小説 やまぶきの花(38)ひとさし指欠損! | 小説 豊饒の大地 第3部 こころ 

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第3部 こころ 75歳になった男が孫娘との関わりで発見する天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

85 母さん、僕の大切なものどうしたんでしょうね? 

 平成十二年(2000年)になった。二十世紀から二十一世紀へ変わった。世紀末から新しい世紀に移行することで新世紀に期待する世界中の様子がテレビに映し出されて、人々は何かを期待していた。

 私は五十歳になった。受け入れ業務にやっと慣れた十月末、今の工場から四十キロばかり離れた製造工場に十一月一日からの三カ月間の期限付きで応援要請が来た。要請人数は二人だった。増産のための人員確保が急務だったようだ。私も三年前に移動の願いを申請したこともあり、承諾した。もう一人はその応援先の工場のすぐ近くに住居があった。

 私は通勤距離が二十キロくらい長くなって通勤時間が一時間くらいになった。二週間くらいは見習い期間だった。年末に近づき生産量も増えて、即戦力の仕事内容を要求されるようになった。さらに残業時間も増えてきた。

 同じ会社でも工場が違うと”ことば”が違った。長年の習慣で使用している工場特有の”ことば”があった。慣れない仕事、長くなった通勤時間、教育不足など、イライラする事も多くなっていった。

 十一月末の寒い朝だった。朝、担当する機械の立ち上げ作業で運転スイッチを入れたが機械は動かなかった。二、三回試みたが同じだった。事務所に行き上司に機械の点検を願いでた。

 現場で上司が機械のスイッチを入れたが動かなかった。横で見ていた私は機械の中に厚紙が挟まっているのを見つけた。原因が此の厚紙だろうと予測して、左手の人差し指と親指で挟みだそうと思って左手を差し伸べた時だった。 

 左人差し指に鋭い電撃が走った。瞬間、上下する圧縮機の金属の型の間に挟まれたと判った。

左手を圧縮機から抜き、右手で挟まれた人差し指を覆うように強く握り肩より高い位置にあげて『挟まれた!』と叫んだ。

 誰かが両脇を支えてくれて通路を抜けて外に出た。

 救急車が到着するまでしばらく時間があった。私は冷静だった。だが、血圧がかなり上昇しているのは肩のあたりの筋肉の緊張度と気持ちが高揚しているので判った。

 機械は上部が固定されていて、下部の金型が上に向かって上昇するプレス機だった。病院で人差し指の指元に麻酔を注射された。注射針が神経に当たった痛みは機械で挟まれた以上の痛みで思わず叫んでしまったほどだった。手術は指先の爪まで切除し、皮膚を先端に巻くように処置された。この時以来、

 私の左人差し指は無くなってしまった。手術前、自宅に手術承諾の電話が病院からあったらしい。ちょうど母親が住宅に訪問してきていて、この知らせを聞いて取り乱したと後で妻が教えてくれた。

 応援要請を受けたもう一人の同僚は急遽、直接の製造現場から外され、補助要員に回った。

 左人差し指は小さい頃から思い出のある指だった。小学校のころ、彫刻刀で切り込むくらい深手の傷をおって、血が滴り落ちた。病院にも行かなかったが完治したが傷跡は十五ミリに及んでいる。

 欠損した指先を見ながら昔、森村誠一の長編推理小説を映画にした「人間の証明」の中で主人公がつぶやいた「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしようかね?」の言葉になぞらえて「母さん、僕の大切なもの。どうしたんでしょうね?」と思ってみる。

 平成十二年(2000年)十一月二十八日だった。

86 労災事故失って得たもの、失って失ったもの

 左人差し指の先端部分、第一関節から先がなくなった。

 後日労災保険申請で役所に届け出にいった。人差し指欠損の場合、先端第一関節場合は障害には当たらない事がわかった。人差し指の場合、第二関節以上となっていると規定されていた。よって障害手帳はもっていない。

 小学校のころ、近所に右の人差し指を欠損した人がいた。その人は第三関節から無くなっていた。右手は四本の指だった。中指を上手に使って指が欠損しているとは判らなかった。動力の草刈り機の事故だったと聞いた。

 右手人差し指ではなかったが指先が有ると無いとの不便さは失って判った。

 一番困ったのは、仕事でネジ締めの時、右手でドライバー、左手の親指と人差し指でネジを持つ。指先が無いため持ちにくかった。ましてや、小さなネジなど不可能で最近は左手にドライバー、右手にネジを持つようにしている。指の先端にある爪が指先に掛かる圧力を支える大切な役目をしていた。

 爪の大切な役割が初めて理解できた。街中でネイルアートの女性を多く見かけるようになったが、爪の本来の意味はもっと違った事にあると秘かに思ってみる。

 あの事故の時、機械に向かって左側が調整ダイアルやスイッチなどのオペレータ部分、右側が機械の本体部分だった。利き腕でない左手で厚紙をとりだすためには、更に一歩右に移動しなければならなかった。

 不思議なことにあの時、利き腕である右手で機械の下に手をいれず、左手を機械の下に入れた。もし右手を入れていたら・・・・、もう少し奥まで手を入れていたら・・・と考えてしまう。

 事故後、失った人差し指先を思いながら欠損事故から十年くらい痛みは消えなかった。とくに冬場は鈍痛が続いた。指先の感触が変わった。

 今でも指の先端を平面に立ててみると物に当たった感触が輪のように感じて、中央部の感覚は無い。人間の皮膚が持っている感覚の素晴らしさを改めて知った。

 

 指を失って最初に感じたことがあった。それは「申し訳ない」という気持ちが湧き上ったことだった。誰にたいしてか、何にたいしてかわからなかったが・・・・敢えて対象をハッキリさせると、私を存在してくれてもの。両親でもあり、その両親の両親であり、更にその上・・・もっとさかのぼって私自身の生命を誕生させてくれた長い歴史全ての方々に対してと表現していいかもしれない。

 この私が生まれ出てくるまで命を繋いできた人に対して、自分が事故を起こして失わせてしまったという負債のような気持ちだった。

 自分は過去の人たちの所望の存在のように思えた。さらに、自分の身体といえども自由にして良いという権利などないという気持ちが強くなった。

 近年、耳にイヤリング、鼻にピアスした人、またタトゥーの若者を多く見かけ、日常の事になってしまったが、事故後、人の姿から受けとる自分の気持ちが変化してきた。

「かけがえのない身体に感謝して大切にしなさいよ」と。年始の温泉付きの保養施設での事だった。近くのスキー場に来ていた若者も多く訪れていた。

 私は左指の欠損の傷も少し良くなって薄いガーゼで手当てをした状態でテーブルの前の長椅子で寛いでいた。ロビーの椅子はほぼ満席状態だった。

 私のテーブルの向こう側の長椅子に一人の若者が威勢よく椅子に腰かけ、足を組んで三人掛けの椅子を独占したようなそぶりでくつろぎ始めた。彼が私を一瞥して下の方に目を移動させて間もなく態度が変わった。

 それまでの横柄な振る舞いが治まり、散らかった自分の荷物を手元に引き寄せると、早々に立ち去った。

 私は彼の急変ぶりと立ち去った理由が良く判らなかったが、しばらくして理解できた。

 左人差し指が欠損していた事に対して語らない威圧感を感じたのではないかと思って強縮した。それ以来しばらく人と会う時は、指に包帯を巻く事にしていた。