橘京助は来月韓国に3日間研修に出かける事にした。
広島市内で日本の10000円を韓国通貨ウオンに両替してくれる場所を探した。
両替機は銀行の払い戻し機の隣に設置して有るのは知っていたが、日本の通貨を外国の通貨に両替してくれる処は?国際便が発着する飛行場のターミナルには有った。
だが街中に果たして有るか?ネットで検索をかけると広島銀行が広島駅の新幹線入口付近のコンビニ店の近くに設置していた。さすが地元の経済界を巻き込んで国際的観光都市を目指している心意気を感じた。
現地で両替する事も考えたが住居地で両替できるなら不慣れな現地で迷うより得策だという些細な動機だった。Jr山陽本線の横川駅から二つ目の駅が広島駅だった。新駅のように変化していた。駅前の13階のエルエールビルの外看板には広島市中央図書館の目新しい文字板もあった。さらに広島市のシンボルともなった路面電車の出発ターミナルも駅2階の東口に新装になって平日ながら多くの観光客が並んで電車を待っていた。
帰りは二駅前の横川駅で降りた。南側の出入り口前の広場はバスターミナル、路面電車の発着場所も広くなって様変わりしている。
駅舎の通路を北に向かって歩く。
北側商店街は数十年前の雰囲気がそのまま漂っている場所だった。
教会員の友人が経営しているお店はビルの1階に有った。
橘良助やこのお店を経営している友人が毎週日曜日に通っていた世界平和家庭連合の教会は東京地方裁判所の『解散命令』の発令で清算人の管轄になって訪問する事すらできなくなってしまった。
京助たち教会員は住居を失った浮浪者の心情だった。
言うならば‶こころの”駅を失った。
北口から見上げた駅舎は昔の姿を残してした。
心に残るメロディと歌声が蘇ってくる。
数十年前だった。確か50数年前だった。
演歌歌手井沢八郎が歌った『あぁ上野駅』だった。
♪~どこかに故郷の香りをのせて
入る列車のなつかしさ
上野は俺らの心の駅だ
くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった♪~
橘京助も井沢八郎の歌声を聞きながら夢を描き、山に囲まれた寒村の田舎から都会へ出て行った。
東京、大阪の大都会では無かったが小京都と呼ばれた地方都市だった。
長い夏休みだった。ブラブラと下宿で生活していたが8月になった初日だった。
橘京助は太陽が日本海の西に傾き始めた頃、急に故郷が恋しくなって山陰本線の下り列車に乗った。
生活していた山陰の地方都市から故郷に帰郷するためには途中の駅で更に分岐した路線の列車に乗り換える必要があった、。
車中で時刻表を見つめて到着時刻と発着時刻を確かめた。
その分岐した路線の時刻表にはその時間に間に合う乗り換え列車は終わっていた。
しかたなく徒歩で実家まで歩く事にした。
21歳だった。若かった。列車、路線バスの事情も悪い、‶交通網”という言葉もない時代だった。
夕食は駅前の食料品店で確保できたが深夜泊まる処が無く歩きながらも苦慮した。
国道だったが通過する車はほとんど無かった。トボトボと坂道を登り照明が光が輝くトンネルに入った。
この時の照明は眩しいほど明るかった。
車の通過は全く無かった。
ましてや幸いな事に人影など皆無だった。
ヒヤヒヤしながらトンネルを抜けるとホットした安心感が拡がった。
再び暗闇の道を歩く。空に浮かぶお月さんの白々とした姿、時折黒雲が流れてきて月を覆う。
今でも夜空に浮かぶお月さんを見るとこの時を思い出す。
歩きながらホトホト疲れが溜まって眠くなる。それでも歩かなければ家に着くことができなかった。途中に廃車置き場が有った。5,6台の廃車が積まれていた。ここで仮眠と思って1台の廃車のドアを開ける。中は埃っぽい匂いが漂っていた。気持ちが悪いという感情より眠かった。夏だった。寒くは無かった。
何時の間にか寝入っていた。
太陽が昇ったのだろう。明るくなった。
廃車のドアを開けて外にでて再び歩いた。
まだバスが走る時間では無かった。
ひたすら歩き続けた。
やがて風景が見慣れた景色に代わっていった。さらに歩くと小中学生のころ何度も見慣れた風景になった。
実家に到着した。
迎えてくれたの母だった。
安堵感より眠かった。
歩き始めて12時間。山道だった。
眠った。眠る家が有った。
寝ている間は安心できる時間だった。
その年の秋、世界統一神霊協会の学生組織、全国大学原理研究会に入会した。
~次回に続く

