彼の声

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彼の声 2020.11.29 「必要なもの」

voice-141

 人に必要なものは様々にあるかも知れない
が、何が必要だからといって、必要だと思う
だけでは、本当に必要かどうかは何とも言え
ないところかも知れず、必要だと思っている
だけであれば、そう思っているに過ぎないこ
とでしかないだろうし、必要でないものまで
必要だと思っていれば、それは思い違いにな
るのかも知れないが、思い違いであっても必
要だと思い続けることはできるかも知れない
し、いつまでも必要ないものを必要だと思い
続けていても、そう思っている限りでどうと
いうことはないのかも知れず、そんな思いを
抱いている人が世の中にいくらでもいるとし
たら、それはそれでそんな思い違いが世の中
に蔓延していることになるだろうが、それで
もかまわないというか、そんな世の中になっ
ているに過ぎないことであり、それで何がど
うなっているわけでもないことにしておいて
も、特にそれが思い違いだとしても、そうい
うことでしかないだろうが、それが本当に必
要な状況かといえば、人々がその種の思い違
いにとらわれていることで何か利益になるの
だとしたら、そこから利益を得ている人や勢
力にとっては、それが必要な状況だといえる
のだろうが、果たしてそれが思い違いなのか
というと、それらの人や勢力に利益をもたら
す必要があるからそうなっているとしたら、
それらの人や勢力にとってはそれが必要な状
況だといえるのだろうが、それらの人や勢力
にとって必要な状況が他の人々にとっては必
要でなければ、それが必要か否かが人によっ
ても勢力によっても異なるということになる
わけで、それが必要か否かも必要だと思い違
いをしているか否かも、人によっても勢力に
よっても異なることになり、そんなふうにし
て世の中が成り立っているのなら、それはそ
れでどうということはないのだろうが、その
どうということはないと思っていることも、
人や勢力によってはどうということがあるか
も知れず、それが思い違いであるか否かも、
人によっても勢力によっても異なるのかも知
れないが、それが必要であったりなかったり
することが、その必要のあるなしでその人の
立場や境遇などに違いが生じていることにな
るとすれば、結果的に人によって立場や境遇
の異なる世の中が生じていることを、その必
要のあるなしが明かしていることになるのだ
ろうが、その必要があるからそれにこだわっ
ている人がいるとしても、別の人もそれにこ
だわる必要があるのかというと、それも何と
も言えないところだろうし、中には全ての人
にとって必要なものもあるはずだが、それが
何か特別なものではない可能性も高いだろう
し、その人にとってだけ必要なものが特別の
ものである可能性の方が高そうに思われるが、
誰にとっても必要だからそれを求めて止まな
いとしても、求めても得られる可能性が低い
ほど、それが特別のものであると思われるこ
ともあるのだろうが、求めて得られる人が少
なければ、それ以外の大多数の人には得られ
ないことになり、大多数の人にとっては得ら
れなくても特に支障はきたさないものなら、
多くの人が必要だと思うものであっても、実
際にほんのわずかな人しかそれを得られない
のであれば、必要だと思うものが得られなく
てもかまわないことになり、必要だと思うの
だから得られなくてもかまわないとは思わな
いだろうが、そんなふうにして多くの人たち
に思い違いが生じていることになり、必要だ
と思っても実際に得られないものがあるとし
ても、実際に得られなくてもそれほど困って
いるようには見えない実態があれば、それが
必要でないものを求めている証拠となるだろ
うし、多くの人がそうは思わなくてもそれが
思い違いだと見なされてしまい、その人にと
っては思い違いだとは思えないのに、他の人
からすればそれが思い違いだと思えるような
ことであり、そういうところで何が思い違い
なのかに関しても人によってその人の立場や
境遇によっても違いが出てくるのだろうが、
それに関して何をどう思ってみても、それが
思い違いだと思っても思わなくても、それ自
体がどうということはなければ、そんなこと
も取り立てて問題視されるようなことでもな
く、人によってはたわいないことだと片付け
れてしまってもかまわないようなことになっ
てしまい、中にはそれを重要視している人が
いるとしても、その人にとっては確かにそう
であっても、他の人にとってはそうでもない
ということになり、それがその人にとっては
受け入れがたいとしても、実際にそうなって
いればそういう状況になっていて、それがそ
の人にはどうにもならない状況となって、ど
うあがいてもその人にとっては不利な状況だ
と思われるとしても、それが不利だと思われ
ること自体が、他の人にとってはどうでもい
いことであるとしたら、それもその人の思い
違いである可能性があり、そういうところで
何かがこんがらがっていて、解きほぐせない
絡み合いを形成していて、それがその人を思
い違いに導いているのかも知れず、それがそ
の人にとっては必要のない思い違いであるか
ら、その分その人を不利な状況にしているの
かも知れないが、だからといってその人がそ
んな思い違いによって割を食っていると見な
している人が、その人の思い違いを正すこと
はできないのかも知れず、いくら他人の誤り
を指摘しても、当人が聞く耳を持たない場合
も多く、聞く耳を持たないからいつまで経っ
ても思い違いにこだわり続けて、それが思い
違いだとは認めずに頑な態度を保とうとする
のかも知れず、しかもそこからその人に固有
のアイデンティティーが生じている場合もあ
るだろうし、そんな凝り固まり方をする人が
世の中に多くいれば、それを招いている何ら
かの思想や思考が実際に世の中で流行ってい
るのかも知れず、そんな流行が続いているう
ちはそれに引き寄せられて凝り固まってしま
う人が後を絶たず、他の多くの人もそれに感
染して同じような凝り固まり方をしていれば、
そういう傾向の世の中になっているのだろう
が、実際にそうなれば多くの人がそうなるこ
とが必要だと思うかも知れず、そうやって多
くの人にとって必要な思い違いが生じてくる
のかも知れない。

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彼の声 2020.11.28 「世界の不条理」

voice-141

 この世界が矛盾や不条理に満ちている面を
強調したければ、その材料には事欠かないだ
ろうが、この世界の不条理から目を背けるに
はどうすればいいか、とは誰も思わないだろ
うし、誰がそう問いかけているのでもないだ
ろうが、誰もが意識して何から目を背けてい
るとも思っていないだろうし、そんなことは
意識しなくても目を背けているのかも知れず、
そんなことはわざわざ意識するまでもなく、
誰もが承知していて、それを承知しているこ
とさえ忘れているほどに承知しているのかも
知れず、だからこの世界が矛盾や不条理に満
ちているわけでもないが、なぜと問いかける
必要もないほどに当たり前のような状態でそ
うなっているのであれば、誰もが目を背けて
いることが、別に非難されるようなことでは
なく、そうなっていることが問題視されてい
るわけでもなく、それについて語られるわけ
でもなく、その代わりというわけでもないが、
それとは別の方面からそれとは違う表現を伴
いながら何かが語られているのかも知れず、
それが何なのかというと、それ以外に様々な
ことが語られているといえばとりとめがなく
なってしまうが、そういうことも含めて様々
なことが語られていて、特にそこで矛盾や不
条理などの否定的な面について強調する必要
のないことが語られていれば、それで済んで
しまうようなことでしかないのだろうが、果
たしてそれでいいのかといえば、そんなこと
も取り立てて問題視されることでもないだろ
うし、それほどまでに世界の不条理な面が無
視されていることも自覚できないのだが、何
が不条理なのかといえば特に思いつくような
こともなく、それを指摘するような成り行き
にもならないが、たぶんそうなって当たり前
のように思われることの中に、よく考えてみ
れば不条理な面が見つかるのかも知れず、そ
れについて深く考えてみないとわからないか
ら、普段は気づきにくいことなのかも知れず、
わざわざ気づくまでもないことであり、いち
いちそれに気づいていたらきりがなく、不条
理にばかり気をとられていたら何もできなく
なってしまうほど、この世界が不条理に満ち
ているわけでもないのだろうが、重箱の隅を
つつくようにそれを指摘し出すときりがなく
なってしまうのかも知れず、そんなことは無
視していた方が気楽になれるだろうが、無視
するまでもなく無意識に無視していて、それ
でもかまわないようなことであるから、無視
すること自体に罪悪感も嫌悪感も覚えないの
かも知れず、その代わりに道理に適っている
ように思われるもっともらしいことは好意的
に意識できて、そうなっているだけでも偏見
にとらわれていることになるわけでもないだ
ろうが、偏見というよりは通常の感覚にとら
われていることになるのかも知れず、それが
普通の感覚なのだから、そこから世界の不条
理を意識するように仕向けられてしまうと、
逆に通常の感覚からすればそれこそが偏見に
とらわれているように思われてしまい、不条
理を意識すること自体が異常な感覚にとらわ
れていることの証しとなってしまうのかも知
れず、実際に偏見にとらわれている人は不条
理を体現しているわけで、それとこれとは違
うだろうが、この世界の不条理を意識するこ
とと、何かしらそれとわかる偏見にとらわれ
ているように見えてしまうことが混同されて
いる可能性もあるわけで、どちらもが常識に
とらわれていることからはかけ離れていて、
常識にとらわれている人から見れば同じこと
なのかも知れず、そういう意味では不条理は
常識にとらわれていると自覚できないのかも
知れないが、不条理なことがまかり通ってい
る世の中に暮らしているわけだから、そんな
世界の在り方を当然視している限りで、不条
理を意識できなくて当然なのかも知れないし、
逆に世界の不条理を意識してしまうと、世の
中の常識の方がおかしいのではないかと思っ
てしまい、そんな常識にとらわれていること
こそが不条理をもたらしているとも思われて、
そこから世の中の常識を変えなければならな
いという使命感を抱いて、例えば反体制的な
政治活動に身を投じる成り行きになってしま
うと、常識の範囲内でうまく立ち回っている
人たちから敵視されて、いわれのない誹謗中
傷などの標的となってしまうのかも知れない
が、それもその人が不条理を体現しているこ
とになるだろうし、そういう意味で常識に抗
って世界が矛盾や不条理に満ちていることを
強調することが、その不条理を直接体現する
ことにつながって、また不条理に直面してし
まうと、否応なくそこから目を背けられなく
なってしまうのかも知れないが、ではこの世
界の不条理から目を背けるにはどうすればい
いか、という問いに対する答えとして、この
世界の常識にとらわれていることが、そのま
ま不条理から目を背けていることになるのか
というと、そうとも言い切れない面もあるの
かも知れず、例えば常識の範囲内で不条理を
不条理として自覚するように心がければ、そ
んなことができればの話だが、不条理を何か
特別なものではなく、異常事態とは違う日常
のそこかしこに転がっているありふれた何か
として不条理を捉えておけば、それを利用し
てできることもあるのかも知れないし、そう
やって不条理を利用して何かやろうと心がけ
れば、それも常識の範囲内でおこなえること
の一部とすることができて、そんなふうにし
て不条理を飼い慣らしながら戯れるような行
為につながれば、次第に不条理が不条理では
なくなってくるのかも知れないが、そうはい
っても具体的に何をやればいいのかといえば、
不条理に心当たりがなければ皆目見当がつか
ないが、不条理とは逆の道理をわきまえる行
為に疑念を抱くように心がければ、自ずから
それ以外の行為として不条理があぶり出され
てきて、普通にそれがおこなわれていること
を当然視するのではなく、それが普通とは見
えないように何か工夫を凝らせば、それを当
然視することに疑問が生じてくるのかも知れ
ず、それを意識するというか勘を働かせて妙
なアクセントを加えると滑稽な動作にもなり、
そういうのはお笑い芸人がよくやる手法かも
知れないが、何か違和感を伴うようなことで
あっても、常識の範囲内でおこなってしまえ
ば文句は出ないものの、それがおかしな動作
であることが周囲にも伝わって、そういうこ
とを当たり前のようにやることが憚られるよ
うな成り行きをもたらせるのかも知れないが、
そういう微妙な動作を積み重ねることによっ
て、常識としておこなわれている不条理な行
為をあぶり出すことができるのかも知れない。

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彼の声 2020.11.27 「運不運と努力」

voice-141

 その場限りの気まぐれな思いつきで間に合
わせの目的を定めてみても、それへの執着が
薄いと、ちょっとしたきっかけや行き違いか
ら逸れてしまい、目的とは違う別の何かに行
き着いて、そうなったからといって自身の立
場や境遇がどうなるわけでもなくても、少し
は困惑ぐらいはするだろうが、本来の目的が
それ以前に特にあったわけでもなければ、そ
こから何か深刻な事態に至るわけでもなく、
相変わらずの何でもない状態に留まっている
だけであれば、そんな水準ではそれ以上の何
がもたらされるわけでもないのだろうが、そ
れとは別の水準では、それをきっかけとして
何かしら別の思いつきが生じるかも知れない
し、そんな思いつきに行動が伴えば、何かし
らもたらされることもあるのかも知れず、そ
れが幸運をもたらすのか、あるいは不運を引
き寄せてしまうのか、そんなことが事前にわ
かるわけでもないだろうが、いやな感じがす
るとすでにその兆候を察知している可能性も
あり、不安を感じながら思わず身構えてしま
うのかも知れないが、それが運不運の問題で
はなく、当人の努力次第でどうにかなること
であれば、その場の状況に応じて何かしら努
力しようとするだろうが、それも取り組んで
いることや直面している事態の程度や傾向や
内容にもよるだろうし、それが運不運や努力
次第でもどうにもならないようなことであれ
ば、何かそれらとは違う気配を感じ取ってい
るのかも知れず、そもそもその場の成り行き
の中で自身が果たしている役割というのが、
そこにいてもいなくても何がどうなるわけで
もないと思われるようなことなら、役割も何
もあってないようなものなのかも知れず、誰
もがそうだとは思えないが、誰がそうであっ
てもかまわないような状況だと、それが誰で
あってもなくてもかまわないのかも知れず、
そうなっていることが幸運だとも不運だとも
思えないし、また努力次第でどうにかなるよ
うなことでもなく、その場の成り行きのとり
とめのなさが、自身を自暴自棄に導くような
深刻さとも無縁な状態にしていて、自身にと
っては何でもない状況がもたらされていると
は思えないとしても、それ以上でも以下でも
ない状態がもたらされていれば、そんな状態
の中で何がどうなっているのでもないだろう
が、それでも何かがどうにかなっているとす
れば、それなりの違和感が伴うだろうし、そ
んな違和感がどこから生じているのかといえ
ば、何でもないような現状からもたらされて
いるのかも知れず、何かそれが矛盾している
ようでいて、誰も現状が何でもないはずがな
いと思いたいのかも知れないが、そう思いた
いのが何でもないような自身であれば、自身
の存在が何でもない現状をもたらしているの
かも知れないし、それを何でもないことだと
捉えるのがそもそもの誤りなら、そこに実質
を伴った行為が伴っているはずで、例えばそ
こに金銭的なやりとりが伴っていれば、そこ
で実質的な利害が絡んでいるように思われる
のかも知れないが、何でもないことであって
も金銭的なやりとりを介しておこなわれてい
るかも知れないし、それが何でもないことで
はない証拠として、実質的な利害を設定する
ような成り行きになるとすれば、それこそが
幻想に実質が伴っているように見せかけてい
る証拠かも知れず、もちろんそんなことまで
意識せずに通常の取引の延長上でそういうこ
とがおこなわれているのだろうが、そういう
こととはどういうことかといえば、具体的な
物や情報やサービスの売買や貸借であり、そ
れ以外ではあり得ないわけだが、そこに実質
が伴っているように思い込みたいというか、
そんなことまで意識せずに当たり前の行為と
してそんなことがおこなわれていて、取り立
ててそれがどうということではないわけだが、
そこにどんな実質がもたらされているのかと
いえば、取引に伴って何かが移動して、それ
が何かと何かの交換だと受け取られているの
だろうが、本当に交換されているのかといえ
ば、交換したことにしておかないと取引その
ものの実質が伴わないのであり、単なる贈与
では困るのだろうが、それで何が困るのかと
いえば、無から有を生じさせるわけにはいか
ないのだろうし、一方的に与えるようなこと
がおこなわれてしまうと、取引ではなくなっ
てしまい、等価交換の体をなさなくなり、物
事の価値がなくなって、経済活動の実質が伴
わなくなってしまうのだろうが、他に何もな
くてもそこに価値があれば、誰かがその価値
を所有している実態がもたらされて、それを
他の誰かが所有している価値と交換する取引
が成り立ち、結果的に価値を担う物や情報や
サービスを交換する経済がそこに構成される
わけだが、そこに何らかの価値を所有してい
る人や法人などの団体を存在させるには、価
値を交換する取引がおこなわれている実態が
必要となり、何の見返りもなしにただで物事
を与えるような行為はできるだけ目立たせな
いようにする必要もあるだろうし、また価値
を得るにはそれ相応の努力が必要とされて、
運不運などの偶然の巡り合わせによって得ら
れるようなことはなるべく考慮に入れないよ
うにして、何かそれを得るにふさわしい行為
と引き換えにしか得られないとすれば、それ
が労働と呼ばれる行為になるのだろうが、そ
こから働かざる者食うべからずという格言が
生じたわけでもないだろうが、そこにその場
の運不運や偶然の巡り合わせをできるだけ排
除して、その代わりに必然的な努力をもたら
したいのだろうし、そこで何かをおこなった
結果が報われて、納得できるような対価を得
られる制度を確立しようとする一方で、努力
をおこなう機会の公平さを実現すると共に、
努力に応じた価値が得られるようにしたいの
だろうし、より多く努力した者がより多くの
価値を得られるような制度にしないと、誰も
必要以上の価値を求めようとしなくなってし
まい、それに伴って経済的な取引も活発化し
なくなってしまうから、そこで価値を求める
競争を活発化させるための工夫が求められる
わけだろうが、誰にとっても平等な立場での
競争を実現しても、競争の結果としてより多
くの価値を得られた者と少ない価値しか得ら
れなかった者との間で不平等が生じてしまう
から、根本的なところで生じる矛盾をどうや
っても解消できないわけで、そうした制度を
維持する仕組み自体に矛盾や欺瞞が伴ってい
ることを理解しておく必要があり、それと共
に運不運や偶然の巡り合わせなどの不合理で
不条理な成り行きを温存させておく必要も出
てくるわけだが、目的に応じておこなう努力
ばかりを推奨してしまうと、その過程や結果
において生じてしまう矛盾や欺瞞から目を背
けて、努力がうまくいっていない面を隠しき
れなくなって、結果的に嘘がばれてしまうだ
ろうし、ばれないように注意するというより
は、努力にはある程度の嘘や矛盾や欺瞞が含
まれていることも認める必要があるのかも知
れない。

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彼の声 2020.11.26 「やっていることの妥当性」

voice-141

 現状から導き出される妥当な方針というの
が、妥当に思われるだけに自然な成り行きに
沿ったことのように思われるだろうが、それ
が現状を反映して導き出されることであると
すれば、現状の中で有効に機能する可能性が
ある反面、現状を成り立たせる上で不都合な
ことに対しては不利に働く可能性もあり、不
利な状況を変えるには現状を変えなければな
らないとなると、現状の中で妥当に思われる
ことが必ずしも良いことではない可能性もあ
るわけだが、ではどのような方針で臨めばい
いかとなると、取り立てて方針を決める必要
がない場合もあり得るだろうが、単純に利益
を求めることが目的となるようなことではな
いのかも知れず、実際に利益を求めて活動し
ているとしても、それ以外のことも求めてい
る可能性があり、それが単純な利益の獲得と
は相容れないことであるとすれば、何かやや
こしい事態に陥っているのかも知れず、それ
に関して何か矛盾したことをやっていれば、
結果的にうまくいかないことをやっていて、
それでかまわないはずがないのに、否応なく
そうなってしまう宿命にあり、そんな宿命を
受け入れざるを得ないとしても、それに抗い
ながらもそうなってしまうという面倒な事態
に陥ってしまい、そういうところはどうしよ
うもないのだろうが、うまい解決策がないよ
うなことをやっていて、それに関しては妥当
な方針というのが見当たらず、妥当ではない
ことをやっている実態があり、現状では妥当
なことができなければ、そんな現状は変える
しかないのだが、変えようとして変えられる
ような現状ではないのも当然であり、そこに
現状の困難さがあるとしても、困難なことに
挑戦するのが妥当なようにも思われてしまう
と、困難なことに挑戦して失敗するのも妥当
な成り行きであり、それが現状を反映してお
こなわれることになって、うまくいかないこ
とをやっていること自体が、現状で妥当なこ
とをやっていることの証しとなるような逆説
が成り立ち、やっていることがうまくいかず
に失敗に終わってしまうことが、現状で妥当
なことをやっていることになると、それが自
然な成り行きに沿ってやっていることにもな
って、そこから必ずしもやっていることがう
まくいくとは限らないということが、現状の
中で妥当なことをやった結果からわかること
であり、現状で妥当に思われることをやって
もうまく行く場合と行かない場合があり、た
とえやっていることがうまくいかないからと
いって、それが間違っているわけでも妥当で
ないわけでもなく、その場の自然な成り行き
に従えば、うまく行く場合と行かない場合の
両方の結果がもたらされても何の不思議もな
く、どちらか一方の結果だけがもたらされる
わけではないということになれば、やってい
ることの妥当性がうまくいったりいかなかっ
たりする結果からわかるわけではなく、うま
くいかなくても妥当なことをやっている可能
性がある一方で、うまくいっても妥当ではな
いことをやっている可能性もあるだろうし、
妥当だと思われても思われなくてもうまくい
っている面といっていない面の両面があれば、
では妥当であるかないかをどう判断すればい
いのかということになってしまうが、それを
妥当だと判断すること自体が、その場の状況
に適合しているように思われるからだろうが、
結果的に正しいように思われたり間違ってい
るように思われても、その場の判断としては
妥当だと判断されたわけで、その場では妥当
だと判断されたことをやって、結果的にうま
くいかなければ判断が間違っていたことにな
るとしても、妥当なことをやったにもかかわ
らずうまくいかなかったということであり、
その場の妥当性とはそういうことだと見なし
ておけばいいのだろうが、少なくとも妥当に
思われることをやればそれなりにうまく行く
可能性が高いように思われるが、逆に妥当だ
とは思われないような無謀なことをやってう
まくいけば、奇跡的にうまくいったように思
われるかも知れず、それもそういうことだと
見なしておけばいいようなことでしかないが、
それ以上の確実性を妥当か否かの判断に託し
ても裏切られるだけだろうし、確実性ばかり
を追求しても大したことはできないのかも知
れず、不確実なことをやって一か八かの賭け
に出ないとならない事態に追い込まれたら、
その時点で妥当か否かの判断そのものが成り
立たなくなってしまうだろうし、そういう意
味では何事においても妥当な判断が通用する
わけではなく、妥当な判断ができる場合とで
きない場合があるのだろうが、そうであるな
らその場の状況や情勢に応じた判断というの
も、妥当な判断とはならない場合もあり得る
わけで、妥当な判断ができない場合にはどう
すればいいかと問われても、その場で判断す
るしかないことになってしまうだろうが、と
りあえず判断するしかなければ、その判断が
正しかろうと間違っていようと、判断して何
かをおこなった結果を受け止めるしかなく、
それが受け入れがたい結果になっても、そう
判断させるような何かに作用や影響を及ぼさ
れて判断してしまったのだろうが、結果が思
わしくなければその妥当性に疑念を抱くだろ
うし、そう判断することが妥当だと思わせる
ような何かの存在を突き止めようとするのか
も知れず、またそこから作用や影響を及ぼさ
れていることに抵抗感を覚えるかも知れない
が、それを特定できなければ漠然とそう思っ
ているだけで済んでしまうかも知れず、ただ
単に世の中の状況や情勢から影響を受けて、
そう判断することが妥当に思われる程度で済
むなら大したことにはならないのだろうが、
そうではなく何か特定の勢力や機関などがそ
う思わせるように仕向けていると考えてしま
うと、そこから大げさな妄想が膨らんでしま
うのかも知れないが、意外とそれが自らもそ
の中に含まれるような勢力となっていたりも
して、それを勢力と呼ぶのも少しずれている
可能性が高いのだろうが、自らが覚える抵抗
感というが自らに起因していることもあり得
ない話ではなく、敵視している勢力に自らも
含まれているからそれが妥当に思われるよう
な判断をしてしまう可能性が生じるのではな
いか。

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彼の声 2020.11.25 「物事の普遍性」

voice-141

 人は様々な物事に依存しながら生きている
が、人が依存できる物事が社会と呼ばれる領
域を形成していて、人が関係する物事の総体
が社会だとしても、人も物事に含まれていて、
物事の関係の総体でもあるのだろうが、それ
らの関係の総体が社会だとしても、何かつか
みどころのない総体でもあり、そこから何ら
かの法則や性質や傾向などが抽出できるもの
の、それが全ての法則や性質や傾向でもない
だろうし、部分的にいえることでしかなく、
絶えずそれ以外の何かがあるのかも知れない
が、それが例外的な物事であるとしても、一
方で何らかの法則や性質や傾向などに当ては
まる典型的な物事もあるだろうし、そうした
典型的な物事がそれについて述べる言説の中
で利用されるわけだが、言説の内容の確かさ
がそこで述べられる典型的な物事から感じら
れるとしても、それ以外の物事からは感じら
れない場合もありそうだが、そういった確か
さが感じられることが言説内容のもっともら
しさにも結びつくのだろうが、そこで述べら
れている典型例のような物事に果たして普遍
性があるかとなると、別に普遍性を求めてい
るわけでもなければ、そんなことは問題とは
ならないわけだが、求めているのが普遍的な
法則や性質や傾向となると、なぜそんなもの
を求めるのか疑問を感じるわけでもなく、何
にでも当てはまるような普遍性というのが、
果たして何の役に立つのかも疑問を抱くわけ
でもないのだろうが、自然にそんなものを求
めているようにも思われてしまい、別にそれ
が何かの罠にかかっていることの証しという
わけでもないのだが、それとは逆にそこだけ
で通用する特殊な事情が相互に関係し合って
社会が構成されている面もあるとすれば、物
事の普遍性がその場で有効に機能しているわ
けでもないのだろうが、機能するとかしない
とかとは別に、単に普遍性があるとかないと
かいえる程度のことであれば、それとは違っ
てその場だけで条件付けられた特殊な機能と
いうのが、そんな機能を有する物事の重要性
を物語っていたりもするわけだろうが、では
なぜ物事の普遍性を強調しなければならない
のかといえば、それがその場だけではなく他
の様々なところで通用する可能性があるから
かも知れないが、通用することと有効に機能
することとは違うだろうし、中には通用して
も有効に機能しないこともありそうだが、そ
れ以前に特殊なこととの対比で、一般的なこ
ともあるだろうし、一般性と普遍性の違いと
いうのもよくわからないところかも知れず、
それが単なる言葉の使い分け程度のことであ
れば、あまり気にする必要もないことかも知
れないが、物事には何らかの目的に特化した
利用法と一般的な利用法というのがあると共
に、その物事だけではなく他の物事にも通じ
る普遍的な性質や傾向があると共に、その仕
組みや動作には普遍的な法則が当てはまる場
合もあり、そうやって様々な法則や性質や傾
向が入り混じりながらその物事が作用や影響
を及ぼしているわけだろうが、そんなことは
理解していなくても、それに依存しながら生
きている人もいる一方で、それをうまく活用
するにはそれへの理解が欠かせない場合もあ
るだろうし、そういうところが一筋縄ではい
かないところなのだろうが、それを無視して
いるわけでもないのに、それについて何かを
語るとなると、そんなことの全てを語るわけ
でもなく、その場の都合に応じて語る内容が
語る対象の全てを語っているわけでもないの
は確かなところであり、語らずに済ませてい
る面があるとすれば、それが単に語っていな
いだけの場合もあるにしても、それに関して
都合の悪いことは意識して語ろうとしない場
合もあるだろうし、それを自覚していない場
合もあるだろうから、一概に都合の悪いこと
は語らない人を責めるわけにはいかないもの
の、その人にとっては都合の悪いことが他の
人が知りたいことになるわけで、それがその
人への批判材料にもなるわけだが、その人が
不利になるようなことは語らないのは当然だ
ろうが、それを暴露してその人が不利な状況
をもたらしたいとなると、そういうことを画
策する人は都合の悪いことを語らない人との
間で敵対関係にあるわけだろうが、そういう
関係がその場だけで通用する特殊な事情に基
づいていれば、その場の有利不利がその場だ
けでしか有効ではないことになるわけだが、
そういったその場だけで通用する事情に関し
て何か言えることがある一方で、そこから類
推してより一般的に言えるようなことも出て
きて、そしてその一般的に言えることを利用
して、さらにその場の事情に合わせて、何か
もっともらしいことを言おうとして、そんな
ふうにして言えることを循環させながら、言
っていることに説得力を持たせて、他の人た
ちから言っていることに関して信用を得よう
とするわけで、そんな術を心得ている人にか
かれば、生半可な人たちはすぐにそういう人
の口車に乗せられて心身を操られてしまうの
かも知れないが、そういった人心を操る言語
術が通用する程度や範囲も、それを利用した
実践の内容にもよるだろうが、それがその場
の特殊事情に依存しているほどその範囲も狭
まるだろうが、その場だけの効果は絶大にな
るかも知れないし、特殊事情に依存していな
いと普遍性を帯びる反面、その程度が薄まっ
て、大したことでもない実践になってしまう
可能性もあり、そういうことに関してはそう
したことの実践例から判断するしかないだろ
うが、巧みな言語術に操られて集団で何らか
の行動に及ぶこと自体が危険な兆候でもあり、
それ自体が特殊な行為に分類されて悲惨な失
敗例として歴史に刻まれるような結果を招い
てしまうことも多いのかも知れないが、そう
いうことが安易におこなわれるような状況が、
それ以外の活動が行き詰まっているから、そ
れが可能となるような事態となってくるのか
も知れず、そうなってしまう成り行きにも何
か普遍的な傾向があるのだろうが、大抵はそ
れだけでは実践に至らずに終わってしまい、
それが実践に移されるには他の事情も絡んで
こないとその条件を満たさないのかも知れな
いし、その条件というのがその場の時代状況
を反映した人や物や情報の動きからもたらさ
れて、何かそれが多くの人々が求めて止まな
い肯定的なイデオロギーとして世の中で機能
することになるのかも知れない。

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彼の声 2020.11.24 「効率的な管理」

voice-141

 官僚的な組織がおこなうことに悪意がこも
っているように感じられるのは、対象を支配
したり管理する意図や思惑が想像されてしま
うからだろうが、表向きに明かされる目的や
意向の裏で邪悪な画策がおこなわれていると
勘ぐってしまうと、それこそ典型的な陰謀論
となって、よくありがちな被害妄想の虜とな
ってしまうかも知れないが、それ以前にそう
なって当たり前の成り行きを想定しなければ
ならないだろうし、それが経済の領域で自然
に起こる成り行きであり、資金の流れが利益
を期待できるところへと集中する一方で、利
益を得られる見込みの少ないところへは回っ
てこない成り行きとなるわけだが、そんな利
益を求めようとする経済的な思惑と、対象を
管理しようとする官僚的な思惑とがどう結び
つくのかといえば、管理コストを削減しよう
とする試みに結びつき、対象の効率的な管理
運営を目指そうとするのだろうが、無駄をな
くして効率的なことをやろうとすることが、
もっともらしくて正当かつ合理的なやり方に
思われるのは当然のことであり、それが目的
や目標としても充分に支持される理由となる
にしても、それが官僚機構の利益となるよう
に無駄を削減することになれば、官僚機構の
管理対象となっているのが人であったりする
と、その人が官僚機構が利益を得るには無駄
な人である可能性も出てくるわけで、そうな
ればその人のために無駄なコストはかけられ
ないことになるだろうし、その人が管理対象
としてはふさわしくないと判断されれば、そ
の人に対してそれ相応の措置を講じなければ
ならなくなり、例えばそれが香港の民主活動
家に対する措置となったり、あるいは反抗的
なウイグル人やチベット人に対する措置とな
ってしまうのだろうが、中国ではそういうあ
からさまな事例もある一方で、日本ではそれ
が生活保護申請にやってきた人に対する措置
となったりもして、より程度が軽くても陰湿
さが増してしまうのだろうが、そこで利益を
求めるための功利的な手法が合理的なやり方
だと思われているのかも知れず、功利性と合
理性の違いがよくわからなくなっているのか
も知れないが、何に対して功利的であったり
合理的であるのかが対象の違いとなって表れ
て、官僚機構側と官僚機構にとっての管理対
象や統治対象となっている人々との間で、利
害が対立する面が出てきて、それが功利的な
面では相容れないわけだが、合理的な面では
どうかとなると、何のために官僚機構が存在
しているのかが、そこに関与してくる人や勢
力の立場の違いによっても変わってくるとす
れば、やはり合理的な面でも対立するところ
が生じてくるのかも知れないが、何が合理的
なのかというとよくわからないところでもあ
るわけで、利害よりも優先されるべきところ
で物事の合理性が絡んでくれば、それが損得
勘定抜きでやらなければならないことにもな
ってくるのだろうが、各人や各勢力の利益を
優先させると理に適ったことができなくなる
とすれば、合理的なやり方などあり得ないこ
とになり、どうすれば合理的になるのかわか
らなくて当然となってしまうのかも知れない
が、弱い立場の人を助けても利益にはならな
いのは明白で、功利的には弱肉強食の論理が
まかり通ってしまうわけだが、それをひっく
り返すことはできないだろうが、そういうと
ころで非情なことはやらないのが、人である
ことの証しとなり、利害を無視した非効率で
非合理なことをやってしまうわけで、それが
合理的かどうかというよりは、功利性を追求
する弱肉強食の論理に逆らってしまうことに
合理的な理由など見当たらず、それによって
他人が悲惨な目に遭っているのが我慢ができ
なくなってしまうのだろうが、その弱い立場
の人が悲惨な目に遭っているのを放ってはお
けない感情というのが、功利的な論理の外側
から合理的に働く自然の作用となるわけだろ
うが、そうなって世の中が功利的で効率的に
なることが阻害されるとしても、バランスが
とれているようにも感じられるだろうし、弱
い立場の人でも生きていけるような余地もも
たらされるのだろうが、それによって弱い立
場がなくなるわけでもないし、依然として功
利性を追求する試みが進められて、それに成
功した人や勢力が利益を得ることになり、そ
れ一辺倒な傾向を推し進めるわけだが、中に
はそういうやり方がうまくいかなくて失敗し
てしまうところも出てくるわけで、そういう
方面で無駄で非効率な面が残るとしても、そ
ういう面をなくそうとする試みとそれがうま
くいかない結果とがもたらされて、絶えず両
面からのせめぎ合いが続けられるのかも知れ
ないが、それが続いている間は無駄で非効率
な面が維持されていて、それに依存しながら
生きている人も存在する余地が生じて、そう
いうところで世の中の多様性も維持されるの
だろうが、それによって定常状態がもたらさ
れているわけではなく、絶えず何かと何かの
せめぎ合いの中で状況が変動し続けるわけで、
そういうところでは功利的な思惑から効率的
な環境を造ろうとする思惑も絶えず働いてい
るだろうし、実際にそういう試みをおこなっ
ている人や団体による活動が続いている場合
もあり、そういう試みを推進するような成り
行きになっていれば、そこで非効率で無駄な
ことをやっている人たちは劣勢に立たされて
いるわけだが、それらの人たちにとってはや
っていることをやめさせられては困るわけだ
から、必死になって抵抗するわけで、そうい
う成り行きの中で起こっている対立や争いを
中立な立場から合理的にどうすればいいか判
断できるようなことにはならないのかも知れ
ず、結局はそういう争いの中で劣勢に立たさ
れている側の味方をしてしまうのが人として
の人情のようにも感じられるだろうし、それ
が合理的な判断に基づいているかどうかはわ
からないところだが、苦しんでいる人たちを
助けるように仕向けるのが、そこでまかり通
っているもっともらしい論理の外側からもた

らされる合理的な作用なのかも知れず、そう

した論理の行き過ぎに歯止めをかけるために

自然からもたらされる作用なのかも知れない。

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彼の声 2020.11.23 「信仰の揺らぎ」

voice-141

 それがその人の勝手な思い込みに過ぎない
わけではなく、それを自覚できるような環境
の中で、その人の役割分担がはっきりしてく
ると、それを安定的に機能させるべく、立場
が自ずから固定されてくるような成り行きも
生じてきて、さらにそういう定まった立場を
積極的に守り維持しなければならないという
意志も自ずから生じてくるのかも知れず、そ
の場の状況に伴ってそんな成り行きに導かれ
てしまう場合もあるのだろうが、そこで何が
その人を導いているのかと言えば、その場の
成り行きから生じる意志が導いているように
思われるかも知れないが、それが誰の意志に
なるかというと、そんな成り行きに導かれて
いる自らの意志だと思いたいのだろうが、自
らが自らの立場を守り維持しようとしている
のが、自らの意志でそうしていると思いたい
わけで、何をやるにも自らの意志で行為を遂
行していると思っているわけでもないだろう
が、そう思ってもかまわないような成り行き
が生じると、そんな成り行きへと自らを導き
たいと思うのかも知れず、それが自らの傲慢
さの表れだとは思えなければ、そんな意志の
どこに謙虚さが表れているのかといえば、周
囲の状況と折り合いをつけながらも自らの意
志を貫き通そうとしている配慮からかも知れ
ないが、誰がそうしているのかといえば、や
はり自らが積極的にそうしていると思いたい
のだろうが、そう思っている限りで自らを取
り巻く社会の存在を意識できるのかも知れず、
普通はそんな漠然としたことではなく、実際
に何らかの組織的な団体に所属していれば、
否応なくそれを意識するのかも知れないが、
実際にそうなったとしても、まだ拭いがたい
疑念が残ってしまう場合もあるだろうし、そ
れが何かによって操られているのではないか
という疑念かも知れないが、自らが何によっ
て操られているのかといえば、それが信じて
いる何かだとすれば、実際に自らが何らかの
主義主張を信じていれば話が早いだろうが、
信じている何かに操られながら行動している
ことと、自らの意志に基づいて行動している
ことを、どう折り合いをつけるかとなると、
自らの意志で何らかの主義主張を信じている
と思うしかないだろうし、はっきりとはそう
思わないにしても、行動の指針となる何らか
の主義主張を自ら編み出したつもりになれれ
ば、自らの意志に基づいて行動している実態
を維持できるだろうが、それが自ら編み出し
たのではなく、外部からもたらされたものを
信仰するようになったとなれば、そこで自尊
心が傷つき揺らいでしまうわけでもないが、
何の抵抗感もなくそういった信仰の類いを受
け入れるはずもなく、何らかの紆余曲折を経
て信仰するようになるのだろうが、激しい拒
否反応に抗って信仰するようになると、それ
だけ強い絆で信仰と結ばれて、頑なにそれを
信仰するようになってしまうとしても、それ
も信仰の内容にもよるだろうが、それがその
人の思考や行動の何から何まで完全に支配す
るような信仰であれば、それだけ戒律の厳し
い宗教の類いを信仰していることにもなるだ
ろうが、それが組織的な教団の類いを伴った
宗教になると、一般の信徒と指導者的な立場
との間で戒律の厳しさにも格差がついている
場合もあるだろうし、それは一般の社会でも
ある程度はいえることかも知れず、何かしら
行動を律する規範や慣習などに縛られる度合
いの強い立場とそうではない立場というのも
あり、それが誰にでもわかるようにはっきり
と示されているわけではないとしても、周り
の多くの人たちから注目されるような立場に
なればなるほど、世間の目を気にするように
仕向けられて、他から非難されるようなあく
どいことは大っぴらにできないような成り行
きになってしまうのかも知れないが、あくど
いことをやらないとそういう立場にはなれな
いとなると、人目に隠れてあくどいことをや
って、立場を手に入れるような矛盾した成り
行きになってしまうのかも知れず、またそう
いう立場になればなるほど、そんな立場を利
用してあくどいことをやるような誘惑も強く
なってきて、結局あくどいことをやりながら
もそれを隠しながらやるような成り行きにな
ってしまうと、人目に隠れてやっていること
と世間に向かって見せている姿との落差が甚
だしくなり、ついには悪事が暴露されて破滅
に追い込まれるような結果がもたらされるの
かも知れないが、果たしてそれが自らの意志
でやっていることだと言えるかとなると、普
通はそう受け取られてしまうだろうが、その
一方で社会の構造自体がそういった善と悪の
二面性を併せ持つ両義的な人物を生み出すよ
うにできている可能性もあり、また何らかの
信仰を生み出すような主義主張を社会が受け
入れられるようにするための仕組みが、団体
として組織的な構造を伴って現れるような成
り行きもあるわけで、そういう構造にとらわ
れてしまうと、その中で権力的な力関係と共
に善と悪とを併せ持つような立場や役割分担
も生じてきて、個人がそんな役回りを担わさ
れて、そういうことをやるようなことになっ
てしまうと、そんなことをやっている人物が
それを自らの意志に基づいてやっていること
になるのか、あるいは組織的な役割分担から
そういうことをやる役回りを担わされてやっ
ていることなのかが、どちらとも言えるよう
なことになってしまって、そういう場合には
理由や原因がどちらであってもかまわないの
かも知れないが、そうなるとその人の自発的
な意志というのもその程度の受け取られ方し
かされなくなって、その人にそういうことを
やる意志があろうとなかろうとそうなってし
まう可能性があるともいえるだろうし、その
人の意志に関係なくそういう立場になってし
まえば自動的にそうなってしまうのであれば、
中にはそうはならない人もいるとしても、そ
うなるかならないかはその人の意志の強さだ
とか良心や良識を持ち合わせているか否かだ
とか、そういうことはあまり問題とはならな
くなってしまうのかも知れないが、人によっ
てそういったことに関する信仰の揺らぎが生
じていて、それがその場の偶然の巡り合わせ
によって生じてくると捉えておくのが無難な
ところかも知れないし、それによってその人
の信仰に対する思い入れの強弱や激しさにも
違いが生じてくるのかも知れないが、信仰へ
の依存やのめり込みが激しく強い人ほど、そ
れだけ善悪の二面や両義性が顕著に現れてく
るのかも知れない。

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彼の声 2020.11.22 「国家と市民社会」

voice-141

 視線の移動が思考する対象を変えてその範
囲も変えることに結びつく場合もありそうだ
が、物事の結果から判断するとなると、それ
を否定するなり肯定するなりして判断した範
囲内では、それに対する自身の都合を考慮し
た印象が伴ってしまい、結果に至る途中の段
階で考えていることが、結果を恣意的に評価
した印象とは違っていても、結果の良し悪し
を自身の都合に基づいて決めつけて安心して
しまった後では、そこに至る途中の過程にお
いて考えていたことが無視されて、思考の対
象となる物事への謙虚な姿勢を保てなくなっ
てしまいそうだが、そうなる手前の段階に留
まる必要があるわけでもないだろうし、その
必要がないから急いで結果へ至ろうとしてし
まうのだろうが、そうなってしまう途中で思
考することに何の意味があるのかよくわから
ないところでもあり、いったいそこで何を思
考の対象としているのかを捉え切れていない
ような気もするのだが、少なくとも考えてい
るのはそれについてであり、それが何なのか
を考えているつもりで、しかもそれが何なの
かよくわかっていないのかも知れないが、そ
の辺をどう語ればいいのかもよくわかってい
ないのかも知れず、それに関してはっきりし
たことを語れないような気もしないではない
が、そういうことの延長上で語っているので
あり、国家と同等の存在として市民社会があ
るわけでもなく、どちらがどちらの前提とし
て存在しているわけでもなく、どちらも語る
側の都合に応じて持ち出されてくる虚構でし
かあり得ないのかも知れないが、それらがあ
ることを前提にして語ってしまうと、本当の
ことを語っていないことになってしまいそう
だが、それらを考慮した結果として語られる
ことが、話の辻褄が合うように論理的な整合
性を考慮した内容にしたいのであれば、思考
の連続性を打ち立てようとする都合に応じて、
国家と市民社会とが強固に結びついて、どち
らがどちらに含まれるとしても、何かそこに
しっかりした構造的な関係も生じているよう
にも語られてしまうのかも知れないが、別に
それが思い違いでも錯覚でもなく、その通り
の歴史的な経緯や成り行きも見出されて、社
会の進化に伴って国家や市民社会が出現する
ことになるのだろうが、現状を肯定したり否
定したりするのに都合が良いような経過を伴
いながらそういうことが物語られるとしても、
それを本当の話として受け止めてもかまわな
いのかというと、本当か嘘かという判断その
ものが意味のないことかも知れないし、そう
いうことが事実としてあることを前提として
そんな話があるわけだから、本当であること
が当然のこととしてそういった話が語られる
わけで、それを嘘だとか作り話だとか言うこ
と自体が、当然のことを当然のこととは思わ
ない態度になっていて、それが本当であるこ
とを前提として成り立っている結果から考え
るなら、意味のないあり得ない態度でしかな
いわけだが、そういった当たり前の前提に対
して異議を唱えたい人や勢力が世の中には結
構の数で存在しているのかも知れず、その表
れとして顕在化してきたのがいわゆるトラン
プ旋風とか現象とか言われていたものかも知
れないし、それらの側に属している人たちが
それをはっきりと自覚しているわけでも意識
しているわけでもないのだろうが、それらの
人たちが騒ぎ立てた結果として見えてくるも
のが、現状でそれを意識していなくても前提
となっている国家と市民社会の強固な結びつ
き自体が嘘なのではないかという疑いであり、
政府が統治しているつもりになっている国家
自体の虚構性でもあり、市民社会が無政府状
態でもやっていけるかも知れないという資本
主義から生じる実態なのかも知れないが、愛
国心に駆られて行動している人たちが実は無
政府主義者であったとは当人たちも誰も思っ
ていないはずだが、そこであらわとなってい
る実態が国家も市民社会も無視しているよう
にも見えてしまい、何か逆説的に真実を暴き
立てるような行動に導かれて、それと自覚す
ることなくそれらの虚構性を見せつけてしま
ったのだろうが、もちろん国家と市民社会の
存在を当然視している人たちはそこから目を
背けて、彼らが見せつけた虚構性の原因が彼
らの行動の誤りに起因していると信じ込もう
としているわけで、どちらにとっても受け入
れがたいことには目を背けて無視しているの
だろうが、別にそれが態度として間違ってい
るわけではなく、それどころかそう見ること
が正しい見方であり、正しい視点から正しく
状況を見るならそうなって当然のことなのだ
ろうが、彼らにとっては間違った視点から穿
った見方をするなら、どちらもが虚構の構造
に思考がとらわれていて、物事の本質から目
を背けているから、それ以上の状況の進展が
望めないのかも知れず、ではそれ以上の進展
というのがどのような進展なのかと言えば、
彼らの求めているものが国家の中にも市民社
会の中にもないということが明らかとなる事
態への進展であり、そうなれば虚構の構造で
はない実質的な真実の構造を構築しなければ
ならなくなるのかと言えば、それは構築する
ようなものではなく、すでにそこに存在して
いるものであり、それが確固とした構造とな
っているとは限らず、例えば状況の変化に合
わせて柔軟に変形し続ける流動体のような構
造とはいえない捉えどころのない形態をなし
ていて、現状では思考の対象とはなりがたい
何かであり、今のところはそれについて考え
ることができないから、その代わりに虚構の
構造を前提として社会の枠組みを捉えておく
ことしかできないのかも知れないが、そこか
ら世の中に対する誤解や錯覚も生じていて、
それが副作用となって無用な対立や争いを生
じさせていると考えることもできるだろうが、
はっきりとはそう言い切れないような傾向も
あるのかも知れず、それが無用であるどころ
か有用で必要な対立や争いである可能性もあ
るだろうし、それがないと現状の世の中が成
り立たないと捉えるなら、それをなくせば現
状の世の中とは違う世の中が実現するのかと
いうと、それを簡単にはなくせないから現状
の世の中が続いているともいえるわけで、そ
ういうところからも現状の世の中を変えよう
とすることの困難さがうかがい知れるかも知
れないが、無理に変えようとするのではなく
自然と変わるのかも知れないし、それが実際
に変わってみないことには何とも言えないが、
変わったところでそれに気づかないのかも知
れないし、すでに変わりかけているのに誰も
それに気づいてもいないのかも知れない。

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彼の声 2020.11.21 「貨幣の機能」

voice-141

 何か特定のものに何ものにも代えがたい価
値があるわけでもなければ、価値とは希少価
値とは違う価値かも知れないが、他の何とで
も換えられると交換価値があることになるわ
けで、何と何を交換できるのかと言えば、商
品と貨幣を交換するのが、普通に世の中でお
こなわれていることだが、貨幣に何ものにも
代えがたい価値があるとすれば、それは商品
と交換できるからだろうが、貨幣と交換でき
るのは商品に限るとなると、貨幣と交換でき
るのが商品以外にはあり得ないのかといえば、
貨幣と交換できるからそれが商品になるわけ
で、貨幣と交換できなければ商品とはいえな
いが、価値がなければ貨幣とは交換できない
し、その場合の交換とは等価交換になるはず
だが、同じ価値があるという前提で交換が成
り立つのだが、どこまでいっても貨幣の価値
とは交換価値のことであり、それが貨幣の使
用価値なのかも知れないが、他の何かと交換
することでしか手に入らないのが貨幣だとす
れば、貨幣を入手するには貨幣と交換できる
ものを用意しなければならないわけだが、交
換とは違って貸し借りするとなると、貸して
くれる相手を信用させるには担保となるもの
が必要となり、担保となる物件と貨幣を交換
できることが前提となって貨幣の貸し借りが
成り立つわけで、何かと交換できる前提がな
いと貨幣を手に入れることはできないのだろ
うが、普通は貨幣と交換できるものを生産す
ることになるわけで、それが商品の生産とな
るわけだが、そこからしか経済活動が始動し
ないということであれば、それがわかりやす
い経済の理屈になるはずだが、中には貨幣そ
のものを生産すればいいという安直なことを
考える人もいるわけだが、貨幣と交換できる
商品を生産することと貨幣そのものを生産す
ることとの間にどのような違いがあるかとい
うと、貨幣をいくら生産しても貨幣と交換で
きる商品が増えるわけでもなければ、貨幣の
価値が下がってインフレになるしかないわけ
だが、増えた貨幣を使って商品を生産すれば
商品を増やすこともできると考えられるが、
直接的には増えた貨幣を商品との交換に使え
ば経済が活性化すると考えるわけだろうが、
何かそこで物事の順序が逆なようにも思われ
て、果たして貨幣の供給量の調整だけで政府
が経済を制御できるのか疑わしく思われて、
結局政府というのは人や企業の経済活動に寄
生しているだけの存在なのではないかという
疑惑もあるわけで、そうであれば商品との交
換アイテムでしかない貨幣の供給量をいくら
調整したところで、経済がどうなるわけでも
なく、だからといって経済の全てを政府で管
理運営するような社会主義的な試みがうまく
いかないことも、20世紀の社会主義国の失
敗によって明らかとなっているわけで、何か
そういうところで一方的に政府主導でどうに
かできるわけでもない世の中の構造があるの
かも知れないが、現に各国の政府が存在して
いるのだから、通貨を発行する各国の中央銀
行も存在しているし、全てを支配して管理す
るような機構にはなっていないものの、分権
的にそれらの機構の役割分担に応じて機能し
ていることは確かであり、そういった機能に
応じて世の中に介入できるわけで、そうであ
れば全てを管理して制御できるような妄想は
捨てて、力の制限を伴った働きかけの範囲内
でやれることがある程度の認識にとどめてお
くしかなく、現状でおこなわれているのもそ
ういうことだと受け止めておけばいいだろう
が、そうはいっても政治の領域で主張する内
容となると、政治主導で効果的なことができ
ると主張するしかないだろうし、そうした主
張に基づいて政治がおこなわれて、それなり
の成果がもたらされる場合もあるだろうし、
そういう政治的な試みに期待を寄せて幻想を
抱くこともできるわけで、それを幻想だと断
じるのは、ある程度は正しいとしてもある程
度は間違っていて、それなりに成果が上がれ
ば幻想ではなかったことになるだろうし、そ
ういう面では政治に期待を寄せてもかまわな
いどころか、実際に何らかの勢力の政治的な
主張を支持して、その勢力を応援するのが普
通の成り行きになるだろうし、そういった活
動に民衆が期待を寄せている限りで政治が成
り立つのだろうが、実際におこなわれている
政治によって世の中がどうなっているかも、
それらの活動を評価する上で判断材料になる
にしても、少なくとも現状で何らかの社会的
な均衡や安定がもたらされていれば、そんな
均衡や安定に寄与している要素として、政府
や地方自治体による行政活動や議会や政府内
の政治活動なども、人や企業の経済活動や社
会活動などと共に、それなりの作用や影響を
世の中に及ぼしているはずで、そういう面は
無視できないし、それと共に人間の活動以外
の自然現象も世の中に多大な作用や影響を及
ぼしているはずだが、そんな中で貨幣の機能
を利用した働きかけが世の中にどれほどの作
用や影響を及ぼすことができるかは、現状で
は不確かで不明確な面もあるだろうし、そう
いう働きかけを実際にやった結果から判断す
るしかないだろうが、実際にそういう働きか
けを試みる段階に至らないと、どうにも判断
しようがなく、未だにそれを主張している段
階に留まっている限りは、その成果に期待を
寄せたり幻想を抱くことしかできないだろう
し、そういう意味では主張するだけでは限界
があり、実際に世の中に作用や影響を及ぼそ
うとするにも、主張するだけでは微々たる程
度に留まっているのだろうが、それが主張す
るだけに留まったまま世の中の変化に伴って
次第にフェードアウトしてしまうか、あるい
は何かのきっかけからそれを試みる機会が巡
ってくるかは、現状では何とも言えないとこ
ろだろうが、そうなってもならなくても現状
でもそれなりの均衡や安定がもたらされてい
るし、そんな中でも不利益を被ったり不遇を
強いられている人たちはそれ相応の不満を抱
いているのだろうが、そんな人たちも世の中
の情勢の変化に応じて入れ替わり立ち替わり
現れては消えてしまうような成り行きにとら
われていて、客観的に見れば人も集団も相対
的な存在でしかないし、それらの一部が時に
は栄華を誇るような成り行きにもなるだろう
が、それも一時的に達成される相対的な栄華
でしかなく、強引にそういう状態を目指すよ
うな成り行きに持って行こうとするのも、と
もすればそうなりがちになるとしても、結果
的には虚しい試みに終わるだけかも知れず、
そういう行為が批判の標的になりやすいとし
ても、また賛同者を募って一緒になって批判
するような成り行きも、それだけで終わって
しまう可能性もなきにしもあらずなのではな
いか。

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彼の声 2020.11.20 「危機的な状況」

voice-141

 それに関して何を知っているわけでもなく
ても、何も知り得ないわけでもなく、すでに
何かしら知っていて、周知の事実となってい
ることもあるはずだが、その知っていること
というのが浅はかなデマや噂程度のことであ
れば、信じるに足るようなことでもなく、そ
れだけでは何がどうなるわけでもないはずだ
が、そこに憎悪や嫉妬などの否定的な感情が
絡んでくると、執拗な粘着質を伴って攻撃力
が増して、デマや噂話の対象に向かって攻撃
を呼びかけて、そんな呼びかけに応じて決起
してくれる群衆を動員できれば、社会に対し
て破壊的な作用を及ぼせるはずだが、実質的
にはメディア上やネット上のことだとしても、
やりたいことには常に正義がついて回り、そ
れが正義の行為であるかのように見せかけた
いのであり、それを一緒になっておこなう賛
同者を絶え間なく募っているわけだが、わか
りきっていることの大半がその程度の範疇で
あれば、ではまだわからないことが深刻で重
大な危機を社会にもたらす危険性があるのか
といえば、それもそうなるかのように見せか
けたいのであり、世間の危機感を煽りたいわ
けだが、実際に危機的な状況をもたらす原因
がそれとは別のところにあり、大自然の猛威
といった類いの感染病や気候変動や天変地異
などの自然現象なのだろうが、それに人災も
絡んでくるのだろうし、危機的な状況に政治
や行政がうまく対応できないことから、人災
がもたらされると思いたいのだろうし、誰が
そう思っているのかといえば、危機的な状況
をもたらした犯人を特定したい人たちがそう
思いたいわけだが、それを政治や行政のせい
にしたいわけで、それらに対する批判に利用
したいわけだが、そういう行為が悪いわけで
はなく、それどころか極めてまっとうな行為
なのかも知れないが、すでに政治の領域でそ
ういうことがおこなわれていて、多くの一般
人もそれに巻き込まれているはずで、中には
積極的に政治参加したい人もいるだろうし、
そういう人たちが政治的な発言に賛同したり、
自身も政治的な主張をおこなっているのだろ
うし、そこから距離を置く必要もないのかも
知れないし、危機的な状況に際してやりたい
ことがやれるようになるわけだが、それが本
当にやりたいことだったのかどうかは、結果
的にそう思われたり思われなかったりするよ
うなことでしかないとしても、そこから明ら
かになることがそれ以外にないのかといえば、
それを知りたいとは思えなくても、知ろうと
するではなくやろうとすることであり、危機
的な状況を利用して利益を得ようとすること
がやりたいことであれば、平時ではできない
ことが危機的な状況の中ではできるようにな
るはずだが、結果的には利益を得ることに成
功する人も失敗する人も出てくるだろうし、
誰もが危機的な状況を利用して利益を得られ
るわけでもないのだろうが、誰もがあわよく
ば利益を得たいのかも知れず、そのために危
機的な状況を利用したいわけだが、そんな功
利的な魂胆を見透かされて、逆に利益を得る
目的に利用されてしまう人も出てくるだろう
し、実際にそんな思惑からおこなわれるキャ
ンペーンに踊らされて、利益を得るどころか
損害まで被ってしまえば、そんな邪な魂胆が
逆に危機的な状況を招いてしまったことにな
り、他人の不幸を利用して利益を得ようとす
ること自体がありふれたことだとしても、そ
れを逆利用されてしまう危険性もあるという
ことであり、そんなあまりにもわかりやすい
成り行きをそのまま真に受けて、自身の行動
に結びつけようとしてしまうのは、それ自体
が他人の仕掛けた罠に喜び勇んで飛び込んで
いってしまうような愚かな行為なのかも知れ
ず、そういうところで戦略のなさや思惑や魂
胆の浅はかさが露呈してしまうのだろうが、
危機的な状況の中で試されているのが、それ
に対処しようとする個人の力量でしかないと
すれば、それも事を単純に捉えすぎているよ
うにも感じられて、もっと何か世の中で暮ら
している人々の無意識に絡んだ現象が起こっ
ているようにも思われるわけで、それが意図
せず自覚できないような共同作業となって表
れていて、そこで人々の無意識の連携や協力
が実現しているのかも知れず、それによって
世の中が次第に良くなって行けばいいのだろ
うが、たぶんそういうことがメディア上では
明らかにされない方が世のため人のためにな
るのかも知れず、逆にメディア上で明らかに
されることはといえば、経済的な利害に絡ん
だ人や集団の愚かで浅はかな振る舞いや行動
でしかなくてもかまわないのであり、そうや
ってそこへと介入してくる人や集団が危機的
な状況の中で目先の利害に目がくらんで争い
続けているうちに、危機が過ぎ去ってしまえ
ば、さっさとそんなことは忘れて、また通常
通りに振る舞おうとしてしまうのだろうし、
そこで危機以外には何事も起こらなかったこ
とになってしまうのかも知れないが、それで
かまわないのであり、人々の無意識の連携や
協力など何も起こらず、そこで意図せず自覚
できないような共同作業がおこなわれていた
などとは思わなくてもかまわないのだろうが、
個人が独自に抱く意図や思惑と共に集団意志
のような表れとなって人々の間で共通の意図
や思惑も抱かれるとしても、それらが相互に
作用を及ぼし合いながら社会が形成されてい
るわけだから、その中で特定の意図や思惑を
浅はかだとか愚かだとか断じるのは間違って
いるのかも知れず、語る上では様々な意図や
思惑を比較して何が良くて何が悪いかと語り
がちになってしまうものの、本当のところは
それらが入り混じって一定の傾向を見せてい
る面もあり、その中では別に否定的な意図や
思惑や感情を抱いていても、それがその人の
浅はかさや愚かさを感じさせるのだろうが、
その人だけが他から分離して存在するわけで
もないし、他の人や集団との相互作用の中で
そういう傾向を見せているだけだと解釈する
なら、その人だけを悪く言うこともないわけ
で、その人と関係する他の人や集団との関わ
り合いの中から、その人の役割分担として悪
く見られるような面が際立ってしまうわけで、
そういう意味ではその人が割を食っているわ
けだが、ある意味ではそういう人は社会の犠
牲者なのかも知れず、人から非難されて悪く
言われるような立場や境遇に陥っているとも
いえると共に、その代償として政治的な実権
を付与されていたりもして、その差し引きが
プラスなのかマイナスなのかは定かでないだ
ろうが、別にそういうところまで考慮しなく
てもかまわないような世の中となっているこ
とも確かなのかも知れない。

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