87 再び三交代の仕事に 

 労災事故から一ヶ月で元の工場に復帰した。私が担当してしたところには別の人が移動してきていた。私は四月一日から、かっての三交代勤務の滅菌部に移動が決まった。

 年度変わりになる前の三月二十四日”2001年芸予地震”(平成13年)が発生した。私は休日だった。住宅の三階の部屋で高さ三十センチ横六十センチくらいの金魚水槽を一メートルくらいの台の上に置いていた。地震と同時に水槽の水が大きく左右に揺れ、こぼれ出るほどになって、慌てて水槽に手を置いたが何の効果もなかった。

 妻がすぐ雑巾を取りに行った。以前から言われていた「地震がきたら、どうするのよ」と。大阪に住んでいた妻の姉の家族から、阪神淡路大震災の地震時の様子は何度も聞いていた。私は「中国山地の山の中に地震などくるはずがない。ここは大きな活火山もないし、古い地層で安定しているところだから・・・」と言っていた。思いは外れた。この時から地震によって起こる災害に関心を持つようになった。

 以来、地震のニュースが報道される度、このことを言われた。翌日は休日だったが出社要請がきた。工場は震源地から九十キロばかり離れていたが建物にも被害があった。建屋の壁には崩れるほどの大きな被害ではなかったが所々にひび割れがあった。保管倉庫にあった木パレットに積んであった製品入りの段ボールが床に落下したり、荷崩れおこしていて積み直すのに八人で一日かかりの仕事になった。一段目より四段目の荷崩れがひどかった。地震の影響で向かいの敷地内にあったテント倉庫が雪と地震の影響で半壊状態になっていた。

 四月から移動になって三交代が始まった。私は五十一歳になっていた。長男も中学生から高校生になった。私と同じ県境を越えた高校だった。

 私は卒業以来久しぶりに校舎の中まではいる事ができた。木造校舎は高校三年生の時在籍していた校舎一棟のみだった。校内は新しい鉄筋の校舎が建ち、体育館も新築されていた。

 事務所に同窓生の女性が座っていた。雰囲気は昔のままだった。高校生のころ教えを受けた教師が三人ばかり在任のままだった。その内の一人は英語担当の女教師で苗字が変わっていた。三十年の時間が経っていたが入学式での校歌斉唱もあり記憶していた。

 平成十三年(2001年)九月十一日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。夜中テレビの画面を食い入るように見入った。静寂な画面から爆発音が聞こえビルから黒煙が上がる。続いた二機目の飛行機がビル裏側を通過したかにみえたがビルが破れるように瓦礫が飛び散り火柱が突き出てきた。

 このリアルタイムで映し出された映像を見て背筋に冷たい電気が走った。あれほど期待した新世紀がはかない夢だったと気づかされた。

88 五十肩、網膜剥離、脊椎間狭窄症、経年劣化 

 年齢とともに、いや時間の経過とともにすべてのモノは劣化してゆく。六十歳を超えるとさらに自覚するようになった。

 十二指腸潰瘍がまず最初だった。私が二十七、八歳のときだった。胃酸の分泌と胃壁の保護のための粘膜とのバランスが崩れて、胃酸が自分の胃壁を溶かしてしまう。

 これで三十年間苦しんだ。潰瘍は「胃腸の粘膜にヘリコバクター・ピロリ菌が感染することが主な原因でこの菌を退治することによって潰瘍が改善するらしい」と聞いたのは二千年になってからだった。

 さっそく病院で検査して菌の存在か確認され薬療法で除去する方法があるということで薬を処方してもらった。保険の適用外の時代だった。確か薬代は一万円以上だった。この薬の効果は私にとっては予想以上、期待以上の結果だった。それ以来、潰瘍にまつわるジュクジュクした胃の痛みは消え、胃酸の分泌を抑える薬は必要なくなった。二十七、八歳くらいから五十歳くらいまで飲み続けた薬とは縁が切れた。      

 五十代に入ってから、経年劣化の症状が身体に出てくるのを自覚するようになった。

 まず”五十肩”と一般的にいわれる肩の痛みだった。それまで右手を耳に付けるほど上げることができたが、ある日を境に肩の位置以上の高さにあげようとすると右肩に激痛が起こった。

 腕を挙げるためには左手で介助しながら挙げた。同じように経験した友人が「痛くても一ミリでも毎日挙げる練習をしているとだんだんと治る」と言っていたので半信半疑ながらリハビリを行った。数カ月で、もとの状態まで回復した。右が終わったら次が左肩だった。この症状は六十歳の時にも起こった。                      

 次は目にまつわる異変だった。ある冬の日だった。夕方、会社から帰って自宅でくつろいでいると、左目の奥のほうから黒い墨のようなものが突然、湧き上がってきた。ちょうどコーヒーに生クリームを浮かべたような感じだった。(白と黒は逆だが)慌てて鏡で目を写して見たが何の変化もなかった。

 自分の目の奥、網膜の現象ようだった。翌日、眼科医で検査してもらったところ「一部網膜剥離が起こっているのですぐ手術しましょう」と言われそのまま病院の二階でレーザー光線で網膜をくっつける手術を受ける事になった。台座の上に顎を載せ瞬きせず目を開いると眼球の位置に装置の先端が近づいてきた。

 その後、機械の衝撃音が続けてした。眼球の奥のほうが重苦しくなったくらいで、他は変化はなかった。眼科医の先生曰く「三十カ所ほど照射しましたから、後日検査をしましょう。急激な運動で首筋に力を加えたり、寒い地方ではスコップで雪かきをしたりしておこることもあります」と。それ以来、視野の中に柔らかいガラス玉のようなモノが移動するようになっていった。    

 その後もう一つの身体に起こった異変は足に現れた。定年を迎えた六十七歳の時だった。

 孫と一緒に近所のスーパーに出かけようと思って信号器のある歩道での事だった。寒い北風が吹いていた。交通量が多く、孫を抱いて歩道を渡ろうとした。突然、足に痺れがきてもつれた。慌てて後ろに向きを変え、孫を信号器の近くに降ろし、一歩バックしようとしたが、上手く歩けなかった。ガードレールに手を添えて横に移動した。頭に「脳梗塞?」の言葉がうかんだ。両手の指を動かしたが異常は無かった。携帯は息子の家に忘れて来てしまった事に気がついた。孫は訝しそうな顔をして見上げている。まだ二歳だった。しばらくガードレールに腰掛け症状が和らいだのでゆっくり、ゆっくり孫に手を引かれながら息子の自宅まで帰っていった。

 病院でレントゲンを撮ってもらって言われた。「軽い脊椎管狭窄症の疑いがありますね」と。「治療法は?」と聞くと一枚の資料を渡された。症状と治療の内容がイラストとともに書いてあった。原因は若い頃の激しい運動、腰に負担を掛ける労働など記載してあった。治療法はコルセット、手術など・・と。それ以来コルセットをつけている。今でも時々は太股から足にかけて痺れが起こる。自分の肉体の限界を自覚するようになった。何しろ七十年も使用している肉体ですから・・・ 

 もっと大切に、もっと有効に、精神も肉体も・・

 『自分で生み出した精神でもないし、肉体でもない』と判った今。この心も精神もさらに身体もあたえられ、自分か管理しているに過ぎないのではないか?と一面では思い、

それでは、この『自分とはいったい何者か?』と思ってみたりする・・