彼の声

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彼の声 2021.12.4 「予想とは違う何か」

voice-148

 何かこれから起こることを予想するとなる
と、普通は最も起こりやすい可能性のあるこ
とを予想しようとするのだろうが、絶対に起
こらないと思われることが起こると予想する
人はまずいないはずだが、あり得ないことが
起こる場合も稀にあるだろうし、予想外のこ
とや想定外のことが起こるのもよくあるパタ
ーンで、予想が外れるのは予想する分野によ
ってはしょっちゅうあることかも知れないが、
天気予報などの予想の精度が高い分野で行わ
れる予想は信頼できるが、外れる予想が目立
つ分野での予想が当てにならないのは当然だ
ろうし、その場の状況や情勢によって予想し
やすかったりしにくかったり、予想の技術が
確立されていて精度が高そうな分野でも、予
想が外れる時はあるだろうし、ギャンブルな
どは予想が外れないと成り立たないだろうか
ら、予想が外れることも必要な場合もありそ
うだが、何でもかんでも予想する必要はない
としても、人には想像力があり、どうしても
自分自身や自分に関わりがある物事の将来の
有り様や姿を想像してしまうから、気が向け
ば何かしら予想してしまうわけだが、そうい
う予想は天気予報などとは違って技術も精度
も全く考慮されていないから、外れてもそれ
ほど気にならないし、むしろ予想外のことが
起こるのを期待してしまう場合もあり、そう
なると予想というよりは期待の方が大きくな
って、身勝手な願望を反映したあり得ない期
待を抱いている場合もあり、そんなことは絶
対に起こらないと予想しつつも、あり得ない
ことが起こるのを期待しているから、実際に
あり得ないことが起こって驚く自身の姿まで
想像して、そんなふうにして予想と期待と想
像が絡み合って複雑な思いを形成してきて、
そこから予想だけを取り出して云々しても意
味がないだろうし、意識の中では予想が当た
ったり外れたりすることよりも重視している
何かがあり、それがうまく言い表せないよう
な様々な物事のバランスなのかも知れないが、
それが危うい均衡の上にかろうじて保たれて
いるのか、はたまた盤石な地盤の上で安定し
ているのかはそんなこともよくわからないの
だが、どちらでもあるようなないような時と
して不均衡になれば心身のバランスが崩れて
どこかしらおかしくなってしまうのだろうが、
そうなってもならなくても、焦って何かを決
めつけたり勝手に断言してみたりしても揺る
ぎようのない状態で、外界から何か作用を及
ぼされて揺るがされても、余裕で持ち堪えて
しまうような心身の柔軟性があるのかも知れ
ないが、それも何かの偶然が作用してそうな
っているようなことであり、外界から及ぼさ
れる作用とそれを受けて動揺したり反発した
りする自身の内部から生じてくる作用が程よ
い均衡を保っている限りで、自我の安定が保
たれているのだろうが、時として不安定にな
って気分がおかしくなったり体調を崩したり
するとしても、そうなることも後から振り返
れば必要に感じられるようなら、そんな結果
を自身の都合の良いように受け止めているこ
とは確かだが、その反面で都合の悪い時もい
くらでもあれば、そこでも都合の良さと都合
の悪さとの間で心身のバランスを取ろうとし
ていて、どちらか一方に振れないようにして
いるわけではなくても、その中間の状態にな
るように絶えず自身の状態を持っていこうと
しているのかも知れないが、果たしてそんな
ことが可能なのかといっても、絶えず都合の
良さと都合の悪さとの間で状態が揺れ動いて
いると想像することはできるとしても、実際
にそうなっているかどうかは定かでなく、た
だそんなことを都合よく想像している限りで、
ご都合主義なのではないかと疑ってしまうが、
たとえそうなっていようと構わないような心
理状態に否応なくなってしまうというと、そ
れもそんな状態になっている自身の姿を想像
しているに過ぎないことになってしまいそう
だが、そういうところでも潔く物事を単純に
割り切れるかとなると、なぜそうする必要が
あるのか意味がわからないが、その場の成り
行きに応じて行動するには自身の抱いている
固定観念やこだわりを捨てる必要があるかと
なると、その場の都合でそうしなければなら
ないと思うこともある一方で、なぜか知らな
いがその場の成り行きに逆らって、自身が抱
いている固定観念やこだわりが邪魔をしてそ
れができないことにしておきたい場合もあり、
一般的にはそうなるのは否定されるようなこ
とかも知れないが、実際にそうなってしまっ
た後から振り返っても自身のその場の行動が
謎な場合もあり、それを単純に嫌だからそう
なったと捉えてもかまわないのだろうが、当
時を振り返ってみても何だかよくわからない
成り行きの中で行動していて、結果的にそれ
が良かったのか悪かったのかどちらにも受け
取れるようなことであれば、どちらであって
も良かったのか、どちらか一方でなければ良
かったのかもわからず、どちらであっても悪
く、どちらか一方でも悪ければ、どうやって
も悪い状況にしかならなかったのかも知れな
いが、それが何をどう予想してみたところで
どうにもならなかったことだとすれば、予想
するだけ無駄だったのだろうが、たぶんまだ
その時点では全ての結果が出ていたわけでも
なく、実際に継続中の作業が残っていて、そ
れが何かの後始末とも思えなければ、そこか
らどうにかなる可能性があると期待を抱くし
かなく、実際にあり得ないことが起こるのを
期待しながら行動していたのだとすれば、あ
り得ない期待に導かれて実際にここに至った
と現状を捉えるしかなく、ここからもさらに
あり得ないことが起こることを期待しながら
行動しているのかも知れず、その自覚がなく
ても何かの機会にそれが明らかになれば納得
できるかも知れないが、それが絶えず意識の
潜在領域にとどまっているようなら、それを
自覚しないでそんな期待を抱きながら行動し
ていて、それが期待感という漠然とした思い
なのかも知れないが、そういうわけのわから
ない期待を意識してしまうと逆に馬鹿らしく
思われて信じようとしなくなってしまうだろ
うが、それがわざとそうしているのではない
ものの、信じていることを意識していないか
ら意識の潜在領域で期待感を維持していて、
そんなことが起こるのはあり得ないと思いな
がらもそれが起こることを期待してしまうと
いう両義的な態度でいられるわけだが、果た
してそれがそんなことが起こることを予想し
ていることになるのかというと、たぶん予想
とは違うのであり、予想であれば予想が当た
ることを予想したいのだろうが、予想が外れ
ることを予想しながらも、その予想が外れる
ことを期待しているわけだから、意識の中で
は予想とは違う何かが起こることを期待して
いるわけで、それがあり得ないことだとして
も、あり得ないこととは具体的に何なのかが
その時点ではわからないわけで、それが起こ
ってからそれがあり得ないことだと気づきた
いのかも知れないが、すでにそれが起こって
いるのに気づいていない可能性もあるわけだ
から、期待していたことが起こっているのに
それに気づいていない場合もあるわけで、そ
うであればそれがあり得ない状況である可能
性もあり、当人はあり得ないことが起こって
驚きたかったのに、実際にはそれに気づかな
かったのだから、それが当人にとってはあり
得ないことだったのかも知れず、それが起こ
ることを期待しながらも、実際に期待通りの
あり得ないことが起こったのに、それに気づ
かなければ、それが起こったことを知らない
から、当人にしてみれば予想通りにあり得な
いことなど何も起こらなかったわけだが、実
際には当人の気づかないところであり得ない
ことが起こっていて、当人にしてみればそれ
が期待通りのあり得ないことなのに、それに
気づかないばかりに期待を裏切られたことに
なるにしても、それが当人の期待を裏切るよ
うなあり得ないことだとすれば、あり得ない
ことが起こってもそれを知り得ず驚くことも
できないことが当人にとっては期待を裏切る
ようなあり得ないことであり、それと共にあ
り得ないことなど起こるはずがないという予
想も当たったと思われるなら、当人の予想が
当たったように思われると同時に期待も裏切
られてがっかりするかも知れないし、実際に
そうなってしまうことを単純にこうだと説明
するわけにはいかないが、本当にそんなこと
が起こってそれを実際に体験したのかといっ
ても、もしかしたら日常茶飯事のようにいく
らでも体験しているのにそれ気づいていない
可能性もあるかも知れないが、いちいちそん
なことには気づいていないところが救いとい
えば救いなのかも知れないし、気づかなくて
当然なのだから救いでも何でもなく、気づか
なくて当然の意味不明なことかも知れず、そ
んなことにこだわって言及するまでもないこ
とであり、自身の正気を保ちたいなら、そん
な面倒でややこしいことを思うのはやめて、
もっと素直に起こってほしいことを予想した
り、大げさな大惨事が起こることを予言すれ
ばよく、そういうことなら世の中の風潮に意
識を合わせられるし、余力があるならそれに
かこつけてもっともらしいことを述べて、他
の人々から支持を取り付けられるような内容
を語ればいいのだろうが、それができないと
なると、やはりそこにひねくれたこだわりが
作用していることになってしまうのではない
か。

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彼の声 2021.12.3 「こじれた事態」

voice-148

 それとは何かということがまずは問われな
ければならないような成り行きの中で、それ
に関して何か利いたふうなことを語ろうとす
ると、根本的なところでは変えようのないこ
とが表面的なごまかしやまやかしによって変
わったように見せかけられて、何やらもっと
もらしく装いも新たに再出発したかのように
語られるべきではないし、そんな成り行きか
ら何か良いイメージを連想させたいのかも知
れないが、そこでさも変わったかのように演
じられている内容とは全く異なることが裏で
は行われているのではないかと勘ぐりたくな
ってくるのだろうが、そんな邪推が当たって
いるかどうかはさておき、表面的な装いが変
われば何も変わっていないどころか、これか
ら様々な面で変化が起こるきっかけとなり、
表紙を付け替えただけでも解釈の変更をもた
らす可能性もあり、新たな解釈によって内容
にまだ理解されていない面があったことが明
らかになれば、それが全体の意味や意義の再
検討や変更につながる場合もありそうだが、
それが何について語られていようと、それが
変わったから良いとか悪いとかではなく、変
わっていく成り行きの中でその変化に応じた
行為や行動が伴ってきて、それが良くも悪く
も活動の実態となり、そこで実際に何かが行
われて、行われていることから変化がもたら
されたりもたらされなかったりするわけで、
これまでにも何かが行われながら変わり続け
てきたのだろうし、これからも何かが行われ
ながら変わり続けることになるのだろうが、
何かを行なった結果としておかしな事態がも
たらされるようなら、そのおかしな事態に合
わせてまた何かが行われて、それによって事
態がまた変わる可能性もあるだろうから、わ
ざとおかしな事態になるように何かを行なっ
たわけではないにしても、何か目的があって
そんなことを行なったのであれば、その目的
から外れて思いがけない事態がもたらされた
ことになり、そこから目的の変更や修正を余
儀なくされるとしても、そこでもこれまでと
は状況や情勢が変化したと捉えるしかないだ
ろうが、何かこじれた事態に陥っていること
は確かなのだろうが、それがこじれた事態な
のかというと、これまでにもいくらでも事態
がこじれてきたのだから、それは今に始まっ
たことではなく、事態がここに至ってさらに
こじれてきたとも言えないわけで、そうなっ
た結果からその結果に適合する理屈や論理を
導き出しても、それは結果をもっともらしく
説明するための理屈や論理となり、そうした
理屈や論理がこれから起こることに適合する
かというと、適合することもあるだろうが、
適合しなければまた新たに適合するような理
屈や論理を導き出すことになるだろうし、物
事をそうなった結果から説明する度にその説
明に適合する理屈や論理が求められるとして
も、それはそういう説明に説得力を持たせる
ために必要な理屈や論理であり、説明に納得
するための理屈や論理が実践で通用するかと
いうと、それも通用したりしなかったりする
のかも知れないが、これまでにもこれからも
こじれた事態に遭遇する度に、それを説明す
るために必要な理屈や論理がその度ごとに求
められるにしても、恒常的に同じ理屈や論理
が通用するかとなると、それも通用したりし
なかったりするのだろうが、何かもっともら
しく納得できるような理屈や論理が導き出さ
れたとしても、それはそうなった結果を説明
する時にそう思われるわけで、それがこれか
ら何かを行う上で役に立つかと問われるなら、
それを行う度ごとに役に立ったり立たなかっ
たりするのだろうし、そういった理屈や論理
の信奉者の類いにならなくても、何か役に立
ちそうな理屈や論理の一つや二つは持ち合わ
せていた方が何かと心強いだろうが、そうだ
としても誰もが何かを説明する立場になれる
わけでもなく、説明することによって利益を
得られるわけでもないだろうから、説明する
必要のない人にはそんな理屈や論理などいら
ないかも知れないし、その代わりにその人の
活動に合わせた別の理屈や論理が必要になっ
てくることもあるだろうが、それがどのよう
な理屈や論理であるとしても、他の人には興
味のないことであるなら、それを知る必要も
感じないだろうが、そうであっても何かの時
に役に立ったり立たなかったりすることもあ
るだろうし、それを知っていれば得をするこ
とも損をすることもあるかも知れず、その場
の状況や情勢に応じて誰かに興味を持たれる
ような説明がしたいなら、何やらもっともら
しい説明をするのにそれに適合する理屈や論
理を持ち出してこなければならなくなるのだ
ろうが、そういう必要がどこから生じてくる
かとなると、その場の成り行き次第で必要に
なったりならなかったりするわけで、いつど
んな時に必要になるかはその時になってみな
いことにはわからないわけでもないだろうが、
必要でないのに説明したくなる時もあるだろ
うし、また逆に必要であってもうまく説明で
きないようなこともあるから、必ずしもその
必要に合わせて理屈や論理が導き出されるわ
けでもなく、必要でなくても導き出されてく
れば、それを使って何かを説明したくなるわ
けで、そういった必要から見放された説明な
どいくらでもネット上にも書籍の中にもある
だろうし、それが雑学的な知識として堆積し
ていて、その中から一部が必要に応じて活用
されることもあるにしても、大半は放置され
て風化作用に晒されて朽ち果てるがままにな
っているかも知れないが、それがこじれた事
態をもたらしているのではないものの、こじ
れた事態になる度にそれをもっともらしく説
明するのに都合の良い理屈や論理が導き出さ
れてくれば、それだけ理屈や論理が増えてく
るわけだが、もちろんそうなったからといっ
てそれ以前の理屈や論理が使えなくなるわけ
でもなく、延々と同じような使い慣れた理屈
や論理を用いて物事を説明している人もいく
らでもいるだろうから、そういう人の説明で
ももっともらしく思う人がいくらでもいる限
りで、そういうことを説明する人が世間でも
てはやされるのだろうが、それがもっともら
しく思われるとしても、その種の人に安心感
を与えるような物事の説明というのが役に立
っているかというと、そういった説明をする
人に利益をもたらすには役に立っているとし
ても、その人に利益をもたらしている多くの
人たちにとっては、安心感を得るのと引き換
えにして利益を奪われている可能性もあるだ
ろうし、それも直接奪われているのではなく、
利益を得る機会を奪われている可能性もある
から、その時点ではよくわからないことだが、
そういった成り行きの過程で説明に邪魔され
て行動する機会を奪われている可能性があり、
多くの人々が何もせずに行動しようとしない
のはその場で動かない方が居心地が良いから
で、居心地を良くするためには安心感が欠か
せないわけで、そういう意味ではそのままで
も大丈夫だと思わせるような物事の説明が必
要となってきて、さらにはその場の居心地が
それほど良いとも感じられなくても、そこで
今動いたら危険だと警告されたら動くのを躊
躇ってしまうのだろうし、そうやって物事の
説明によって人を操るようなことが行われて
いる可能性もあると思うなら、世の中の安定
に寄与するようなもっともらしい説明には注
意すべきかも知れず、もちろんそうやって人
を操ることによって世の中を安定させている
と捉えるなら、そんな安定した世の中は居心
地が良くなるはずだが、説明をもっともらし
く思うような人にとっては確かに居心地が良
いだろうが、それに納得できずに疑念を抱く
ような人にはあまり居心地が良いようなこと
でもないのかも知れないし、逆に説明を聞い
て不快な気分になるようであれば、そういう
説明で語られる状況とは違う成り行きの中で
活動していて、もしかしたら説明をもっとも
らしく感じるような人たちとは敵対関係にあ
る可能性もあり、説明に納得できるかどうか
で敵と味方に分かれるようなことにでもなれ
ば、そういう説明を介して世の中の分断が明
らかとなってくるだろうが、実際にはそう簡
単に物事の白黒がはっきりするようなことで
はなく、中にはそこから外れるような位置関
係を保ちながら活動している人もいるだろう
から、そんな人たちが説明とは無関係の方面
からその場の物事に介入してくるようなこと
が起こると、何やらさらに事態がこじれてく
るわけで、それがどういうきっかけで起こる
かはその場の成り行き次第な面が大きいだろ
うが、それがそういう説明では予想も予測も
つかないことであれば、実際にそういうこと
が起こった後では、その説明の中で用いられ
ていた理屈や論理が、そういう出来事をきっ
かけにして通用しなくなることもあるわけで、
それがその場の状況や情勢の変化となれば、
その場を説明する上で通用していた理屈や論
理が通用しなくなった時がその場の変化を感
じる時になるわけだが、果たしてそれに気づ
くかというと、もっともらしい説明を聞いて
安心感を抱いているような人は変化に気づか
ない可能性が高く、そういう人が変化に対応
できずに悲惨な目に遭えば、それもその場の
変化を如実に表していることになるだろうが、
果たして現状がどうなっているかというと、
実際にそんな場面に出くわすことも度々ある
かも知れないが、それが明らかになる段階に
はまだ至っていない可能性もあるかも知れな
い。

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彼の声 2021.12.2 「日本の風物詩」

voice-148

 見慣れた光景というのはそれを見てもあり
ふれているように感じられて、それだけ同じ
ような光景を何度も見ているから目が慣れて
くることになるが、世の中で何かの流行が収
束するきっかけとなるのも慣れてくるからだ
が、同じようなことを何度も体験すればそれ
に慣れてくるのは当然といえば当然のことだ
が、それに慣れてくるに従って興味もなくな
ってきて、大して気にならなくなってしまう
のだろうし、そうなって飽きてきた頃にまた
新たに何らかの出来事や現象が起これば、そ
れが人の気を惹くような出来事や現象であれ
ば、多くの人がそこに注目するのだろうが、
それが流行現象の類いであれば一定の期間に
わたって人々の興味が持続することになるわ
けだが、気を惹くだけならまだしも、その気
もないのに勝手に体験させられてしまう現象
だと、しかもそれが心身に悪影響をもたらす
ような現象だと嫌になってしまうわけだが、
感染症の類いもそれが世界的に流行して実際
に甚大な被害をもたらしている最中なのだろ
うが、被害だけでなく利益をもたらしている
最中でもあるわけで、もちろん利益と不利益
が同時にもたらされているのだろうが、何か
が流行しているということは何かがもたらさ
れていることを実感することにもなり、それ
によって何かが顕在化していて、その何かと
いうのがはっきりと実感できるなら、何かが
流行している最中であることを実感できるわ
けだが、それが慣れてくると気にならなくな
って、それを実感できなくなってしまい、そ
んなことはどうでもよくなってしまうと、い
つの間にか流行も収束して、いつまでもそん
なことにかかわっている場合でもなくなって
きて、まだそれがなくなったわけでもないの
に、誰も気にも留めなくなってくると、実際
にそれを無視しても大したことにはならなく
なるのだろうが、今流行っているそれもだん
だんとそうなってきている最中でもあるだろ
うから、それに慣れてきた証しとしてそれに
対する抗体や免疫がついたことにでもなれば、
流行にも終息の兆しが見えてきたことになり、
不快な気分から楽観的な気分へと気持ちも切
り替わって、ひと安心するのだろうが、実際
にそうなって人々を油断させておいてから、
また執拗に流行がぶり返してくると、またか
と落胆して不快な気分へと逆戻りしてしまう
のだが、人をがっかりさせるようなことを執
拗に仕掛けてくる成り行きというのもよくあ
るパターンとして結構あるだろうし、しかも
仕掛けているといっても何かがそこで空回り
していて、それが仕掛けている当事者にはよ
くわかっていないからそうなってしまうわけ
だが、見慣れた光景と共にそういうことが行
われていると、何かの風物詩のような感じと
なって、場合によっては世間に受け入れられ
て逆に安心感さえも覚えることになるのだろ
うが、そこでは嫌味な中身が抜け落ちて形骸
化した意味の定かでない行為となるわけだが、
そうなると仕掛けている現象にはすでに仕掛
けている意図もなくなって、自然発生的に起
こっているわけでもないが、意図的に仕掛け
ているとは思えないほど自然な成り行きでそ
ういう現象が起こり、それに対してまたかと
思いつつも、特に批判したり非難するでもな
くスルーするしかないようなことにもなり、
それでも仕掛けが不発に終わったわけではな
く、何かしら人々の深層心理に影響を及ぼす
ことによって成果を上げたことになるのだろ
うし、そういう仕掛けに惑わされて何がどう
なるわけでもなく、その代わりというわけで
もないが、世の中の空気という得体の知れな
い何かに社会全体が覆われたように感じられ
るなら、そういう仕掛けが機能したことにな
るのだろうが、意識がそれに抗い逆らってい
るような気になっても、まんまとそんな空気
の罠にはまっていると捉えておいても構わな
いのだろうが、気にするなと思っても気にし
てしまうようなことであれば何となく気にし
てしまうわけで、それが何かの幻想や妄想に
囚われるというほどのことでもなく、そんな
大げさなことだとは思えないし、普通に無視
しても困らないようなことなのだから、無視
していることになっているのだが、嫌な感じ
は常にするわけだから、無視しようとしても
無視しきれていないわけで、それを仕掛けて
いる方でもそうなることを意図して仕掛けて
いるわけではなく、標的にする出来事に率直
に反応しているつもりが、意図的に何かを仕
掛けているように受け取られてしまうのかも
知れないが、嫌な感じを出そうとしていなく
てもそれが言説や主張から滲み出てくるよう
なイメージを連想させるわけだから、そうい
う感じを醸し出すようなことを行なっている
と受け取っておいても構わないだろうし、そ
れが何かの風物詩のようなことだと見なして
もピンとこないだろうが、風物詩の意図しな
い効果とはそういうことなのかも知れず、そ
れによって何がどうなるわけでもないのだが、
他の何かもどうなるわけでもなく、他の何も
どうなるわけでもなければ結果的に現状が保
たれて、なし崩し的にそういうことが執拗に
行われる成り行きが続いていくことにもなり、
それによって現状の中で主導権を握っている
勢力の立場が盤石なものになるとも思えない
のだが、そうなることを意図してそういうこ
とが行われているわけではないとしても、結
果的にそうなっているならそういうことだと
思われてしまうわけで、そういうところで何
かの辻褄が合っているようにも思われるから、
その場の状況に沿ったことが行われているこ
とになるのだろうが、それが何かといっても
世の中の空気を作るようなことでもあるから、
雰囲気作りの類いだと見なせばいいとしても
納得がいくわけでもなく、そういう雰囲気作
りに加担している勢力というのが否定的な意
味で〇〇勢力と見なすもありふれたことでは
あるから、見慣れた光景の中でそんなことが
行われていても見て見ぬふりをするしかない
だろうし、多くの人が実際にそれに気づかな
いふりをしているわけだが、ふりをしている
と自覚できるかというと自覚できる場合もあ
るしできない場合もあるが、どちらの場合が
どうということもなく、それを自覚してもし
なくても構わないような感じでもあるところ
が、それが何だかわかっているようでわかっ
ていないふりをしてしまうところでもあり、
たぶん他の国や地域でも大なり小なりそうな
っているのかも知れないが、少なくとも日本
の風物詩というと良い意味でそう見なしてい
るのではなく、何か皮肉を込めてそれを日本
特有の風物詩だと見なしたい気分なのかも知
れず、誰もが知っていることが起こると、そ
れに反応していつものようにいつものことが
行われて、それをどう思ってみても仕方がな
いような気分にさせる効果が及ぼされて、ま
たかと思いながらも嫌な気分となってしまう
わけだが、もちろんそれが一過性の流行現象
ではなく、執拗に毎度お馴染みのことのよう
に続けられていることであり、そうやって何
とかして惰性で世の中が回っているように思
わせたいわけではなく、そんなことにまで関
心を持たれないようにしているわけでもなく、
わかる人には不快な気分になるような雰囲気
作りをしていると捉えておけばいいのかも知
れないが、わからない人には無関心でいても
構わないということではなく、実際に無関心
であれば構うも構わないもなく、ただ単にそ
んなことにはかかわりがないふりもできるだ
ろうし、実際にかかわりがないのかも知れな
いが、かかわらなければ困るということでは
なく、かかわらなくても困らないと思っても
らえれば、雰囲気作りをしている勢力として
はありがたいということかも知れず、そうい
う雰囲気作りに好感を抱いて積極的に参加し
たい人がかかわってもらえれば、さらにあり
がたいのかも知れないし、みんなで好意的な
気分となって雰囲気作りに参加すれば世の中
も明るくなるぐらいの軽い気持ちで加わって
ほしいのかも知れないが、結果的にそれが何
をもたらしているのかというと、何をもたら
しているとも感じられないようなことになっ
ていれば、どうということはないのだろうし、
実際にもどうということはないわけだが、そ
のどうということのなさが否定的に受け取ら
れるようなことでもないとしたら、本当にど
うということはないのだが、それは人の意図
していないことであり意図しない効果を発揮
しているわけだろうが、その意図しない効果
というのが世の中を覆っている空気として人
を捕らえて離さないような執拗さがあり、そ
んな空気に包まれていると気にならないよう
なことであっても、本当は気にしてほしいと
ころであったり、逆に気をつけた方がいいこ
とであっても気にしなくても構わないような
ことにもなってしまうのかも知れないが、そ
れがその場の空気のなせる技なのかというと、
意外と空気ではなく言動に従うように仕向け
られていたりして、意識して従っているつも
りもないのだろうが、空気に包まれていると
感覚が麻痺して従っている自覚がなくなって、
その気もないのに浅はかな言動に惑わされて
肝心な何かを見逃しているわけで、その肝心
な何かというのが、機会をとらえて決断して
行動や行為に打って出ることであれば、誰も
がその機会を見逃しても構わないような雰囲
気作りに加担していることになってしまうの
ではないか。

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彼の声 2021.12.1 「資本の理屈」

voice-148

 資本主義経済の矛盾としてこれまで考えら
れてきたのは、絶えず余剰人口として高度に
資本化されていない農村などから低賃金労働
者の供給を受けることによって成り立ってき
た経緯があり、資本主義経済だけでは成り立
たない矛盾を抱えてきたわけだが、それが現
代では低開発国からの不法移民などが低賃金
労働者の供給源となっているわけだが、日本
などでは不法移民の流入が比較的少ないから、
低賃金労働者の供給源として中間層が落ちぶ
れて低賃金労働者となる例が増えていると言
われているが、本当にそうなのかというと、
そういうことを言っている人たちが統計的な
数値で示している内容が説得力がありそうで、
実際にそうであれば中間所得層が次第に減っ
て貧富の格差が広がる傾向にあるわけだが、
そういう指摘が正しいとしても現状で成り立
っているのは資本主義経済であり、資本主義
経済をやめさせることができないまま現状に
至っているわけだから、さらに資本主義経済
を続けていく成り行きの中で、政治の側で対
策が求められているわけだが、直接的な貧困
対策としては最低賃金の引き上げとなるわけ
だが、企業側も直接的には利益を確保するた
めに人件費を抑制したい思惑があり、政府が
国民ではなく企業に配慮しているとなかなか
最低賃金の引き上げには応じられないだろう
が、結局は国民が最低賃金の引き上げを目指
している政治勢力を支持する成り行きになれ
ば、その政治勢力が議会で多数を占めて政権
を取るから最低賃金が引き上げられることに
なるだろうが、本当にそれで貧富の格差を縮
めることができるかどうかはやってみなけれ
ばわからないわけで、そういう政策を実施し
てみてから効果があったどうかを検証してみ
なければならず、国民の側でそういう成り行
きへと持っていく意向が働かない限りは、そ
ういうところまで至らないわけだが、重要な
のはやる前にあれこれと結果を予想すること
ではなく、やってみてから結果を検証するこ
となのだろうが、前例主義に思考を縛られて
いるとそうはならず、新しいことは何もでき
ずにこれまで通りのやり方しかやらないよう
なことになれば、結局はジリ貧に陥るしかな
いわけだが、失敗を恐れていたら何もできな
いのは分かりきったことだが、絶えず自分達
が有利な立場でいたいから、失敗した人を叩
くことばかりに専念していると、失敗を恐れ
て誰も何もやらなくなってしまうだろうし、
そんなふうに出る杭は打たれる式にモグラ叩
きのようなことをやっていたら、やはりジリ
貧に陥るしかないだろうが、なぜジリ貧に陥
るのかといえば、失敗するのを恐れてこれま
で通りのことをやって現状を維持しようとす
るからで、失敗がないと成功もないのが資本
主義経済の中では当たり前のように起こって
いることであり、数多くの失敗例の中からご
くわずかな成功例が出てくるのがよくありが
ちな結果だろうが、それは政治にも当てはま
るだろうし、政治活動も資本主義経済の中で
行われている限りは、政治の場で貧富の格差
を是正するためには最低賃金を引き上げるべ
きだと判断されれば、まずはそれを実施して
みてからそれがうまくいけばそれで構わない
わけだが、うまくいかずに失敗に終わればま
た別の政策を模索しなければならず、別の政
策を実施するには政権交代が必要なら実際に
政権の交代が起こるだろうし、そういう成り
行きを積み重ねていく中で何かを行なった前
と後とで差異が生じれば、その差異から利益
が生じてくるのが資本主義経済の理屈といえ
ば理屈だと言えて、それに関して例えば日本
でアベノミクスがなぜ株価を上げたのかとい
えば、それ以前の民主党政権時代の三年間は
日銀を主体として真面目な金融政策を行なっ
ていたから差異を作り出せなかったのを、自
民党政権に戻って常識破りの異次元金融緩和
という宣伝攻勢を仕掛けたから、それにかこ
つけてひと山当てようと世界から資金が集ま
って株価が上がったわけで、また小泉政権時
代の郵政民営化でも、郵政事業という国の財
産を切り売りしたわけだから、そこでもそれ
にかこつけてひと儲けしようとして世界から
資金が集まって株価が上がったわけだが、そ
ういう事例が政治の場での資本主義的な成功
例となると、何かヤケクソなことをやってい
るように見えてしまうが、それ自体というよ
りはそれにかこつけて資金が集まるようなこ
とが起きて、何か結果的に成功しているよう
に見えてしまうわけで、それとは別の例で電
気自動車で成功しているテスラ社にしても、
それがテスラ社である必要はなかったのだろ
うが、たまたま電気自動車というのが目新し
くて将来性があるように思われたからそこに
多額の資金が集まって、大して自動車を生産
していないにもかかわらず、株価の時価総額
が世界最大の生産規模を誇る企業を超える事
態となってから、本格的に自動車を大量に生
産できるようになったという本末転倒のよう
な事態が起こったわけだが、そういった常識
外れのようなことが起こるのが資本主義経済
に特有な現象でもあり、それを理屈と捉える
と理屈では理解しかねるのが理屈のようなこ
とでもあり、一見デタラメな成り行きに感じ
られるにしても、いったんそれが起こってし
まった後では何やらもっともらしいことが言
えて、そうなるのが当然ことだったと言いた
がる人が大勢出てくるのだろうが、また資本
主義経済の矛盾だとまことしやかに囁かれて
いる説なども、実際にそうなるまではわから
なかったわけで、しかも矛盾や欠陥や行き詰
まりを指摘されながらも実際にまだ資本主義
経済そのものが続いているわけだから、まだ
これから新たにわかってくることもあるかも
知れないし、政治の場でやろうとすることも、
これまでにわかっていることへの対処や対策
と共に、これからわかってくるだろう未知の
ことにも、それが明らかとなってから対処や
対策を施さなければならなくなるのだろうが、
政治も経済に連動して行われている事業の一
種だと捉えれば、経済活動に含まれてくるか
ら経済とは切り離して政治を単独で行うわけ
にはいかず、そういうところできれいごとを
言っていられないようになってしまうと共に、
経済的な功利性を追求するような傾向になっ
てしまうのだろうが、経済活動自体が活動の
成功や失敗から格差をもたらす結果となるか
ら、政治活動においても経済に連動して地域
や国家規模で格差をもたらすことにもなり、
さらに軍事力などでも経済活動が活発化して
国家財政にも余裕が出て軍備を増強するよう
なことになれば、国家間で格差をもたらして
地域的な不安定要因を作るわけで、そういっ
た経済と連動する面では別にデタラメな成り
行きとは思われないし、どのような経緯で経
済活動が盛んになるにしても得られた富を国
家的に利用するとなると、国家の官僚機構の
増大やそれに伴って軍備の増強などをもたら
して、周辺諸国にとっては脅威となってくる
のだろうが、成り行きとしてまずは経済活動
の活発化に伴って富の蓄積が起こるわけで、
その逆ではないということは分かりきったこ
とだが、経済規模とは不釣り合いに国家機構
ばかり大きくなってしまうと、北朝鮮のよう
に国民が飢餓に瀕しているのに軍事力ばかり
誇示するような事態になってしまうが、国家
財政の規模もその国の経済規模に連動してい
ることは確かで、それも当然のことのように
国債などの国の借金に関してもその国の経済
規模に見合ったものになるだろうし、その国
の経済が傾きかけているのに国債の発行額を
経済状態が良好の時と同じように保つどころ
か、傾きかけた経済に刺激を与えて梃入れす
るためにさらに増額して発行するようなこと
になってしまうと、かなり危ういことをやっ
ているように思われるだろうが、それもそう
いうことを実際にやってみた結果からどうな
るかがわかってくることであり、やるに際し
てその場の情勢やその時の経済状態や民間で
どれほどの富が蓄えられているかにもよるだ
ろうが、政治的な成り行きとしては、すでに
そういうことをこれまでにも繰り返しやって
きた結果として現状がもたらされている可能
性もあるから、これから新たにこれまでとは
別のやり方で規模も資金の使い道も使い方も
使う方面も変えてやろうとするのだろうが、
それもそういうことをやった結果としてどう
なるかで、そういうことを行なった政治勢力
を支持するかしないか、それを失敗と見なし
たならそれとは別の勢力に政権を任せるとか、
さまざまなレベルで国民が判断しなければな
らず、一応は国民としての自覚があるならそ
ういうことに関心を持ってそれなりに対応し
て政権を選択した方がいいのだろうが、それ
もその人の民度にもよるだろうし、そういう
ことも含めてそこで行われている経済活動も
それと連動して行われているように見える政
治活動や行政活動にしても、絶えずそこで暮
らしている人の生活に影響を及ぼしてくるこ
とでもあり、そういうことに無関心でいられ
たらそれなりに経済的にも心理的にも余裕が
あるか、あるいはそれに関しては無知で盲目
にされている可能性もあるだろうが、どちら
かというとそういうことに多くの人が関心を
持たれると厄介なことになってしまうような
ことが政治や行政の場で行われている可能性
もあるわけだから、それにかかわっている人
たちの好き勝手な振る舞いに文句が言いたい
のなら、関心を持つべきことになるのではな
いか。

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彼の声 2021.11.30 「錯覚と混同」

voice-147

 何かをやる機会が到来していると自覚する
ようなことは稀にしか起こらないかも知れな
いが、実際に何かをやっていればその機会が
到来しているとは思わなくてもそれをやって
いるわけで、それとは何かといっても人によ
ってその場の状況や成り行きによっても、そ
れに応じて行う行為や行動がその人やその場
の状況や成り行きに特有な行為や行動になる
だろうが、誰かが語りたいのはそういうレベ
ルのことではなく、もっと何かその行為や行
動の是非を問うようなところで、行いの正し
さや誤りの加減や程度を云々したいのかも知
れないが、誤りではなく偽りやごまかしの行
為や行動もあるだろうし、さらにそういう判
断や評価とは関係のないところで何か興味深
いことが起こっている可能性もあるだろうが、
たぶん何かが起こって、それに起因して人の
判断や評価を揺るがし戸惑わせるような成り
行きとなってくると、正しさや誤りの加減や
程度などを無視して行うべきことが行われて、
それを行うべきかどうかの判断がされる以前
に行われていることが、行われるべきかどう
かの判断を左右するようなことになると、結
局は是非の判断も良し悪しの評価もないよう
な行為や行動が行われた結果がうまく行けば、
それに影響を受けて同じようなことがその後
も続けて行われることにもなり、それを行う
以前に下される判断や評価よりは、行なった
後でうまくいったかいかなかったの判断や評
価の方が重視されることになるのだろうが、
行う以前の判断や評価と行なった後の判断や
評価を混同しないようにすることが肝心で、
意図的ではないにしても両者を混同していた
り同等に扱っているような言説や主張には注
意しなければならないが、中でも紛らわしい
のは何かをやった結果に言及しつつも、だか
らこうしなければならないという言い回しで
あり、何かをやった結果が良かったの悪かっ
たのという判断や評価は、結果に対する判断
や評価であるのとは対照的に、だからこうし
なければならないと主張する内容は、これか
ら行うことについての内容であり、こうすれ
ばうまく行くとかこうしてはならないという
のは、これから行なうことに対する判断であ
り、まだ行われていないことについて言及し
ているわけで、果たして何かが行われた結果
を踏まえてこれから行なうことについて、そ
の是非や良し悪しが言えるかというと、行わ
れた時と行なう時の条件や状況が同じなら同
じような結果になるだろうと思うから、妥当
なことを述べていると思われるだろうが、必
ずしも同じ条件や状況の中で行われるとは限
らない場合もあり、それに関してよくありが
ちなことは、過去にそれを行なった当事者と
これからそれを行う当事者が同じではない場
合があり、さらに怪しい成り行きとしては、
過去に行われたことを失敗だった断じて、そ
の悪い点やひどい面をあげつらって批判した
り非難しておいてから、これから行うことに
ついて自分たちならこうすると主張して、そ
れを行うことの利点やうまく行く可能性につ
いて語る成り行きだと、条件や状況も全く違
うし、それを行う当事者も別の人や団体が行
うわけだから、果たしてそういう主張を信用
できるかとなると、何となく言っている内容
がもっともらしくて話に説得力があるとして
も、実際にやってみないことには何とも言え
ない面が大きいだろうし、しかもその説得力
を感じることの大半が、過去に行われたこと
を失敗だったと断じる時の歯切れの良さや、
それを批判したり非難する時の論調に、それ
を行なった当事者への悪口が含まれるから共
感を得やすく、他人の悪口にはつい無責任な
立場で安易に同調してしまうのは誰にでも起
こりうる社会的な傾向だが、それを話の説得
力だと錯覚している可能性があり、そういっ
た過去に行われたことに関してなら同調しや
すいとしても、果たしてそんな批判や非難を
している人たちがこれからやろうとすること
を支持できるかとなると、それとこれとは話
が別のように思われるなら話の半分に関して
は信用が得られていないことになるわけだが、
それでも一定の同調や賛同を得られたなら、
そこで行われた主張や演説に関してはある程
度の成果を得られたことになり、それはその
人たちがこれから行いたいことではなく、行
いたいことを発表する演説会の類いが一定の
成功を収めたと言えるわけで、そこでもそれ
とこれとを混同して行なっていることがうま
くいっているような錯覚を生むのだろうが、
全くそれとこれとが関係ないとは言えないだ
ろうし、そういう方向での努力がこれからや
ろうとすることに結びつけばそれなりに関係
があったことになるとしても、それがこれか
らやろうとすることの成否を決するわけでも
ないのかも知れず、やろうとすることをやる
立場になるための手段として演説会を利用し
ていて、当事者としてはそんなことは百も承
知でやっていることだろうが、それがやろう
とすることを主張する演説会で支持者を獲得
することだけになってしまうと、見せ物とし
てパフォーマンスを披露して観衆を喜ばすこ
との繰り返しとなってしまうから、結局はや
るやる詐欺のように見えてしまうわけだが、
その一方でそういう演説会で批判や非難の対
象となっている人や団体も同じようなことを
やっているとしても、それとは別に批判や非
難の対象となっていることも行なっていて、
それが見せ物のパフォーマンスとは違うとこ
ろなのだろうが、それが行われた結果として
批判や非難の対象となるにしても、実際に行
われていることだから、行なっている分では
実態が伴っていて、口先だけのことではない
ところが演説会の見せ物とはレベルの違うリ
アリティが伴ってきて、批判や非難の対象と
なっても実績として信用されてくるところで
もあり、それとこれとは違うということを実
感させられるわけだが、そういう意味でもす
でに何かを行なっている人や団体には有利な
点があり、それと比較していつまで経っても
これから何かを行うことを主張しているだけ
では埒が明かないわけで、何とかして主張し
ているそれを行う立場にならないと、そのス
タート地点にも立てないことになってしまう
から、それが政治の領域で行おうとすること
であるなら、これまでの実績を重視してこれ
までに行われてきたことを踏襲するような成
り行きになりやすく、全く新しいことを一か
らやるようなことにはなりにくいのだろうが、
そうなるとこれまでに行われてきたことを批
判したり非難する人や団体がこれまでに行わ
れてきたことを踏襲するとは思われないから、
いつまでも批判や非難を繰り返している人や
団体には政治の領域で主張していることを行
う機会がいつまで経ってもやってこないこと
になってしまう可能性が高いわけだが、それ
が批判勢力と見なされてしまう人や団体が抱
え込むジレンマにもなるわけで、そういった
境遇からどうすれば抜け出ることができるか
といっても、安易に変節して現状で主導権を
握っている側へと恭順するような態度を示す
と、何か裏切り行為のように見えてしまうだ
ろうが、これまでにもそうやって多くの人や
団体が批判する側からされる側へと態度変更
してきた経緯もあるにしても、それをなし崩
し的に許してきたのがそういう成り行きを肯
定的しないまでもうやむやにしてきた世の中
の空気や民意であるわけで、別にそれが悪い
ことではなく、そうやってこれまで通りのこ
とが繰り返されてきた成り行きの中でそれに
対する批判や非難の材料も事欠かなくなり、
いくらでも好きなだけ気が済むまで批判も非
難もやりたい放題できるから、ますます批判
や非難の見せ物としてのパフォーマンスが繁
盛してしまう一方で、実際に政治を行う側の
質が劣化し続けているのかも知れないが、果
たして昔に比べて政治の質が劣化していると
いう評価が妥当なのかと言えば、そうではな
く昔とは状況が変わってきていると捉えてお
くのが無難なところだが、少なくとも過去の
経緯をいくら調べてもこれからのことはわか
らないという態度にならないと、過去の経緯
から導き出した理屈に沿って未来について語
るという主張ばかりとなってしまい、それが
浅はかな人々にはそれなりに支持されて批判
や非難の見せ物としても一定の成果をもたら
すとしても、実際にはそういう見せ物のパフ
ォーマンスを裏切るような状況や情勢の変化
を捉えることが肝要なのかも知れず、そうし

た状況や情勢の変化に応じたことをやろうす

ることも重要であり、民衆の心をとらえる新

しい政治的な主張というのは、現に今動いて

いる状況や情勢に沿った内容になるべきなの

は言うまでもないことだが、それが過去の経

緯を引きずっていると、新しさよりも古さが

目立ってしまって、しかも古いことの方が馴

染み深いから余計に古臭く感じられて、新鮮

味が感じられないわけだが、もちろんそうや

ってこれまでにない新しい主張をしたところ

で、それがうまく行くとは限らないところが

ややこしいところだが、そういう主張が実行

に移されるか否かも、現状の状況や情勢次第

で不確実で不確定なのは当然だから、依然と

してこうすればうまく行くという確証など何

もないわけで、今後世の中がどうなるにして

も、絶えず伸るか反るかの博打的な何かにつ

きまとわれているのは確かかも知れない。

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彼の声 2021.11.29 「架空の成り行き」

voice-147

 どのような状況下で誰がどうなることを望
んでいるとしても、同じようなことを望んで
いる人が大勢いれば競争となって、望み通り
にはならないことの方が成り行きの大半を占
めているように思われるかも知れないが、努
力のしがいがあるとはそういう状態のことだ
と思えば、そこから努力して競争を勝ち抜い
て思い通りのことができるような状態へと持
っていきたいとなるのが、話の成り行きとし
ては都合よく想像しやすいが、競争して勝ち
抜けられない場合にはそうはならないわけで、
そういうことまで含めればすでに成り行きが
それだけではない可能性がいくらでもある中
で、その場の状況や情勢に実態を合わせよう
としていれば、何とか持ち合わせの資産や資
源をやりくりしながらやっとの思いで自らの
生活を維持しているのが、多くの人の直面し
ている現状かも知れないが、そんなギリギリ
の状態から何としてでも抜け出して、思い通
りのことができるような状態へと持っていき
たいと常々思っているわけでもないだろうが、
何かそういうところでどう思ってみてもしっ
くりこないというよりは、そういうことを思
う余裕もなく日々を忙しなく過ごしている人
が大半なのかも知れないが、そこであきらめ
て妥協するようなことがあってはならず、ど
んな状況下でも自らの信念を貫き通せるよう
に、何か確信の持てることに取り組まなけれ
ばならないのかも知れず、そのためにはどう
すればいいかと問う前に、すでに取り組んで
いることがあれば、それを続けるしかないだ
ろうし、実際に取り組んでいることがある限
りでそこから信念や確信が生まれてきて、そ
れらが自らを助けてくれると思い込めればい
いだろうが、そんな迷いのない心境にはなり
づらく、どうしても自らが取り組んでいるこ
とに関して疑念や疑問を抱かざるを得なくな
るようなら、そこでそれらの不信感や不安感
を取り除くにはどうすればいいかと考えても
よくわからないだろうが、考えているだけで
はどうにもならなければ、さらに自らが取り
組んでいることを突き詰めるしかないだろう
し、実際に迷いを振り払って突き詰めて行け
ば、そこから何がもたらされるかというと、
さらなる疑念や疑問がもたらされるとしたら、
それが自らが取り組んでいることを突き詰め
ている証拠となるかも知れず、生じてくる疑
念や疑問を振り払うことが取り組んでいるこ
との全てであり、それが現状の努力から生じ
てくる試練でもあるとすれば、そんな試練を
難儀しながら潜り抜けることが生きる目的で
もあり、目的を持って生きることが生きがい
をもたらすならそれで構わないような気がす
るかも知れないが、そこまでが作り話の中で
架空の誰かが思っていることだとすれば、そ
れに対して現実の自分が何をどう思っている
のかといえば、たぶん面倒な事態に直面して
何をどうやったらいいのかわからずに途方に
暮れる毎日を送っていて、自らが取り組んで
いることが積極的にやりたいことというわけ
でもなく、それがこれまでにやってきたこと
の延長上でやっていることでしかないとして
も、それ以外には何もやりようがないから、
現状でもなし崩し的にそれをやらざるを得な
いような状況に追い込まれていて、やってい
ることに嫌気が差して何かそれとは違うこと
をやろうとしてもうまくいかず、しかも現状
で取り組んでいることすらも必ずしもうまく
いっているわけではないどころか、うまくい
かないようなことを続けているわけだから、
客観的には何をやってもうまくいかない状況
の中で、うまくいかないことをやり続けてい
る成り行きの中で、うまくいくということが
あり得ないと思っているわけではないだろう
が、たぶんうまくいかなくても構わないので
あり、うまくいかないなりにも今の状態が続
いていれば、多少の不満には目を瞑ってさら
にそこから取り組んでいることを前進させな
ければならず、そんな自らの意志とは関係な
く否応なくそんな成り行きになってしまうの
だから、できればそういう否定的な現状の解
釈ではなく、もっと肯定的に現状を受け止め
たいのだろうが、それが紛れもない妥当な現
状の評価であり解釈であるとすれば、たとえ
自身がそれを受け入れられなくても、そうな
っていることを前提として、果たしてそこか
ら肯定できるような成り行きへとやっている
ことを持ち込めるかというと、それもさらに
続けていく過程で明らかになってくることか
も知れず、現状でうまくいっていない面に関
しては確かにそうかも知れないが、全ての面
でうまくいっていないわけではなく、それで
も続いているのだからそういう面に関しては
うまくいっているのかというと、続いている
からこそ現状がうまくいっているように思い
込めるかと問うなら、そういう面に関しては
普通にうまくいっているように思い込めるだ
ろうが、それの何がうまくいっているのかと
いえば、続いていること以外はうまくいって
いないと言えてしまうところが、逆に無意味
なことのような何でもなさを想像してしまう
わけだが、それがそこから脱出する糸口を見
せているようにも思われて、かろうじて続い
ていることをやめてしまえば全てがうまくわ
けではないとしても、肩の荷が降りる可能性
もあるだろうし、そんな誘惑に駆られながら
も惰性で続けているのがうまくいかないこと
の原因であり、その原因をなくせばそれだけ
負担が軽くなるはずだが、それが何の負担な
のかというと、惰性でやり続けていること以
外は何でもないような無意味さに耐えている
ことが精神的な負担となっているのだろうが、
それが生きていることの無意味さにも通じる
堪え難さをもたらしているとしたら相当の重
荷となっているはずだが、そこまで大げさに
考えるまでもないことであり、そんなことに
は遥かに及ばないような軽さの領域で続けら
れていると思いたいのかも知れず、負担とい
うからにはそれに相応しく事を重く考えがち
になってしまうが、大した負担でもない負担
と事を捉えてしまうと、そういうのは負担と
は言わないのではないかと疑念を抱くとして
も、それが続けていることのややこしいとこ
ろかも知れないが、事をややこしく考えない
と現状をごまかせないような気にもなってい
て、そういう方面では事をうやむやに済ませ
てそれ自体を忘れていたいということなら、
そういった方面に言及が及ぶのを避けている
印象を受けるのだが、続けている現状以外に
は何でもないことであり、それに関してどう
言葉を捻ってみてもうまく表現できないよう
な状態なのかも知れないが、それが現状維持
の空疎さであり、現状を維持していること以
外に特に意味がないということだろうが、そ
こから肯定的な内容を求めようとするのは虫
のいい話だろうから、普通に考えて否定的な
傾向の評価となるのが妥当なところで、それ
は仕方のないことだとあきらめるしかないに
しても、それでも現状を維持していることか
ら何かしらもたらされていることがあるとす
れば、それが退屈で無意味な何でもなさとは
違うことであれば、そこに肯定的な意味や意
義があり、自然な成り行きとは違う虚構性に
付きまとわれているとしても、自らの想像力
が示す通りの未知の状態や状況を目がけて突
き進んでいる最中だと事を捉えるなら、そこ
から取り組んでいることの可能性が見えてく
るわけだが、それが冗談で述べていることと
は違う本気で考えていることでもあり、それ
を示さなければならないと思うのだろうが、
それがなかなか示せないまま、怠惰に流され
て惰性の継続に至っているからおかしな成り
行きになっているわけで、なぜ示せないのか
というと、すでに示されているそれがよくわ
からないのかも知れず、完全には示せないよ
うな何かを感じていて、その何かというのが
現状の継続から生じていることだから、それ
を安易に否定するわけにはいかないような気
がするのと同時に、現状への否定や批判も同
時並行して行われるような成り行きにもなっ
ているから、どちらの方面でもそうなってし
まう成り行きを安易に否定するわけにはいか
ないのだろうが、どちらか一方に偏ってしま
うと、それなりにわかりやすくなってしまう
わけだが、わかりやすくなってしまうと現状
から遠ざかって、虚構の世界でもっともらし
いことを述べて、それによって恣意的で都合
の良い意味や意義を獲得できるかも知れない
が、果たしてそれでいいのかというと、それ
でも構わないからそこに物事の真実が提示さ
れているような装いが生じてくるのだろうが、
そういう架空の成り行きになることを目指し
て言説の類いが構成されると、語るのに都合
の良いところだけで成り立っているようなフ
ィクションが語られているように感じられて
しまうわけだが、それが現状の全てではない
ことはわかっているとしても、わかっている
ことだけしか語れないのかというと、実際に
はわかっていないことまで語られている現状
もあるのかも知れない。

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彼の声 2021.11.28 「自然の成り行き」

voice-147

 自分が平穏無事に過ごしている限りで身の
回りでは大したことは何も起こっていないど
ころか、それが大したことではないと思うの
は、他のどこかで起こっている大したことと
比較してそう思ったりそれとは関係がないか
らだろうが、自身がそれに直接巻き込まれて
しまえば大したことになる可能性もあるが、
巻き込まれなければ大したことではなく、巻
き込まれるまではそう思っていられて、いっ
たん巻き込まれると大変なことになってしま
うこともあるだろうが、現状で何に巻き込ま
れているのかといえば、それに巻き込まれて
いるとは思っていない人にとっては大したこ
とではないことに巻き込まれている可能性も
あるだろうし、巻き込まれていることに気づ
いていなければ大したことではなく、これか
ら自身が不治の病にでも罹っていることに気
づいたところで大したことになってしまう可
能性もあるだろうが、巻き込まれていると感
じるのは何かの事件である可能性もあり、事
件に巻き込まれてそれによって大変な苦労や
苦痛を強いられるようならそれが大したこと
だと思うだろうが、大した事件に巻き込まれ
ても苦労も苦痛も伴わないような立場でいら
れたら、その人にとっては大したことにはな
らないかというと、その人にとってはそうか
も知れないが、他の多くの人々が大変な思い
をすればその人も大したことだと思うだろう
し、自分はたまたま軽傷で済んだり九死に一
生を得たりして運が良かったと思うかも知れ
ないし、自らの状態と他人の状態に天と地ほ
どの落差があれば、そうなったこと自体が大
したことだと思われるのだろうが、世の中で
は大したことでもないのにそれが大したこと
であるように思わせる仕掛けというのも制度
的には確立されていて、例えば著名人が軽犯
罪を犯して現行犯逮捕されるようなことが起
これば、それが大々的に報道されて、世間的
に見れば大した役職に就いていたのを辞任し
なければならなくなれば、一般大衆的な目線
の多くの人にとっては、一連の出来事が大し
たことであるかのように感じられるだろうが、
その一方でただの一般人が軽犯罪を犯して逮
捕されたところで、それとは無関係な他の一
般人にとっては大したことではないだろうし、
感じ方の程度がそれがどのように伝えられる
かやどんな経緯から知るかによっても違って
きて、何でもないことが大げさに伝えられる
と奇異に感じられたり違和感を覚えるかも知
れないが、それを伝える人や機関や媒体を信
用すると、自分の方がおかしいのではないか
と疑念を抱くかも知れないし、そうなるとそ
ういうことが大したことなのではないかと学
習してしまい、大したことか大したことでは
ないかの判断の基準が自分の中で変わってき
て、それまでは大したことだとは思わなかっ
たことが、大したことだと思うようになった
りすれば、そういうことを強調して伝える人
や機関や媒体などによって洗脳されてしまっ
たことになるだろうが、そんなふうにあから
さまにはっきりとした経緯からそうなるわけ
ではないにしても、ちょっとした経緯の積み
重なりによって次第に感覚が馴致されていっ
て、他の多くの人たちと共に同じような感じ
方や価値観に染まっている場合もあるだろう
から、何か自分の感覚がおかしいと思うよう
なちょっとしたきっかけがあれば、そこから
多くの人々が囚われている偏見や迷信に気づ
くこともあるだろうが、そこで自分の方がお
かしいと思ってしまうと、反省してまた偏見
や迷信を信じる態度に戻ってしまうかも知れ
ないが、それがなぜ偏見や迷信なのかに関し
てはっきりとした理由を見つけ出せれば、自
らの信念が揺るぎようがなくなってくるはず
だが、何に関してそう思っているのかといえ
ば、それをうまく提示できれば他の人にも信
用してもらえる可能性も出てくるだろうが、
果たして他の多くの人々が抱いている偏見や
迷信を打ち砕くことがどうやればできるかと
なると、自分一人では難しいような気もして
くるだろうし、自信が持てなくなってしまう
ところかも知れないが、他人の偏見や迷信を
打ち砕こうとしたり論破しようとするよりは、
何かそれとは違う方向のやり方を模索する方
がいいような気もするわけで、そもそも何が
偏見であり迷信なのかについてそれを直接示
すことができなければ、そういう試み自体が
始まらないような気もするわけだが、いった
い何が多くの人々が抱いている偏見や迷信な
のかということが、うまく表現できないわけ
で、それが決定できるようなことでもないと
すれば、様々な物事に対する認識や解釈など
が寄り合わさってうまく言い表せないような
複合的な偏見や迷信のような観念を形成して
いると言ってもよくわからないままとなって
しまうが、何かおかしいと思うようなことを
平然と言い放っている人がいるとすれば、そ
れが論理的な単純化のように思われるような
ことであれば、例えば山本太郎の主張のよう
なものだと言えるだろうが、ああいうことを
言わせてしまう現状があるのだから、それだ
けが偏見や迷信ではなく、それが氷山の一角
のようにたまたま顕在化しているだけで、あ
あいうことを言わせるだけの何かが水面化に
あると考えると、そこに様々な認識や解釈が
絡みついてきて、何か確信めいたことを断言
できるようになるだろうが、わかりやすいこ
とを主張しなければならないという思いを裏
切っても構わないなら、それでは主張として
体をなさないような主張となってしまい、多
くの人々から支持を取りつけられなくなって
しまうだろうが、果たして支持されないよう
なことを主張する意味があるのかとなると、
もちろん意味などなくても構わないのかも知
れないが、それでは政治にならないわけだか
ら、どうしても主張したければああなってし
まうと解釈するのも間違っていそうだが、主
張できるようなことではなく、それに関して
は偏見や迷信が含まれないと主張としては機
能しないのかも知れないが、ああいう主張が
行われている一方で、わけのわからない政治
が実際に行われているわけではなく、そうな
るのが当然の政治が行われていて、別にそれ
で構わないと思っている人が世の中の大多数
を占めているわけでもないだろうが、成り行
きとしてはそうなって当然なのだから、それ
が自然の成り行きのように思われてしまうわ
けで、実態としては自然の成り行きでそうな
っているわけではなく、それに関係する様々
な方面から様々な作用や影響が及ぼされた結
果としてそうなっているわけだから、人為的
な力が及ぼされてそうなっていると解釈でき
るはずだが、それが同時に自然の成り行きで
もあるわけで、人々に偏見や迷信を抱かせな
いとそれが自然の成り行きには思われないよ
うなことが行われていると解釈しておけばい
いのかも知れないが、そんなふうには思われ
ないから普通に自然の成り行きでそうなって
しまうと捉えるしかなく、そこに偏見や迷信
が介在しているとは思われないわけだが、そ
の自然な成り行きというのが例えば憲法を改
正するしかないと思われてしまうことであれ
ば、何か現状とは関係のないところからそう
いう思いが生じてくるとしか思えないわけだ
が、捉え方によってはそれが狂気の沙汰のよ
うにも感じられるとしても、そういうことを
優先させなければならない事情が生じてくる
のが、そういうことを優先させようとしてい
る人々が抱いている偏見や迷信だと思ってお
けばいいのだろうが、ではそんな思いに至っ
てしまう原因となる偏見や迷信がどんなもの
かというと、それがよくわからないところで
あり、そういう成り行きになってしまうこと
が偏見や迷信のなせる技だと主張するなら、
その証拠を提示しなければならないとなると、
そこで行き詰まってしまうわけで、もちろん
それに関してもっともらしいことを言おうと
すれば言えないこともないわけだが、そこに
も偏見や迷信が含まれていることがわかって
しまうので、別に偏見や迷信を抱くことが悪
いことではなく、逆に人々が抱いている偏見
や迷信を取り除くにはさらに強力な偏見や迷
信が必要になってしまうと、どうにもこうに
も偏見や迷信から逃れられなくなってしまう
ようなことにもなりかねないから、できれば
よりマイルドな偏見や迷信で済ませておきた
いという意図があるわけでもないが、そうい
う意味では何かおかしな内容を信念を伴いな
がら主張している人がいれば、そこには大な
り小なり偏見や迷信が含まれているからおか
しいと思われるにしても、そのおかしいこと
の背後にはそういう認識や解釈や見解に至る
だけの筋道の通った論理が介在している可能
性もあり、おかしいと感じられるからといっ
て、筋道の通った論理がおかしいわけではな
く、そこから導き出される結論がおかしいよ
うにも感じられてしまうとすれば、その人が
抱いている偏見や迷信とこちらが抱いている
偏見と迷信が一致しないからそう思われるの
かも知れず、もちろんこちらでも自身が抱い
ているそれを偏見や迷信とは思っていないし、
あちらでもそうなのだろうが、それをはっき
りとは示せないところが確信が持てないわけ
だ。

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彼の声 2021.11.27 「合理的な嘘」

voice-147

 世の中の大半の人たちが避けているのは政
治の話題というよりは、それに関して合理的
に考えたり理性的に振る舞うことかも知れな
いが、そんなことができるかというと、その
ための条件さえ整えばできるかも知れないが、
その条件とは何かというと、よくわからない
としかいえないところが、実際には条件も何
もなく、そんなことがいえる程度のいい加減
な認識しか持ち合わせていないが、では何が
それを阻んでいるのかといえば、これといっ
て具体的な何かが思い浮かぶわけでもないが、
そうならなくて当然の世の中に住んでいるこ
とは確かなような気はするわけで、得体の知
れない何かに阻まれて、多くの人が物事を合
理的に考えたり理性的に振る舞うことができ
ないというよりは、阻んでいるそれの得体は
知れているのだろうが、それが何かというと、
それをうまく説明できないような困難に直面
しているわけでもないのだが、それは困難で
はなくあえて説明するまでもないことかも知
れず、合理的に物事を考える上では通用しな
い何かに阻まれて、結果的にそれを指摘でき
ないようなことになっていて、そうなってい
るから理性的に振る舞えないようなことにも
なっていて、振る舞えないのではなく、振る
舞えないようなことになっていることが、振
る舞えるのに振る舞えないふりをしているよ
うなややこしいことになっているわけで、そ
れが何だかわかっているのに、それを指摘す
ることを避けながら物事を考えると、何か現
状の世の中ではもっともらしく振る舞えるよ
うな気がするわけで、それだけ面倒でややこ
しい事態に陥っているつもりにはなれるだろ
うが、それは振る舞いとしての装いであり、
そんなふうに振る舞うつもりもないのに、そ
う振る舞うように強要されているわけでもな
くても、できるだけその場で波風を立てたく
なければ、そんなふうに振る舞う必要を感じ
てしまうのかもしれないが、誰がそれを感じ
ているわけでもないのに、自然にそうなって
しまうとすれば、その自然さとは何なのかと
いうと、それに関しても回りくどくわかりに
くいことを言う必要もないのに、自然に回り
くどくなってしまうような成り行きになり、
結局は避ける必要もないことを避けながら物
事をわざと込み入らせて考えようとしたり、
そう振る舞ってしまうとぎこちなく見えてお
かしいのに、わざわざそう振る舞う必要を感
じてしまうのは、それとわかっている何かに
邪魔されてそうなってしまうのであり、それ
が何だかわからないわけでもないのに、それ
についてはあえて指摘することを回避して回
りくどいことを言おうとしてしまうわけだか
ら、かなり心理的にも状況としてもこじれて
いると言えるだろうが、勝手に事態をこじれ
させているのが現状の世の中であり、何がこ
じれさせているのかといえば、それも簡単に
指摘できるところを指摘しないから勝手にこ
じれてしまい、どれほどそれがおかしなこと
かもわかりすぎるほどわかっているのに、そ
のおかしさを執拗に無視しようとしているの
であり、おかしいところを直せば合理的に物
事を考えられたり理性的に振る舞うことがで
きるのに、あえてそれを直そうとはせずに、
おかしなものの考え方に固執しているといっ
てもその自覚があるわけではなく、直接その
ことを指摘されると自身の愚かさを認めなけ
ればならなくなるから、それは是が非でも避
けたいわけでもないのだろうが、そうならな
いようにするにはどうすればいいかと思案し
ているわけでもないのに、なぜかそうならな
いような方法を模索しているように見えてし
まい、そう見えてしまうところが焦りをもた
らしているのかも知れないが、それでも合理
的に物事を考えたり理性的に振る舞う人々を
許せないと思う気持ちを隠しながらも、それ
を拒否する理由自体が自身の愚かさに起因し
ているとなると、やはりそれを避ける理由と
しても自身を不利に導いてしまうから、そん
なみっともない思いがどこかで渦巻いている
としたら、どこで渦巻いているのかというと、
どこかにその渦中があって、そこではそうい
う成り行きがそうなって当然だと思われてい
るわけでもないだろうが、そこから事態を良
い方向へと前進させることが躊躇われてしま
うわけで、良い方向とは普通に合理的なもの
の考え方が受け入れられるような世の中を目
指すことになるのだろうが、現状の世の中で
うまく立ち回っている人々からすれば、それ
を目指すのは自殺行為だとも思われるから、
何としてでもそういう成り行きは避けなけれ
ばならないこととなり、実際にそれを避けて
いるから、物事を合理的に考えたり理性的に
振る舞うことが、周知徹底してあからさまに
禁じられているわけではないとしても、何と
なくその場の空気としてはそうすることが嫌
われている傾向にあるわけで、そういう態度
が本当に世の中で通用しているのかというと
自信が持てないだろうが、信じられないよう
なことが起こっているわけではなく、何を信
じているのかもよくわからないまま、何が合
理的な考えかについてもこれだと明確に示せ
るわけでもないだろうし、理性的な振る舞い
がどういうことなのかについてもどう振る舞
うのが理性的なのかがよくわからず、それら
は例として示せるようなことではなく、現実
の行為や行動の中で実際に考え振る舞う時に
わかることもわからないこともあり、わから
ない時の方が圧倒的に多いかも知れないが、
その時にはそれがわかるとかわからないとか
思わないわけで、そういう考えがおかしいと
かそういう振る舞いに違和感を覚える時に、
それは合理的な考えではないとか、そういう
振る舞いは理性的ではないと感じるわけだか
ら、逆に合理的に考えるならこうだとか、も
っとこんなふうに理性的に振る舞うべきだと
か、そういう指摘が面と向かって行われるわ
けではなく、そうなっていないように感じら
れることがあるとしても、そうなっているよ
うに感じられることはほとんどないから、世
の中では合理的な考えが通用しないとか、多
くの人が理性的に振る舞っていないとか言え
るかも知れないが、その逆はほとんど言えな
いし、それは実現困難な理想のようなものだ
と解釈しておけばいいのかも知れないし、そ
うなっていない状態や状況を嘆いて、そうで
はない状態や状況を目指すべきだと思われる
としても、あからさまにそんなことは主張し
ないし、そんな状態や状況が実現するとも思
っていないようなことでもあり、何かメディ
アからもたらされるその種の事件や事故に関
連して世の中でひどいことが行われているよ
うに思われて、そんな状態や状況が嘆かわし
いことになっているように感じられると、合
理的なことが行われない代わりに否定的な感
情や不合理な慣習に囚われたことが行われて
いるように思われるから、そして何よりも目
先の損得勘定に囚われた功利的な経済活動が
行われているように思われるから、倫理的に
も道徳的にもおかしいと思われるかも知れな
いが、思うことと行うことには差異があり、
思ったことを行えるわけではなく、そんなこ
とは行う前からわかりきったことだが、思う
前からわかってはいないわけで、思うことは
できるが思ったことをそのまま実行に移せる
かというとそうもいかず、それも行う前から
わかりきったことではあるわけで、思うだけ
なら合理的に考えたり理性的に振る舞えるよ
うに思われるのだが、いざそこから現実の社
会の中でそうしようと思っても、そうはいか
なくなることもわかりきったことなのだろう
が、それが自らの行為や行動となって現れる
と、思い通りには考えられずに思い通りには
振る舞えずに、何か不合理でみっともないこ
とをやってしまって、思っていたことが全く
通用せずに、やることなすことのことごとく
が失敗しているような感じになってしまうと、
気が動転してしまって、何が合理的な考えな
のかも何が理性的な振る舞いなのかもわから
なくなってきて、そんなことなど思っている
だけで全く間違っているのではないかと思い
知らされるわけだが、だからといってそこか
ら世の中の状況や情勢に応じて考えられるよ
うになれるわけでも振る舞えるわけでもなく、
絶えずそれらからはズレたことを考えている
し、ぎこちなく挙動不審のような振る舞いし
かできないとなると、やはりそう思われるだ
けでもおかしいのではないかと疑念ばかりが
膨らんでくるから、何か被害妄想のような気
分に至ってしまうのだろうが、実際のところ
は世の中の情勢や状況に合わせて的確なこと
ができているのはほんの少数の人たちであり、
そういう人が成功者的な存在である一方で、
他の大多数の人たちは大なり小なりうまく情
勢や状況に合わせられずに折り合いがつかず
にギクシャクしているわけで、そういう意味
で成功者的な基準からすればほとんど大部分
の人たちが不適格であり不適合であるにもか
かわらず、それなりに生きている状態を保っ
ているのではないか。

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彼の声 2021.11.26 「思考より先に起こる動作」

voice-147

 それが人でなくても何かに反応して行動を
起こすのが自然な物事の成り行きになる場合、
人でなければ何なのかというと、動物や生物
の活動になるのかも知れず、あるいは何かの
センサーに反応して動き出すロボットや機械
かも知れないが、人や動物や機械が何に反応
して動き出そうと、病原菌やウイルスの動き
は食い止めようがないのかも知れないが、人
為的に食い止められる範囲内ではそれらの動
きが抑制されて、思ったほどではないにして
もそれなりの効果を発揮していることになる
のだろうが、そこで何かがおかしいと思うの
もその人の勝手な思い込みの中では自然な成
り行きのように思われて、その大半は思い過
ごしに過ぎないとしても、ふとした拍子にそ
う思われるのだから、意識がそう思った時に
は気づかない何かに反応しているのだろうが、
後からそれに気づく時もあるだろうが、気づ
いた時にはもう手遅れで、完全に行動が後手
に回ってしまい、慌てて動いたとしても無駄
に動いて効果のないことをやっただけに終わ
れば、何かに反応して行動を起こすだけでは
駄目で、絶えず先の状況や情勢を読みながら
行動しなければならず、たとえそうやっても
予想が外れて見当違いなことをやっていれば、
それもやるだけ無駄であるどころか、かえっ
て余計なことをやって事態を悪化させている
ことになってしまいそうだが、何かに反応し
て動こうとしても身体が言うこと聞かず、な
ぜか気が進まずに一向に動こうとしなければ、
やはりそこでも意識には気づかない何かに身
体が気づいている可能性があり、結果的には
動かない方が正解であったと実感できるよう
なこともあるわけで、そういうところで焦っ
て無理にでも動いたばかりに酷い目に遭うこ
ともあるわけだから、それも動いた後からそ
うなれば後悔するわけだが、すでにおかしな
状況となっているところで、それに輪をかけ
てさらにより一層おかしくなってしまうよう
なら、算術の規則でいえばマイナスとマイナ
スを掛け合わせるとプラスに転じるような成
り行きもあるだろうから、現状の動向と算術
の規則を恣意的に結びつけて状況を都合の良
いように解釈するのも、勝手な思い込みには
違いないだろうし、それ以前に身体が意識の
思うように動いてくれないのだから、否応な
く身体に従うしかないだろうが、何かを感じ
るのは意識で感じるよりは身体で感じている
割合の方が大きい場合もあるかも知れず、そ
こで何を身体が感じているかは身体に尋ねて
も意識にはわかりようがなく、おかしな状況
の中でも特に嫌な予感がしないからといって、
それが良い兆しというわけでもないだろうし、
良し悪しとは違う次元で何かを感じていると
したら何の兆候でもなく、兆候でさえもなけ
れば、ただの怠惰や疲労に過ぎないのかも知
れないが、動きたくない身体を無理に動かし
て何をやろうとしても、そこに何か当てがあ
ればそれに向かっていくしかないだろうが、
当てが外れればそれが予想外だったわけでは
なく、身体が言うことを聞かなかった理由が
そこでわかったことになるのかというと、身
体がそうなることを予知していたから動こう
としなかったと解釈するのも、そんな結果か
ら判断した勝手な思い込みかも知れず、何で
もかんでも結果を都合の良いようにも悪いよ
うにも解釈するだけが解釈というわけではな
く、まだその続きがあると解釈しておくこと
が無難な場合もあるだろうから、それを解釈
する余裕がある限りで、その後の時空に意識
があり、そこで終わりではなかったことを示
しているような気もするなら、その後も何か
が続いていて、例えば気まぐれに身体が意識
に先行して迫り来る出来事に備えていると解
釈しても、それも勝手な思い込みをさらにそ
の先まで延長しているに違いないが、そこか
らさらに思い込みを延長させようとして何を
やっているのかといえば、言葉を組み合わせ
て文字を記す作業を行なっている場合もある
だろうが、そういう方面では身体が動くとし
たら、それがそこでの目的であり、それが身
体の目的というよりは意識と身体の相互作用
として続けられていて、勝手な思い込みを何
の当てもなく延長させようとしているのでは
なく、それが確かな思索の道筋となるように
工夫を凝らしている最中かも知れず、意識の
中では勝手にそうなっているとは感じられな
いようにしたいから、何か筋道の通ったもっ
ともらしいことを述べているように装いたい
のだろうが、難儀しているのはどうやってそ
れを文章としてまとめるかというところで、
何か身体がそうではないような兆候を感じて
いるのかも知れず、それが意識ではうまく感
じ取れないところでもあり、意識より先に身
体が感じ取ってしまうから、意識の意向とは
合わない身体の動作となって困惑をもたらす
わけだろうが、意識がその都度その場の状態
の良し悪しを判断しようと、そんなことには
お構いなしにその場の成り行きに沿って状況
や情勢が動いているから、身体もそれに反応
して動いていて、意識も身体の動きに置き去
りにされたくないから黙ってついていくしか
なく、意識としては何の了解もなく身体が勝
手に動いていってしまうから不平不満がある
だろうが、思うように言うことを聞いてくれ
ないことに対して不平不満を言ってもそれに
返答してくれるわけでもないから、制御でき
ない身体の動作にはどうすることもできない
わけで、そういう意味では自らが宿っている
身体が意識とは無関係に動作するようなこと
になれば、意識には手の打ちようがないわけ
で、そうなってしまえばただ身体の動作に付
き従うしかないわけだが、そこでも思考が働
いて、何とかして自分の身体を手懐けようと
してあれこれと画策するかも知れないが、そ
ういった画策が破綻をきたすとさらに関係が
こじれて、ますます頻繁に身体が暴走するこ
とになるだろうから、そういう行為はかえっ
て逆効果かも知れず、意識と身体のどちらが
主人でどちらが従僕というわけでもなく、平
等な立場で一心同体ともならないだろうが、
そういった傾向へと意識を向けようとするの
ではなく、どちらもどちらの飼い主でもない
ような水準や次元の違う方面で動作している
可能性もあるだろうから、それが許容の範囲
内となるような均衡を維持しなければならな
いのかも知れないが、それは維持しようとし
てできるわけでもなく、維持しなくてもそう
なっている可能性がある限りで、放っておい
ても現状が示す限りでそうなっているわけで、
自身が維持しようとしても周囲の状況がそう
させない場合もあるわけだから、自分の心境
や体調次第である面と周囲の状況や情勢次第
な面もあり、それらが折り合いのつく範囲内
でまとまっていれば、それなりに平静を保っ
ていられるのかも知れないが、別に平静を保
っていられなくても、流動的な情勢に沿うよ
うにして流動的に心身のさまざまな面も揺れ
動いている場合もあるだろうし、そうである
なら別にいつ何時でも冷静でいられるわけで
もなく、情勢の変化に応じて焦ることもある
し取り乱すこともあるだろうから、そうなっ
た時にはそうなった状態を修正する必要もな
いのかも知れず、そこで何か画策して平静を
装うような演技をしてみても、すでに挙動が
おかしくなっていて、意識がそう思う以前に
身体がその場の状況の変化に反応してしまっ
ているわけで、そこから意識して平静を装う
演技をしても対応が後手に回っていて、そう
いう演技自体が取り乱しているように感じら
れてしまうから、平静を装おうとする意識の
当てが外れていることが明らかとなり、周囲
の誰が見ても挙動不審に見えてしまうのかも
知れないが、そういった誰が見てもおかしい
身体の動作というのも滅多に起こらないだろ
うし、滅多に起こらない限りで通常とはかけ
離れた異常事態だと解釈しておけば済むこと
かも知れないが、そんな状態を基準にしてそ
の人を評価するのはおかしいだろうが、異常
事態に直面した時がその人の真価が問われる
というもっともらしい解釈もできるだろうし、
果たしてそう度々滅多に起こらない異常事態
に直面することがあるのかというと、度々起
こっていればもうそれは異常事態などではな
く通常の状態だろうが、その種の異常事態が
売りの映画や漫画の中では超能力などの助け
を借りて活躍する人物がインフレ気味に多数
登場するのがよくあるパターンとなるにして
も、現実の世界ではどうということはないた
だの人間しかいないし、運動能力や思考力な
どに関して多少の個人差はあるだろうが、そ
れもそこで起こる出来事の規模の大小や程度
の強弱に応じて人が取り扱えるレベルでどう
にかなるだけで、人力ではどうにもならない
ところでは自然の力や機械の力などが作用し
てどうにかなったりならなかったりするのだ
ろうが、それと比較して身体の動作が作用を
及ぼせる程度も範囲も限られているから、意
識がいくら身体を飛び越えて何を操作しよう
としても、その過程で身体の動作に邪魔され
たり意識とは違う動作に及んだりしても、そ
ういった意識に抗う動作を無視して思考を自
在に働かせようとしてしまうこと自体が、意
識の勝手な思い込みや妄想が絡んでそうなっ
ていることを示しているわけだ。

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彼の声 2021.11.25 「構造の力」

voice-147

 自身が効果も効力も定かでない根拠の怪し
い何かに頼っていたり依存しているとしたら、
それが迷信の類いなら話が早そうだが、単純
にそう考えてしまうとそれだけの話の内容に
なってしまうだろうが、それでは納得がいか
ないようなことになってしまうと、何かその
人が依存している物事の構造に実質的な効果
や影響力があり、それによって人々の存在が
構成されるようなことがあり、例えば集団で
構成される組織や団体などの構造自体からそ
の組織なり団体なりに特有な特徴を持った人
物が現れて、その構成員になるとそういう人
物になってしまうというと、後天的にそうな
ったことになるのだろうが、その人が何らか
の組織や団体に入ると、その集団内の構造や
体質に心身を合わせようとするからそうなっ
てしまうと考えれば、その人にそうなったこ
とについての責任はないということにはなら
ないとしても、そうなってしまった人をどう
批判してもその人自身に非があるから批判の
対象となっていると解釈すると、その人のせ
いだけでは収まりがつかないようにも思われ
て、その人が所属している団体の組織的な構
造や体質からその人が作り上げられたのだか
ら、たとえその人が排除されていなくなって
も、また新たな似たような人が出現してくる
ようなことになってしまえば、結果的にはそ
の人のせいというよりはそんな人物を輩出す
る組織や団体の構造や体質に問題があるよう
にも思われてきて、そういう組織や団体をど
うにかしないと問題を解決できないような感
じになってしまうかも知れないが、そんなこ
とをいうなら今度はそんな組織や団体が生じ
てしまう社会が悪いだの世の中が何だのと、
社会や世の中のせいにしてしまえば、さらに
責任の所在が拡散してはっきりしなくなって
しまうだろうが、そんなことを言い出すとキ
リがなくなることは承知しておかなければな
らないとしても、社会や世の中でそれなりに
力を持った組織や団体があり、そんな組織や
団体に所属して守られている人がいるとすれ
ば、守られている分で有利な立場になってい
る面があることは確かであり、もちろん組織
や団体がその人を守ることによっても何らか
の利益がもたらされるから守っているとも言
えるなら、その人と所属している組織や団体
との関係がウインウインの関係にあるとも言
えるだろうが、もちろんそういった組織や団
体の庇護を受けながら社会の中で有利に立ち
回っていれば対等の力関係ではなく、その人
が大した人物だと思われなくてもそうなって
いる限りで、そんな人を守っている組織や団
体の力の方が圧倒的に優っているのだろうが、
そういう意味で大して有能だとも面白いとも
思われない人物が組織や団体のトップに立っ
ている社会や世の中では、そういう社会や世
の中自体が人としての魅力に乏しいように感
じられても仕方のないことであり、そこに何
らかの利害関係が生じてそういう成り行きや
結果に至るとしても、つまらない人物をもて
はやすような社会や世の中は魅力がなくなっ
て遠からず衰退してしまうと思っておいても
差し支えないだろうが、すでに衰退している
のだからつまらない人物をもてはやしている
とも言えるわけで、そういうところは鶏が先
か卵が先かの話になってしまうだろうが、そ
れに関してすでに日本の命運が尽きていると
見なすなら、大して有能でも面白いわけでも
ない人物が日本のトップに立っているからと
いう理由を挙げても構わないのかも知れない
が、もちろんそういう単純な理屈ではうまく
説明できないような面も探せばいくらでも出
てくるかも知れず、そういう材料を寄せ集め
てまだ日本の命運が尽きているとは言えない
と主張することもできて、うまく工夫を凝ら
せばむしろそちらの方がもっともらしく思わ
れて、それなりに説得力が出てくるかも知れ
ないが、そういう面倒なことはせずに冗談や
気休め程度の世間話レベルでは単純明快でわ
かりやすい方が好まれるだろうし、根拠の怪
しいいい加減なことを言うなら、そう言える
だけの明確な理由がなくても、そんな主張に
魅力を感じられるだけの何かが作用してそう
なってしまうわけで、それが何だかわからな
くてもそう思っておけばいいだけのことであ
り、それも社会や世の中の状況や情勢から、
その中で力を持っている組織や団体などの間
の相互作用によって不可解でよくわからない
ことが起こっていて、その起こっていること
の中で日本の命運が尽きるような成り行きも
進行中かというと、果たしてどうなれば日本
の命運が尽きるのかといっても、肝心の命運
が尽きる対象としての日本とは何かとなると、
誰かが思っている日本ではなくなることが、
その誰かが思っている対象としての日本の命
運が尽きることになるのだろうが、そういう
日本であれば、その誰かとは異なる意味や概
念として日本を定義している人にとっては、
命運が尽きようがどうなろうが知ったことで
はないようなことにもなるかも知れないし、
逆に誰かが思っているような日本という組織
の構造的な力から生じてくるようなつまらな
い人たちの命運が尽きてしまう方が、従来の
日本とは違う新しい日本が生まれるチャンス
が巡ってくるかも知れないから、その方が都
合のいい人たちも少なからず存在しているこ
とを念頭においた成り行きがごく少数の人た
ちの間でおもしろがられている可能性もあり、
それが具体的にどのような経緯から生じてい
る成り行きかといえば、古代ギリシアで生じ
た犬儒派的な成り行きだといってもわかる人
は少ないかも知れないが、そういう自然発生
的な成り行きというのが、ごく少数の人たち
の間でおもしろがられているとしても、それ
がより多くの一般大衆を巻き込んだ一大ムー
ブメントへと発展する可能性はないのかも知
れないが、そういうことの影響が少なからず
社会全体に及ぼされている可能性もあり、ど
うやっても揺るがないように思われる構造と
しての翼賛体制にごく少数の人たちが野良犬
のように咬みつく姿勢というのが、一見無謀
にも思われるところが、実はそれなりに利い
ていて、それが都市や国の命運が尽きる時に

は決まってその種の人たちが現れるわけでも

ないだろうが、歴史的な経緯からすれば新た

な時代の幕開けにふさわしい先駆け的な存在

に思われてしまうのも、あながち勘違いでも

ないのかも知れず、その一方で構造としての

力がだいぶ弱まっている気配も感じられない

だろうし、逆に弱まっていると感じられてし

まうとそれを再強化するような作用も生じて

くるだろうから、特に弱まっているとは感じ

られない方が犬儒派的な存在には好都合なわ

けだろうが、少しでも危機感を持って対処す

るなら、野良犬が生存できる余地もなくなっ

てしまうだろうが、その余地がなくなるよう

な仕掛けを講じればどうなるかといっても、

それとは別の方面から新たな何かが生じてく

るかも知れず、それが野良犬などとは比べ物

にならないほど強力であれば、ますます都市

や国家の命運など風前の灯となってしまうだ

ろうが、それが何かといってもそうなってみ

ないことにはわからないことだから、そうな
ってみるまではまずは野良犬の駆除に乗り出
すしかないのかも知れないし、駆除する必要
も感じられないほど勢力が脆弱だと判断され
れば、そのまま放置しておくという選択肢も
あるだろうが、少なくともそれらの人たちが
組織や団体の庇護の下でつまらない遊戯を繰
り返しているようでは、もはや命運が尽きて
いると思われるのも当然かも知れないが、そ
うであっても構わないような状況や情勢の中
でも平然としていられるようなら、そんな危
惧も杞憂に過ぎないようなことにもなってい
るだろうし、すでに命運が尽きた後で現状が
継続中なのかも知れないし、誰も気づかない
うちに世界が新たな時代に突入中であれば確
かにそんなことは杞憂に過ぎず、これみよが
しに権力に噛みつく野良犬的な行為自体もそ
れを演技だと捉えるなら、過去の幻影を見て
いるに過ぎないことかも知れないし、そんな
過去の時代を思い起こさせるような茶番な行
為とは別の方面へと目を向けないと、新たな
時代の全体像が見えてこないようなら、そん
な行為も意味のないことかも知れないが、時
代の中から時代の全体像を把握できるわけで
もないだろうし、それも幻想だと思うなら、
構造の力によって生成されるつまらない人た
ちの行為を無視するか黙認するしかないだろ
うが、ゴミクズみたいな人たちの横暴に耐え
かねて、しかも退屈で死にそうだから、構造
が軋むとか崩壊寸前だとか思いたい気持ちも
わからないではなく、実際にそうなっている
としてもそれに気づく必要はないのかも知れ
ないとしても、少なくとも犬儒派的な行為に
及ぶ無謀さが自身になければ、権力の番犬ど
もに逆らうのはやめておくべきなのかも知れ
ないが、番犬などどこにもいなくても問題の
ない社会がこれから構成されつつあると思え
ば、それも杞憂に過ぎないことかも知れない。

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