【おいしゅ~なれ!】
『カムカムエヴリバディ』(NHK連続テレビ小説)は、三世代(=母・娘・孫)の100年の歩みという壮大な縦糸と、スイーツやラジオ英会話他との縁(=日々の営み)という繊細な横糸が織りなす悲喜こもごもなお話し。
ヒロインの安子・るい・ひなたは、性格も生き方も三人三様。(←熱血のレッド・クールなブルー・お調子者のイエローか?)
序盤のシリアスな展開から、中盤ジェットコースターみたいに急転する。ジョー(=るいの夫)の件で不安になり、幼少期のひなたの天然ぶりでそれが最高潮に達する(汗)。
ところが終盤、そのひなたが流暢に英語を話し、見違えるほど立派に成長して驚かされる。・・
(↑何か成長の秘訣があるの?・・Do you have a magic spell? Won't you please tell us your secret, Hinata?)
今回は、ヒトの成長や脳(=主に言葉)の働きに注目しつつ、前回につづき「ヒトはなぜ、いろんなコトを出来ないと諦め、逃げるコトを選んでしまうのか?」について、ブリキなりに考察する。
【似て非なるモノ】
以前「ハンドラ」という概念を紹介した。赤ちゃんが「言葉」を覚える様子を探り、その「対象物をハンドリングする力」に注目し、次のように<>記号で表した。(←もし、まだ読んでない方は、先に読んでね。)
・【人】~<ワンワン>~【イヌ】
・【人】~<たのしい>~【ワクワク感】
この「力」に着目すると、今直面している問題が「別の次元」で見え、突破口が開ける。・・かもね。(←暗闇でしか見えぬものがある。暗闇でしか聞こえぬ歌がある?)
とりあえず次の例を考え、さらに掘り下げてゆく。
・【人】~|バケモノ|~【得体の知れないモノ】
ん?、そう、「バケモノ」は一見ハンドラに見えて、ハンドラじゃない。(←これでは、対象物をハンドリングできないから。)・・ブリキはこれを「エクセプション」と呼び、||記号で表す。
どちらも同じ「道具」だが、矛と盾のように「力が作用する向き」や「用途」が異なる。
概ねハンドラには対象物を引き寄せる引力があり、エクセプションには反対に斥力があると言える。
【さまざまなエクセプション】
エクセプションをも~少し探るため、いくつか例を挙げる。・・
・【人】~|敵|~【対象物】
・【人】~|厄介者|~【対象物】
↑いわゆる「ヘイト」や「レッテル」に相当する。対象物を嫌ったり見下したりする、比較的分かりやすいパターン。
・【人】~|神仏|~【対象物】
・【人】~|リーダー|~【対象物】
↑反対に、目上のモノ(=親・上司・格式・権威など)もハンドリングできない。畏敬の念から一線を引くという、分かりづらいパターンもある。
↓また、同じ「言葉(=ラベル)」でも人それぞれの場合もある。
・【Aさん】~<数学>~【対象物M】
・【Bさん】~|数学|~【対象物M】
↓さらに、同じ人でも時と場合によって変わるコトもある。
・【成長前のひなた】~|英語|~【対象物E】
・【成長後のひなた】~<英語>~【対象物E】
【人生ゲームは、間違い探しゲーム?】
では、あなた(の言語空間)は、どーだろうか?、「ハンドラ」と「エクセプション」のどっちが多い?・・
間違い探しゲームみたいに普段口にしたり・心の中で唱えたりしている言葉が、対象物をハンドリングできているか否か確認してみる。・・
もし、思い浮かぶ言葉がハンドラだけになったのなら、このゲームはアガリとなる。
が、それまでは、次のステップを繰り返してゆく。
「エクセプションが多く、ハンドラが少ない。」
↓
「まだ身の周りのコトを上手くハンドリングできていない。」
↓
「まだ社会スキルが足りていない。(又は身に付けた社会スキルが適切じゃない。)」
↓
「もっとアンサンブル学習し、適切な社会スキルを身に付けよう!」
(↑実は、コレこそが「ヒトの成長のアルゴリズム(=学習の評価式)」であり、苦しみを鎮め、幸せになる(ひなたの)道では?・・と、ブリキは思う。)
【エクセプションの使い所】
エクセプションの特性は「対象物と距離を置くコト」にある。試しに、子育てで使う場面を考える。・・
近所にクルマがよく通る道があるので、幼い子に「あの道は危ないから行っちゃダメだよ。」と声を掛ける。・・←これがエクセプション。
でも、その子が成長すれば、その限りではなくなる。今度は「気を付けて渡ってね。」と声を掛ける。・・←これがハンドラ。
つまり、エクセプションは、まだハンドリングできないときに使う「方便」(=工事中の仮標識みたいなモノ)と言える。
もし、その子らが大人になっても、なお近所の道すら渡れなかったらど~なる?・・
きっと、ひきこもりの絶えない、こーゆー社会になるんじゃね?
【見えない矛と盾?】
次の2つは、どちらも対象物をハンドリングできない点でよく似ている。
・【人】~</ />~【対象物】
・【人】~|バケモノ|~【対象物】
が、異なる点もある。・・それは、ヒトが成長する場面で明らかになる。
ハンドラが無い場合、単にハンドラを習得すればイイ。一方、エクセプションが有る場合、習得の前に、不要になったエクセプションを消す必要がある。
前者は「学習」で、後者は「再学習」となるのだが、・・
「方便」(=エクセプション)の意義や用法を知らないと、(絶対的な)行き止まりに見え、先に進めない・出来ないと諦めてしまう。・・のも無理もない?
(↑いわゆる自己暗示(=数学でいう「局所解」、心理学でいう「(不適切な)認知バイアス」)にハマっている。そこから抜け出すには視点(=次元)を変える必要がある。これも脳の特性と言える。)
ここで、兵隊さんたちのパレードを想像する。彼らに「手に持っているのは矛?それとも盾?」と尋ねてみる。が、誰も答えられない・・・。
もし、あなたが観衆の一人だったらど~思う?・・勇気が湧く?、心配になる?、何とも思わない?
そこへ、ひとりの子どもが「あの兵隊さんたち、自分が手にしてるモノが何なのか、分かってないんだって!」と声を挙げる。・・すると、観衆から笑い声が起こる。
もし、あなたが兵士の一人だったらど~思う?・・奮い立つ?、恥ずかしくなる?、何とも思わない?
もし、恥ずかしさを覚えたのなら、あなたは「①逃げる→②恥じる→③戦う/成長する」のステップ①から②へ踏み出せた。と言える。
こんな風に、不要なエクセプション(又は不適切なハンドラ)は消すコトができる。
(↑概ねエクセプションは①の道具、ハンドラは③の道具、②の恥じは不要な学習知を消せたサイン、①~③は脳の再学習のルーティーンと言える。)
【ひなたの道を・・】
さて、われわれが直面する「苦難の谷・蔑視の丘と山・対立の荒地・偏見で歪んだ地」に対し、子どもたちのために・自分たちのために踏み出せるステップはないのだろうか?・・
ないわけないでしょ。・・例の間違い探しゲームをクリアしたヒトなんて居ないでしょ。・・(←クリアしてたら「神」だわ。)
だから、も~諦めるの止めませんか? 出来ると思ってイイ。出来るを選んでイイ。・・(←門を閉ざしていたのも・それを開くカギを持っていたのも、実は校長先生らではなく自分自身だったのでは?)
ハンドラか・エクセプションかは、その脳の持ち主の心の在り様(=そのときの状況や対象物に向けるスタンス)によって変わる。・・
試しに、今まで ”I hate you.” と伝えてきた相手に ”I love you.” と言ってみる。すると、次のステップへの扉が開かれる。・・かもね。
最後に、杵太郎(=おじいちゃん)が安子に掛けたおまじないを、われわれ(=ひなたみたいに迷いつつも成長しようとしている、すべてのヒト)に向けて唱えてみる。・・
「幸せになれ。幸せになれ。幸せにぃ~なれ!」・・<おわり>
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【補足.ぽんぽこ ぽんの ぽん】
エクセプションを正しく使えないと、いろんな不具合が起きる。・・それはヒトとして上手く成長できない苦しみであったり、人類として上手く克服できない問題であったりする。だろう。
その意味において、定型発達の人も、発達凸凹の人も変わりはない。・・では、両者の分水嶺は何処にあるのか?・・
ブリキは、アダルトチルドレンの問題を次のように捉えている。
・【定型発達の人】~<自分>~【受容している自己】
・【発達凸凹の人】~|自分|~【受容できない自己】
これは明らかにマトモじゃない。・・ただし、特定の親が悪いわけでもない。これらを峻別できない、現代の「子育て観」(の次元の低さ)の問題と言えるだろう。
(↑「現代の子育て観」は、あの王様の「(実体を伴わない)服」と同じでは?・・それを「子育て」と呼んでいて、恥ずかしくね?)
ブリキには、夢がある。・・いつの日か、この「(裸の)子育て観」をアップグレードし、「負の連鎖を止める」という夢が。・・
だから、あなたも・子どもたちも、エクセプションに臆するコトなく、一歩ずつ踏み出してみてほしい。と願う。
それは何にも難しいことではありません。
ただ全てを急がずに、無理をしないで、自然に覚えられるだけ、一日一日と、新しいことを覚えていけば・・
カムカムエヴリバディ!