昨日、KOIPさんの記事で、科学者とアーティストの共通点と、相違点が書かれていた。相違点として、「科学者は、筋道を立てて説明すること、文章で説明することが求められる点です。というのも科学においては、“第三者が追試して再現できること”が要求される」と述べられていた。
アーティストは、勝手に表現をしているだけか?とKOIPさんと議論したが「よく判らないねぇ」ということで中断。
そこで、秋元雄史「アート思考」(プレジデント社)をもう少し読んでいこう。同書は『「問い」を見つけるセンス』では、『点、線、面、円、四角形、三角形は、人間が発明した幾何学的な図形で、人はこれらを利用して世界を視覚的に把握し』、『輪郭線、陰影法、遠近法という技法を使い、本物らしく物や人を写し出し』、『空間把握を行うための概念も同様で、すべて視覚認識のための人間が発明した認識パターン』で、『それは「実際に自然界において、これらの形態が存在していない」ことからも理解できます』と説明する。
かかる『人間がつくり出した架空のアイデア』について、現代では、『視覚認識パターンは解明され、絵画的な技法としてプログラム化されてアニメーションなどに活用され』るに至っているという。つまり『生まれ持った視覚機能による認識とは異なる、人が成長する過程で教育された認識で“文化的な眼”』があるのだという。そして『文化という、人間が作り出した衣に包まれて暮らし』、『習慣化した常識があるからこそ、社会の中で難なく生きていくこともでき』る一方、『新しい発想やイノベーションを起こそうとするときには、それらが邪魔をする障壁にもなる』という。(秋元41-45頁)
思うに、アートにおいても、ある表現によって、一般の人々が社会で共有できる文化の基礎となるようなものを創り、第三者がなんらかの形で追試し再現しているのではないか? そういうアートが社会で価値あるものと評価されるアートになるのではないか…。
ふと、BLMは、以前、幼稚園や保育園の放課後に、その場所を借りて教えていた造形教室での体験を思い出した。その教室では描き方をあまり教えなかったが、材料は豊富に揃っていた。日頃から情操教育が充実した園児たちだったのだろう。観察力が深く、鋭かった。表現力は未熟である分、既存の描き方に縛られず、とても素晴らしい造形が生まれた。例えば、画用紙に絵が収まらないと画用紙をセロテープで繋げて描いていた。通常、大人は画用紙の中に収まるよう注意するだろう。
同書では『現代アーティストの役割は、これまでの古いしきたりに囚われない見方を創造して、イノベーションを起こすことにあ』り、『並大抵の「懐疑」では』足りず、『教育されていない、因習化されていない裸眼のような眼が必要にな』るという。そして『アーティストのような眼を得るためには』、『視覚以外の知覚や認識に改めて意識を向けること』、つまり『外界と直接向き合うということ」で、『情報を直接的に得ていく』ことという。つまり『五感による知覚がいかに大切かという問題で』『視覚世界は、空想上のイメージや概念などを構築し、他者と交換するという意味では機能しますが、必ずしも、視覚機能だけで世界をすべて把握できるわけではない』という。(秋元44-45頁)
上記のBLMの経験談として、同教室では、年長さんになると、描く方法も大人の世界から学ぶようになっていたが、視覚のみに捉われない、五感をフル稼働した造形が生まれていたように思う。
長い和紙と一色の絵具と筆を渡すと、ある子が、筆の先がかすれつつも力強い円を描き、その左右に力強い線を描き、そして、その周りに、点をちりばめた。
あぁ、文章で書くと陳腐だ
大人なら✈️や
や🛩という感じのお決まりの絵を描くのだろうが、そういういわば記号化した視覚的形には捉われていなかった。
つまり、その絵は、星空がきれいな夜、着陸した飛行機から降りて、空港の建物の窓越しに、飛行機を真正面から観たのだろうか。その時の空港の空気、雰囲気が伝わり、家族と一緒だったのだろうか、彼の飛行機を観たワクワク感、旅が終わったじんわり感、切ない感、なんとも言えない気持ちまで伝わる絵だった。何度も言うが文章ではその雰囲気が、うまく表せないが…
同書を読むに、BLMが出会った子供達の絵が活き活きしていたのは、形式化された表現の取得が未熟ゆえに、却って『原始的で根源的な』『身体感覚』をフル稼働して表現されたものだったからかもしれない。(秋元44-45頁)
ひとまずまとめると、今、主に視覚を通して認識している社会や文化は、実は視覚認識レベルで作られた世界である可能性がある。ただ、人間の共同体を成立させるためには、その認識は有効であるが、行き詰まることもある。その場合にアーティストの現在の視覚認識を疑い、対象を、五感をフル稼働して再認識する手法が有効である、ということか?!
但し、“手法”なんて甘っちょろいものではなさそうだ。同書によれば、『アーティストたちは、歴史的な視野の中に自分を置き、自らの人生を通して、新たな見方を歴史に加えるべく、日々努力する人々で』、『優れたアーティストたちというのは、なんらかの成果を出している人たち』で、『彼らの作品を通してアーティストの思考を追体験することで』『まったく新しい見方を学ぶことができる』という。
ゴッホやモネやピカソなどを挙げつつ、彼らの『直感やセンスの起源は、まさに全身全霊で世界と向き合い、生きることにあり、私たちはそれを単なる知識としてではなく、追体験するように知ることで本質を捉えることができる』とする。(秋元54-55)
最初の問いに戻る。KOIPさんの記事で、「科学者は、筋道を立てて説明すること、文章で説明することが求められる点です。というのも科学においては、“第三者が追試して再現できること”が要求される」と述べた。
アーティストは、『「問い」を見つけるセンス』があり、それは表現として世に出される。一見、勝手に表現をしているようにも思えるが、一時代の文化に影響を与えるほどの力を持ち得る。アートにおいても、ある表現によって、一般の人々が社会で共有できる文化の基礎となるようなものを創り、第三者がなんらかの形で追試し再現しているのではないか?
同書によれば、『…まだ解釈も進んでいない、ルール化もされていない新しいアートが目の前にある場合には、余計に理解しづらい』。『作品の意味を探り、その正当性を理解し、アートとして位置づけられていくことで、やっとそれは人々に共有されるものになっていき』、『普通の人々がそれなりに理解できるところまで解釈が進み普及するためには、結構な時間が必要』という。
『こうして一般化のための解釈や解説が整い、整理されていき、ようやく多くの人たちに意味が伝わ』り、『価値の共有化、社会化のプロセスで』、『この時点になるとようやく作品は美術史の中で語られる存在になってい』るという。(秋元58-59)
それにしても、同書第1章がやっと読めた。同章のまとめ部分(64頁)で『10. 科学者には芸術家のような創造的な才能が必要で、芸術家にもまた科学者のような現実主義的な視点が必要である。この両方を使えるのが、真の科学者であり、真のアーティストであるといえる』という。
なるほど、結局、コツコツ積み上げていく部分はどんな分野でも必要なのね
(Photo by BLM)
by BLM
(^u^) ====================================
知的財産-技術、デザイン、ブランド-の“複合戦略”なら、
ビーエルエム弁理士事務所の弁理士BLM
今知的財産事務所の弁理士KOIP
======================================== (^u^)