかも
知れないが、それが怪しげな理屈や論理に感
じられるとしたら、現代において怪しげな理
屈や論理として挙げられるものは、科学的な
装いを見せながらも根拠を持たない疑似科学
や、複雑な事象を単純な悪玉のせいにする陰
謀論や、感情論を論理で補強したように見せ
かける詭弁の3つに大別されるそうだが、疑
似科学として挙げられるのは、マイナスイオ
ンや波動などの科学用語を悪用したものや、
根拠となる臨床試験が不明確であったりする
ものや、陰謀論として挙げられるのは、複雑
な社会問題を特定の巨大組織の陰謀で説明す
るものや、反証されるとそれ自体が陰謀の証
拠だと主張するものや、ネット上の詭弁とし
て挙げられるのは、専門用語やデータをごち
ゃ混ぜにして煙に巻く手法や、論点をずらし
て相手を人格攻撃するものや、みんなが言っ
ているから正しいという多数派への訴えなど
があり、怪しい理屈を見抜くためには、提示
された情報の裏付けを冷静に確認することが
重要だそうで、その情報が個人の感想やSN
Sの噂ではなく、信頼できる機関や専門家に
よるものか調べて、都合の良いデータだけを
切り取っていないか確認し、恐怖や不安、強
い怒りを煽ってくる情報とはいったん距離を
置くことが肝要だそうだが、現代ではなく十
八世紀末にカントが主著『永遠平和のために』
の中で唱えた主張は、永遠平和は単なる空想
ではなく、人類が理性の力によって実現し、
また目指すべき必然的な到達目標であると考
え、人間の利己的な性質や戦争の惨禍という
現実を踏まえつつも、自然のメカニズムや理
性の働きによって、最終的に平和が保証され
るという論理的な道筋を描き、人間が道徳的
に完全でなくても、自然の計画やメカニズム
によって強制的に平和へと導かれる仕組みが
あると考え、人間や国家が自分の利益を追求
しようとする利己心を利用して、自然は人類
を世界中に分散させ、言語や文化の違いによ
って対立させ、その結果、対立や戦争のコス
トがあまりに大きいため、国家は自衛と存続
のために法と秩序による平和の枠組みを作ら
ざるを得なくなる、と考えたカントは、自然
状態である戦争を終わらせるために、三つの
レベルでの法秩序の確立を主張し、第一のレ
ベルでは各国内部における共和政の樹立を促
す国家市民法、第二のレベルでは自由な諸国
家による平和的な連合、ゆるやかな連盟の構
築を促す国際法、第三のレベルでは訪問権を
基礎とした、地球規模での平和的な交流を促
す世界市民法の確立を主張し、カントは、特
に国民主権に基づく共和政が平和をもたらす
唯一の体制であると信じており、共和政では、
戦争をするかどうかに市民の同意が必要で、
自分の財産や命を失う戦争の惨禍を引き受け
るのは市民自身であるから、市民は開戦に対
してきわめて慎重になるため、戦争が起こり
にくくなると考え、この著作の付録において
カントは、道徳を無視して政治的打算のみに
走る政治的道徳家を批判し、政治的道徳家と
は、自らの政治的利益や都合に合わせて道徳
の原理をねじ曲げ、正当化に利用するような
政治指導者や思想家を指すそうだが、政治は
理性の法である道徳に従うべきという道徳的

政治家の理想を掲げ、正しいことを追求する

行為こそが、結果として平和をもたらすと考

えていたそうだが、果たしてこれらの主張は

現代でも通用しているかどうかに関しては、

現代の国際法や平和構築の基礎となっており、

その主要な理念は今でも十分に通用するそう

で、特に、各国の政体を共和制にすることと、

国際連盟や国際連合のような平和維持機構を

作ることは、現代の民主的平和論や国際秩序

の土台となっているそうだが、武力行使や内

政干渉の禁止など、絶対的な平和を目指すカ

ントの理想と、現代の現実的な国際政治との

間には、大きなギャップも存在していて、現

代でも通用する重要な主張として、各国の政

治体制を共和制にすることは、権力者が独断

で戦争を決められないシステムにするには不

可欠であり、これは現代における民主主義国

同士は戦争としないという経験則である民主

的平和論の先駆けで、また国際連盟・連合の

ような平和連合の設立は、各国が独立を保ち

つつ、戦争を防ぐための連盟を作るという構

想として、今日の国際連合や欧州連合の原型

として実現していて、それによって戦争を防

いだかというと必ずしもそうではないが、世

界市民法による交流は、異なる国の人々が平

和的に交流する権利を認め、これは現在のグ

ローバリズムや国際的な人的交流、人権思想

の土台となっているそうで、その一方で現代
の国際政治では通用しにくい課題となる点は、
カントが定めた予備条項の中には、現代の複
雑な国際社会においては厳格に守ることが難
しいものも含まれており、将来の戦争の火種
をひそかに残した平和条約の禁止は、第一次
世界大戦後のヴェルサイユ条約など、現実の
歴史ではこれが守られず、さらなる紛争を招
いた事例が多々あり、また常備軍の段階的廃
止は一向に進まず、カントは、常備軍は他国
を脅かし、軍拡競争を招くため廃止すべきだ
としたが、今日の現実では、自国の安全保障
や国際治安維持のために一定の軍備や抑止力
が必要とされており、完全廃止は非現実的と
されて、国家の負債である国債による戦争資
金の調達禁止については、カントは借金をし
て戦争することを禁じたが、現在の国家運営
や防衛において国債の発行は不可欠な経済活
動となっていて、武力行使については、現代
では独裁者による自国民の虐殺や人権侵害を
防ぐために、国連主導での人道的な軍事介入
が行われることがあり、これは内政不干渉を
絶対視するカントの思想とは衝突するケース
であり、カントの『永遠平和のために』は、
私たちが目指すべき倫理的な目標としては今
も色褪せない輝きを持っているが、一方でそ
れを現実の国際社会にどう適用するかは、現
代を生きる私たちに残された大きな課題と言
えるそうだが、どうもカントの理屈は怪しい
のではないかと疑念を抱いていて、そもそも
人々の利己心に囚われた意識が共和制となる
のを阻んでいると簡単に言えるようなことで
はないのだが、逆に絶えず特定の勢力が支配
する独裁体制となるように仕向けられるから、
戦争を避けられない政治システムが現代にお
いては構築されているのではないかと考えら
れる一方で、戦争にもコストがかかるが、国
家体制の維持にも資本主義市場経済の維持に
もコストがかかり、政府の官僚機構の維持に
も、社会保障システムの維持にもコストがか
かるから、建前としてはコストをできるだけ
かけずに国家を運営する体制へと自然に向か
うわけでもない代わりに、人や企業の活動を
法律で規制するようなやり方とは違うやり方
が模索されているような成り行きもありそう
で、それが何なのかというと、人や企業の自
由な経済競争を維持するための自由主義的な
統治実践を推し進めることになるだろうが、
要するに人や企業などの活動を絶えず経済競
争が伴うように仕向けられるなら、それがゼ
ロサム的なゲームにならなければ、何らかの
物や情報やサービスが生産され続けるから、
そんな商品の売買や貸借によって利益が得ら
れて、そこから税収を得られる限りで、その
税収に基づいて政府による国家運営も継続す
ることになり、その種の経済活動が盛んにな
るように仕向けられる限りで国家運営も継続
されることになるという理屈なんじゃないか
と単純に考えても構わないかどうかも、では
どうやれば経済活動を盛んにすることができ
るのかというところが、地理的・地政学的な
限界も絡んでくるから、こうすれば良いとい
う回答が出てくるとも限らないが、人や企業
の行き過ぎた活動を法律で規制して個人の人
権を尊重するとか、そういうこととは違う方
面であることは確かで、法治主義的なやり方
がなくなるわけでもないが、その一方で政治
的な独裁体制を築いて、政権と癒着した勢力
が富を独占する状態になってしまっても、う
まく行かないことは確かだから、政治や行政
には魅力がないような体制にしなければなら
ないと考えてみたところで、それが具体的に
どういう体制なのかもよくわからないが、比
喩として例を挙げるなら、プロスポーツの統
治機構のような政府の機構になれば、統治機
構ではなく、実際に活躍するプレーヤーや球
団などに利益がもたらされるシステムとなり、
そうなればあまり文句は出ないかも知れない
が、比喩ではなく、実際に統治機構をどうす
るかが問題となってくるから、その辺のとこ
ろは自然の成り行きや偶然の巡り合わせでど
うにかならなくても、どうにもならないなり
に事態が進行して行くしかないだろうし、こ
んなことを述べているだけで、うまく行くよ
うなやり方が導き出されてくるわけでもない
もわかりきったことなのではないか。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.6 「犯罪者の知」

voice-175

 犯罪者に対して「お前は何をしたのか」で
はなく「お前は誰なのか」と問うことは、犯
罪を単なる法律違反として処理するのではな
く、その背景にある生い立ちや人間性、社会
的な孤立に着目して、根本的な更生と再犯防
止を目指すアプローチを意味するそうだが、
「何をしたか」に焦点を当てすぎると、その
人は罪を犯した存在=犯罪者というレッテル
で固定されてしまうから、「あなたは誰か」
と問いかけることで、その人が本来持ってい
る人間性や感情、人間関係に光を当て、社会
から孤立させないようにする狙いがあり、多
くの犯罪は、貧困、虐待、精神疾患、教育の
欠如、孤独など、個人の責任だけでは片付け
られない社会構造的な問題やトラウマが起因
していて、「誰なのか」を知ることは、「なぜ
そのような行動に至ったのか」という根本的
な原因を理解し、適切なケアや福祉的支援に
繋げるために不可欠で、自分が「誰であるか」
「なぜこのような人間になったのか」を見つ
め直すプロセスは、単なる刑罰の受容ではな
く、被害者や社会に対する真の責任感や、人
間としての回復を促すと言われていて、この
ように、この問いは社会のルールを破った者
を排除するのではなく、社会の中で傷つき、
道を誤った一人の人間として理解し、再び社
会の一員として迎え入れるための対話の出発
点として重要視されているそうだが、何かこ
れがゾッとするようなことが述べられている
ように感じられて、このゾッとする感じが何
なのかというと、犯罪者に対してお前は何を
したのか?と問うことから、お前は誰なのか?
と問うことによって、刑罰的なものに備わる
法陳述の機能が真理陳述の問題によって変容
させられる、というフーコー的な言説にする
と、近代の刑事司法システムが抱える客観的
な法規範である、何をしたか、と主観的な人
間存在である、誰であるか、の矛盾や変容を
突いていて、主に十八世紀以前の、かつての
刑事司法は、犯された罪そのもの、すなわち、
何をしたか、という客観的な法律違反の事実
を裁いていて、このとき、刑罰は法という主
権者の意志に対する違反として機能し、裁か
れるのは行為そのものであり、法廷における
陳述は、法典と照らし合わせてその行為が違
法か適当かを決定する純粋な法陳述であるの
に対して、近代以降、刑事司法は犯罪者の行
為だけなくその背景にある人間性や動機、さ
らには危険性を問うようになり、お前は誰な
のか?という問いは、犯罪者を法を犯した者
としてではなく、なぜそのような行動をとっ
たのか、どのような環境や精神構造、あるい
は遺伝的・社会的な要因を持った人間なのか、
という探求へと向かわせ、ここで法廷に導入
されるのは、精神医学、心理学、犯罪学、社
会学といった人間科学の知であり、お前は誰
なのか?という真理陳述が法陳述に組み込ま
れることで、法は本来、善悪や適法か違法か
を裁くものだが、真理陳述が介入すると、行
為の善悪よりも、その人が社会的に正常か異
常か、治療可能か不可能かが焦点になり、刑
罰の目的が罪の償い、応報から、その人自身
の矯正・改善・治療や社会防衛・危険人物の
隔離へと変容し、犯罪者の内面や生い立ちを
暴き出して、専門知によって真実の人間像を
言語化することは、新たな形の権力、規律訓
練権力や生権力を個人に行使することに他な
らず、何をしたかを裁く法陳述の空間に、お
前は誰なのか、という真理陳述が入り込むこ
とで、近代の刑罰は単なる罪と罰の体系を超
えて、人間の主体そのものを管理・評価・矯
正するシステムへと変容する、と述べられる
と、合点がいくわけでもないのだが、確かに
そうなると実際に行なった犯罪的な行為だけ
なく、社会の中で暮らす人の潜在的な犯罪性
にまで言及せずにはいられない人間のおしゃ
べりな傾向を真に受ける人が出てくることも
想像に難くなく、例えば、犯罪心理学の本当
のヤバさは、異常な犯人の心を暴くだけでは
なく、誰もが特定の状況下では恐ろしい犯罪
者になり得る、という人間の心の脆さや、そ
のメカニズムを科学的に証明してしまう点に
あり、単なるフィクションのプロファイリン
グにとどまらず、私たちの日常のすぐ隣にあ
る狂気と闇を浮き彫りにする、といったもっ
ともらしい物言いを本気で信じてしまう人が
世の中にどれほどいるかも、素人の自分には
何とも言えないところだが、権力を与えられ
ると普通の人がサディスト化するなど、個人
の性格より置かれた環境が凶暴性を引き出し、
多くの犯罪者に共通するのは生まれつきの悪
ではなく、衝動や欲求を抑えきれない自己統
制の弱さで、共感や良心が欠如したサイコパ
スは、特殊な怪物ではなく社会に溶け込んで
日常的に息を潜めていることが実証されてい
て、権威者の指示には人間が簡単に残虐な行
為へ加担してしまう事実も確認されていて、
カルトや悪質なセミナー、ブラック組織など
は、特殊な心理誘導を用いて、正常な判断力
を奪い、人間を狂信的な行動に走らせ、人間
の記憶は非常に脆く、強い誘導やプレッシャ
ーを受けることで、実際には起きていない犯
罪を自分がやったと本気で信じ込んでしまう
そうで、この心理的メカニズムの解明により、
強引な取り調べや誘導尋問がいかに簡単に虚
偽の自白を引き出してしまうかも明らかにさ
れている一方で、残虐な事件や無差別殺人が
大きく報道されると、それを学習して、自分
も目立ちたいという承認欲求から次の模倣犯
が誘導され、匿名化されたSNS空間は、人
人の攻撃性を増幅させ、日常的な誹謗中傷か
ら大規模な炎上・犯罪加担までを引き起こす
土壌となっているそうだが、このようなこと
を述べると、何か真理を述べているように感
じられること自体が、社会の中でこの手の犯
罪心理学に関する真理陳述の体制が成立して
いることを示す明らかな兆候のようで、その
体制に多くの人々の意識が絡め取られている
から、何かそれらに関する言説の内容がもっ
ともらしく感じられてしまい、それはお前は
何をしたのか?ではなく、お前は誰なのか?
と問うことの理由がもっともらしく感じられ
ることにも言えるだろうが、そういうことの
延長上で何かもっともらしく感じられるよう
な言説が世間で流行っていれば、そこで真理
陳述の体制が成立しているといちいち指摘し
て回るのも馬鹿げているが、それが錯誤でも
錯覚でもなく、実際に真理として機能してい
るわけだから、現実にそんな真理に基づいて
多くの人々が思考し行動して言説を繰り出し
ているわけで、多くの人がその種の言説の内
容を信じて、それに従って活動している限り
で、それが真理であることが証明されると考
えると、それが証明だと言えるかどうかも、
そんなのは証明ではないかも知れないが、そ
う言えば数年前までまことしやかな経済原理
だと結構多くの支持者を獲得していたMMT
理論も、実際それをどこかの国の政府が取り
入れて成功した事例が出てくれば、そこで真
理陳述の体制が成立したことになったのだろ
うが、それをかつての重商主義や重農主義と
いった事例と比較するわけにも行かないが、
たぶん社会主義やマルクス主義などから派生
してきたものだとは認識しているが、その現
代貨幣理論であるMMTの政策提言を正式に
採用し、完全に実行した政府はこれまで存在
しないそうだが、ただし、日本や米国などに
おいて、中央銀行が政府の国債を大量に買い
入れて財政を支える、という事実上の財政フ
ァイナンスが拡大しており、これが疑似MM
Tとして議論されることはあるそうだから、
自国通貨を発行できる政府は破綻しない、と
いう考えを公式な政策方針として掲げた国は
なく、伝統的な経済学では、財政赤字の拡大
はインフレや金利上昇を招くとされ、MMT
は主流派から強く批判され、MMTが主張す
る、インフレ率を見ながら増税等で需要を調
整するという手法は、政治的に実行が困難と
されていても、日銀が長年にわたり大量の国
債を買い続けて、政府の借金が膨らみ続けて
も財政破綻していない事例としてMMT論者
から注目され、アメリカでもコロナ禍におい
て巨額の財政支出を行い、中央銀行のFRB
が国債を引き受ける形で資金を供給したこと
は疑似MMTと呼ばれたわけだから、かつて
の重商主義者や重農主義者の言説が一時期に
おいて真理陳述の体制を体現する真理として
機能していたように、後世の歴史学において、
この時期の真理陳述の体制を体現していたの
はMMT理論だったなんて言われたら笑って
しまうだろうが、重商主義や重農主義がある
時期を境にその限界が露呈して、それ以降は
真理ではなくなったように、MMT理論もす
でに真理ではなくなったのか否かは、誰もが
それとなく感じとっていることなのではない
か。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.5 「空気の読むことの是非」

voice-175

 普通に社会の中で生きて活動していれば、
自然の成り行きには逆らわない方が良さそう
だとはおぼろげながらもそう感じられるとこ
ろだが、その自然の成り行きに感じられるの
が何なのかというと、それが世の中の空気を
読むだとかそういうことだと思えば、何とな
くその通りのような気がするが、どうもそれ
では単純すぎるような気がするとしたら何な
のかというと、空気を読むだけでなく空気に
逆らうのも自然の成り行きに感じられて、要
するにそこで空気を読む側と空気に逆らう側
とに分かれて対立して争うことも自然の成り
行きに感じられるなら、そこから空気を読ん
だり空気に逆らったりせずに、どう振る舞え
ば良いかなんて考えてしまうことも自然の成
り行きと言えるかどうかも、では読んだり逆
らったりする空気とは何なのかと考えてみる
と、そんな空気が存在するわけでもないが、
それが錯誤でもなく、錯覚でもなければ、そ
んな空気があるように感じられてしまうから、
それを読んだりそれに逆らったりすれば、空
気を読む側と空気に逆らう側で対立関係が生
じると言えそうで、そうなるとそこで空気を
読んでそんな空気に従った方が得か損か、逆
に空気に逆らった方が得か損か、といった判
断を迫られるかというと、それもそんな空気
への関わりの程度にもよりそうで、そんなふ
うに考えてみれば、その場の空気を読んでそ
れに従うか逆らうか、空気を読んだ方が得な
のか損なのか、空気に従った方が得なのか損
なのか、空気に逆らった方が得なのか損なの
か、それともそんな空気への関わりを薄めた
り関わるのを回避した方が得なのか損なのか、
といったそれぞれの分岐点で分かれ道が生じ
てくるだろうが、それが具体的にどういうこ
となのかも、それを意識できるかどうかも、
それだけでは判断材料とはならないし、それ
以前に大抵はどこでどう振る舞っても、結果
的にそうなった後から振り返ってみるなら、
そうなってしまったのが自然な流れのように
感じられるだろうし、そうでなければ妙に何
か特定の法や道徳などの社会の規範的なこだ
わりを意識してしまって、そういった規範に
照らし合わせて判断すれば、その場の空気に
逆らって何か倫理的な主張をするように仕向
けられてしまって、そうなると空気を読んで
そんな空気に従いながら行動したり言動を繰
り出したりする輩から激しい反発を招いたり
反感を買ってひどい目に遭うと、何やら殉教
者のような境遇に陥ってしまったことが意識
されるかも知れないが、実際に歴史に名を残
すのがその種の殉教者的な存在だとしても、
無名のその他大勢の空気を読んで世の中の流
れに乗って活動している者たちにとっては、
そんなごく一握りの殉教者的な存在に感銘を
受けるとも限らないが、殉教者的存在とは、
自らの信念・信仰・大義のために、迫害や苦
難、死を受け入れてでもその理想を貫き通す
人物であり、歴史や物語における典型例とし
て、自身の信念を捨てるくらいなら死を選ぶ
宗教的な殉教者や、国家や組織の変革に人生
を捧げた政治的指導者、そして他者の救済の
ために自らを犠牲にする物語に登場する架空
のキャラクターなどが挙げられるそうで、宗
教的な殉教者の典型として挙げられる、キリ
スト教の聖ステファノは、キリスト教史上、
最初の殉教者・プロトマルティルとして知ら
れ、自らの信仰を公言し、迫害されて投石で
処刑される際、神に迫害者たちの赦しを祈り
ながら亡くなったそうで、またパウロ三木と
日本二十六聖人は、豊臣秀吉の時代、キリシ
タン禁教令により京都で捕えられ、長崎まで
約千キロの道のりを歩かされた後に十字架に
かけられた宣教師と信徒たちで、最年少は十
二歳であり、過酷な状況下でも信仰を捨てず、
称賛の歌を歌いながら処刑されたと記録され
ているそうで、政治・思想における殉教者の
典型として、ジャンヌ・ダルクは、百年戦争
時のフランスを救った国民的ヒロインだが、
異端審問によって魔女の烙印を押され、火刑
に処せられて、後に名誉回復が行われ列聖と
して崇敬され、祖国と神への忠誠を貫いた象
徴として、現在も殉教者的存在の代表格とさ
れているそうで、社会的変革と非暴力の殉教
者として、ソクラテスは、ギリシアの哲学者
であり、若者を堕落させ、国家の神々を信じ
ていない、という不当な告発を受け、裁判で
自らの哲学と真理を曲げず、死刑を受け入れ、
自らの思想のために死を選んだ西洋哲学にお
ける最初の殉教者的存在とも言えるそうで、
またキング牧師は、アメリカの公民権運動の
指導者で、人種差別撤廃と平和的な平等を訴
え続け、多くの迫害を受けながらも非暴力の
信念を貫き、最終的に暗殺され、また救済と
利他の殉教者として、コルベ神父は、第二次
世界大戦中アウシュビッツの強制収容所で、
餓死刑に選ばれた見知らぬ家族持ちの男性の
身代わりとして、自ら進んで餓死室に入り殉
死したカトリックの司祭で、他者の命を救う
ための究極の自己犠牲の典型として知られて
いるそうで、他にも創作物のキャラクターで、
自身の命を顧みず、弱き者を守るための盾と
なり、信念を貫いて戦うキャラクター像は、
大衆文化において現代の殉教者的カタルシス
を生み出す典型例であり、そんな殉教者的な
存在からカタルシスを得ている者たちが実際
に殉教者的な行為に及ぶわけでもないのも、
それを欺瞞的な逆説と皮肉るのも酷な話だが、
殉教という行為があまりに美化されることで、
権力者や体制側にとって都合の良いイデオロ
ギーとして利用される可能性を危惧するのも、
日本で言えば戦時中の神風特攻隊を美化する
風潮などがあったはずで、それに感銘を受け
る側も、その行為がもたらす悲惨さや不条理
さを理解しつつも、そこにある人間的な強さ
に惹かれてしまうという、身を引き裂かれる
ような葛藤や逆説的な心理を抱えているとい
う側面があり、どのような状況や思想的な文
脈で欺瞞的な逆説という言葉が使われるかに
よって、議論の焦点が大きく変わってくるそ
うだが、ジャンヌ・ダルクは、歴史的に宗教
上の殉教者であると同時に、時代や立場によ
っては政治思想の殉教者としても扱われ、そ
の評価は、彼女の信仰を重視するか、フラン
スという国民国家の誕生や象徴としての側面
を重視するかで異なるそうで、カトリック教
会における公式的な立場では宗教的な殉教者
であり、1431年の異端審問では魔女とさ
れて火刑に処されたが、死後に風向きが変わ
って、1456年に復権裁判で無罪が証明さ
れ、カトリック教会によって殉教者と宣言さ
れ、その後、1920年には正式に聖人とな
り、彼女はあくまで神の声や天使や聖人の啓
示に従って行動して、それを貫き通したため、
宗教的信念を貫いて命を落とした殉教者と位
置付けられるそうだが、一方で、近代以降は
フランスの国民統合の象徴や愛国心の殉教者
として政治的に利用されることが多々あり、
十九世紀の歴史家ミシュレなどの影響により、
彼女は神の意志を信じて外国からの支配を退
け、フランスの祖国を救った民衆の英雄や国
民国家のシンボルとして神聖化され、ナポレ
オン以降、王党派や愛国主義者などの右派は、
彼女を王権の伝統と守護者として称え、共和
派などの左派は、第三身分の民衆の代表や自
由思想の代弁者として扱うなど、時代ごとの
政治的主張のシンボル的な殉教者として利用
されてきた歴史があり、彼女自身は当時のシ
ャルル七世の王位継承問題という政治的・宗
教的争いの最中におり、敵対するイングラン
ドとブルゴーニュ派によって政治的な思惑か
ら異端・魔女として裁かれ、この観点で彼女
は、権力闘争に巻き込まれて政治的に処刑さ
れた人物という見方も成り立ち、ジャンヌ・
ダルクは、建前的には、神への絶対的な信仰
を貫いた宗教的殉教者でありながら、後世の
人間によってフランスのナショナリズムや各
各の政治思想を正当化するための殉教者とい
う役割を担わされてきた、多面的な存在だと
言えるそうだが、例えばカトリックの教会関
係者という立場で、そっち方面の職場環境や
生活環境の中で生活する割合の大きいフラン
ス周辺に住んでいる人なら、やはり建前上は、
ジャンヌ・ダルクを宗教的な殉教者として取
り扱う可能性が高くなりそうだが、日本に住
んでいるキリスト教とはあまり縁のない西洋
の歴史好きの人なら、単なる歴史上の人物以
上でも以下でもない存在に過ぎないだろうし、
別にソクラテスのように哲学的に際立った思
想的な特徴もなければ、例えば天草四郎のよ
うな存在として戦争の際に味方の兵士の士気
を鼓舞するために神聖性を帯びたシンボルと
して担ぎ出された象徴的な存在なんじゃない
かと想像したくなってしまうわけだ。

https://www.koike-t.org

彼の声 2026.6.4 「政治経済学とは」

voice-175

 ルソーは『百科全書』の項目「政治経済学」
において、家計(家政)と国家経営を明確に
区別し、国家の目的は「一般意志」に従って
人民の幸福と自由を実現することであると論
じたそうで、国家を統治者と人民からなる一
つの生命体と見なし、その行動原理を「一般
意志」と定義し、政府の役割は、この一般意
志に従って法を執行することで、国家運営(
政治経済)において最も重要なことは、常に
公共の利益を目指す一般意志に全ての市民が
従うことだと説き、一般意志を機能させるた
めには、市民一人ひとりが道徳的な「徳」を

持ち、「祖国愛」を抱くことが不可欠である

とし、ルソーは極端な貧富の差を「最大の悪」
と批判し、政府の重要な責務として、富の極
端な不平等を防ぎ、租税などを通じて市民の
平等を保つべきであると主張し、この『百科
全書』の論考は、後の主著『社会契約論』の
基礎となる政治哲学の原型となっているそう
だが、もっともらしいことを言う奴の典型例
みたいな内容で、カントやプラトンなどと共
に、現代の良識派や批判派などにも多大な影
響を及ぼしていると言いたくなってしまうが、
そんなルソーは絶対王政や封建社会を批判し
た思想家として知られ、その過激な変革志向
や抽象的な理性主義が、後の近代保守主義の
代表者たちから強烈な批判と攻撃の対象とな
り、近代保守主義の創始者エドマンド・バー
クは、個人の抽象的な理性を過信し、伝統や
慣習を破壊して社会を急進的に作り替えよう
とするルソーの思想を批判し、ルソー主義こ
そがフランス革命における暴力や恐怖政治の
元凶であると断罪し、二十世紀以降の保守派
やリベラルの論者からも、ルソーの唱える「
一般意志」の概念が、個人の自由を国家とい
う全体に埋没させ、民主的な独裁である全体
主義につながる危険性があると批判されてき
て、ルソーの存命中にも、『社会契約論』や
『エミール』における既存の教会や体制の批
判が問題視され、当時の保守的な政治体制で
あったフランスやジュネーヴの政府から発禁
処分や逮捕状を出され、亡命生活を余儀なく
されたそうだが、一方で、ルソーの政治思想
そのものは、古代ローマや彼の祖国ジュネー
ヴの古き良き共和性を理想としており、近代
化や商業化による道徳の退廃を嫌うという非
常に保守的・復古的な側面も持っているそう
で、そのため、純粋な革新主義者というより
は、失われた古い価値に固執した保守的な思
想家という現代の学術的な見方もあり、これ
を現代に当てはめると、高市やその取り巻き
連中や、維新や参政党などの政治家たちや、
いわゆるネトウヨたちを、エセ保守と断罪す
る古き良き右翼たちにも通じるところもあり
そうだが、微妙にそういう対立軸とはズレそ
うな重農主義者たちが、合法的な絶対君主制・
専制主義を理想としたのは、人為的な政策や
議会の介入を排除し、自然の法則にかなった
自由放任経済をトップダウンで強力に推進す
るためだそうで、彼らは自然の理にかなった
経済法則こそが社会を繁栄させると信じてい
て、この理想を実現するには、利害関係で対
立しがちな議会や多数決よりも、全知全能の
正しい啓蒙君主がトップダウンで統治する方
が合理的だと考え、当時の絶対王政下では、
商工業を保護・独占する重商主義が主流であ
ったのを、彼らはこの介入こそが経済を歪め
ると批判して、強大な権力を持つ君主の力に
よって、市場の自由放任・レッセフェールを
強制的に実現しようとし、富の源泉は農業の
生産物であると考えた彼らは、土地所有者で
ある地主が経済的な基盤を握るべきと考え、
この秩序を守るためには、強力な王権によっ
て私有財産制度が保証されている必要があり、
重農主義における専制とは、王の気まぐれな
独裁ではなく、自然法則に基づいた法の支配
を行う強力な君主制=合法的な専制主義を意
味し、経済的な自由(自由放任)と政治的な
強制力(専制君主)を両立させようとしたの
が重農主義の大きな特徴だそうだが、そうい
う意味ではルソーの思想と比べて、重農主義
は現代では通用しない過渡的な時代がかった
思想だと捉えられ、富の源泉は農業生産のみ
であるという点では現代の経済には適合しな
いが、国家が経済に介入する重商主義を批判
し、自由放任や自由貿易の重要性を初めて体
系的に提唱した点で、近代経済学の土台とな
った重要な思想で、経済を生産から消費まで
の一連の循環として捉える視点は、マクロ経
済学の原型となり、富の源泉を土地と見なし、
純生産物として真に価値を生み出せるのは農
業だけであると主張したことによって、単な
る商取引における交換差益ではなく、生産そ
のものに目を向けるきっかけを作り、創始者
のケネーの『経済表』は、農業で生み出され
た富が社会の生産階級、不生産階級、土地所
有者階級などの各階級をどのように循環する
かを初めて図解したもので、この分析は経済
をバラバラの取引ではなく、相互に連関する
全体システムとして捉える近代経済学の先駆
けとなり、経済には神や自然が定めた自然秩
序があり、政府が介入するよりも個人の自由
な経済活動に任せる方が富が最大化されると
説き、この考え方は後のアダム・スミスらに
引き継がれ、アダム・スミスは重農主義の理
論を高く評価し、その自由貿易の精神を取り
入れ、重農主義の生産と流通に関する視点は、
スミスの『国富論』をはじめとする古典派経
済学の骨格形成に決定的な影響を与え、重農
主義は農業だけが富を生むという点で行き詰
まったが、経済活動の背後にある法則性を解
明し、国家による統制からの脱却を主張した
ことで、政治経済学を一つの独立した学問へ
と押し上げたそうだが、フーコーによると、
十六世紀、十七世紀、さらにはそれ以前から、
十八世紀の半ばに至るまで、課税、関税率、
製造法の規則体系、穀物価格の規制、市場の
実践の保護と体系化といったものに関わる一
連の実践が存在していたが、こうした全ては、
主権的法権利、封建的法権利の行使として、
慣習の維持として、国庫にとって有効な富裕
化の手法として、しかじかのカテゴリーの臣
民の不満による反乱を防ぐための技術として
考察されていたが、結局そうした全ての実践
は、様々に異なる出来事および様々に異なる
合理化の原理から出発して考察されていたの
に対し、十八世紀の半ば以来、関税率から課
税や市場と生産の調整などへと向かうそうし
た様々な実践の間に、考察され熟慮された一
つの整合性を打ち立てることが可能となり、
この整合性を打ち立てるのが、諸々の理解可
能メカニズムで、そうしたメカニズムによっ
て、様々に異なる実践とその諸効果とは互い
に結びつけられて、その結果、そうした全て
の実践が良いものであるか悪いものであるか
を、法や道徳原則に基づいてではなく、それ
自身が真と偽との分割に従うことになる諸命
題に基づいて判断することが可能となり、し
たがって、統治活動の一面が丸ごと新たな真
理の体制へと移行するということであり、こ
の真理の体制は、以前に統治術が提起しえた
あらゆる問題の位置をずらすという根本的効
果をもたらすことになり、かつての問題とは
統治者が、私は道徳の法、自然の法、神の法
などに十分に適合的なやり方で統治している
だろうか、という問いで、それは統治の適合
性の問題であったのに対して、国家理性の時
代、十六世紀および十七世紀において、問題
は、十分なだけ統治しているだろうか、すな
わち、国家をそのあるべき姿にまでもたらす
ため、国家をその最大の力にまでもたらすた
めに、十分なだけの強度とともに、十分根本
的に、十分細部にわたって統治しているだろ
うか、というものになり、そして今や、問題
は、過大と過小との境界において、統治の操
作に内在的な必然となる事物の自然本性が、
私に対して定める最大と最小の間で、私はう
まく統治しているだろうか、という統治の自
己制限の原理としての真理の体制の出現であ
り、これは現実として存在しないもの、真と
偽の正当な体制に属するような形では存在し
ないものを、現実の中で印づけて真と偽の正
当な体制に従わせるという、この契機こそ、
フーコーが扱っている唯名論的な事柄におい
て、政治と経済とからなる非対称的両極性の
誕生を印づけるもので、政治と経済、これら
は、存在する事物でもなければ、錯誤でもな
く、錯覚でもなく、イデオロギーでもなく、
それらは存在しない何かではあるけれども、
しかし、真と偽とを分割する真理の体制に属
するものとして現実の中に組み入れられてい
る何かなのだそうだが、なるほどルソーがそ
れを法や道徳に基づいてもっともらしく語っ
てみせたから、当時の支配体制から激しい拒
否反応を伴って弾圧の対象となったのかと考
えてみると、今の時代でも左翼リベラル勢力
が国家主義的な支配体制から激しい拒否反応
を伴って弾圧の対象となってしまう経緯がわ
かるような気がするわけだが、今のところは
それが自分の勝手な印象に過ぎないので、本
当のところは何とも言えないわけだ。

https://www.koike-t.org

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>