これまでのあらすじ

 創立110周年記念の文化祭で和太鼓クラブが挑戦する演目『イエス・キリスト』。西洋文化を知ることはキリスト教を知らない限り理解できない。イスラエルの一地方から始まり世界までどう伝わったていったか?
その跡を辿ってゆくと自分が生活している身近な処にもその痕跡があった。

 

  磯部匡が日曜日とオープンスクールの代休の日、田舎の祖父の家で和太鼓の練習に行った日の夜に稲妻と雷鳴と豪雨に襲われ恐怖の一夜を過ごした。その日、3年生の光永誠は和太鼓クラブの副部長横山優斗から依頼された文化祭記念イベントの演目『イエス・キリスト』の楽譜づくりに苦闘していた。

 1部と2部の楽譜に沿った3部の楽譜で「イエスキリスト昇天後の信者の心境を表現する」という難題だった。

 机の上にには新約聖書と世界史の参考書、日本史の参考書を並べて考えこんだ。

 

 イエスキリストが十字架で磔の刑によって息をひきとられて、3日後に復活し40日日経て「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」。

 

 新約聖書使徒行伝第2章1節 

 五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 14節 すると、ペテロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

『神は言われる。

終わりの時に、

わたしの霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたたちの息子と娘は預言し、

若者は幻を見、老人は夢を見る。

わたしの僕やはしためにも、

そのときには、わたしの霊を注ぐ。

すると、彼らは預言する。

上では、天に不思議な業を、

下では、地に徴を示そう。

血と火と立ちこめる煙が、それだ。

主の偉大な輝かしい日が来る前に、

太陽は暗くなり、

月は血のように赤くなる。

主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

 ユダの代わりマッテヤが加わった12人の弟子たちはイエスキリストの証人となって各地に出発してゆく。

 

 ペテロはイエスと同じ十字架につけられるのは恐れ多いと逆さまに磔になって殉教し、アンドレも殉教  大ヤコブ(ゼベダイの子ヤコブ)は斬首されて殉教。ヨハネはパトモス島に流刑。フィリポも殉教 バルトロマイはアルメニアで殉教 トマスは南インドで殉教、マタイはトルコのヒエラポリスで殉教 小ヤコブも殉教 タダイは斧で殺害され殉教。熱心党シモンはペルシアで鋸で2つに切られて殉教。 マティアも殉教する。

 エルサレムで誕生したキリスト教はその後パレスチナから、小アジア(現在のトルコのアジア部分)、ギリシャへと広がってゆく。

 

 光永誠は世界史の教科書をめくりながら、副部長の横山優斗が先週の練習日に言ったことを思い出していた。「文化祭の演目『イエス・キリスト』の内容だけどね。最初の”天地創造”の演奏を元に”イエスの誕生から”の場面、そして最後の”復活”の場面を同じパターンで組み立てたほうが演者の私たちの負担も少なくまた観客側からすると理解しやすいという結論からなんだ・・光永どう思う?」・・・

 

 光永誠は”キリスト信者の殉教”という文字を思い出して駅の近くの川土手に並行して走る道路傍に有った石碑を見に自転車で向った。

 石碑は自然石で正面に十字架が刻まれ、オリーブの葉の上に”SEMEM EST SANGUIS   CHRSTIANTISANORUM”の文字が彫ってあった。

殉教碑題記には刑に処された人の名前と年齢が記されたあった。

 

 碑のそばに「この碑は、江戸幕府が禁教令を出したことで、広島でも二二人の殉教者を出すことになった。極刑火あぶりの刑に処された人々を偲んで昭和五十八年に碑を建てる会によって設立された。広島市立己斐中学校の表札。

 

 殉教の石碑のことを父親に話すと奥の部屋から「昭和50年代、公民館と地元の歴史研究会の人たちがしらべた本なんだ」と言って一冊の本をもってきてくれた。

 表に広島己斐の歴史の文字があった。

 ページを繰って第3章己斐の歴史散歩道〈14キリシタン殉教の碑〉のページがあった。

・・昔の広島の童唄に”この子はどこの子 麹屋のうばの子尻をまっかに焼きてやれ”というのがあります。寛永十一年(1634)正月12日、陽暦えは2月13日、キリシタ棄教を拒んだ加左衛門とその妻、子 及び麹屋のうばと女中あわせて5人が己斐川原で火焙りの刑に処せられました。この童唄はこの事件のことをつたえているといいます。H・チーリスク神父はこの童唄に心をとめ、多年追究し、多くの研究成果とともに「芸備キリシタン史料」を発刊しました。刑場であった己斐川原、刑死者の死骸の捨て場であった「才が谷」など知るにつけても心の痛むことです(広島己斐の歴史 己斐の歴史研究会・己斐公民館より)。

 この地が今から350年前徳川時代。1559(永禄2)年にキリスト教の布教がはじまりました。1612(慶長17)年に出された徳川幕府の切支丹禁教令によって、広島でもキリシタンの取り締まりが厳しくなり、1616(元和2)年には、広島での最初の殉教者であるドミンゴ星野嘉蔵が磔の刑により亡くなり、その後も厳しい迫害が続きました。

 

 碑文の上部にあった文字は『キリスト者の血は一粒の種子である』と己斐の歴史の本にあった。本の中には碑の写真と殉教碑題記に書かれていた人たちの名前があった。

 

 キリスト信徒の死をも飛び越える力の源泉が何か不思議だった。

 

 光永誠は更にネットで調べてゆくと同じ広島市内で隣の佐伯区五日市でも明治期に殉教者があったと知った。

 明治初期、キリシタン禁教により長崎から広島に流された信徒の一部が1870年(明治3年)7月11日五日市に到着、改宗を迫られ、そのうち3名が激しい拷問で死亡していた。そして残った信徒たち153人は山を越えて山陰の津和野に護送される。その津和野の地で改宗を迫られて拷問により子供を含む57名の信徒が死去したと知った。牢のなかで聖母マリアが現れ拷問を受けつづけた信者を励ましたという逸話も紹介されていた。

 イエス・キリストが十字架で磔になり、12弟子たちも同じように殉教しながらも、世界まで広がっていったキリスト教。

 

 光永誠は石碑の前に立って、今から350年前、この地で起こった事を考えた。

今は住宅街になっているこの地で行われた拷問。

 明治初期禁教令によって長崎から津和野に護送される途中の瀬戸内海の波が打ち寄せる砂浜の上で拷問され改宗を迫られたが死の道を選んだ人々。

 

 その心中は?

死を越えるだけの価値あるものとは?

 この言葉を殉教していった人たち問いかけてみたい気がしたが、すぐに頭の中から消し去った。

 

 現代人は言う『生きていればもっとやりたい、経験したいことが一杯有っただろうに?」と。

 五線が引かれた楽譜には途中までの曲づくりが終わっていた。

 シャープペンシルを持ちながらも光永誠の頭の内からは何も出てこなかった。代わりに和太鼓クラブの会合でのメンバーの発言がよみがえって聞こえてきた。

 続 <毎週土曜日掲載予定>