彼の声

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彼の声 2019.7.17 「正直で生真面目な態度」

voice-133

 何かを主張する人が果たして真実を述べて
いるか、それとも嘘をついているかに関して
は、そのどちらでも構わないわけではないが、
たとえ嘘をついているとしても、それが見え
見えの嘘であれば、誰もが了解済みの嘘であ
る可能性があるのかもしれず、しかも嘘をつ
いているのが政治家であれば、デマを拡散し
て政敵を攻撃するのは保守系の政治家ではよ
くあるケースだろうし、ある意味そういう人
は確信犯であるわけだが、そういう政治家の
支持者もそんなことは百も承知で了解済みだ
ろうし、中には一緒になってデマの拡散に手
を貸している人も結構いるのかもしれないが、
そういう政治家と支持者たちがその後どうな
るかといえば、たぶんどうにもならないだろ
うし、何事もなくそんな人たちは生まれては
消えていく運命なのかもしれず、いつの時代
でもそんな人たちはいくらでもいて、またそ
んな人たちが大勢いるからといって、何がど
うなるわけでもなく、資本主義経済と国民国
家が誕生して以来、大衆市民社会のエキスト
ラとして、そして人としての存在の重要性か
ら見放された存在として、そういう人たちに
特有な分相応なたわいない行動や言動ととも
に、ハエのように大量に湧いて出てくる宿命
にあるのかもしれないが、それらを腐肉に群
がる蛆虫のように形容すると語弊があるだろ
うし、実際にはそんな形容とは無縁の空疎な
存在かもしれないわけだが、少なくともそう
いう人たちを否定的に見てはいけないのであ
り、むしろその存在と行動と言動が現代社会
の成立にとっては必要不可欠な成り行きがあ
るのかもしれず、それがどんな成り行きなの
かといえば、無駄で無意味なことに莫大なエ
ネルギーを費やしていることに無自覚でいら
れる成り行きかもしれないし、またそれが気
休めとしての民主主義の幻想に過ぎないこと
を自覚させるような成り行きかもしれないわ
けだが、それも否定的に捉えてはいけないこ
とだろうし、逆にそういう誘惑に屈しないで、
そんな真実を捻じ曲げるようなことをやらな
くても、普通に正直で生真面目に振る舞える
範囲内で行動や言動を行うことが、人として
ごく自然な動作であることに気づくための紆
余曲折を経験している最中なのかもしれず、
そうなるに至るまでは、どうぞ気が済むまで
嘘をついたりデマを拡散してもらうしかない
のであり、そういうやり方から卒業できた他
の人たちは、そういう人たちの行動や言動を
率直にありのままのこととして受け止めるし
かないだろうし、そんなことをいくらやって
みても、大衆市民社会の中ではエキストラ以
上の役割など担えないことを身に染みて感じ
てもらうしかなく、またそんな人たちを束ね
るデマゴーグのリーダーのような存在を引き
受けている著名人の類いでさえ、一度そんな
ことをやってしまった時点で、良心的な人た
ちからの信用を失って、軽蔑の眼差しで見ら
れるようになってしまえば、その先に待ち受
けているのは、やはり何でもないようなたわ
いない境遇を引き受けなければならないだろ
うし、それでも当人にとってみれば、それな
りに大勢の支持者たちに囲まれて、成功者と
して著名人の仲間入りができたわけだから、
それで満足しなければならないのかもしれな
いし、現状の大衆市民社会においてはそれ以
上の地位などあり得ないのかもしれないが、
それが何でもないことだとは思えないだろう
し、たぶんその人たちにとってはそれが何か
価値のあることであるはずなのだが、そうい
うことでさえも肯定的に捉える必要があると
すれば、では他に何を否定すればいいのかと
なるわけだが、何も否定する必要はないとな
ると、そこに差異が生じないことになるわけ
で、逆にそんな差異がないところに無理やり
差異を生じさせようとするから、嘘をついた
りデマを拡散しなければならなくなるのかも
しれず、実際にそういうところで無理が生じ
ているわけだが、そうなると実質的には嘘や
デマによって対立を構成している双方には差
異がないから、無理に嘘やデマによって差異
を作っていることになるわけだから、そうい
った対立や敵対関係自体がフィクションでし
かないと言えるわけで、要するにその手の人
たちは自分たちが抱いている幻想の中で偽り
の対立を演じて、争っているつもりになって
いるわけで、それが実際に思考や感情や身体
の動作も伴っているわけだから、客観的な世
界の中でも実社会の中でも心の中でも対立を
装わなければならなくなり、当人たちもその
つもりのはずなのだが、そうであるならもし
嘘やデマをやめたら両者に間に差異がなくな
って、対立も争いも不要になってしまう可能
性があるだろうし、実際にそうなれば、そう
いう行為によって成り立っている政治が機能
しなくなってしまうかもしれないが、それに
関しては政治には別の機能の仕方があるのか
もしれず、それが正直で生真面目に振る舞う
ことであり、嘘やデマなどの無駄で無意味な
ごまかしを経由せずに、率直にごまかさない
で話し合うことであり、戦略的なはぐらかし
などとは無縁の交渉や取引を行うことでもあ
るわけだが、果たして実際にそんなことが可
能かというと、現状の中では不可能かもしれ
ないが、現状がいつまでも現状のままである
はずがないし、世の中は絶えず状況の変化に
さらされているはずだろうが、その変化の傾
向というのが、無駄で無意味なことを省いて
効率的な動作をもたらそうとする傾向であれ
ば、嘘やデマに基づいた不毛な対立や争いを
やめようとする成り行きになるはずだが、果
たして本当にそうなるかというと、少なくと
も現状の中では先行きは不透明だろうし、実
際に見え透いた嘘をつきながらくだらないデ
マを拡散中の人たちも、それをやめてしまっ
たら他にやることがなくなってしまうのかも
しれず、彼らの存在意義もそういうことをや
ることから生じてくるのかもしれないし、そ
うやって絶えず物事の本質から目を背けるこ
とによって自らを正当化しているわけだから、
それをやらないで真摯な態度で物事と直接向
き合うようになるまでには、この先相当な紆
余曲折を伴うことを覚悟しなければならない
のかもしれず、それも避けては通れない宿命
なのかもしれないが、現状でもだんだんと嘘
やデマの利用可能範囲が狭められている成り
行きがあるのかもしれないし、実際にそれを
狭めるように作用するのが、自然な態度とし
て正直で生真面目に振る舞うことであり、実
際に見え透いた嘘やデマに飽きてきたら、そ
うするより他はないのかもしないが、やはり
それに気づくまでの道のりがまだ結構長いの
かもしれない。

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彼の声 2019.7.16 「そそのかす側の論理」

voice-133

 人をそそのかすような言動の中では、そそ
のかす側にとって都合の悪いことは述べられ
ていないはずだが、そそのかされる側にとっ
ては都合の良いことが述べられているはずで、
そうでなければそそのかされるわけがないわ
けだが、実際にそそのかされた結果がそその
かされた人にとって都合の良いことになるか
どうかは、都合が良いか悪いかのどちらかの
結果がもたらされるはずだが、都合が良いこ
とにならなければ騙されたと思うのだろうが、
元からそんなに期待していなければ、都合の
良いことにならなくても、それほど怒りの感
情など湧いてこないだろうし、他人からそそ
のかされてその気になってしまった自らが浅
はかだったと悟るぐらいで、その程度であれ
ばどうということはないのかもしれないが、
期待通りにその人にとって都合の良いことに
なれば、そそのかした側に感謝するだろうし、
ありがたいと思うかもしれないが、そう都合
良くそんな事態になることも稀だろうし、そ
れよりは当人の思い込みでしかない場合も結
構あるのかもしれず、果たしてそれが当人に
とって本当に都合の良いことなのかどうか、
あからさまに損害や損失を被った場合を除い
て、ただ何となくそう思われるような場合だ
と、騙されているというよりは、何でもない
ような状態なのに、他人からそれが良い状態
だと言われてみれば、そんな感じがしないわ
けでもないとなるわけで、そんな可もなく不
可もないような状態が、その人にとって都合
が良い状態と認識するような成り行きになっ
てしまうのかもしれないが、他人をそそのか
して何かをやらせるということが、特に実利
も実害もないようなことなら、取り立てて問
題視するようなことでもないのだろうが、そ
こに実利や実害とみなせるようなことを発見
できるかとなると、それもそうしたことを発
見したい人の都合に合わせて見つかってしま
う可能性もあるだろうし、実際にそれが金額
として計上できれば、他の人たちもそれを信
用するのかもしれないが、それも実際に収入
や支出として金銭が支払われている事実があ
れば、誰もが納得するものの、金銭価値に換
算して出された数値の類いだと、やはりそう
いうことを主張したい人の恣意的な操作を疑
ってしまうだろうし、何かそういう面で定か
でないと思われれば、それも信用できない数
値になってしまうだろうが、利害という概念
にしても、利益が出れば良くて損失が出れば
悪いとは一概には言えない場合もあるだろう
し、利益を出すことで失われる何かがあるか
もしれないし、また損失を出すことによって
得られる何かもあるかもしれず、誰かが損失
を出さないと別の誰かが利益を得られなかっ
たり、その逆もあるのかもしれないが、それ
が表裏一体の現象であれば、少なくとも一方
的に利益を出し続けたり、一方的に損失を出
し続けるようなことにはならないわけで、そ
こで一方的に利益を出し続けることが、その
人にとって都合の良い状態であれば、そんな
状態が長続きするわけがないだろうし、利益
を得ている一方で、何かしら失っているはず
なのに、ただその人がそれに気づいていない
可能性もあるわけで、その失っている何かが
金銭価値に換算できなければ、それが利益と
表裏一体となっているとしても、気づかなく
て当然かもしれないが、世の中には失うもの
が何もないような境遇の人もいるだろうし、
そういう人なら、何をやってもプラスにしか
振れないような心境になれるかもしれないが、
そうであるならたとえ多額の負債を背負いこ
んでも、その人にとっては負債がやる気を呼
び起こすことでプラスに思われる場合もある
だろうし、その人の活動が成り立っている限
りで、活動している間は利害を度外視するよ
うな心境になれるのかもしれないが、果たし
てそれがその人にとって都合の良いことかと
なると、物は言いようで、そそのかす人の口
車に乗って何かを行なっている間は、結果が
出るまでは好都合な状態であるように思われ
てしまえば、しかも結果ですらも、そんな結
果の中で五体満足で生きていれば、どんなに
損失を被っていても、それだけでも都合の良
いことのように思われてしまうのかもしれず、
もちろん借金で首が回らなくなって自殺にで
も追い込まれてしまえば、それが身の破滅に
は違いないのかもしれないが、最終的にそう
なってしまうにしても、そこに至る途中の段
階では、何か希望があるかのように幻想を抱
いたり錯覚に陥っているとも限らないし、大
抵は結果がはっきりと出るまでは、その気に
なって活動しているわけで、それが端から見
ればじり貧状態なのに、虚勢を張っているよ
うに見えたり、前途洋々に思えるような成り
行きでも、実際に状況が突然暗転して窮地に
陥るようなことになるかもしれないし、そう
いう意味であまり目先の利害にとらわれない
ことが肝要なのかもしれないが、ともかく状
況をひたすら悪いように捉えたり、またどん
なことが起こってもそこからポジティブな積
極性につなげようとしてしまうのは、そんな
ことをやっている人の恣意的なフィクション
でしかなく、そこで損失が出ているように思
われても、それが利益であるように言いくる
めたりすることも、現実に収入や支出として
それなりの金額が計上されていても、それで
も物は言いような面があるだろうし、そうい
うところで絶えず人をそそのかすような言動
が待ち構えていて、実際にどのような事態に
も対処できるかのような幻想を抱かせてしま
うわけで、そして実際に対処している間は、
何とかなるような幻想を維持できるだろうし、
そういった幻想をいつまで保つことができる
かは、やはり実際にそうなってみないことに
はわからないし、何らかの結果が出るまでは
そんなことが続けられ、しかも結果が出ても、
何食わぬ顔してそれを継続しようとするわけ
で、要するに誰かがそういう行為に待ったを
かけない限りは、延々とそんな行為が繰り返
されてしまう可能性があり、それがいつかは
破綻すると高をくくっていると、なぜかいつ
の間にか破綻を通り過ぎてまで活動が続けら
れてしまうわけで、そうなると破綻が破綻で
ないかのような演技まで行われてしまうので
はないか。

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彼の声 2019.7.15 「噛み合わない論理」

voice-133

 物事を論理的に考えようとすると、その物
事に当てはめようとする論理とは別の論理の
存在を忘れがちになってしまうわけだが、人
が利用しようとする物事には、その物事が存
在して動作するための理屈があり、その理屈
を正当化する論理もあるだろうが、その論理
が別の論理と衝突するところで、双方の論理
の担い手となる人や団体が対立するわけだが、
対立することが対立している当事者たちにと
って都合が悪いわけではなく、逆に対立する
ことによって、自分たちの信奉している論理
の正しさをアピールすることにもなるだろう
し、そうした論理の何が正しいかといえば、
それは対立している別の論理が間違っている
ことを指摘できれば、相対的に自分たちの信
奉している論理が正しいと思われるのかもし
れないが、対立している側も同じように対立
している論理の間違いを指摘しようとするこ
とから、双方ともに自分たちの論理が正しく
て、自分たちの論理と対立している論理の方
が間違っていると主張するだろうから、客観
的にどちらの論理が正しくてどちらの論理が
間違っているかを明らかにするのは難しくな
るわけだが、どちらの論理にしても、その論
理を基にして物事が動作している面ではそれ
なりに正しいわけで、ただその論理にとって
都合の悪い面に関しては、功利的な姿勢では、
都合の悪い面を明らかにすることは損になる
わけだから、あえてそこには触れたくないわ
けで、その触れたくない都合の悪い面を暴露
するような人たちとは対立せざるを得ないだ
ろうし、またそういう都合の悪い面を暴露し
ながら批判してくる人たちにしても、その人
たちの信奉する論理にとって都合の悪い面が
あるのかもしれず、そうなるとやはり功利的
な見地から、そこには触れたくないし、他の
人たちがそれに触れないように神経をとがら
せているわけで、そうやって双方ともに触れ
られたくない都合の悪い面を隠蔽しながら、
自分たちの信奉する論理の正しさをアピール
しようとするから、そういう面ではあまり信
用できないわけだが、また実際には論理が正
しいか間違っているかというよりは、それが
何らかの物事とともに生じている活動を正当
化する論理であるから、その活動自体が成り
立っている面では論理的に正しいだけで、そ
うした活動とは無関係な面では論理自体も無
関係だろうし、そういう面ではその論理が正
しいか間違っているかに関しても考慮する必
要がないわけで、そうした論理が通用する範
囲外では、何ら問題とはならないだろうし、
そうなっている限りで活動と論理がセットに
なった現象自体を無視しても構わないわけだ
が、その現象が具体的に何かといえば、それ
が世の中に存在していてお互いに影響や作用
を及ぼし合っている現実の物事であるわけだ
が、ではなぜそれらが世の中に様々な影響や
作用を及ぼし合っているのに、それが通用し
ない範囲外があって、そこではそのような物
事を無視しても構わないのかといえば、そこ
に及ぼされている複数の作用や影響が打ち消
し合って差し引きでゼロになることもあるの
かもしれず、またちょうどゼロにならなくて
も、それらの現象から及ぼされる影響や作用
よりも自らが世の中に及ぼしている影響や作
用の方が大きければ、やはりそれらから受け
る影響や作用は大したことにはならないだろ
うし、そしてそうでなくてもその人が世の中
で取るに足らない存在であれば、そんな取る
に足らない存在に対して恣意的に影響や作用
を及ぼすメリットはないだろうし、そういう
面でもそうした影響や作用を及ぼすターゲッ
トにならなければ、それらの現象から及ぼさ
れる影響や作用を無視しても一向に構わない
ような立場や境遇もあるわけで、そういうわ
けで世の中の誰もがわざわざ特定の現象に注
目しなくても構わないような成り行きがあり、
誰もがそこから同じように無視できない影響
や作用を及ぼされているわけでもなく、強力
な影響や作用を及ぼされている人や団体が存
在する一方で、無視しても構わないような微
微たる影響や作用しか受けていない人や団体
も存在しているだろうし、それに伴ってそれ
らからの影響や作用が届く範囲内も、ある特
定の方面では比較的広い範囲にまで及んでい
る一方で、別の方面ではその広がりも限定的
な狭い範囲内に限られている可能性もあるだ
ろうし、そんなふうにして世の中には互いに
相容れない論理が直接衝突せずに共存できる
ような環境が形成されている面もあるとすれ
ば、そこでいくら不条理な現象が起こってい
ようと、そういった面から目を背けていれば、
それで済んでしまうような立場や境遇もあり
得るだろうし、また何らかの現象から特定の
方面では甚大な弊害が生じているとしても、
それとは別の方面では大した弊害も感じられ
ないどころか、むしろそうした現象から恩恵
を受けているような立場や境遇もあるのかも
しれず、だから世の中の誰もがそういった現
象に対して批判的になれるわけでもなく、む
しろそんな批判自体に反駁するような立場や
境遇もあって、そんな批判に対する反駁を平
気で行う人たちが存在すること自体が、そう
した現象から生じる弊害に立ち向かおうとす
る人たちにとっては、不条理極まりない状況
だと思われるだろうし、そういった人たちに
は理解できない成り行きがそこで生じている
わけだろうが、そういう面も含めて世の中の
現状があるわけだから、そんな現状を論理的
な理屈を用いて説明しようとすると、何か釈
然としない違和感が伴ってくるのかもしれず、
それに関してはある一つの論理では説明のつ
かない現象が生じていて、それに関しては複
数の互いに噛み合わないような論理の絡み合
いからしか説明できないだろうし、またそう
いう説明にはそれなりに矛盾が含まれてくる
のも当然のことであり、実際に世の中の全て
をうまく説明することはできないわけだが、
そうであっても特定の分野に関してはそれな
りに矛盾のない説明が可能かもしれないし、
その説明に用いる論理が特定の分野に依存し
て生じている論理であるから、そうなるのも
当然のことかもしれないが、それ以上に何を
説明しようとしても、そこにはうまく説明が
噛み合わないような現象が含まれてくるわけ
で、そうした現象の中で活動している人や団
体にとっては、そこでどのような弊害が生じ
ていようと、活動が成り立っている範囲内で
は問題がないし、また弊害を指摘して活動自
体を批判してくる人たちが少なからずいると
しても、そんな批判には屈するわけにはいか
ない事情を抱え込んでいるのかもしれない。
 
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彼の声 2019.7.14 「優先すべきこと」

voice-133

 現状の中で優先すべきことは、人それぞれ
で異なるだろうが、国家的な優先事項と個人
が優先すべきことが異なるのは、普通に考え
て当たり前のことかもしれないが、そもそも
国家的な優先事項というのが何なのかについ
ては、勝手に政治家の類いが思い込んでいる
ことが、果たして本当に優先事項なのか、よ
くわからないところだろうし、そもそも優先
事項が一つとは限らないわけだから、その中
で何を優先事項に選んでも、他にも優先すべ
きことがあれば、そうなると優先事項自体が、
それを優先事項とみなす人の都合で選んでい
るに過ぎず、他の人にとってはそれが優先事
項でなければ、何を優先すべきかを巡って、
人それぞれで見解の違いがあることになって
しまうわけだが、何を優先すべきかはその場
の状況から導き出されてくることであり、人
それぞれに物事への対応の程度や傾向に微妙
な違いがあれば、優先すべきと思われること
も違ってくるのかもしれず、また現状で優先
すべきことと過去や将来において優先すべき
ことも変わってくるだろうし、結局は現状で
行なっていることが優先すべきこととなって
しまうのかもしれないが、実際にはその時々
で優先すべきでないことをやっているとした
ら、それをやることによって何らかの失敗を
経験することになるかもしれないが、それを
回り道と捉えるなら、それなりに必要な迂回
だったのかもしれないし、もしかしたらそこ
で何をどうやっても、結果的にそれができれ
ば、それが優先すべきことだったように思わ
れ、それができなかったり失敗に終われば、
もしかしたらそれは優先すべきでなかったか
のように思われるかもしれないが、それも一
つの経験でしかないから、それが後からため
になったり、役に立ったように思われれば、
やはりその時点では優先すべきことだったよ
うにも思われてくるし、できないことを自覚
したり失敗することによって、そうやって痛
い目に遭うことが、それなりに教訓としての
経験を積むことになり、結果的にはそこでは
うまくいかない経験を積むことが優先すべき
ことだったようにも思われてしまうのかもし
れず、そうやって自分に都合のいいように物
事を捉えれば、恣意的にその場での優先事項
を決めているような成り行きになってしまい、
本当にそれが優先すべきことであったのか否
かは、客観的にどうとでも受け取れることに

なってしまうのかもしれず、それよりはそこ

で何かを行なっていることが、その人にとっ

ての望みであり、それなりに暗中模索や試行

錯誤を経て、何らかの状態や境遇に至れば、

それが何かをやった結果としてもたらされた

ことだと思いたいだろうし、そう思い込むに

は、そこで優先事項を決めて、自らがそれに

主体的に取り組んでいるように思い込みたい

のかもしれず、そういう感触を得たいがため

に、優先すべきことを選んで行なっているよ

うな気になりたいのかもしれないが、実際に

はそこで何を行なっていても、結果的にそれ

ができたりできなかったりして、うまくでき

れば成功したように思われ、うまくいかなけ

れば失敗したようにも思われ、それが場合に

よって優先事項を見誤ったから失敗したよう

にも思われるなら、そこで優先して行うべき

ことが何だったのかが、後からわかることに

なるのだろうが、それもその失敗した時点で

そう思われることであり、そこからまたしば

らく間をおいて改めて考えてみれば、その時

点での失敗も後々活かされるような成り行き

を経験するかもしれないし、実際にそれを経

験してみれば、その場ではうまくいかずに失

敗したことで、そうした失敗を教訓として活

かすことができたように思われてくれば、そ

れも通らなければならなかった迂回であり、

やはりその場で優先すべきは安易にうまくい

って成功することではなく、うまくいかずに

失敗することで、それを反省して教訓として

活かすことだったと認識できるわけで、それ

もその人がやってきたことの正当化でしかな

いわけだが、そういう正当化ができるという

ことは、確かに途中の一時期はうまくいかな

かったにしても、結果的にはそれが糧となっ

て成功したように思われるからだろうし、そ

ういう意味ではその時点で何が優先すべきこ

とだと思われるにしても、優先すべきことだ

からやらなければならないと態度を決めて行

なった結果として、それがうまくいったりい

かなかったりすることが、その人にとっては

他では得難い貴重な経験になるわけで、たと

え他の人にとってはどうでもいいことでしか

ないかもしれないが、それがその人が生きて

いる実感をもたらすわけだから、そういう実

感をもたらすようなことを行うことが、その

人にとっての優先すべきことのように思われ

てしまうわけで、そうであるならそうやって

もたらされた経験が、その人自身の存在その

ものを構成するような内容となるのかもしれ

ず、そうした経験を積み重ねながら前向きに

生きているように思われるから、やはりそこ

で自分にとって優先すべきことを行なってい

るような気になるのかもしれず、別にそれが

勘違いであろうと、全く見当外れなことをや

っているとしても、将来においてその時の経

験が活きてくるような予感がすれば、他から

何を言われようと小馬鹿にされようと、それ

を是が非でもやり通さなければならない使命

感なども芽生えてくるだろうし、そのやって

いる内容ややり方がいかにひどくてずさんな

ものであろうと、そういった使命感を抱きな

がら何かを行なっている人を止めるのは難し

いだろうし、たぶん人はそうやって無根拠な

思い込みとともにいくらでも過ちを犯してし

まう傾向があるのかもしれないし、またいく

ら過ちを犯しても他に危害が及ばない限りは

放って置かれるだろうし、そういう他から見

ればどうでもよくてたわいないことを必死に

なって行なっている状況というのも、結構世

の中では多く見受けられることかもしれない

し、そんなことがあちらこちらで行われてい

る状況を全体的に眺めれば、それらが他の何

にも増して優先して行われるべきことだとは

到底思えないわけだが、やはりそれはそうい

うことを行なっている当事者になってみれば、

必死になって全知全霊を傾けて行わなければ

ならない最優先事項のように思われてしまう

のではないか。

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彼の声 2019.7.13 「新たな行為」

voice-133

 どのようなことをやろうとしても、一人で
やれることは限られているが、集団で組織的
にやろうとしても、その集団を組織すること
自体が、個人の力ではなかなかできないこと
だろうし、そういう意味でも社会の中で活動
するには、人と人との連携や協力が欠かせな
いわけだが、制度的にも連携や協力し合うた
めの仕組みがあれば、その制度を利用するこ
とで集団が組織的に連携や協力するような成
り行きになるわけだろうが、具体的にはそれ
が行政から生じる制度であったり、企業から
生じる制度であったりするわけで、行政から
生じる制度は税金を徴収することによって成
り立ち、企業から生じる制度は物や情報やサ
ービスなどの売買から成り立っているわけだ
が、どちらも金銭が絡んでくる制度であるか
ら、経済活動が絡んでくるわけだが、そこか
ら功利的な利益の追及が行われて、それに伴
って利益を得る見込みのない行為がなおざり
にされる傾向も出てきて、そこで直接の利害
とは異なる倫理的な価値観が問われるわけだ
が、果たして金銭的な利害と倫理的な価値観
をどう調整すればいいかとなると、にわかに
は納得できるような調整法を思いつけないの
かもしれないが、金銭的な利害にしても倫理
的な価値観にしても、社会規範のような誰も
が共有しているはずの価値基準から生じてい
て、徴税も売買もそのような行為をやって当
然のように思われて、極めて自然な行為に感
じられるから、それ自体の是非を問うような
ことにはならないわけで、少なくともそうい
う行為を受け入れた上で、徴税に関しては公
平な負担になるようにするのが倫理的な配慮
であり、また売買に関してもそこからどれほ
どの利益を得ようとすることが倫理的に許さ
れるかが問われているだろうし、そうなると
それらは相対的な行為となってしまい、徴税
や売買が否定的な行為とは認識されないわけ
だが、むしろ生きるためには必要なことだと
捉えれば、例えば狩猟採集民が自然から獲物
を狩るように、徴税に関しては統治している
民衆から稼ぎのうわまえを跳ねるように税を
取り立て、売買に関しては物や情報やサービ
スと金銭との交換の中で余計に金銭をせしめ
るような行為となるだろうし、そこで倫理的
な見地から妥当な許される範囲内に税や利益
を設定しようとすれば、狩猟採集民が自然か
ら獲物を狩り過ぎて、自然環境そのものが破
壊されない範囲内での収穫量が定まるように、
徴税に関しても税を取り立て過ぎて、そこに
暮らしている住民が疲弊して住んでいる土地
を放棄しかねない範囲内での徴収額になるだ
ろうし、また売買に関しても特定の産業分野
で利益を搾り取り過ぎて、別の産業分野で利
益が出なくなるようなことが起こらない範囲
内で利益を得るようなことになるのかもしれ
ず、果たしてそんなことが可能かというと、
徴税に関してはある程度は徴税制度を管理運
営している政府内で調整可能であるが、売買
に関しては市場の自動調整機能に委ねられて
いる面もあるから、人為的な調整ではうまく
行かない可能性があるだろうし、その結果と
して景気循環が起こったり、特定の産業分野
に著しく利益が偏るとともに、別の産業分野
ではなかなか満足できるような利益が得られ
ない構造となってしまうだろうし、もちろん
同じ産業分野内でも競争があるから、利益を
得られている業者と得られていない業者との
間でそれなりの格差が出てくるだろうし、一
般的には同じ産業分野内で覇権を確立した少
数の企業に優先的に利益がもたらされて、そ
の他の従属的な企業にはかろうじて活動が成
り立つほどの収益しかもたらされない傾向も
あるだろうし、さらに業界内で覇権的な立場
を確立した企業の創業者などにも莫大な富が
もたらされるわけだが、そういった利益が出
ている産業分野や業界内で覇権を確立した企
業などに対して課税を強化することによって、
バランスを取ろうとする試みも行われている
だろうが、その一方で政府が産業分野や企業
などの国際的な競争力を重視するなら、そう
した分野や企業にあまりにも課税しすぎて、
国際的な競争力を失って国内経済が失速して
しまうとまずいわけだから、逆に税制の面で
も優遇してそうした分野や企業のさらなる成
長を促すような政策になる傾向もあるわけで、
そういうところで徴税の公平性ということが、
どのような水準で公平化を図るかに関しては、
微妙な問題が絡んできて、単純な理屈や論理
ではうまくいかないだろうし、そう行った方
面からの支持や賛同を得られにくい面もある
わけだが、徴税と売買の次元で倫理的な効果
を出そうとしてもそれなりに制約が出てくる
わけで、そういった面での功利性と相殺する
ような行為が必要となるなら、それが無償の
贈与になるわけだが、それを全面的にやって
しまうと、徴税や売買の理屈や論理が成り立
たなくなってしまうだろうし、果たして同じ
次元で両者が共存できるのか疑問に感じられ
るだろうが、現状でも遺産の相続などに関し
ては慣習としても法律的にも認められている
わけだが、あとは寄付とかも普通に行われて
いる行為であるが、それらは徴税や売買と競
合しない範囲内で是認されていることであり、
そのような行為だけで単独で成り立つわけで
はなく、遺産の相続などに関しても売買など
の経済行為によって富を蓄積したから、それ
が相続の対象となったわけで、また相続する
にも相続税がかかってくるから、結局はそこ
には売買や徴税が絡みついてくるのであり、

そうなっているからそれなりに是認されてい

る面もあるのかもしれないが、そこから人為

的に贈与の分野で新たな行為を付け加えられ

るかとなると、それがどのような行為になる

かは現状では皆目見当がつかないかもしれな

いが、それも今後において必要に応じて出て

くるような行為となるのかもしれず、それに

関しては現状で進んでいる経済行為の行き過

ぎが、何らかの事態を引き起こす可能性はあ

るだろうし、また様々な物事が社会の中で循

環していることも確かなのだから、それらの

どこかで行き過ぎが生じれば、それに対する

揺り戻しが起こるのはよくあることだろうし、
過剰な富の蓄積がある時いっぺんに無に帰す
ような事件が起こるかもしれないし、また誰
にも気づかないところでそういう成り行きが
徐々に進行中かもしれないし、それがたとえ
現状では認められないような行為であろうと、
次第に認められるような行為になって行く可
能性もあるだろうし、そういうところが現状
で成り立っている行為だけに目を向けている
と、意外と気づかないのかもしれない。

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彼の声 2019.7.12 「関係の牢獄」

voice-133

 自分に正直になれるなら、他人にも正直に
なれるかというと、実態としてはそうはなら
ず、自分に正直になれるということは、自分
が抱く欲望に対して正直に振る舞うことにな
り、そんな欲望を成就する目的で、他人には
嘘をついたりごまかしたりすることになるか
もしれないし、また逆に他人に対して正直に
なれる時には、自分の率直な気持ちを包み隠
さず他人に告白してしまうから、それが他人
の気に触ることであれば嫌われてしまうだろ
うし、実際に嫌われてしまえば反省して、今
度は他人から良く思われようと思うことが正
直な気持ちになり、そうなると他人から好印
象を抱かれるように振る舞おうとして、そん
な演技の中では場合によっては嘘やごまかし
を駆使してでも、他人から好かれようとする
だろうし、そうやって自分に対して正直にな
れる時には、他人には正直になれないことに
もなるわけで、また他人に対して正直になれ
る時には、自分に正直な欲望を断念しなけれ
ばならない場合もあり、どちらにしても自己
と他者との関係の中でお互いに正直に振る舞
うのは容易なことではなく、さらにそこに利
害関係が絡んでくると、さらなる騙し合いに
発展する場合もあるだろうし、そんなふうに
してお互いに都合のいいことばかり言ってい
るうちに相手が信用できなくなってくれば、
喧嘩別れになるのはいい方で、経済的な要因
などから別れられない事情が生じてくれば、
表面上は和気藹々と振る舞っているように見
せかけながらも、裏に回れば相手の陰口を叩
き合っているような陰湿な状況になってしま
う場合もあり、そんな状況の中ではお互いに
相手に対して正直になれない関係となって、
そんな関係を長年にわたって腐れ縁のように
続けていると、否定的な感情が蓄積していっ
て、それが限界を迎えると、いつ不満が爆発
してもおかしくない一触即発な状況となって
しまう場合もあるだろうが、大抵の場合は、
お互いの好きな面も嫌いな面も良い面も悪い
面も素直に受け止めて、許し合うような仲に
なることもあるだろうし、そうなれば正直に
なれようがなれまいが、そんなことは問題と
はならなくなってしまい、良くも悪くも安定
した関係になってしまうのかもしれないが、
そうなるとそこでは何よりも関係を壊さない
ことが優先されて、それに比べれば少々の嘘
やごまかしなどは大目に見られてしまうのか
もしれないし、そんなのは関係を維持するた
めの潤滑剤に過ぎなくなってしまうのかもし
れないが、そんな関係の中では利害に関して
妥協が成り立っていて、他にも様々な面で調
整されているのかもしれず、それがなあなあ
の関係だと言えるのかもしれないが、そうい
う馴れ合いとかもたれ合いが生じている関係
の内部では、関係の外では通用しないような
不正な行為が通用している可能性もあり、要
するにそれが談合体質なのかもしれないし、
異質な他者を排除して、同質な者同士で利害
を共有しているわけだが、そうした利害自体
も大して重要視されているわけではなく、確
かに関係を維持する理由として利害の共有が
あるにしても、大事なのはあくまでも関係の
維持の方であり、たとえ大して利益を得られ
なくても、なぜか関係を維持すること自体が
目的化しているわけで、そのうち関係を維持
するためには少々の犠牲を厭わないような意
識も生まれてきて、外部から見れば利益を得
られていないどころか、自由がなく虐げられ
て束縛された状態であるのに、それでもそこ
から離れられない精神状態となっていること
が奇異に感じられるかもしれないが、見捨て
られて路頭に迷うぐらいなら、むしろ牢獄の
中で不自由な生活を送っている方が安心でき
るのかもしれないし、そんなふうにして何ら
かの関係の内部で家畜のような状態となって
しまった人には、自分が置かれた状況という
のが、それ以上は良くなる可能性のない状態
となっているのかもしれず、そういう人にと
っては、主体的に自由を求めて束縛関係から
の離脱を試みようとする人の方がおかしいと
思われるのかもしれず、無駄な悪あがきにし
か見えないのかもしれないが、そのどちらが
正しくてどちらが間違っているということで
はなく、ただ単にどちらかになってしまう可
能性があって、またどちらとも言えないよう
な立場にもなれるのかもしれず、束縛された
関係の中で安住しているつもりの人にとって
は、そこがその人の分相応な居場所であるだ

ろうが、そこから自由を求めて離脱しようと

している人にとっては、そこは退屈で死にそ

うな場所に感じられるのかもしれないが、ま

た最初からそこから外れている人にとっては、
ただの無関係な場所でしかないのかもしれな
いし、果たして最初から外れている状態があ
り得るのかと言えば、そうした関係を築けな
い人は、否応なく外れているわけで、関係に
関して無頓着な人というのも存在する余地が
あれば、実際にそういった人が大勢存在して
いる社会というのもあるだろうし、それに関
して人と濃密な関係を築けないということは、
他人のやっていることに共感できない体質だ
と言えるのかもしれず、実際に共感できなく
ても不都合がなければ、それで構わないわけ
だが、少なくともそういう人は大勢で行う共
同作業には向いていないだろうし、実際に孤
独に生きている人の中には、そういう人が少
なからずいるのかもしれないが、それが自由
な状態なのかと言えば、たぶん自由でも不自
由でもなく、そもそも自由と不自由の対比が
成り立たないのかもしれないのだが、では自
由を求める人は、なぜそれを意識できるのか
と言うと、不自由な境遇を経験しているから、
しかもその不自由な境遇が不快でたまらない
から、その反動で自由な状態を夢想するわけ
で、そんな人にとっては不自由な状態から離
脱できれば、それが自由な状態だと思われる
だろうし、実際に離脱できれば自由を実感で
きるわけだろうが、初めから不自由を実感で
きなければ、自由を求めようとはしないだろ
うし、現状の不自由な境遇でさえも、それが
当たり前の状態であり、中にはそれさえも自
覚できない人もいるだろうし、そんな人は不
自由な牢獄の中でも大して不満を感じていな
いだろうし、逆に自由を求めて牢獄の外に出
ようする人たちの足を引っ張って引き戻そう
ともしているのかもしれない。

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彼の声 2019.7.11 「肯定する力」

voice-133

 たぶん他人を思いやる余裕があれば、それ
だけ利己的な意識から離れられるかもしれな
いが、その他人というのが嫌いな人だと、思
いやるどころか不幸になってほしいとさえ思
う場合もあるかもしれないし、結局自身にと
って都合のいい他人は思いやることができる
かもしれないが、都合の悪い他人を思いやる
ことができないとなると、それこそ利己的な
意識そのものとなってしまうわけだが、思い
やるだけで何もしなければ、心の中で思いや
っているだけで、思いやる対象となっている
人にとっては、何のメリットもないように思
われるかもしれないが、少なくとも思いやっ
ている限りで、直接の意地悪や嫌がらせなど
の攻撃がないだけでも、マシだと思うしかな
いのかもしれないが、逆に思いやる心などひ
とかけらもないどころか、逆に悪口や嫌がら
せなどを仕掛けてくる相手を思いやることが
できるかとなると、たぶんそんな人を思いや
ることが肝要なのかもしれず、それも何か別
の魂胆があって思いやるのではなく、たとえ
ひどい人であっても心の底から思いやること
で、その人に対して憎悪の感情が芽生えない
ことが精神衛生上好ましいのかもしれず、そ
れも自分のために他人を思いやるという利己
的な思いの一種かもしれないが、実際にそう
なればお互いに攻撃の応酬とはならないだろ
うし、自分から仕掛けない分だけ無駄な労力
を使わずに済むから、身体の面でもそれなり
にダメージが少なくなるのかもしれず、そう
やって物事をできるだけ良い方向へと持って
行こうとすれば、世の中の傾向を否定的に捉
える意識からは脱却できるのではないか。そ
こでなぜ世の中の傾向や動向を否定的に捉え
ることがいけないのかといえば、否定的に捉
える方が楽だからというと、何が楽なのかに
わかにはわからないかもしれないが、要する
に自分の思い通りにいかない面は、気に入ら
ないから誰もが否定的に捉えたいわけで、ま
たそれを否定してしまうと、常に自分が悪い
のではなく、相手が悪いのであり、またそん
な相手を含んだ世の中が悪いということは、
比較的簡単に言えることであり、そうやって
対象を否定することによって自己満足に浸れ
るのかもしれないが、ではそれを肯定してし
まうと自己満足に浸れないのかというと、思
い通りにいかない面を肯定することは、自分
に足りない面があるから思い通りにいかない
と解釈することもできるわけで、そうである
なら自分の方が至らないのだから、何かもっ
と研鑽を積んで精進して、満足できる自分に
持っていこうとするだろうし、それだけ積極
的に活動することになるわけで、そういう意
味で、何か気に入らないことがあっても、そ
れを否定せずに、そこから何か肯定的な面を
掴み取ろうとすれば、否定的に捉えてそのま
まとなるよりは、そんな現状よりも良く見え
る可能性があると言えるのではないか。そし
て現状を否定的に捉えて、このままではだめ
だから改善しなければならないというよりは、
だめなのではなく、だめとは判断せずに、そ
こにも肯定的な面があるはずであり、それを
探し出そうとすれば、探しているうちに、そ
れまでには見えてこなかった面が見えてくる
ようなら、安易に否定せずに探してみた甲斐
があったことになるのかもしれず、そうなれ
ば結果的にだめと決めつけて否定するのとは
違うやり方を模索できたことになるわけで、
そうやって物事を肯定的に捉える習慣が身に
つけば、否定してあきらめる手前で踏みとど
まることができるだろうし、たとえどんなに
ひどい人がひどいことをやっているように見
えても、そのやっていることを成り立たせて
いる要因があり、そこにはその人だけでなく、
その人と関係している人や団体の行為や活動
もあるわけで、そうした様々な行為や活動と
の連携の中で、その人の行為や活動も成り立
っているとすれば、それが成り立っているこ
と自体は肯定しないとならないだろうし、そ
れまで否定してしまったら、その人の行為や
活動が成り立っていること自体の肯定性との
間で矛盾が生じてしまい、その矛盾をごまか
すために、それを否定する言説の中にフィク
ションが入り込んできて、言説自体の信憑性
が怪しくなってくれば、それに気づいた他人
から信用されなくなってくるだろうし、そう
いうところで何かと他人の行為や活動を全否
定してしまう言説のフィクション性があらわ
となってくるのかもしれず、全否定という奥
行きのない構図は、確かにわかりやすいし、
そんなことを主張する人と一緒になって気に
入らない物事を全否定していれば、それ以上
考える必要がなくなって、楽になってしまい、
物事の微妙な面を見極めようとして、研鑽を
積んだり精進するような成り行きにはならな
くなるだろうし、それが娯楽として単純明快
なフィクションを求める傾向とも重なって、
否定する手前で踏みとどまるような動作をも
たらせなくなってしまうわけで、そうやって
物事の単純な解釈に依存してしまうと、実際
にはそれでは済まなくなってくるわけで、要
するに誰からも否定されるようなひどい活動
が成り立っている事実をうまく説明できなく
なってしまい、何やら悪い人たちが悪事を働
いているような単純化された解釈になってし
まうわけだが、そういう言説のフィクション
化を回避するには、まずはそういうひどいこ
とをやっている人たちのことを思いやって、
そういう状況をもたらしている原因を探ると
ともに、どのようにしてそういう行為や活動
が行われているかを説明しようとしなければ
ならないだろうし、それを説明しようとする
ことによって、説明に使う材料をあれこれと
探す成り行きになって、そうした成り行きの
中で、ひどいことをやらざるを得ないような
理由や原因も導き出されてくるわけだが、中
には理由や原因とは無関係な動作も得られる
のかもしれず、それが行為や活動を肯定する
動作であり、肯定するのに必要な力も出てく
るわけで、その力を引き出すのがそれらの行
為や活動を肯定しようとする意識であり、そ
れがそんなことをやっているひどい人たちを
思いやる心なのかもしれないが、またそれが
その人たちがそんなことをやっているおかげ
で、それを肯定的に捉える自らはそんなこと
をやらなくても構わないような境遇でいられ
るのかもしれず、それとは逆に実際にそれを
全否定するような人たちには、そういう行為
や活動が回りに回って、ある時立場が変わっ
てみれば、かつてそういうことを全否定して
いた人たちが、知らない間にその人たちも自
分たちが否定していたことをやらざるを得な
い立場に追い込まれているわけで、しかもそ
んなことをやっている人たちにはその自覚が
ない場合もあるわけだ。

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彼の声 2019.7.10 「現状を変更するには」

voice-133

 別に立派な見識と人格を兼ね備えた人が政
治家になるとは限らないのは当然のことだが、
それよりはどこにでもいそうな月並みな見識
と人格を併せ持ったありふれた人が政治家に
なることの方が、選挙に関する制度的な成り
行きとしてはそうなる可能性が高いだろうし、
実際にそういう人が政治家となっている現実
があるのかもしれないが、それで構わないよ
うな政治的な制度となっていることも事実と
してあるだろうし、選挙で人を選ぶ判断基準
としては、立候補者が立派な見識と人格を兼
ね備えていようといまいと、それだけが投票
の際の判断材料となるわけではないこともわ
かりきっているし、確かにイメージとしては
政治家の見識や人格を問うような傾向がある
としても、それはその人の見識や人格を疑わ
れるような不祥事を起こした際に問われるこ
とであり、そうでなければ普段からそういう
方面で何を言われることもないし、それはそ
の程度のことでしかないわけだが、それ以外
で何が問われているかとなると、政治家なら
政策の中身だろうし、それもメディア上で問
題視されているようなありふれたことに関す
る意見程度のことでしかない場合もあるわけ
だが、他に何かこれといってその人に特有な
意見とか主張があるとしても、それは他の民
衆にとっても切実なことでないと、なかなか
民衆からの支持や賛同は得られないだろうし、
そういう意味では広く民衆と共有できるよう
な政策を掲げないと、政治家としての役目を
果たせないことになってしまうわけだが、い
くら民衆から支持や賛同を得られるような政
策を掲げても、それを実行できないようだと、
やはり政治家としての役目を果たせないだろ
うし、そうなると結局は、政策を実行できる
ような立場になることを目指すような成り行
きになるだろうし、またそうやって目的を遂
行するには、政権与党に入ったり、与党にな
りそうな政党に入党するのが近道となるわけ
だが、そういった事情を考慮しないで、政権
与党や与党になりそうな政党を目の敵のよう
に批判するだけの立場になってしまうと、政
策実現能力がないかのように見られてしまう
し、また政権与党や与党になりそうな政党に
関しても、そういった批判をされて当然の事
情を抱えている面もあるだろうし、どちらに
しても、批判されて当然だが、その代わりに
それなりに政策実現能力がある勢力と、政策
実現能力はないが、いくらでも批判すること
が可能な勢力とに、役割分担が固定化されて
いるところが、現状の日本では問題となって
いるわけで、それに関して理想を言うなら、
どのような政治勢力でも政策を実行できるよ
うな制度にしていけば、政治的な方面での不
具合が解消されるのかもしれないが、それは
制度的な問題以前に、個々の政策が互いに相
容れない面もあるだろうし、ある政策を実行
しようとすれば、別の政策がその政策を実行
を妨げる障害となっていれば、様々な政策の
中で実行することが比較的容易な政策と、他
の政策との兼ね合いから実行することが困難
な政策とがあることにもなるだろうし、そう
なるとそれらの政策の中でどの政策を優先し
て実行すべきかを、各政策を掲げている勢力
同士で話し合って調整しなければならなくな
り、そういうことを行う場が議会であるはず
だが、議会がそういうことを行う上でまとも
に機能しているかとなると、政策を実行する
側とそれと批判する側とに役割分担が固定化
されている限りで、各政策を調整する機能が
果たせていないことにもなるだろうが、それ
はメディアの伝え方にもよる面もあって、実
際にはそれなりに議会内で調整が行われて、
様々な勢力の意見を加味した政策を実行する
ための法案が成立することもあるわけだが、
そういうのは各勢力の間で対立する要素の比
較的少ない面のある政策になるだろうし、そ
うではなく調整が困難な政策があるとすれば、
選挙でどのような政策を掲げている勢力に投
票するかに関して、民衆の側に選択が迫られ
るわけだろうが、実際に選挙での争点がそう
いうことでしかなければ、単純に実行してほ
しい政策を掲げている政治勢力に投票するよ
うな成り行きになるはずかもしれないが、そ
ういう成り行きに持っていかれると困る勢力
があれば、他にも自らの勢力が有利になるよ
うなことを争点として打ち出してくる場合も
あるだろうが、そういうことも含めて民衆の
側が選挙の際にどの勢力へ投票するかを判断
すればいいわけだろうが、その結果としてど
のような勢力が政治的な主導権を握るにして
も、それ自体が過渡的で相対的な出来事や現
象とみなしておいた方がいいのかもしれない
し、それとは違う特定の政治勢力が長期間に
わたって主導権を握るような定常的な状態を
望んで、どのような勢力でなければならない
という固定観念を抱いてしまうと、そこで状
況の固定化が起こって、政策を実行する側と
それを批判する側という役割分担を強いるよ
うな成り行きになってしまうわけで、そうな
るとそれに伴って主導権を握っている側も、
主導権を手放したくはないから、何やら政権
担当能力などという根拠の定かでない幻想を
ふりまいて、それに関してもっともらしい理
屈を並べるようなことも行われて、民衆の側
がそれを信じて真に受けてしまうと、政治的
な状況の停滞を招くわけだろうが、たぶんそ
ういうところで民衆の側に事を大げさに捉え
すぎる傾向があるのかもしれず、政治的な政
策というのは、その制度的な手続きや手順に
従って、それなりに変更や改善ができる仕組
みになっているのだから、それに伴って政治
勢力の側でも、どのような変更や改善をする
かに関して方針を調整するのに伴って、離合
集散が頻繁に起こっても構わないだろうし、
そこであまりにも現状で成り立っている秩序
が壊れるのを恐れて、定常状態の安定化を望
んでも、そこで有利な立場と不利な立場が固
定化して、それらの間で格差が広がると同時
に、構造的にも老朽化や腐敗を招くだろうし、
そういう傾向が目立ってきたら、民衆の側で
主導権を握っている勢力の交代を促さないと、
いつまで経っても状況の固定化から抜け出せ
なくなってしまうわけで、要するに現状の変
化を望むなら、政治勢力の側にではなく、民
衆の側が決断が迫られているということを認
識すべきなのではないか。

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彼の声 2019.7.9 「勝利のない戦略」

voice-133

 どのような行為や活動であってもそうなる
わけではないだろうが、少なくとも争いや対
立などを伴うような場合には、自然とそうな
る傾向があるのかもしれないが、そうなった
時に戦略的に振る舞うことの意義は、そうす
ることによって効率よく効果的に目的を遂行
して願いを成就できれば、それに越したこと
はないわけだが、ただの力まかせやその場そ
の時の運まかせや、相手との駆け引きなどの
際にもそれなりに経験や勘を頼りにするにし
ても、それらを効果的に組み合わせることで、
戦略的な振る舞いが生じてくるのだろうし、
それも簡単に遂行できるものから、それをや
り遂げるには大変な困難を伴うものまで色々
あるだろうし、またそれに応じて戦略の内容
や程度や傾向も異なってくるわけだが、それ
とは異なる次元で、根本的なところで目的が
定かでないのに、それでも戦略的に振る舞う
ような成り行きがあるとしたら、それがあえ
て勝とうとしない戦略であり、また積極的に
戦おうとしない戦略でもあるかもしれないの
だが、それの何が戦略なのかと言えば、普通
は戦略的に振る舞うことで戦って勝利を目指
す人や勢力に対抗して、それと同じように戦
略的に振る舞ってしまえば、それは悪くて戦
争、良くて競争にしかならないわけで、そう
なると戦って勝利することが目的になってし
まうだろうし、それでは従来通りの戦略的な
行為の継続にしかならず、それ以外のやり方
を模索できないわけだが、果たしてそれ以外
のやり方があるのかと言えば、いくらそれを
模索しても戦い方のバリエーションが増える
だけで、戦いそのものを回避するような成り
行きにはならないのかもしれないが、戦うこ
とを受け入れるならそれ以外のやり方がなく
ても構わないのかもしれないが、それでもそ
れ以外のやり方を模索しようとすれば、それ
があえて戦おうとも勝とうともしないやり方
になるのかもしれず、そうやって戦略的に戦
略的な行為に逆らおうとするややこしいやり
方がもたらされるのかもしれないが、別にそ
んなひねくれたことをしないで、素直に戦っ
て勝つことを目指せばいいと思うのかもしれ
ないが、状況的に勝つ必要がなければ戦う必
要もないし、また戦う必要がなければ勝つ必
要もない場合もあり得るだろうし、そもそも
対立や争いは必要に応じて行われることであ
るから、その必要がない成り行きや状況をも
たらせれば、戦うこととも勝つこととも無縁
でいられるのかもしれず、それも全く戦いが
ない状態を人工的にもたらすことは無理だと
しても、その程度がなるべく無害と呼べる範
囲内にとどまるようなら構わないのかもしれ
ないし、果たしてそんな状況が実現できるの
かといえば、現状ではあり得ないように感じ
られるだろうし、実際に相手に危害や損害を
与えるような戦いが行われている限りは、そ
れはただの夢想に過ぎないわけだが、別に実
際に行われていることを見習う必要がなけれ
ば、それとは違うやり方を模索しようとする
だろうし、戦う必要がある人や団体が対立し
たり争っている一方で、その必要がない人や
団体は特に対立も争いもしないわけで、現状
ではその二つの状態があって、それが一方の
状態だけになることはないだろうし、だから
たとえ対立したり争う成り行きに巻き込まれ
ても、そこであえて戦略的に戦おうとも勝と
うともしない態度を貫けるかとなると、実際
にそういうことを実践してみて、それに少し
でも成功すれば、それに関するノウハウが蓄
積する可能性が出てくるのかもしれず、それ
をやろうとする人や団体としてはそうなる可
能性を信じて、そういうやり方を模索してい
くしかないのかもしれないが、現状でそんな
ことをやっている人や団体が存在するかとな
ると、皆無ではないかもしれないが、はっき
りと意識してそんなことをやっている人はま
ずいないだろうし、中には何かの加減でそう
なってしまう成り行きがもたらされることも
あるかもしれないが、そのほとんどは見過ご
されているのかもしれず、別にそれでも構わ
ないわけだろうが、特にそれが戦略的なやり
方ではなくても、自然な成り行きとしてそう
なってしまうなら、それでも構わないだろう
し、何かそういうところで意識しないでそう
なっていると、誰もそんなことには見向きも
ないような成り行きになってしまうわけだが、
逆にそうなっていることが、そういうことの
余地を生じさせる可能性をもたらしているの
かもしれず、それに関してはわざと意識して
そんなややこしいことをやろうとするよりは、
そういうことを意識しなくても自然にできて
しまう方が、それだけ無駄な力が入らなくて
楽な感じがするわけだが、そういうことに興
味を持つ人がいるなら、無理なくできる範囲
で部分的にやろうとすればいいわけで、いき
なり全面的にやろうとして挫折するよりは、
ちょっとずつ戦いとも勝利とも無縁な回り道
に迷い込む程度の方が、かえって新鮮な驚き
があるだろうし、そんな余地を心の片隅で意
識しておく程度でも、そういう成り行きにな
るきっかけをうまく捉えられるのかもしれず、
それ自体も何が何でもやろうとするようなこ
とではないのかもしれないし、そういったと
ころではっきりとした違いではなく、微妙な
濃淡を感じ取れる繊細さも求められてくるだ
ろうし、そうやって徐々に戦略的なわざとら
しさから離脱できれば、自然な感覚で戦いと
も勝利とも違う方向で活動が成り立つように
なるのかもしれず、そうなるにはまずは物事
の単純な割り切りとは異なる感性が必要とさ
れるだろうし、そういう面でも現状の中で行
われていることに関して、何かそういうこと
と地続きな面を探すような方向で妥当なやり
方を模索することになるのかもしれないが、
それに関して少なくとも言えることは、そう
いうやり方は競争原理に基づいた資本主義的
な功利性とは無縁な方向での模索と言えるだ
ろうし、たぶんそういった制度化された争い
である競争よりも、さらに高次元で実現しよ
うとする制度的な行為となるとともに、また
それは従来の制度とも重なり合う面もあるの
かもしれないが、何らかの方便とは違う、中
身のある直接の活動として成り立つようなこ
とになるのかもしれない。

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彼の声 2019.7.8 「批判を駆逐する批判」

voice-133

 なぜかその場の成り行きに従って動いてい
るつもりが、途中からその場の成り行き自体
に疑いを抱くようになってしまうと、いつし
か気づかないうちにその場の成り行きに逆ら
うようになってしまう可能性があり、そうな
るとそこで何かと何かの衝突が起こっている
のかもしれないが、何と何が衝突しているの
かといえば、自意識と自らの動作が衝突して
いる可能性があるだろうし、そこで自らの動
作をつかさどっているのが身体の動作であり、
しかもなぜか意識と身体が異なる動作を引き
起こそうとしていて、なぜそうなってしまう
のかといえば、外部からの刺激に操られて意
識が反応する一方で、身体の方では自己防衛
本能が発動しているのかもしれず、そうやっ
て思考と動作がかみ合わなくなってくるのか
もしれないが、そういう場合はどちらを優先
させればいいということよりも、身体の動作
が自然な成り行きへと導いていく傾向がある
のかもしれず、いくら思考を集中させて意識
を覚醒させようとしても、自然に眠くなって
しまえば、逆らえずに眠ってしまうだろうし、
カフェインなどの力を借りて、無理やり意識
を活性化させても、そこで無理をすればそれ
だけ後から来る反動が大きくなるだけで、な
かなか意志の力だけで切り抜けられない事態
となってくるわけで、実際に無理をしすぎる
と病気になってしまうし、頑張りすぎて体調
を崩して寝込むような成り行きになってしま
えば、それだけ激しい消耗を経験したことに
なるのだろうが、それが度重なると寿命を縮
めてしまうだろうし、その辺は意識の方が承
知しておかなければならないことであり、そ
ういった意識と身体の間の調整がうまくいか
なくなれば、心身ともにおかしくなってしま
うわけだろうが、たぶんそうなってしまった
人も世の中にはいくらでもいて、外部から加
えられるストレスによって心身ともに消耗し
きってしまえば、それだけ老化が早まるだろ
うし、そうなってしまった人は、見た目にも
やつれた印象に感じられてしまうわけだが、
そうならないためにはどうすればいいかとな
ると、それはその人が置かれた環境が、その
人にストレスを加え続けるような環境であれ
ば、その人の力ではどうしようもない面があ
るのかもしれないし、そうした自助努力を超
える劣悪な環境になってしまうと、その人が
どうこうというよりは、公的な制度として統
治機構が統治している範囲内では、なるべく
そういった劣悪な環境にならないようにしな
ければならないだろうし、実際に政府などは
自らが統治している住民が快適な生活環境の
中で過ごしてもらうために、様々な方策を打
ち出していかなければならない傾向になって
いるのかもしれないが、そういうことはそこ
に住んでいる住民が実感することでもあり、
実際ひどい居住環境や労働環境であれば、政
府に何とかしてほしいと願う成り行きになっ
てくるのかもしれないし、そういうところで
何らかの政治勢力が住民たちの要望を聞いて、
それを行政に反映させるように尽力しなけれ
ばならないのが、民主的な政治制度が目指す
ところだろうが、中にはそれだけではない実
態もあるだろうし、実際に政治勢力が政府の
官僚機構や産業界やメディア業界と癒着して
しまうのも、よくある成り行きであり、また
住民の側でも主義主張や資産格差や職業や年
齢などの面で決して一枚岩ではなく、また住
民側と政治勢力や官僚機構や産業界やメディ
ア業界とが必ずしも対立しているわけでも敵
対関係にあるわけでもない面もあるだろうか
ら、その辺の関係が様々に錯綜していて、そ
の中でも特定の政党や各省庁や内閣府や企業
やメディアなどを批判する一方で、それとは
別に特定の政党や企業やメディアなどを支持
して、それらの勢力のやっていることに賛同
するような成り行きもあるわけだから、各々
の住民も自分の都合で特定の勢力を批判する
一方で、また別の勢力を支持するような事態
ともなっているわけだから、そうやって全体
としてはそれなりに均衡が取れている面もあ
って、そうやって様々な人や勢力が別の様々
な人や勢力と何らかの関係を持ちながら存在
していれば、そこに醸し出されている均衡を
崩して社会全体の傾向を変えるには、並大抵
の活動からもたらされる作用では、かえって
均衡状態に跳ね返されてしまうだろうし、そ
れが実際に特定の人や勢力やメディアが、現
状で成り立っている均衡状態の中で主導権を
握っている政党や政府や企業やメディアなど
の勢力をいくら批判しても、それらの勢力の
主導権がほとんど揺るがないことによって示
されているわけだが、たぶん別に揺るがなく
ても構わないのかもしれず、逆にそうした批
判は批判として、現状の均衡状態に何らかの
形で寄与している面があって、その範囲内で
批判が成り立っている状況もあるだろうし、
そういう意味では批判も現状を成り立たせる
意味では必要だろうし、実際に必要とされて
いる面があるのかもしれないが、ではなぜ必
要かといえば、それとは違う批判や提案を駆
逐するために必要な面があるだろうし、そこ
でそういった批判が批判を支持する人や勢力
によって安心感を伴って容認されていれば、
そうした安心感や批判を容認する姿勢が、現
状の均衡状態やそこからもたらされる状況の
安定に寄与していると言えるのかもしれない
し、逆にそういった均衡状態や安定に寄与し
ない批判や意見になると、それらの人や勢力
などはそういった批判や意見を容認できない
だろうし、なぜ容認できないかといえば、そ
れを安心して支持したり賛同するような内容
ではないからだろうし、それらの人や勢力な
どにとっては、そういう批判や意見が広く世
間の支持や賛同を集めてしまっては、今まで
に行ってきた批判が意味をなさなくなってし
まうのだろうし、だからそういった容認でき
ない批判や意見は無視するか、無視できなく
なれば弾圧するなり抑え込むしかないだろう
し、そんなふうに批判勢力でさえもそんな動
作に及ぶようなら、少なくともその時点で均
衡状態が崩れてきている証拠となるのだが、
実際にそういった批判や意見が世の中でどの
ように作用や影響を及ぼすのかといえば、た
ぶん現状で成り立っている批判勢力も含めて、
全ての勢力の神経を逆撫でして各人の心に突
き刺さるような批判や意見になるのかもしれ
ないが、そういった成り行きを空想するのは
ロマン的な幻想に過ぎないだろうし、実際に
は誰もが意表を突かれていることに気がつい
て驚くというよりは、気づかないうちにじわ
じわと人々の心身を侵食してくるような成り
行きがあるのかもしれず、そうやって世の中
のほとんどの人の心身や勢力の組織構造を蝕
むように作用が及んでくれば、自ずから世の
中が変わっていくのだろうが、それは誰にも
どんな勢力にも危機的な状況をもたらすかも
しれないが、それに気づかないように事態が
進展していけば、世の中が変わる可能性が高
まるのかもしれない。

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