彼の声

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彼の声 2026.5.8 「現象学への反駁」

voice-174

 いきなり提示される哲学的な問答の類いに
はアレルギー反応が伴うのも、結構な割合で
誰もが拒否したくなる感触を伴ってそう感じ
るところかも知れないが、狂気は存在するが
何ほどのものでもないと現象学は言うけれど
も、実は言わなければならないのはその反対
で、狂気は存在しないが、だからといって何
でもないわけではないということだからだ、
という文章をどう解釈したら良いのかという
と、現象学は事象そのものへ向かい、狂気的
な体験も一つの生きられた体験として捉えた
上で、狂気を客観的な異常や欠如として解釈
するのではなく、その人なりの狂気の世界は
存在していると認めるが、しかし、それは同
時に狂気を理解可能な世界という視点に還元
してしまう危険性があり、患者の狂気を、彼
にはそう見えているんだね、と健常者の認識
の枠組みの中で処理し、その徹底的な他者性
や、既存の理性体系を崩壊させる力を過小評
価している、という批判であり、それに対し
て、狂気は存在しない、という意味での狂気
とは、客観的な病気や実体として最初から存
在するものではない、という意味で、狂気は、
社会や理性、医学的言説によって正常が定義
された結果、その裏返しとして創り出された
カテゴリーに過ぎないという視点であり、確
かに実在はしないが、そうかといって無視で
きないわけではなく、狂気は実体としては存
在しないが、それが存在しないものとしてレ
ッテルを貼られ、隔離され、支配されるとい
う効果や現実は猛烈に存在していて、この言
説は、狂気を外側にある異物としてではなく、
社会の内部で、正常という幻影を維持するた
めに抑圧されている、もう一つの真実の形と
して捉えるべきと主張しており、実在せず実
体がないからこそ、逆に、理性が何でもない
と片付けようとするのに逆らって、何でもな
いわけではない、無視できない、根源的な力
を秘めている、という逆説で意識され、この
視点は、椎名麟三のような文学的な人間描写
における絶対的な疎外や言葉の崩壊の経験と
も響き合うものだそうで、なるほどAIによ
る解説は上手いと感心してしまうが、お手並
み拝見はこれくらいにして、では、統治する、
は、君臨する、と同じではなく、指揮する、
とも、法をなす、とも同じではなく、法をな
す、とは要するに、私が法律だ、と振る舞っ
て他の者たちを従わせることを指し、これに
対して統治するとは、主権者である、封建君
主である、領主である、判事である、将軍で
ある、地主である、師である、教師であると
いったことと同じではなく、つまり統治する
ということには何か特有なところがあり、こ
の概念がカバーする権力はどのようなものか
がわかる必要がある、という文章をどう解釈
したら良いのかというと、統治する、という
概念を、君臨、指揮、法作成、あるいは封建
的な支配形態である、主権、領主、判事、指
導者と区別して理解しようとする視点は、ミ
シェル・フーコーが提唱したガバナンス=統
治性の議論に極めて近い、非常に本質的な洞
察で、統治する、は、私が法律だ、と強制す
る暴力的な支配や、絶対的な命令とは異なり、
この概念がカバーする権力は、法をなすこと
が対象とする人間を従順な主体として扱うの
に対し、統治は対象を行動主体として扱い、
領土を支配し、臣民に服従を強いることでは
なく、人口の健康、福祉、産業、習慣など、
生活の細部にわたって管理し調整する権力で
あり、住民の生活そのものへと働きかけ、人
人の行動や、彼らの行動しうる範囲を構成し、
富の増大、健康、秩序といった、より良い方
向へと導く手法で、また、指揮することが直
接的な、〜せよ、という命令であるのに対し、
統治は間接的な手法を用い、フーコーはこれ
を、行動の行動に対する指導、と呼び、人々
が自発的に、統治者の望む行動をとるように、
環境や状況を設計し、統治は、対象となる人
間の自由を奪って従わせるのではなく、対象
の自由や主体性を前提として、なおかつ、そ
の自由を機能させることで、結果的に秩序を
維持し、また、教師、師などの指導的な要素
は含みつつも、それらと異なる点は、この権
力が技術=ガバナンス・テクニックであると
いう点で、警察、統計、経済政策、公衆衛生、
教育など、人々の生活を内側から制御する、
ソフトパワー的な手法を用い、単なる権力闘
争ではなく、いかに効率的、かつ合理的に人
人を統治するか、という知に基づいていて、
統治するとは、個人・集団などの自律的な主
体が自発的に秩序に適応する環境を作り出し、
彼らの行動を導くことで、人口の福祉と国家
の安全を同時に最大化しようとする合理的な
権力技術であり、これは、私が法律だ、とい
う法主権的な権力ではなく、あなたの生活を
豊かにするために、私は環境を管理・整備す
る、という、現代的なガバナンスの核心部分
だそうだが、ちょっとフーコーから離れて、
自分が統治に関して念頭に置いているのは、
特にそう意識している人は少ないどころか、
大半の良心的な人々は、それとは逆のことを
絶えず考えているのではないか、と普通に考
えられることで、それが、現状の世界情勢か
らなし崩し的に否応なくそうなってしまうよ
うなことであり、それは、貧富の格差の拡大
傾向をそのままにしても構わないような統治
手法へと、各国の政府の統治が自然にそうな
っていくのではないか、と考えられるのだが、
それについては、貧富の格差拡大を前提、あ
るいは容認した上で、社会的な混乱を避ける、
または維持するための統治手法として、主に、
市場原理を最優先し、結果の不平等を、自己
責任や能力の差として正当化する構造に基づ
いていて、それを悪く言えば、新自由主義的・
市場絶対主義的な構造改革と捉え、労働市場
を流動化させ、それを批判する人はすぐに非
正規雇用の拡大に結びつくと批判するのだが、
法人税の引き下げを行い、企業や富裕層の活
動を最大化し、格差は個人の能力や努力の差
であるとし、これも個人の生まれ育った環境
や経緯に左右されることだから簡単に批判で
きることだが、政府による積極的な所得再分
配は労働意欲を削ぐとして抑制し、富裕層や
大企業が富めば、最終的には低所得層にも利
益が浸透するというトリクルダウン理論の前
提に基づき、これもそうはならないとさんざ
ん批判されてきたことだが、上層への投資を
優先し、公的サービスの縮小と、民営化を進
めて、小さな政府への転換を促し、医療や介
護、教育の自己負担分を増やして、公的支援
を自助で補う形にして、社会保障費を削減し、
生活保護などを厳格化し、真に生存が困難な
層への限定的な支援にとどめて、セーフティ
ネットを限定化し、機会の平等を強調して、
結果の平等ではなく、機会の平等さえあれば
十分である、というナラティブ=語りを社会
に浸透させ、格差は能力が高い人間が報われ
る正当な結果であるとし、格差に対する不満
を個人の成長意欲へ転換させて、能力主義を
強調し、経済的不安を煽ることで、現状維持
を望む心理や、格差是正を求める富裕層や大
企業への増税などへの反発を生み出して、不
安の誘発と団結の阻害を狙い、世代間、雇用
形態間などの貧困層や中産階級同士の対立を
煽り、統治者への不満の矛先を分散させて、
不満の分断を図り、格差拡大に伴う治安悪化
に備え、警察力や監視システムを強化し、反
政府的な動きを早期に封じ込め、これらの手
法は、経済成長や競争力の強化をもたらす可
能性があるが、同時に持続的な格差の固定化、
社会的な不平等の拡大、貧困の連鎖を招くリ
スクが指摘されており、資本主義の矛盾によ
り、こうした手法は長期的には社会の安定を
揺るがす可能性があるため、不平等是正との
バランスを模索する意見も多くあるそうで、
さすがのAIも無理難題を問えば、容易に批
判しやすい回答しか出すことができないよう
だが、フーコーが『監獄の誕生』などで指摘
したような、刑務所の制度が、囚人が更生す
るどころか、再犯を助長するだけで、かえっ
て犯罪の温床になってしまうとか、さんざん
その欠陥や不具合を指摘され続けながらも、
いまだに社会の秩序を維持するなどの一定の
機能を果たし続けて、制度に関わる人や団体
に利益をもたらしていることの延長上で、例
えば貧富の格差拡大の傾向も、何らかの肯定
的な効果や効用をもたらしているのではない
かと考えたくなってしまうのだが、それもA
Iが言うには、貧富の格差拡大は、一般的に
は社会不安や健康格差などの悪影響が強調さ
れるが、経済学的な視点や競争原理に基づい
て、肯定的な効果や効用が挙げられることが
あり、富が一部の富裕層に集中することで、
大規模な投資や研究開発などの失敗するリス
クの高い事業に投資が供給されやすくなり、
産業の発展やイノベーションが加速する可能
性が指摘され、富裕層のようになりたい、と
いう経済的なインセンティブが働くことで、
個人がスキル習得や能力向上など教育への投
資に励むようになり、社会全体の労働生産性
が向上する動機付けになると考えられ、富裕
層の活発な消費や投資が経済全体を活性化し、
結果として全体的な富が増大するという考え
方もあり、所得の二極化は、技術進歩やグロ
ーバル化に伴う労働市場の構造変化に対する
適応として発生する側面もあり、効率的な人
材配置が進むことで産業構造が転換されるき
っかけになる場合があるが、一方で、これら
の効果は、格差が適度である場合に機能しや
すいものであり、格差が過度に拡大すると、
貧困の固定化や教育機会の減少、経済成長の
阻害などの問題が深刻化することは多くの研
究で示唆されているそうで、なるほど、現代
のマルクス主義者にも批判の機会が与えられ
ている程度の経済的な調整が、今のところは
機能しているのかも知れない。

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彼の声 2026.5.7 「国家の比喩としての家」

voice-174

 国家統治の喩えとして家父長による大家族
の統治を持ち出すのも、国王の王子時代に王
宮の教育係が持ち出すありふれた喩え話だっ
たらしいが、反マキャヴェッリ的な思想家の
類いが持ち出すのも、その種の喩え話になる
らしく、統治者と呼ばれうるのは帝王、皇帝、
王、君主、領主、行政官、高位聖職者、判事、
その他これに類する者たちで、統治術を扱う
人々は、家を統治する、魂を統治する、子供
を統治する、地方を統治する、修道院・修道
会を統治する、家族を統治する、ということ
を絶えず指摘するようになっていたらしく、
統治するというのは所謂支配の意味合いだけ
でなく、切り盛りする、管理する、世話をす
るといったニュアンスもあるそうだから、そ
れほどおかしなことを述べているわけでもな
いだろうが、統治は一家の父、修道院長、子
供や弟子に対する教育家や師など多くの人が
行うことで、統治形式は複数あり、国家の内
部で複数の統治が行われるわけだから、複数
かつ内在的であるということで、この活動は
マキャヴェッリの君主が体現している超越的
単独性とは根本的に対立するそうだが、ルソ
ーが『百科全書』に書いた「政治経済学」の
項には、経済というエコノミーないしオイコ
ノミアという単語は、家=オイコスと法=ノ
モスに由来し、家族全体の共通善のためにな
される賢明な家の統治を表すに過ぎず、この
用語の意味が次いで、大家族たる国家の統治
に拡張されたが、家族と国家という、これら
二つの社会の一方に固有であるような操行の
規則が、他方にも当てはまることなどあり得
ず、この二つの社会は、同じように管理する
には大きさが違いすぎ、一方の家の統治の方
では父が自分で全てを見ることができるのに
対して、他方の国家統治の方では首長は他人
の目を借りなければほとんど何も見えず、こ
の二つの間には常に極端な違いがある、とい
う趣旨の内容を述べているらしいが、国家を
統治するとは経済を作動させることで、国家
全体という水準で一つの経済を作動させるこ
とであり、それは、家族や財産に対して一家
の父が行う監視・制御に劣らず注意深いもの
となり、重農主義者のケネーが良き統治のこ
とを経済的統治として語っているのも、統治
術とはまさしく、経済という形式・モデルで
権力を行使する術だということらしく、ギョ
ーム・ド・ラ・ペリエールという反マキャヴ
ェッリの論客も、統治とは物事の正しい処置
であり、その物事をふさわしい目的まで躁導
するという任務を人は負う、と述べているら
しいが、それに対してマキャヴェッリにとっ
ての権力の対象・標的は、領土であり、その
領土に住んでいる人々であり、中世から十六
世紀に至る公法における主権は、物事などに
対しては行使されなかった、とフーコーは述
べていて、権力はまずは領土に対して行使さ
れ、その結果、そこに住んでいる臣民に行使
されるものだったそうだが、その意味で、領
土はマキャヴェッリの領国の根本的要素でも
あり、法哲学者・法理論家が定義するような
主権者の法的主権の根本的要素でもあるそう
で、ここで領土と臣民を統治することを目指
すマキャヴェッリ的な統治思想と、経済的統
治という人間と物事とからなる複合体を統治
することを目指す反マキャヴェッリ的な統治
思想の対立を安易に考えてしまうのだが、統
治とは物事の統治のことである、というのと、
主権から導き出される循環論的な統治の論理
のどちらが説得力があるかと考えるのもおか
しいのだが、フーコーが言うには、主権が単
純な権利として提示されたことは一度もなく、
主権者は良い主権者たるべく常に一つの目的
を提示しなければならず、その目的とはつま
り共通善、万人の救済であり、主権者として
の権威が授けられたのはただ、彼らがそれを
用いて公益をもたらし維持するためだからで
あって、国家にとって有利なことでない限り、
主権者は何も自分自身に有利に計らってはな
らず、そこで絶えず引き合いに出され、主権
の目的自体として立てられている共通善なる
もの、万人の救済なるもの、法学者も語って
いる共通善なるものとはどんなものなのかと
いうと、法学者・神学者の主張によれば、共
通善が存在するのはすべての臣民がもれなく
法に従い、割り振られた任務をきちんと行い、
与えられた職をきちんと実践し、打ち立てら
れている秩序を尊重する限りにおいてであり、
つまり共通善とは、本質的に言って法への服
従だということであり、それは現世の主権者
の法への服従でもあるし、絶対的主権者たる
神の法への服従でもあり、この法への服従で
のことに他ならず、主権の目的は循環的だと
いうことであり、善とは法への服従であり、
つまり主権が自ら提示する善とは人々の主権
に対する服従のことで、この本質的な循環性
は、理論的構造・道徳的正当化・実践的効果
がどのようなものであれ、マキャヴェッリが
言っていたこととさほど違わず、彼が表明し
ていたところによれば、君主の主要な目的は
自分の領国を維持することでなければならず、
ここでは人は相変わらず、この主権の循環、
領国の循環の中にいるそうだが、それに対し
て、ラ・ペリエールの新しい定義には、これ
とは別の目的が出現していて、この定義によ
れば、統治とは物事を処置する正しいやり方
であるが、その物事は、法学者たちが言って
いたような、共通善という形式へではなく、
ふさわしい目的へと躁導されるのであり、こ
のことが含意するのは、それぞれに特有の目
的が複数あり、例えば、統治はできるだけ多
くの富を生産するように計らう必要があり、
統治はまた、人々が充分な食糧を提供される
ように計らう必要があり、そして最後に統治
は、人口が増殖しうるように計らう必要があ
り、それらが統治の目的自体になり、この様
様に異なる目的に到達するために行われるの
が物事の処置であり、この処置という単語は
重要で、かつて主権において主権の目的であ
る法への服従に到達することを可能にしてい
たのが法自体であったのに対して、ここでは
人間たちに法を課すことが問題ではなく、物
事を処置することが問題となり、つまり法よ
りもむしろ戦術を用いること、というか法を
戦術として最大限に用いることが問題となり、
いくつかの手段を用いてコレコレの目的が達
成されるように計らうことが問題となり、こ
こには重要な断絶があるとフーコーは思って
いるようで、主権の目的が主権自体にあって、
主権は道具を法という形で自分自身から引き
出すのに対して、統治の目的は、統治が導く
当の対象である物事の中にあり、統治の目的
は、統治によって導かれるプロセスの完成・
最適化・強化の中に求められるべきとされて、
統治の道具は法ではなく、様々な戦術になり、
したがってこれは法の後退であり、というよ
り、統治のあるべき形から見れば、法は主要
な道具ではなく、十七世紀全体に見られるテ
ーマ、十八世紀の経済学者・重農主義者のテ
クストで述べられている説明によれば、統治
の諸目的に実際に到達できるのは、明らかに
法によってはないということだそうだが、ラ・
ペリエールの述べていることによれば、真の
統治者は統治にあたって、剣を必要とするよ
うであってはならず、真の統治者は怒りより
忍耐を持っていなければならず、統治者とい
う人物において本質的であるべきは殺害権で
はなく、自分の力を引き立たせる権利でもな
く、それに対してどのような実定的なプラス
の価値を持つ内容を与えることができるかと
いうと、その内容こそ知恵と勤勉さであり、
知恵とは伝統的には、人間の法と神の法を知
り、正義と公正さを知っていることだが、こ
こで言われる知恵とは、統治者にとって必要
となる知恵のことで、つまりまさしく物事に
ついての認識、到達可能な到達するように計
らうべき諸目標についての認識のことで、目
標に到達するために用いるべき処置こそが、
主権者の知恵を構成する認識となり、勤勉の
方はというと、自分は統治される側の者たち
に奉仕するべく存在し行動するのだ、と考え
る限りにおいてのみ主権者、いやむしろ統治
者は統治すべきだとする根拠であることにな
り、ここでもまた、ラ・ペリエールは一家の
父という例を参照して、一家の父とは家の誰
よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝する者
であり、あらゆるものに目を配る者であり、
なぜなら、一家の父は自分自身を家に奉仕す
る者と見なしているからであるそうだ。

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彼の声 2026.5.6 「現代の安全テクノロジー」

voice-174

 法秩序を機能させる法システムと規律訓練
型権力を担う規律システムは、現代社会にお
いて独立したものではなく、互いに絡み合い、
補完し合いながら社会秩序を構成していて、
法システムは外的な刑罰などの強制によって
行為の是非を判断するのに対し、規律システ
ムは学校、工場、軍隊などの閉鎖空間で身体
を訓練して、自動的に服従する主体を生み出
す権力技術だが、法律、規制、裁判などの法
システムと社会規範、組織のルール、倫理な
どの規律システムが複雑化する現代において、
安全テクノロジーはこれらをシームレスに連
携させ、機能させるための不可欠な役割を果
たしており、その主な役割は、自動化、可視
化、信頼の基礎構築の3点であるそうで、法
規範の自動的な適用とコンプライアンスの強
化の観点から、安全テクノロジーは法的・規
律的な要求事項をシステム内に埋め込み、違
反を未然に防ぐ役割を担っており、コードに
よる法執行は、契約内容を自動執行するスマ
ートコントラクトや、規制基準を満たさない
操作をブロックするIoTセキュリティなど、
ルールを物理的なコードとしてシステムを実
装して、リアルタイムの監視と強制は、デー
タ改ざんの検知や不正アクセス防止技術を用
いて、法律や社内規定の違反をリアルタイム
で検知し、安全な状態を維持することを目的
としており、リスク・コミュニケーションの
可視化と最適化の観点から、技術的知見と法
的な解釈を統合して、社会全体のリスク認知
を調整する役割を担っており、客観的リスク
評価は、AI技術等を用いて、損害発生の確
率や規模をデータに基づいて客観的に算出し
て、法的な責任範囲や安全基準の策定を支援
し、法の透明性の向上させることは、複雑な
法制度や技術的リスクを、AIや可視化ツー
ルを用いて専門家以外にも理解しやすくし、
納得感のある安全規律を形成し、デジタルト
ラストの基盤構築の観点からは、法律が求め
る安全・安心を、技術的に保証することで、
法システムと規律システムが機能する基盤を
作る役割を担っており、コンフィデンシャル
コンピューティングは、データ活用とプライ
バシー保護を両立させる技術など、デジタル
上の信頼を技術的に担保し、その俊敏性を向
上させるために、変化する社会のニーズや法
改正に合わせて、ソフトウェアを迅速に更新
し、常に適切な法適用環境を維持し、これら
の役割を通じて安全テクノロジーは単なるツ
ールの域を超え、ルールと技術の統合的運用
を実現し、法と技術が共同する安心できる社
会の基盤となっているそうだが、文章のつな
がりとしては、これで大丈夫そうな感触を得
るが、述べている内容が何のことやら、自分
にはさっぱりわからないという印象を持たざ
るを得ないから、もう少し具体的な事例を交
えると、安全テクノロジーの歴史は、事故が
起きた後の被害軽減から、事故を未然に防ぐ
事故回避、そしてAI技術を活用した自動化・
協調安全へと進化してきて、具体的には、自
動車安全技術を例にして3つのフェーズに大
別できるそうで、まずは黎明期において機械
式安全装置が開発され、受動的安全:パッシ
ブセーフティを実現する、事故の衝撃から人
間を守る技術として発展して、1940〜6
0年代に衝撃を吸収するボディ構造やボルボ
が開発した3点式シートベルトの普及、19
70〜80年代にエアバッグの導入、緊急ロ
ック式巻取り装置の義務化が法律で定められ、
次いで電子制御・運転支援による能動的安全
を実現するアクティブセーフティの技術が広
まり、事故そのものを未然に防ぐ、ブレーキ
や走行安定性を電子制御する技術が発展して、
1970年代後半〜90年代にアンチロック・
ブレーキ・システムやトラクション・コント
ロール、横滑り防止装置が実用化、2000
年代以降に衝突被害を軽減する自動ブレーキ
や車線逸脱警報など、運転支援システムが搭
載され、高度な安全技術を実現するためのA
Iによる総合制御・自動運転の段階になると、
カメラやセンサーを駆使してAIが周囲の状
況を把握し、危険を検知してシステムが自動
で制御を行い、人間・機械・信号機や道路な
どのインフラが通信し合い、事故の要素自体
を排除する安全コンセプトや、運転の主体が
人からシステムへ移り、衝突回避だけでなく、
事故そのものを発生させないレベルを目指し
た進化が現在進行形で起こっていて、198
0年代までの受動的安全を担うパッシブセー
フティの段階での技術は、シートベルト、エ
アバッグなどがあり、1990〜2010年
代までの能動的安全を担うアクティブセーフ
ティの段階での技術は、ABS、ESC、自
動ブレーキなどがあり、2020年代以降で
は、高度安全・協調安全を担う技術として、
AI、自動運転、通信連携などがあり、こん
なふうに自動車関連の技術ではうまくその歴
史的な変遷を説明できるが、法システムと規
律システムと安全システムの関係性となると、
法システム、規律システム、安全システムは、
現代社会において人々の生活と権利を守るた
めに相互に依存し、連携していて、これら3
つのシステムの中で、法システムは、基礎・
フレームワークとして機能し、その定義は、
国家によって刑罰などの強制力を持ち、制度
化された社会のルールを担い、役割としては、
個人の尊厳や基本的人権を保障し、社会の公
平な安定を担保し、特徴は、憲法を頂点する
と法的段階構造を持っていて、次いで規律シ
ステムは、人々に行動規範を示して自律を促
し、その定義は、法や規則に基づき、個人が
自律的・継続的に守るべき行動規範に従い義
務的行為を行わせるシステムで、役割は、法
システムを社会の現場で機能させ、安定した
秩序を維持することにあり、特徴は、法シス
テムによって定められた禁止事項・罰則が、
人々の行動の必要性や制限を形成するように
作動し、そして安全システムは、法システム
と規律システムが安定的に動作するように各
方面の動作を調整して、社会の中で安全な状
態が保たれるように作動し続け、定義は、法
と規律の運用によって実現される、リスクの
管理、生命、財産が保護されている状態で、
役割は、人々が安心して社会生活を送れる環
境の確保、特徴は、法と規律が総合的に運用
されることで、安全システムが機能するが、
安全システムが機能していれば、法と規律が
守られていることになるから、循環論的な特
徴もありそうで、関係性の図式は、法システ
ムが、何が正しいかのルールを定め、そのル
ールに基づいて、規律システムが人の行動を
規制し、その結果、社会の安全システムが実
現する、と説明されるが、この説明では安全
システムそれ自体を法システムと規律システ
ムからしか説明していないから、要するに安
全システムの内部で法システムと規律システ
ムが作動していることになり、それはそうだ
としても、何かはぐらかされたような疑念を
覚えるのだが、その連携のメカニズムは、法
システムが予測可能性を持つことで、社会の
規律も安定し、法的安定性が実現して、一般
的ルールである法的規制と、技術的な制限や
利便性を伴ったアーキテクチャが相互に補完
して、安全システムを構築するが、技術の進
化や社会の変化に対し、法システムが追いつ
かない場合、新たな規律システムや安全シス
テムの策定が求められ、具体的には、自動運
転などの分野では、法的な制裁と安全技術の
双方が、ルールと技術の統合的運用として機
能し、安全システムを実現しているそうだが、
最近の憲法を守れ!的なデモや集会を盛んに
メディアが取り上げる傾向も、何やらメディ
アの安全システムが作動していることの表れ
なのではないかと勘ぐりたくなってしまうわ
けだ。

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彼の声 2026.5.5 「ワクチン接種と新自由主義的なやり方の共通点」

voice-174

 今回はクロードの出力結果の丸写しとなっ
てしまいそうだが、十七世紀から十八世紀に
かけては小氷期の最も厳しい時期と重なって
いて、ヨーロッパ各地では平均気温の低下・
不規則な降雨・霜害が頻発して、1640年
代はフランス・スペイン各地で穀物の凶作か
ら食糧暴動などの政情不安が相次ぎ、169
3〜94年にはヨーロッパ規模の大飢饉が起
こり、フランスだけで百万人を超える死者が
出たとされ、各地で暴動が発生し、1709
年にも大寒波による壊滅的な凶作に起因して、
フランスなどで深刻な飢饉と暴動が起こり、
1788〜89年にも凶作と厳寒からパンの
高騰がフランス革命勃発の直接に引き金にな
ったとされるが、同時代的に日本でも江戸時
代に凶作と飢饉で百姓一揆が頻発していたが、
ただし留意すべき点として、因果関係は複合
的で、必ずしも凶作から暴動が発生するとい
う単線的なパターンではなく、穀物市場と流
通の問題もあって、凶作でなくても、商人に
よる買い占め、輸出・価格高騰が引き起こし
たとも言われ、国家の救貧制度や穀物の備蓄
政策の有無が結果を大きく左右して、租税へ
の民衆の不満や戦争があるところに食糧危機
が重なると暴動が起こりやすく、暴動の形態
も多様で、製粉業者・穀物商への襲撃、価格
統制の強要に対する反発など、必ずしも支配
層への反乱ではないケースも多かったそうだ
が、それに対して自由主義の先駆けとなった
重農主義者たちが、重商主義的な政策が食糧
難を悪化させたと主張して、ケネー、テュル
ゴー、ミラボーらが主張した核心は、重商主
義的規制を伴う穀物取引への国家介入こそが、
不作を飢饉・暴動に転化させる構造的原因だ、
という議論で、主張のもっともらしいと思え
る点は、フランスをはじめ多くの国では、州
間の穀物移動の禁止・制限、不作時の輸出禁
止令、平時は輸入関税を課し、公定価格の強
制、これらの規制は価格シグナルを殺す効果
があって、不作地域に余剰地域から穀物が流
れ込むという市場メカニズムが働かず、商人
が備蓄・転売のインセンティブを失い、結果
として局地的な飢饉が解消されないまま固定
化され、スミスも『国富論』でほぼ同じ診断
をしており、一定の経済学的根拠があり、輸
出奨励・禁止の朝令暮改が農業への投資を阻
害し、重商主義国家はしばしば、豊作時に輸
出を奨励して国際収支を稼ごうとする一方で、
不作になると突然輸出禁止に転じ、これは農
民・地主にとって価格予測を不可能にし、農
地への排水・肥料・農具などの長期投資を抑
制し、重農主義者の農業こそ富の源泉という
主張に結びつけると、重商主義が農業生産力
の向上を妨げたという批判は一定の説得力を
持ち、また他国の重商主義政策との連鎖効果
を伴って、各国が競争的に穀物輸出を制限・
禁止すると、国際市場での穀物融通が機能し
なくなり、ある国の不作が隣国からの輸入で
緩和されるはずが、隣国も輸出禁止にしてい
るため救済されず、結果としてローカルな不
作がヨーロッパ規模の食糧危機に増幅され、
これは現代の経済学でも、輸出禁止の囚人の
ジレンマとして知られる問題で、2007〜
08年の世界食糧危機でも同様のメカニズム
が観察され、重農主義者の直感には先見性が
あったと言えて、さらに都市偏重の政治経済
が農村を収奪した面もあり、重商主義は本質
的に製造業や商業や都市を優遇する思想であ
り、パンの公定価格を低く抑え、それが都市
民の利益となる一方で、農民の損失となり、
農業税の重さも農民を疲弊させ、農地を放棄
した民が都市に流れ込んで、農村の余剰が都
市・国家・軍事に吸い上げられる構造となっ
ていて、これにより農民の再投資余力・備蓄
余力が削られ、一度の不作で即座に生存危機
に陥りやすい脆弱な農村構造が固定化した、
という批判は歴史的証拠とよく整合するが、
そういう主張に対する限界や反論もあり、1
709年や1788年のような極端な凶作は
政策の失敗だけでは説明しきれず、気候要因
を過小評価しており、テュルゴーが1774
〜76年に穀物取引を自由化したところ、か
えって価格高騰と粉屋戦争と呼ばれる暴動が
起きて自由化は失敗し、道路・情報・商人ネ
ットワークが未発達な状況で自由化しても価
格シグナルは機能せず、市場インフラの欠如
が露呈し、自由市場が効率的な配分をしても、
貧農には購買力がなく飢えるという分配の問
題は残り、重農主義者の主張の評価として、
規制が問題を悪化させたという診断において
は相当もっともらしいが、自由化すれば解決
するという処方箋は単純すぎた、というのが
現代の評価で、テュルゴーの自由化実験の失
敗は、正しい診断+間違った処方、という知
的悲劇を象徴しており、経済政策史上の重要
な教訓として今も参照されるそうだが、なぜ
かそこから議論を一変させ、重農主義者が主
張する自由主義的なやり方と、当時の天然痘
の流行を抑えるために始まったワクチン接種
の医療政策との共通点を挙げるとすると、表
面的な対比としては、一見すると逆に見える
そうで、重農主義の自由化は、国家の介入を
減らせという主張に対して、天然痘ワクチン
政策は、逆に国家の介入を増やしたわけで、
また重農主義が規制の撤廃を主張しているの
に対して、天然痘のワクチン政策は、強制接
種であり、接種の義務化を行い、一見した印
象としては重農主義が自由主義であるのに対
して、ワクチン政策は国家主義的であるが、
この対比は表面的で、深層にある共通の構造
は、まず自然の秩序への信頼という共通の哲
学があり、重農主義の核心概念は自然的秩序
であり、ケネーは、農業は自然が富を生む唯
一の源泉で、国家の人工的介入は自然の流れ
を歪め、だから介入を取り除けば秩序は自然
に回復する、と主張し、天然痘ワクチン接種
の思想的基盤も実は同じ構造を持っていて、
1796年のジェンナーの種痘は、それ以前
の中国やトルコなどで行われていた人痘接種
の延長線上にあり、人痘接種の論理は、自然
の病気のプロセスを模倣・利用して免疫を得
るというもので、つまり、自然が持つメカニ
ズムを人工的に遮断するのではなく、自然の
ロジックに乗る発想で、自然の秩序を尊重し、
それを利用する、という認識論的態度が共通
していて、また予防と流通というシステム思
考の導入に関して、重農主義者の革新性は、
食糧危機を個別の不作の問題ではなく、シス
テムの問題として捉えたことにあり、問題は、
穀物が足りないではなく、穀物が適切に流通
していない、ということで、解決策は、備蓄
を増やすではなく、流通システムを機能させ
る、となる一方で、種痘政策も同じシステム
思考を持ち、問題は、病人を治療するのでは
なく、感染連鎖をシステムとして断ち切り、
解決策は、罹患者を隔離・治療するではなく、
集団免疫という社会状態を作り出すことにあ
り、個人への対処から社会システム設計へと
いう発想の転換が共通して、これは十八世紀
という時代が生んだ、社会を機械・有機体と
して設計可能だ、という啓蒙主義的確信の表
れだそうで、個人への介入を社会全体の利益
で正当化する論理であり、重農主義の穀物自
由化は個々の農民・商人の取引の自由を保護
するが、目的は自由それ自体ではなく、自由
にさせることで社会全体の食糧供給を安定さ
せることにある一方で、十九世紀初頭に各国
で義務化が始まる種痘の強制接種政策は、個
人の身体に針を刺すという介入を強制するが、
目的は個人の健康ではなく、集団免疫によっ
て社会全体の疫病リスクを下げることにあり、
個人の扱い方が自由にするのと強制するので
は真逆でも、正当化の論理は、社会システム
全体の最適化で共通していて、これはまさに
後のベンサムの最大多数の最大幸福という功
利主義が体系化する思考の先駆けで、それは
また国家の役割の質的転換をもたらして、一
見、重農主義は国家の縮小、種痘政策は国家
の拡大に見えるが、実は両者が要求している
のは、規制する国家から管理・設計する国家
への転換を意味して、重農主義が穀物市場を
細かく規制するのをやめて、代わりに市場が
機能するためのインフラ・情報・法的枠組み

を整備する国家を目指している一方で、種痘

政策は、個別の病人を治療することに加えて、

人口全体を管理対象として予防的に介入する

国家を実現しようとしていて、フーコーが生

政治と呼んだ、人口を統治対象とする近代国

家の誕生が両者に共通する歴史的文脈だそう

で、まとめると、社会という複雑なシステム

を、自然の論理を利用しながら、合理的に設

計・管理できる、という啓蒙主義的確信が、

経済政策と医療政策の両方を同時に変革しつ

つあったということだが、さらにそこから時

代を飛んで、1970年代にニクソン大統領

が麻薬との戦争を宣言した後、言わずと知れ

た新自由主義経済学の教祖的存在のフリード

マンが1972年に薬物合法化を主張する論

考を発表し、フリードマンの主張は、麻薬使

用の抑制という目標は正しいが、警察・刑務

所・軍事力への巨額支出を伴う、麻薬との戦

争という手段はむしろ問題を悪化させる、と

いうもので、彼は、1970年代に非犯罪化

していれば、クラック・コカインは発明され

なかった、と論じて、麻薬との戦争がコカイ

ンのコストを引き上げたため、より安価な代

替品を開発するインセンティブが生まれ、麻

薬禁止を純粋に経済的観点から見ると、政府

は麻薬カルテルを保護する役割を果たしてい

る、と述べて、通常の自由市場では誰でも参

入できるが、取り締まりによって参入コスト

が極めて高くなり、大規模な密売組織だけが

生き残れる構造になっていると指摘したわけ

だが、この主張と重農主義・種痘政策との共

通点は、まず規制・禁止が問題を生み出して

いるという逆説的診断に関して、十八世紀の

穀物政策が州間の流通規制によって局地的不

作が広域飢饉に固定化され、十八世紀の天然

痘流行に対する感染者の隔離・治療のみでは

流行が繰り返され、二十世紀の麻薬政策では

禁止・取り締まりの強化によってカルテルも

強化されてより危険な薬物の出現を招いて、

三者に共通するのは、国家の介入の形が問題

の形を決めるという認識で、重農主義者が穀

物規制が飢饉の構造を作ると言ったのと全く

同じ論理で、フリードマンは麻薬禁止が密売

の構造を作ると言い、禁止令はアルコール禁

酒法と同じ失敗を繰り返すという歴史的認識

で、フリードマンは麻薬との戦争は禁酒法と

同様に失敗したと論じ、これは重農主義者が、

穀物規制は十七世紀から何度繰り返しても飢

饉を防げなかったと歴史的証拠を積み上げた

のと同じ論法で、同じ介入を繰り返して異な

る結果を期待するのは非合理だという経験主

義的批判であり、そして自然の市場メカニズ

ムを利用するという発想に関して、重農主義

が、自由な穀物流通に任せれば価格シグナル

が自然に需給を調整すると考えたのに対して、

フリードマンは、麻薬を合法化すれば通常の

市場競争が働き、価格が下がって、密売によ

る暴力的な超過利潤が消えると主張し、種痘

は、免疫という自然のメカニズムを社会シス

テムとして活用することにあり、自然・市場

ロジックに乗ることで問題が解消されるとい

う思想的一貫性があり、システムの歪みが第

二次被害を生むという構造解析に関しては、

フリードマンは、薬物禁止によって年間一万

件の追加殺人が発生している、と統計的に推

定し、政府が一万人を殺している道徳的問題

だと述べ、これは重農主義者が、穀物規制に

よって飢饉が人工的に悪化し、本来死ななく

ていい人が死んでいると論じたのと同型の議

論で、不作や薬物依存などの一時的問題より

も、それへの政策対応が生む二次問題の方が

深刻だという逆説的告発であり、三者を貫く

思想的系譜は、重農主義が、規制が市場を歪

め、流通を止め、飢饉を作るのに対して、種

痘政策は、自然の免疫メカニズムをシステム

として設計する、ということであるのに対し

て、フリードマンは、禁止が市場を地下に潜

らせ、暴力と毒性を増幅させる、ということ

であり、共通する認識的態度は、問題そのも

のより、問題への誤った介入の方が害が大き

い場合があり、自然・市場のロジックを理解

してそれを利用する方が、力で抑圧するより

効果的だ、という結論になるが、一つの重要

な相違点もあって、種痘は自然のメカニズム

の活用だが、集団免疫のためには個人への強

制接種を正当化するという方向へ向かい、一

方フリードマンは徹頭徹尾、個人の選択の自

由を原理として、集団の利益のための強制を

嫌い、麻薬を禁止する論理は、過食を禁止す

る論理と同じくらい強くも弱くもあり、過食

は麻薬より多くの死者を出していると述べ、

あくまで個人の自律を最優先する立場であっ

たそうで、この点で市場・個人の自律を重視

する重農主義+フリードマンと集団のための

国家介入を優先する種痘の強制接種には対立

点もあり、近代以降の自由主義と公衆衛生の

間の緊張関係の原型がここに見えてくるそう

だが、コロナ禍のワクチン接種をグローバリ

ストの世界支配と結びつける陰謀論者の言っ

ていることが、グローバリストといえば新自

由主義者だし、何となくその辺の微妙な絡み

合いが興味深いわけだ。

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彼の声 2026.5.4 「憲法が許可していることと禁止していること」

voice-174

 何かをやった結果が良かろうが悪かろうが、
そういった良し悪しの評価とは別というわけ
でもないのだが、そうなった結果からそこで
何が機能しているのかを知ったところで、何
がどうなるわけでもないとも思えないが、日
本国憲法は、国民の権利を守るために、政府・
国会・裁判所などの国家権力を制限する最高
法規だそうで、大きく分けて国家が禁止され
ていること、やってはいけないことと、保障・
許可していること、やるべきことを定めてい
るそうだが、国家権力への制限として、憲法
が禁止していることは、国家が個人の権利や
自由を不当に侵害することを禁止していて、
具体的には検閲の禁止は21条2項において、
行政権が表現内容を事前に審査し、発表を禁
止すること、検閲は絶対的に禁止されていて、
拷問・残虐な刑罰の禁止は36条において、
公務員による拷問や残虐な刑罰は厳禁されて
いて、私的な宗教団体への特権付与・権力行
使の禁止は20条1項において、国家と宗教
の分離、政教分離を原則とし、特定の宗教へ
の特権を禁止していて、法の下の不平等・差
別の禁止は14条1項において、人種、信条、
性別、社会的身分などによる差別を禁止して
いて、令状なしの逮捕・捜索の禁止は33条・
35条において、正当な理由なく、裁判官の
令状なしに拘束や捜索を行うことを禁止して
いて、奴隷的拘束の禁止は18条において、
意思に反する苦役を強制することを禁止して
いるそうだが、逆に憲法が国民の権利と国の
義務として保障・許可していることは、国民
の生活や権利を保障し、国にその実現を義務
付けていて、具体的には基本的人言の尊重は
11条・13条において、国民は、個人とし
て尊重され、生命、自由、幸福追求に対する
権利を持っているとされて、表現の自由・精
神の自由は21条・19条・20条において、
言論、出版、思想、良心、信仰の自由を保障
していて、生存権などの社会権は25条〜2
8条において、健康で文化的な最低限度の生
活を営む権利や、教育を受ける権利、働く権
利、労働組合をつくる権利を保障していて、
法の下での平等は14条において、全ての国
民は法的に平等であることを保障していて、
参政権は15条において、国民が公務員を選
定し、罷免する権利・投票権などを保障して
いるが、同性婚に関しては24条において、
憲法は両性の合意に基づくと記載しているが、
政府見解では同性婚を直ちに禁止する趣旨で
はないとされていて、自衛隊・戦争放棄に関
しては9条において、戦争放棄、戦力不所持
を定めているが、政府は、自衛のための必要
最小限度の実力は持てると解釈しており、自
衛隊はこれに該当するとされていて、これら
憲法に違反する法律や処分は、最高裁判所に
よって無効とされているそうだが、日本国憲
法において国会、内閣、裁判所などの国家権
力は憲法によってその活動を制限されており、
これに違反する疑いがある行為は、国民の基
本的人権や民主主義の根幹を脅かすものとし
て問題されているそうで、憲法違反の疑いが
強いとされる、あるいは過去に議論となった
国家権力による行為や活動の主な例は、21
条、19条の表現の自由・思想信条の自由へ
の侵害として、政府や警察が、テロ対策や捜
査の名目で、犯罪の疑いがない一般市民の思
想、信条、デモや集会などの政治活動を長期
間にわたって監視したり、個人情報を収集し
たりする行為、報道機関に対する不当な圧力
や、政治的信条に基づく特定団体のイベント
への公的支援の取りやめなど、表現の自由を
萎縮させる行為が挙げられ、31条〜39条
の人身の自由・適正手続きの侵害として、警
察による違法な長期間の取り調べや睡眠・食
事の制限、あるいは逮捕・勾留の要件を満た
さないままの身柄拘束、検察が有利な証拠を
隠すなど、適正な手続きを無視した裁判活動
などが挙げられ、14条の法の下の平等・法
制度の不備として、一票の格差が極端に大き
く、投票価値の平等が著しく損なわれている
状態の放置や、性別、社会的身分、信条によ
り、合理的な理由なく差別的な取り扱いをす
る法律や行政活動が挙げられ、9条の平和主
義への違反として、憲法が禁止する、国際紛
争を解決する手段として武力を行使する行為
に及ぶ可能性が高い法制として、2015年
に安保関連法によって集団的自衛権の行使が
容認されたが、これ自体が憲法9条違反であ
るという議論が根強くあり、行政による恣意
的な判断・法律の逸脱の危険性としては、明
確な法律の根拠がないまま、あるいは緊急事
態を理由に、国会の監視を受けずに国民の権
利を過度に制限する措置などの行政の暴走、
緊急事態条項の乱用懸念や、政府がこれまで
憲法上許されないとしていた法解釈を、国会
の審議を経ずに閣議決定で変更して、権力行
使の範囲を広げる行為などの法令解釈の恣意
的な変更が挙げられ、なぜこれが問題なのか
といえば、日本国憲法は、第99条で天皇、
摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他
の公務員に憲法尊重擁護義務を課していて、
国家権力がこの義務を怠り、憲法の枠を超え
て権力を行使することは、国民が自らの意思
で制定した最高法規を否定する行為となるた
め、厳しく監視・批判されるべきだと考えら
れているそうだが、フーコーによると、そも
そも法システムもそうだが、つまるところ規
律はどのような手続きを踏んでいるか?それ
は許可・禁止という法典に従ってあらゆるも
のを割り振り、そして、許可・禁止というこ
の二つの領域の内部で、禁止されているもの
や許可されているもの、いやむしろ義務的な
ものが正確に特定・規定され、この一般的図
式の内部にあって法システムは本質上、物事
が禁止されればそれだけその物事を規定する
ということを機能としていると言えて、つま
るところ法が口にするのは本質上、これをす
るな、それもするな、あれもするなといった
ことで、従って、法システムにおける特定・
規定の運動には常に、また一層明確に、妨害・
禁止すべき事柄こそが問題だということが含
まれていて、言い換えると、無秩序という視
点を採用することで、より一層繊細な分析が
行われ、秩序が打ち立てられるということで
あり、秩序とはつまり、残りであり、秩序と
は事実、禁じられていることを全て妨害した
ときに残るものであって、この否定的な思考
こそが法典の特徴であり、否定的な思考・技
術で、規律メカニズムもまた、物事を常に許
可と禁止、いやむしろ義務的なものと禁止さ
れているものへと法典づけ、つまり規律メカ
ニズムはしてはならないことよりも、すべき
ことの方に関わり、良い規律とは、あらゆる
瞬間にすべきことを言ってくれるものであり、
そこで確定されていないのは、そこで言われ
ていないこと、つまり禁止されていることこ
とだけで、法システムにおいては許可されて
いることの方が確定されておらず、規律的な
統制システムにおいては確定されているのは
しなければならないことであり、従ってそれ
以外の残りは確定されず、禁じられているそ
うだが、確かに日本国憲法が許可しているこ
とは、国民に向かって権利として規定してい
るだけで、言論、出版、思想、良心、信仰は
自由だと言っているだけで、諸般の事情から
必ずそうなるとは限らないし、国が保障する
から健康的で文化的な最低限の生活を営んで
も良いと許可しているものの、別にそれが最
低限の生活でなくても構わないし、教育を受
ける権利や働く権利や労働組合をつくる権利
はあるものの、義務教育以外の教育を受けな
くても、働かなくても、労働組合を作らなく
ても構わないし、国民が法的に平等ではある
ものの、経済的に不平等であっても構わない
わけでもないが、実態としては不平等だろう
から、別にそれが憲法違反というわけでもな
いだろうし、国民が公務員を選定して、罷免
する権利や投票する権利があると規定してい
るが、選定や罷免などの投票に参加しなくて
も構わないし、あくまでも憲法は国家権力に
義務を課しているだけで、国家権力側として
は憲法違反にならない範囲内で国民に対して
義務を課せばよく、それが規律権力として機
能するわけで、納税しろとか、交通法規を守
れとか、ゴミは分別して出せとか、他にも色
色あるだろうが、実際に法システムとも規律
システムとも違うシステムがあるらしく、そ
れがフーコーが言うところの安全装置で、法
は禁止する、規律は命令することになるのに
対して、安全は本質的に言って禁止も命令も
せず、しかし実際には禁止と命令の側にある
いくつかの道具を手にして、ある現実に応答
するということを機能として、そのやり方は、
この応答によって、その向かう先である現実
自体を無効化する、というかむしろ、制限し
ブレーキをかけ調整する、というもので、そ
れに関して具体的に思い浮かぶのが、中央銀
行による政策金利の上げ下げであったり、つ
い先日もあった、急激な円安進行を阻止する
ための為替介入であったりするのだろうが、
フーコーも法システムと規律システムだけで
考えていたのが、全くの間違いだったわけで
もないが、やはり正確にはそれでは正しくな
いそうで、問題となっているのは全く別のこ
とで、それが自由主義や新自由主義などに関
係する自由主義的な統治イデオロギーや統治
術にあるらしく、グローバリストがなんやら
かんやら言っている陰謀論者にとって躓きの
石となっているように思われる権力テクノロ
ジーであるらしい。

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彼の声 2026.5.3 「ガーデニング的な国づくり」

voice-174

 啓蒙活動が嫌われる理由として考えられる
のは、知らない人に知っていることを教えよ
うとする上から目線の態度が、知ったかぶり
やがって!という反発を招く危険性があり、
ソクラテスのように、知ったかぶりな奴に対
して、無知を装いながら話しかけて、そいつ
の無知を思い知らせるようなことをやってし
まうと、なおのこと嫌われることになり、だ
からソクラテスは自身が所属するポリスから
排除されてしまったのだろうが、現状でも、
トランプや高市がいかにひどい奴なのか教え
てやるよ的な上から目線の態度の奴らが嫌わ
れるのも、当たり前と言えば当たり前な傾向
にありそうだが、彼らとは違った視点から何
が述べられるかというと、たぶん政府の行政
機構に意図や思惑や意向があると言えるわけ
でもないのだが、もっと範囲を広げて、国家
意志という概念というか観念を想定してみる
のも、さらにリアリティを感じられなくなっ
てしまい、トランプや高市が国家意志に従っ
ているというより、政府の行政機構がトラン
プや高市を利用していると考えるなら、何と
なくわかってくることがありそうに感じられ
るのだが、国家を強くしたいという意志が行
政機構の意向なのかどうかも、人でもない国
家や行政機構に意志や意向を当てはめるのも、
何か抵抗感を覚えるのだが、それとは違う方
面で、例えば、ガーデニングという園芸分野
の用語があるが、ガーデニングとは、主に住
宅の庭、ベランダ、屋上などで、草花や樹木、
野菜などの植物を育て、庭づくりをやりなが
ら空間全体の景観を楽しむ園芸活動のことで、
土いじりを通じて、植物の成長過程や花を鑑
賞するプロセスそのものを趣味として楽しむ
行為なのだろうが、育てた野菜を収穫して食
べる魅力もあるだろうが、美的な感覚を刺激
する効果もあるだろうし、美しい庭を維持す
るために雑草を引き抜くとか、もちろん丹精
込めて育てた野菜を守るためにも雑草を引き
抜くわけで、そうやって異物や邪魔者を排除
するやり方から何を連想できるかといえば、
もっと直接的に害虫を駆除する光景から思い
浮かぶことがありそうだが、そういったガー
デニングの延長上で偉大なアメリカや美しい
日本などの国づくりが行われていると考えら
れるかというと、そこにはトランプや高市な
どの個人的な意志や意向とは言えないような
集団的な意志や意向が反映していると言えそ
うで、そういうところは特定外来生物を大量
に駆除している光景を誇らしげに見せるユー
チューバーなどの意志や意向にも表れていそ
うだが、そういう行為が果たして美しい国土
を守る活動だと言えるかどうかも、実際の国
土保全活動はそれとは少し違う傾向もありそ
うだが、ヒューマニズム的な価値観から言え
ば、人間は雑草や害虫や特定外来生物などと
は違うと簡単に反論できそうだが、それを言
うなら国土はガーデニングの庭などではない
と言えてしまうだろうし、比喩的な表現を使
ってもっともらしいことを言うな!と怒られ
てしまいそうで、啓蒙活動を嫌う傾向は、現
代社会において、主に心理的、社会的、そし
てビジネス上の観点から見られるそうで、啓
蒙は知識のない人に教え導くという意味合い
が強いため、教える側と教えられる側で上下
関係が生まれやすく、これが見下されている
という反発心や嫌悪感につながることがあり
、正しい知識を教えてやるという姿勢が、受
け手側の反発を招き、現代では、一方的に教
えられるより、自ら選択したいという欲求が
強い傾向があり、啓蒙活動が特定の価値観を
押し付ける同調圧力として感じられ、個人の
自由や多様性が制限されると捉えられた場合
に嫌がられ、目的意識が強い層は、冗長な教
育的アプローチや、目的が不明瞭な活動その
ものを嫌う傾向があり、手短かにゴールを知
りたい、実利を追求したいというニーズに合
致せず、ビジネスシーンでは、啓蒙が差別的
なニュアンスを含むとされるため、単に知識
を持ってもらうことを目指す啓発活動に置き
換える傾向が強くなっていて、これらの背景
から、現代では一方的な押し付けではなく、
相手に気づきを促し、自発的な行動をサポー
トする啓発のアプローチが好まれるようにな
っているそうだが、啓発にも否定的なニュア
ンスがありそうで、自己啓発セミナーの類い
で使われる、人の感情を操作する洗脳的な手
法が問題視されるわけで、そうやって人を導
く手法が、古代ギリシア・ローマの哲学者か
らキリスト教会による教導手法へ受け継がれ
発展してきた歴史的な経緯もありそうだが、
人を導くことに長けた有名な哲学者といえば、
古代ローマの哲学者のエピクテトスは、奴隷
出身という不遇な環境から、人間の内面的な
自由と幸福を説いたストア派の哲学者で、彼
の人を導く手法の核は、自分のコントロール
できることとできないことを明確に見極め、
前者に集中することで心を整える実践哲学に
あり、人が悩む原因は自分の力ではどうにも
できないことを何とかしようとするからだと
指摘し、自分の意見、欲求、嫌悪、判断は、
自分の内面、心の持ちようで、自分でコント
ロールできることで、それに対して、身体、
財産、名声、他人の評価、過去、天気、死は、
コントロールできないことであるから、現代
ではそういう分け方には異論があるにしても、
不安や怒りを感じた時、それが自分のコント
ロールができることかできないことかを問い
かけ、コントロールできないものは、自分に
は関係ないと受け入れる練習をさせ、人を悩
ませるのは物事そのものではなく、物事に対
する意見や解釈であると説き、負の感情が生
まれた時には、その根底にある誤った判断や
固定観念を特定し、理性的に修正するように
促し、失ったものや持っていないものを求め
て嘆くのではなく、今あるものに目を向ける
ように教え、他人のものやまだ与えられてい
ないものを欲しがらず、何かを失った時も、
それは返しただけと考え、執着せずに手放し
て、持たざるものへの欲望を減らし、現在の
状況に感謝することで、真の豊かさと自由を
得る方法を具体的に示し、哲学は知識ではな
く、生き方の訓練であるとして、感情に振り
回されないよう、日常の小さな不快や出来事
に対して、あらかじめ冷静に対処する心構え
を持ち、哲学的対話を通じて、日常生活の具
体的な問題に対する心の持ち方を練習させた
そうで、エピクテトスは、法的に制限された
奴隷の身分であっても、心の中は誰にも縛ら
れない自由になれるという自信を人々に与え
る教えを展開したそうで、現代人が求めてい
る教えはそんなんじゃないと言えそうな人も
いくらでもいるだろうが、エピクテトスが生
きた時代背景は、一世紀から二世紀前半にか
けて、ネロ帝の暴政からドミティアヌス帝の
恐怖政治の時期に奴隷として苦労し、一世紀
末、ドミティアヌス帝が哲学者の影響力を恐
れてローマから追放したため、ギリシャのニ
コポリスへ移住して学園を開き、そこでソク
ラテスに続く倫理学を重んじて、自己の実践
を重視するストア派哲学を確立し、その教え
は後にマルクス・アウレリウス皇帝にも影響
を与えたそうだが、それがどうしたわけでも
なく、とりあえず高市のことを否定的に取り
上げると、アメーバブログでいいね!がゼロ
になって、閲覧者の数も激減するという傾向
が、こんな人畜無害な内容にも当てはまるよ
うなことなのかどうかも何とも言えないとこ
ろだが、エピクテトスの教えというのが、個
人の力ではどうにもならなくなった社会状況
の中で、社会の変革から背を向けて、自己へ
の配慮に専念する生き方へと傾斜した、と受
け止めてもいいのかどうかも、微妙に違うよ
うな気もしないではないにしても、その辺は
割り切り方が肝心なのかも知れないし、定年
退職した人がガーデニングに凝ってしまう光
景などを思い浮かべてみても、全面的にそう
なるわけでもない契機が、今後到来するかも
知れない時代状況なのかも知れない。

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彼の声 2026.5.2 「理論ではないことの意味」

voice-174

 理論とは何なのかというと、理論とは、特
定の現象や事実を統一的に説明・予測するた
めに、関連する知識や原理を筋道立てて体系
化したもので、個々の事実から共通の法則を
見出し、抽象化された知識体系を指すそうで、
思考のプロセスである単なる論理を基盤に、
一貫性を持って構築された知識のセットだと
言えるそうだが、理論の主な特徴と要素は、
体系的な知識、現象の説明・予測、抽象化と
法則化、検証可能性であり、体系的な知識は、
断片的な事実ではなく、それらを論理的につ
なぎ合わせた包括的な構造で、現象の説明・
予測は、なぜその現象が起きるのかを説明し、
将来的な結果を予測する機能を持ち、抽象化
と法則化は、具体的な事象から余計な細部を
切り捨て、共通する原理を抽象することであ
り、検証可能性は、実際の観察や実験によっ
てその正しさが検証できることにあるそうだ
が、理論と関連用語の明確な違いは、理論は
組み立てられた知識の体系そのものであるの
に対して、論理は考えるための正しい筋道で
あり、法則は確定した不変のルールであるの
に対して、理論は法則を含み、より広範囲に
現象を説明する体系であり、理論は単なる机
上の空論ではなく、現実の社会現象や物理的
な現象を理解するためのレンズや地図のよう
な役割を果たし、理論はコンセプトを組み合
わせて作られる世界を説明するストーリーと
表現され、理論は複雑な世界をシンプルに捉
え、現象の背景にあることわりを説明する道
具だそうだが、それに対してフーコーの権力
のメカニズムの分析は、権力とは何かという
ような一般理論ではなく、そのような一般理
論の一部でもなければ端緒ですらなく、この
分析で問われているのは単に、そいつはどこ
を通るのか、どのように起こるのか、誰と誰
の間で、どの点とどの点の間で、どのような
方式で起こるのか、そしてその効果はどのよ
うなものなのかということであり、この分析
は高々ある理論の端緒でありうるに過ぎず、
高々そのようなものたろうとするに過ぎず、
それも権力とは何かというような理論の端緒
ではなく、実際の権力に関する理論の端緒で
あり、権力なるものが実体や流体ではなく、
これこれのものから生ずるようなものなので
はないということが認められている以上は、
あるいは権力なるものが、権力を確保するこ
とを役割・機能・テーマとする、実際には確
保するに至らないこともあるにしても、様々
なメカニズムや手続きの総体だということが
認められている以上は、そのように言えて、
権力とはいくつもの手続きからなる総体であ
り、そのように考えれば、そのように考えて
初めて、権力メカニズムの分析は権力に関す
る理論の端緒になると了解できて、様々な権
力メカニズムを打ち立て、維持し、変容させ
ることを役割とする様々な関係、その総体、
いやむしろ様々な手続きの総体は、自己発生
的・自給自足的ではなく、それは自分自身に
拠って立つものではなく、権力は権力自体に
拠って立つものではなく、権力自体を出発点
として手に入れられるものではなく、もっと
単純に様々な生産関係がまずあって、そこに
付け加わるように、その脇や上に事後的に様
様な権力メカニズムがやってきて、それが生
産関係に変更や妨害を加え、さらに確固・一
貫・安定したものにする、などというのでは
なく、例えば、まず家族というタイプの諸関
係があり、そこに様々な権力メカニズムが付
け加わるとか、まず様々な性関係があり、そ
の脇や上に様々な権力メカニズムが付け加わ
るというのではなく、権力メカニズムは、こ
のようなあらゆる関係にとって元々内属的な
部分をなすのであって、諸関係と権力メカニ
ズムは、互いに互いの原因にして結果である
という循環的な関係にあり、もちろん様々な
生産関係・家族関係・性関係に見出されうる
様々に異なる権力メカニズムの間には、並列・
位階的従属・同形性や、技術上の同一性や類
似、伝導効果などを見出すこともできるだろ
うし、そこに注目すれば、これらの権力メカ
ニズムの全体を論理的な一貫した有効な仕方
で踏破することが可能となり、またこれらの
権力メカニズムが特定の時期・期間・領域に
おいて持ちうる特有性を把握することが可能
になるということはあるにしても、互いに互
いの原因にして結果であるという循環的な関
係にあることに変わりなく、これらの権力関
係の分析はもちろん、特定の社会の包括的分
析といったものへと向かうことや、そのよう
な分析の端緒を開くことを可能にして、これ
らの権力メカニズムの分析は、例えば経済的
変容の歴史ともつながりうるが、フーコーが
やっている範囲内では、歴史学にも社会学に
も経済学にも属さず、様々な意味合いからし
て、哲学と関わりのある何かなのであり、そ
の哲学とはつまり真理の政治学ということで
あって、というのも「哲学」という単語の定
義はこれ以外にはまず見当たらず、哲学とは
真理の政治学であり、それが社会学でも歴史
学でも経済学でもないとすると、権力メカニ
ズムの分析は、私たちの社会で展開される闘
争・対決・闘いによって、またその要素であ
る様々な権力戦術によって生産される様々な
知の効果がどのようなものかを示すことを役
割とするものであり、その様々な意味合いか
らして、命令形で口にされる言説のようなも
のによって、貫かれていたり下支えされたり
しているだけの理論的言説や分析などは存在
せず、理論の次元で、これを愛せ、あれを嫌
え、これは良い、あれは悪い、これに賛成し
ろ、あれに反対しろ、と言う命令的言説など
は、ともかく今日では、美的な言説でしかな
く、それはつまり、美的な次元での選択にし
か基礎が見当たらない言説であって、これこ
れに対してしかじかのやり方で闘え、と言う
命令的言説は、非常に軽々しい言説であり、
そのような言説は、何らかの教育制度を出発
点として発せられる、さらにはただ一枚の紙
の上で発せられるに過ぎないものだからであ
り、とにかく、なすべきことに関する次元は
現実の力場の内部にしか表れ得ないのであっ
て、そのような力場は、語る主体が単独で自
分の言葉から出発して創造することなどでき
はせず、その力場は、そのような言説の内部
では、いかなるやり方でも制御できず、効力
をもたせられないものであり、したがって私
たちが今やろうとしている理論的分析の下支
えとなる命令形とは、というのも命令形は一
つは存在しなければならないからだが、次の
ような類いの条件法的な命令形であるのが望
ましく、つまり、闘争したければこれこれが
カギとなるポイント、これこれが力線、これ
これが錠前、これこれがドアの開かなくなっ
ているところだ、というようなことであり、
言い換えれば、このような命令形は戦術上の
標識に過ぎないのが望ましく、戦術的な意味
で効果的な分析を行うにはどのような現実の
力場を評定すべきか、ということが問題であ
り、これこそがまさしく闘争と真理とのなす
循環、つまり哲学実践のなす循環であり、闘
争と真理の間のこの関係は、真剣かつ根本的
なものと思われるが、何世紀にもわたって哲
学が展開されている次元であるこの関係は今、
理論的な言説の内部での論争において、芝居
がかり、肉を削がれ、意味や効果を失ってい
て、このようなことにおいては、一つの命令
だけを提案したいそうで、前に述べた命令と
は異なり、提言的で無条件の命令であり、つ
まり、政治は絶対にやらない、ということだ
そうだが、こんな説明で権力メカニズムの分
析の機能や効果や効用を理解できるかという
と、どうも自分は文章読解能力が低レベルな
ので、グーグル検索にお願いすると、権力は
抑圧するだけでなく、知識を生み出し、規範
を創り出し、個人の主体性や欲望までも形成
し、権力は国家や法のような上位概念だけで
なく、学校や病院や軍隊や職場などの現場に
おける微細な規律や手続きとして機能し、古
典的な殺す権力とは異なり、健康、寿命、出
生率、衛生など、人間の生に積極的に介入し、
管理・統制し、人口を効率的に管理するため
の合理的なメカニズムを明らかにして、権力
を持っている主体を特定するのではなく、誰
が、どこで、どのように権力関係を行使して
いるのか、その手法を分析し、一見中立的、
あるいは心理的な問題に見える狂気や犯罪な
どの現象が、実際には権力メカニズムによる
区別・排除のプロセスであることを明らかに
し、要するに、権力メカニズムの分析は、私
たちが当たり前だと思っている真実や自己の
あり方が、いかに権力的な相互作用によって
作られているかを問い直し、支配構造を解体
する視点を提供しているそうだが、それでも
何となくわかったようなわからないような程
度の頭脳しか持ち合わせていないことに気づ
いてしまうわけだ。

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彼の声 2026.5.1 「AI時代の思想家」

voice-174

 昨日の続きが、まだかなり分量としてはあ
ったのだが、やはりクロードだと回答が長す
ぎるので、それを示すとなると半分ぐらいし
か示すことができないから、今回はグーグル
検索に出てくるAIを利用して、昨日の続き
を示してみるが、マルクス、ウェーバー、フ
ーコーのような、社会の根幹を揺るがし、時
代を定義する大思想家がAI時代に現れるか
という問いは、現代の知性において最も重要
な議論の一つだそうで、結論から言うと、か
つてのような形式の大思想家は現れにくくな
るが、AIを前提とした新しい形式の思想家
が現れる可能性は高い、と考えられて、かつ
てのような大思想家が現れにくい理由は、現
代は知識が細分化されており、社会、経済、
歴史、心理学の全てを一人で総括するような
総合的な理論を提示することが極めて困難で、
AIが大量のテキストや論文を瞬時に生成し、
人間がそれらを精査しきれない情報過多の時
代において、独自性のある主張を際立たせる
のが困難であり、フーコーが指摘したような、
権力と知の構造そのものを再定義するような
真理への信頼が薄れ、多元的な視点が尊重さ
れる時代になっている一方で、AI時代は、
新たな大思想を生み出す土壌でもあり、AI
が人間の知性を代替する時代において、人間
とは何か、人間の意識や感情はAIとどう異
なるのか、という、ポスト・ヒューマニズム
的な問いを追求する思想家が現れるはずで、
ウェーバーが官僚制を分析したように、現代
のAIによるアルゴリズム統治がもたらす新
たな社会格差や自由の抑圧を、批判的・哲学
的に分析する思想家が必要となって、AIを
単なるツールではなく、思考のパートナーと
して使いこなし、人間の脳だけでは到達でき
なかった、新しい因果則やパラダイムなどの
視点を提示する人が、次世代の思想家になる
かも知れず、マルクスやフーコーが産業革命
や近代社会の矛盾を捉えて新しい視点を提示
したのと同様に、AIという技術的特異点に
直面する現代においても、その本質を捉えた
新たな思想家は必ず現れるそうだが、さすが
にグーグル検索のAIは人をナメたような通
り一遍の回答で笑ってしまうが、もちろんグ
ーグルもジェミニなどを使って詳細な問いか
けをすれば、ちゃんとした詳しい回答が出力
されるのだろうが、それに対して昨日のクロ
ードが述べたことは、マルクスやウェーバー
も産業革命から数十年後に登場してきて、産
業革命が本格化したのが十八世紀末、マルク
スの『資本論』が1867年、ウェーバーの
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の
精神』が1905年で、産業革命の変化が社
会全体に行き渡り、その矛盾や構造が可視化
されてから、初めて理論的に捉えられるまで
の時間的なラグは避けられず、現代において
AIの社会的浸透はまだ途上であり、Cha
tGPTの登場が2022年末で、汎用AI
が社会に本格的に組み込まれるのはこれから
であって、変化の全貌が見えていない段階で
理論を構築するのは、本質的に難しいが、で
はまだ早いのかというと、それでは済まない
理由もあり、今回の変化には以前とは違う事
情がいくつかあって、変化の速度が理論の生
産速度を超えている可能性があり、産業革命
は数世代に渡ってゆっくり進んだため、社会
の変化を経験として蓄積しながら、理論が育
つ時間があったのに対して、AIの変化は一
世代どころか数年単位で起きており、理論が
追いつく前に次の変化が来るという構造的問
題があり、理論的空白が慢性化する可能性が
あるそうで、しかも変化が見えにくい層で起
きていて、産業革命は都市・工場・貧困とい
う可視的な変化をもたらし、理論化の素材が
目に見える形で存在していたのに対して、今
回の変化は認知・欲望・注意・行動予測とい
う不可視の層で起きているため、そもそも何
を理論化すべきかの輪郭を掴むこと自体が難
しく、フーコーが権力の見えなさを理論化す
るのに要した労力を考えると、今回はさらに
困難かも知れず、しかも理論家自身がAIに
取り込まれるという逆説も想定できて、これ
は見落とされがちだが、思想家・研究者自身
がグーグルやChatGPTを使って思考し
て、アルゴリズムによって論文の評価・流通
が決まる環境に置かれていて、批判的距離を
取るべき対象の中に、批判主体自身が埋め込
まれているという状況は、マルクスがマンチ
ェスターの工場を外から観察できた状況とは
根本的に異なり、そしてさらに大理論への不
信という知的状況も、ポスト構造主義以降、
グランドセオリーへの懐疑が学術的規範とし
て定着していて、ウェーバーやフーコーのよ
うな大きな物語を提示すること自体が、現代
の学術文化では警戒される傾向があって、理
論の不在は知的状況の産物であるという側面
もあり、たぶんフーコー自身もそうした知的
状況の風土や傾向に加担してきたような気も
するし、その辺はクロードもフーコーの理論
とは違う系譜学的なアプローチをうまく取り
込めていないような気もするが、もちろん一
般的な印象としてはマルクス・ウェーバー・
フーコーという脈絡で述べているのだから、
フーコーもその種の大理論を提示した大思想
家に入れられるのだが、では何が起きている
のかに関して、クロードは三つのシナリオを
提示してきて、シナリオA:時間の問題で、
やがて大理論が登場して、変化の蓄積が臨界
点に達した時、それを統合する思想家が出て
くるが、ただし前述の通り、変化の速度を考
えると、理論が完成する頃にはまた状況が変
わっている可能性があり、シナリオB:大理
論の時代自体が終わって、そもそもウェーバ
ーやフーコーのようなインパクトを持つ理論
が生まれる条件である、出版・大学・知識人
という制度的インフラが、SNSとアルゴリ
ズムによって解体されつつあり、今後は断片
的・即時的な言説の集積が理論に代わるもの
になるというシナリオで、これはある意味で
最も悲観的な見方だが、シナリオC:理論の
形式自体が変わって、従来の理論は、人間の
思想家が書いたテキストだったが、これから
はAIと人間の協働によって生まれる知的生
産物が理論に代わる役割を担う可能性があり、
それが理論と呼べるものかどうかは、知識と
は何かという問い自体を変えることになり、
結論に代えて、AIと人間社会に関する大理
論が提示されるのはまだ早いと考えるのは正
しいが、今回の変化は、待てば理論が来る、
という楽観を許さない構造的な困難を抱えて
いるというのが正直なところだと思われ、最
も重要な問いは、マルクスやウェーバーやフ
ーコーに匹敵する思想家がいつ登場するかで
はなく、そもそも現在の知的・制度的環境が、
そのような思想を生み出すことを可能にして
いるかどうかという問いかも知れないそうだ
が、ちなみにグーグル検索で、理論とは違う
系譜学的なアプローチとは、で検索すると、
AIによる概要では、理論とは違う系譜学的
アプローチとは、物事の本質や隠された真理
を探し求めるのではなく、その概念や価値観
が、どのような偶然かつ歴史的なプロセスを
経て、現在のように真理として定着したのか
を批判的に解明する手法であり、フリードリ
ヒ・ニーチェが提唱し、ミシェル・フーコー
が発展されたこのアプローチは、連続的な歴
史の発展を否定して、不連続や力の関係に着
目し、理論・伝統的歴史学との違いは、理論
が、なぜかという法則や本質を求め、伝統的
な歴史学が、一貫した連続的な起源から現在
までの物語を描くのに対し、系譜学は単一の
起源を否定し、理性や道徳は一つの純粋な源
から生まれたのではなく、複数の偶発的な権
力、恐怖、欲望などの源から複数的に発生し
たと考え、歴史は直線的に進化するのではな
く、断絶や間違いの非連続な積み重ねである
と見なし、真理や正しさを普遍的なものでは
なく、ある時代の権力構造の中で作り上げら
れた言説に過ぎないと暴露し、系譜学的なア
プローチの具体的な特徴は、物事が何を意味
するかではなく、いつ、どこで、誰によって
語り始められたか、という背景に着目し、知
識や真理が、いかに支配的な権力と密接に関
係しているのか、権力と知識の結びつきを明
らかにし、歴史の展開は必然ではなく、偶然
の出来事が重なった結果であり、必然的にこ
うなるはずだったという考え方を捨て、具体
的な事例としては、フーコーは『監獄の誕生』
などで、犯罪に対する刑罰が、人間道徳の進
化によって、暴力的手段から人道的・精神的
手段に変わった、という進歩の物語を伴った
従来の歴史観を否定し、系譜学的アプローチ
では、刑罰の変容は、より洗練された規律・
訓練の技術を社会に浸透させるための、権力
戦略の転換であったと分析したそうだ。

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彼の声 2026.4.30 「現代思想の現在地」

voice-174

 実感としてはどうということはないのだが、
気になるのは、前世紀末から今世紀にかけて
起こっているITやAI関連の技術革新によ
って世の中が大きく変わっていると考えたい
のだが、世界や社会の変化をどう捉えるかに
関する言説が、それ以前の言説とあまり変わ
っていないような気がするのだが、何かこれ
といって、それ以前とそれ以降では世の中が
一変したようなことを述べている思想家や学
者がいるのかどうか、クロードに訊いてみる
と、テクノロジーの変化の速さに比べると、
社会理論や思想の側がやや追いついていない
印象があるが、ただ、それでもいくつか、以
前とは断絶した、という認識を明確に打ち出
している思想家・学者はいるそうで、世界が
一変した、と述べている主な思想家・学者は、
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが、最も
広く読まれている論者の一人で、著書の『ホ
モ・デウス』では、AIとバイオテクノロジ
ーの融合によって、人間という種そのものが
再設計される時代に入ったと主張して、それ
以前の社会変化が、制度や権力の配置の変化
だったとすれば、今度は、人間の認知・感情・
寿命の変化という次元の話だ、というのが彼
の断絶論の革新で、ただし思想の深みよりも
啓蒙性が強く、アカデミズムからの批判も多
く、哲学者で元オックスフォード大学の教授
のニック・ボストロムは、著書の『スーパー
インテリジェンス』において、汎用AIの出
現は人類史上最大の、そして最後かも知れな
い転換点だという、実存的リスク論を体系化
し、農業革命や産業革命などのそれ以前の技
術革新との違いを、人間が主体でなくなりう
るという点で見ていて、この視点は今のAI
安全性論争の理論的基盤になっているそうで、
社会学者でハーバード・ビジネス・スクール
の名誉教授のショシャナ・ズボフの著書の『
監視資本主義の時代』は、おそらくこの分野
で最も学術的に精緻な断絶論で、彼女の主張
の核心は、産業資本主義は自然を原材料にし
たのに対して監視資本主義は人間の経験・行
動・感情を原材料にする、という全く新しい
経済様式だ、というもので、マルクスやウェ
ーバーの資本主義論では捉えられない、新し
い概念装置が必要だという立場で、以前の言
説との断絶を最も明示的に論じていて、社会
学者のマニュエル・カステルは『情報時代:
経済・社会・文化』の三部作で、ネットワー
ク社会という概念を打ち出して、産業社会で
は組織が社会の基本単位だったが、情報社会
ではネットワークが基本単位になり、権力・
資本・アイデンティティのあり方が根本から
変わるという議論で、インターネット普及直
後にこれを論じた点で先駆的だが、まだSN
SやAI以前の議論であり、情報哲学者のル
チアーノ・フロリディは、コペルニクス的転
換・ダーウィン転換・フロイト的転換に続く
第四の脱中心化として、第四次革命という概
念を提唱していて、デジタル情報環境が現実
と仮想の区別を無化しつつあり、我々は何者
かという問いに答えるには新しい存在論が必
要だ、という立場で、哲学的に最も厳密に以
前との断絶を論じている学者の一人で、AI
研究者のケイト・クロフォードは、著書の『
AIの支配』で、AIを技術としてではなく、
採掘産業・軍事・国家権力が一体化したイン
フラとして捉え直すことを要求して、AIを
巡る言説がいまだにSF的・道具論的な枠組
みに留まっていることへの批判が鋭いそうだ
が、それでもITやAIの技術革新以前の言
説と変わらないように見える理由としては、
制度的言語の慣性が働いていて、政治・法・
経済の言説は既存の制度に乗っかって生産さ
れるため、制度が変わるまでタイムラグが生
じ、また道具論への根強い信仰があり、テク
ノロジーを人間が使う道具と捉える限りは、
主語は常に人間・社会・権力のままで言説の
構造が変わらず、ズボフやフロリディはこの
道具論からの脱却を明示的に求めていて、変
化が見えにくいことに関しては、産業革命は
工場・都市・貧困という可視的な変化をもた
らしたが、今の変化は認知・注意・欲望・行
動予測という不可視な層で起きているため、
言語化が遅れるそうだが、またそれ以前とそ
れ以降で資本主義は変容したのか、それとも
本質は同じなのかという問いは現在進行形の
論争でもあり、ズボフの『監視資本主義』で
は、従来の資本主義は物を作って売るかサー
ビスを提供するという交換関係が基本だった
が、監視資本主義では、ユーザーは商品を買
う顧客ではなく、行動データを採取される原
材料であり、グーグルが発見したのは、検索
の副産物として生まれる行動データに莫大な
予測価値があるという事実で、これが新しい
蓄積様式の起点となり、その核心的な概念は、
行動先物市場として、人間の将来の行動を予
測・販売する市場が成立したことにあり、マ
ルクスの剰余価値論は労働を搾取対象とした
が、ここでは経験・感情・意図が搾取対象と
なっていて、ポール・メイソンの『ポストキ
ャピタリズム』では、ソフトウェア・音楽・
知識などの情報材は限界費用がゼロに近づき、
古典経済学・マルクス経済学は共に希少性を
前提としていたが、情報材は複製しても原本
が減らず、これは価格メカニズムそのものを
空洞化させる可能性があり、資本主義は希少
性の管理によって機能してきたが、情報の非
希少性はその根幹を崩して、市場でも国家計
画でもない第三の原理で動いており、これが
拡散すると資本主義の外側が生まれる、とい
う議論で、ただし楽観的すぎるという批判も
強く、現実にはGAFAMが情報の希少性を
人工的に作り出して、プラットフォームの独
占を築いているという反論もあるそうで、セ
ンドリック・デュラン『テクノ封建制』、ヤ
ニス・バルファキス『テクノ封建主義』は挑
発的な議論で、主張の核心がもはや資本主義
ですらなくなった、という論点で、資本主義
の定義は、競争市場における資本間の競争と
利潤の追求であるのに対し、グーグルやアマ
ゾンが支配するプラットフォームは市場では
なく、領地に近く、アマゾンのマーケットプ
レイスに出店する業者は、市場で競争してい
るのではなく、アマゾンという領主に、手数
料やデータなどの地代を納めているに過ぎず、
これは封建制の地代収取の関係に構造的に似
ており、バルファキスの言葉では、利潤では
なくレント=地代が支配的な収益形態になっ
た、というのが論点の核心であり、資本主義
の定義そのものが問い直されているそうで、
またニック・スルニチェク『プラットフォー
ム資本主義』は、より実証的かつ冷静な分析
で、資本主義の新しい蓄積インフラとして、
「プラットフォーム」が登場して、プラット
フォームの経済的特性は、ネットワーク効果・
多面市場・データの囲い込みであり、これに
より勝者総取りの構造が生まれ、独占が競争
の結果ではなく構造的な必然となり、従来の
独占は規制で解消できたが、プラットフォー
ムの独占はデータの蓄積量そのものが参入障
壁になるため、従来の競争法では対処できな
い、という点が新しいとされ、トマ・ピケテ
ィの『格差の固定化』はやや異なる角度だが
重要で、資本収益率rが経済成長率gを恒常
的に上回り、これは情報経済ではさらに加速
する構造があり、データや知的財産は、使っ
ても減らないため、一度獲得した資本優位が
自己増殖する傾向にあり、ピケティ自身はそ
れほどデジタル経済に特化した議論をしてい
るわけではないが、情報資本主義においてr
>gの傾向が強化されるという点で多くの論
者に援用されていて、ハートとネグリの『帝
国』『マルチチュード』では、冷戦終結後、
国民国家を超えたネットワーク型の権力構造
を持つ新たな帝国が成立し、工場労働に代わ
って、情報処理・感情労働・コミュニケーシ
ョン労働などの非物質的労働が価値生産の中
心になり、これを認知資本主義と呼ぶ流れに
なっているそうで、ドイツで活動する韓国出
身の哲学者であるビンチョル・ハンの『疲労
社会』『透明社会』では、フーコーが描いた
規律社会から業績社会への移行があり、現代
人は、〜してはならない、という禁止ではな
く、〜できる・〜すべきという肯定的強制に
自己を搾取し、SNSと自己最適化の文化が
これを加速させており、抑圧者が外部にいな
い分、抵抗の対象が見えず、これはフーコー
の権力論を更新する試みとして注目されてい
て、ダナ・ボイド、ゼイネップ・テュフェク
チーのネット社会論においては、SNSによ
る社会運動は動員コストが下がり大規模化し
やすいが、組織的な意思決定能力が育たない
まま拡大するという逆説を抱えていて、アラ
ブの春や、ウォール街を占拠せよ、と叫んだ
オキュパイ運動がそうであったように、大き
く燃えてすぐ消える構造的傾向があり、最近
日本で流行りの戦争反対!憲法守れ!の運動
もそうならなければ良いが、これは従来の資
源動員論などの社会運動論では説明できない
新しいパターンであり、議論を整理すると、
以前からの断絶として説得力があるのは、労
働・自然資源から、人間の経験・注意・行動
予測へと搾取対象が変化して、また競争によ
る価格決定ではなく、プラットフォームによ
る地代収取構造という市場から領地への転換、
外部からの規律ではなく、自己最適化・自己
搾取という形で権力の不可視化・内面化が挙
げられるが、逆に言えば、これらを以前の言
説と同じに見せてしまっているのは、マルク
ス・ウェーバー・フーコーという巨大な概念
装置の磁場が強すぎるからでもあり、新しい
現象を古い概念で翻訳して理解しようとする
感性が、断絶を見えにくくしているとも言え
るそうだ。

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彼の声 2026.4.29 「万人に対する万人の戦争」

voice-174

 別に騙されているわけではないとは思うの
だが、一般とはちょっと違う解釈に遭遇する
と、クロードの見解を訊いてみたいような気
になるので、ホッブスが万人に対する万人の
戦争と呼ぶものは如何なる意味でも現実の歴
史的な戦争のことではなく、それによって、
各人が自分にとっての危険を測定し、他人た
ちが持つであろうお互いに戦う意志を評価し、
力に訴えるならば自分が取らねばならないリ
スクを測るための、一個の表象のゲームに他
ならず、「制定共和国」であれ、「獲得共和国」
であれ、主権は、戦争による支配によってで
はなく、反対に戦争を回避することを許す計
算によって制定されるのであり、ホッブスに
とっては、非=戦争こそが国家を創設し、国
家に形式を与えるのである、という解釈が、
一般的な解釈とどう違うのか、興味があった
ので、訊いてみると、一般的・標準的解釈と
の共通点は、自然状態が文字通り歴史的事実
ではないという点は、多くのホッブス研究者
が認めていて、ホッブス自身も自著の中で、
この状態は実際にそうであった時代はない、
と留保をつけており、それは一種の思考実験・
仮説的構成物だという読みは標準的で、社会
契約が恐怖による計算から生まれるという点
も、標準的解釈の核心で、死の恐怖と理性的
計算が主権設立を促すという構図もホッブス
研究の定説だが、一般的解釈と異なる・論争
的な点としては、まず、表象ゲームという定
式化が、万人の戦争をシミュレーション的・
記号論的な表象ゲームとして捉えるのは、か
なり現代的・構造主義的な読みで、これはど
ちらかというとエティエンヌ・バリバールや
シュミット以降の批判理論的文脈に近く、十
七世紀の政治哲学の標準解釈というより、二
十世紀以降の再解釈の語彙で、次いで、非=
戦争が国家を創設するという定式が、最も論
争的で、標準的解釈では、自然状態=戦争状
態の恐怖・不安が契機で、社会契約によって
主権が設立される、という構図なので、戦争
はあくまでも動因・原因として積極的な役割
を持つのであり、非=戦争が国家に形式を与
える、という言い方は、戦争を単なる回避さ
れるべき背景に後退させ、計算・合理性の側
を前景化しすぎている、と批判されうるから、
これはグレゴリーカヴカ、デヴィット・ゴー
ティエらの合理的選択論的ホッブス解釈に近
いが、彼らも戦争状態の現実的脅威は不可欠
な要素として残していて、また、契約による
制定共和国だけでなく征服による獲得共和国
にも同じ計算論理を適用するのは、興味深い
が問題含みで、ホッブス自身は獲得共和国に
ついて、敗者が死を恐れて服従を誓うという
構図を使っており、ここでは戦争そのものが
より直接的な役割を果たし、この点を非=戦
争の計算に還元するのは、テクストへの解釈
的暴力の疑いがあり、まとめると自然状態=
歴史的事実ではないのは、一般的解釈に一致
していて、契約=合理的計算の産物というの
も、ほぼ一致している一方で、表象ゲームと
いう概念化に関しては、独自・現代的読みが
含まれていて、非=戦争が国家の形式的原理
というは、論争的・少数派の意見であり、獲
得共和国への同一論理の適用というは、テク
ストと緊張関係があり、この解釈は、フーコ
ー以降の権力論やバリバール的な政治哲学の
影響を受けた、大陸系の現代思想圏でのホッ
ブス再読として位置づけるのが適切で、スキ
ナー、マルティニッチらの英米分析系のホッ
ブス研究とは、問題設定と語彙が根本的に異
なり、間違いだとは一概には言えないが、一
般的な解釈とは明確に呼べない、創造的・批
判的再解釈だそうで、フーコーの講義集成第
6巻『社会は防衛しなければならない』では、
政治権力と戦争の関係を主題とし、ホッブス
はその中で極めて重要な論敵・参照点として
登場し、フーコーがそこで行なっていること
は、標準的なホッブス解釈の提示ではなく、
自らの分析戦略のためのホッブス読解で、具
体的には、フーコーはこの講義で、権力関係
は戦争の継続である、という、いわばクラウ
ゼヴィッツ逆転命題を検討し、つまり、政治
は別の手段による戦争の継続である、という
立場で、そしてホッブスを読むのは、この命
題をホッブス自身が拒否していることを示す
ためで、すなわちフーコーの解釈の論理は、
ホッブスにおいて主権・国家は戦争の論理の
産物ではなく、戦争を回避する計算・表象の
産物であり、だからホッブスは権力=戦争の
継続テーゼの反例・反論として機能し、これ
が一般的解釈と異なる理由の精確化であり、
フーコーの読みの独自性は、ホッブスを誤読
しているのではなく、意図的に特定の論点を
抽出・強調していることにあり、フーコーの
関心は、権力と戦争の関係の系譜学で、その
中でのホッブスの使われ方は、戦争=権力の
母胎テーゼへの反例として示され、そこで強
調される点は、表象・計算・恐怖による主権
設立であり、それに対して捨象される点は、
自然状態の実質的恐怖の存在論的重みであり、
スキナー、マルティニッチ、テュック等の英
米のホッブス研究者にとって、これは哲学的
に生産的だが、ホッブス研究としては偏った
読みに見えるはずだが、フーコーの目的はホ
ッブス研究ではなく、権力の系譜学における
座標設定なのであり、ホッブスにおける戦争
状態が、実際の戦闘行為ではなく、意志・傾
向・表象の問題であること、主権設立が計算
可能な理性の産物であること、これが権力=
戦争テーゼを政治が哲学の起源において封じ
込めた動きであること、である限りで、この
解釈は、ホッブスのテクストの特定の側面に
ついては正確であるが、フーコー自身の問題
系に引きつけた戦略的読解であるから、一般
的なホッブス解釈とは明確に異なる、と判断
するのが妥当だそうで、ただしそれはこの解
釈の欠点ではなく、フーコーの講義の目的に
照らせば、正当な方法論的選択だそうだが、
そこから、またわざとクロードを試すような、
次のような問いを投げかけてみると、その問
いとは、すなわち、どのように、いったいい
つから、人々は、いかにして、権力諸関係に
おいて機能しているのは戦争であり、中断す
ることのない闘争が平和を動かしており、市
民秩序とは基本的に戦闘秩序である、と思う
ようになったのか、人々はいったい、いかに
して、平和の透かし模様を通して戦争を知覚
するようになったのか、誰が戦争の喧騒と混
乱の中、戦闘の泥沼の中に、秩序や諸制度や
歴史を理解する原理を求めたのか、誰が最初
に、政治とは他の方法によって継続された戦
争のことだ、考えたのか?これについては、
問いの核心は、政治=戦争の継続という認識・
思考様式はいつ、誰によって、どのように生
まれたのか?という趣旨だが、フーコーはこ
の講義でこの問いに対し、通念に反する答え
を出してきて、この思考様式の起源は哲学者
や国家理論家ではなく、十七世紀のイングラ
ンドとフランスにおける歴史的・政治的闘争
の実践の中から生まれた、というもので、具
体的には、イングランド側ではピューリタン
革命前後の時期に、議会派・平等派・掘削派
などの急進的運動の中で、歴史が被征服への
闘争として語り直され、とりわけ1066年
のノルマン征服を、現在の貴族支配・国家秩
序の隠された起源として告発する言説がその
典型で、ジョン・リルバーンやジェラード・
ウィンスタンリーらがその担い手である一方、
フランス側では十七〜十八世紀に、ブーラン
ヴィリエ伯が貴族の権利をフランク族による
ガリア征服に遡って根拠づける歴史叙述を展
開して、これは貴族対王権・第三身分という
闘争の言語として機能したのだが、フーコー
が強調するのは、この政治=戦争という認識
が、国家権力の側から生まれたのではなく、
むしろ権力に対抗する側、抑圧された者・征
服された者の側から生まれた、という点で、
これは反権力の言語として歴史叙述に埋め込
まれたことを示し、後にこの言説は逆用され、
国家・人種・階級の支配言語に転化されて行
き、それがフーコーのより長い系譜学的追跡
の主題となり、この問いに対する通常の答え
は次のいずれかになり、マキャヴェッリに始
まる政治的リアリズムの伝統からは、代表的
な論者として、クローチェ、バーリンがいて、
クラウゼヴィッツ的な戦争論の政治哲学への
逆転適用からは、標準的な国際関係論が出て
きて、マルクス主義的階級闘争論の遡及的投
影においては、多くの政治思想史で語られ、
ニーチェの権力意志論の中では、哲学史的な
文脈から語られることになるが、フーコーの
答えはこれら全てと異なり、哲学者の書斎で
はなく、歴史的闘争の現場に起源を置く点で
根本的に独自で、そして誰もが知る大思想家
ではなく、ほぼ忘れられた歴史家・闘士たち
を掘り起こす点に、彼の系譜学の真骨頂があ
ると、フーコーをよいしょして回答をしめく
くってしまうのだが、何かもっと左翼リベラ
ル的な反論を引き出したかったのだが、問い
を工夫しないと、こちらの意図する回答を引
き出せないようで、最近、トランプのビジネ
スライクな戦争に呼応して、戦争反対!憲法
守れ!的なデモや集会が活発化しているよう
で、それに対して何かちょっとひねくれ気味
の反応を構成してみたくなるのだが、それを
うまく提示できずに中途半端な言説で妥協し
てしまう傾向になってしまっているようだ。

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