続き②
止過 戦争百談・百首より
17 馬鹿な戦争やったもんだ HKさん 大正3年生まれ
・・・・あれと思想的は教育うなぁ、切り換えの早いものは早う戻ったなぁ。若い連中を教育して早う日本に帰したなぁ。思想的には帰しても大丈夫だというぶんから帰したんよね。
10月頃からはぁ零下だけぇなぁ。零下20度までは働かす。20度いうてみんさいや外へ出たほどでも目や鼻ん中はコチコチだけえのぉ。ほんに死んだ人は余計居りますますわ。そこがあたり前にはしゃあせん、足の裏へ十文字を書いてなぁ。これが日本人だということが判るようにして土を掘っていけるぐらいのことよね。
ほんに、あわれなものよなぁ。千人くらい居ても極端な収容所のぶんはすごいこと死んだもの。まず食べものがない。気候が悪い。それに労働そのものが過酷なんでよーに参ったよね。食べものが無いで腹がへってほんに地獄だな。草でもなんでも食べる。なんでもかんでも拾うて食べる。ねずみども居りゃどんじこうしてなぁ。蛙どもはとうの昔に居らんようになる。蛇どもはほんに一番重宝だぁな栄養があって。ほいだけぇ、戻った当分は食べられんもんなぁ。いろんなことがありました。わしらが戻ったあとまんだ居りましたよ。巡査とか憲兵とかいうような人は遅かったね。1年くらい遅かった、非常に向こうは嫌がりよった。特に憲兵なんかね。
まぁ日本が一番ええなぁ。それでも早う戦争が済んでけえ、ええがあれがもう一年も延びてみんさい。ほんになぁー。
HKさん略歴 大正3年(1914年)生まれ。昭和3年(1936年)近衛連隊に入隊、除隊後昭和11年(1936年)応召。13年広島宇品港より中国青島に上陸。14年ノモハン事件参戦。15年中国旅順に、12年召集解除
18年(1943年)長男誕生、11月応召。19年九州小倉港から北海道根室を経て千島列島の択捉(エトロフ)島上陸。20年(1945年)8月15日日本軍武装解除、以後3年間シベリア抑留。数か所の収容所を移動。昭和23年(1947年)11月30日、日本船信濃丸にてソ連領ナヲトカより京都舞鶴港に復員
妻HMさんの話
父親が帰った時長男は5歳でした。初めて父親を家の奥に逃げ出しました逃げ出しました。5歳ですからね。モノ心が付いてて色々な事が理解できるころですから・・・
長男HKさん
僕にとっては祖父が親父でしたね。成長して大手製鉄会社に就職して間もない頃、田舎からバスを乗り継ぎ、広島駅から列車を
乗り継いで会社の寮まで訪ねてきた時は感激しましたね。涙ボロ、ボロでした。
1945年8月6日広島9日長崎に原爆が投下された後、8月15日昭和天皇による玉音放送がありポツダム宣言受託が放送され終戦が公表され9月2日降伏文章に調印する。
日本と韓国との関係
1910年(大正)大日本帝国は大韓帝国を「韓国併合に関する条約」にもとづき日本の領土・統治下におく。これにより大韓帝国は消滅し日本は「朝鮮総督府」を置き支配し1945年日本の敗戦まで続く。
世界平和家庭連合韓鶴子総裁
(自叙伝人類の涙をぬぐう「平和の母」p73~74より)
・・・聖主教は信徒たちの熱心な伝道により鉄山、定州、平壌、海州、元州、ソウルまで広がり20カ所以上に礼拝堂をつくりました。しかし1943年、金聖道と信徒10数名が日本の警察に連行され監獄に収容されてしまったのです。金聖道は3カ月後には出監しましたが1944年61歳で他界してしまいました。8年間鉄山に通いながらエデンの園が復帰されると思っていた祖母と母は目の前がが真っ暗になったようです・・・しかし幸いにも聖主教で金聖道に精誠を尽くして侍っていた許浩彬という婦人に聖霊の役事が起こりました。そして彼女は腹中教をつくり、信徒を集め始めたのです・・・・日本軍は戦争で惨敗し終戦を迎えました。韓半島は民族全体が熱望していた解放を迎えたのですが、北はすぐ共産党統治下となり、激しい宗教弾圧が始まりました。いつの世にも裏切る人は必ずでてくるものです。腹中教でも信徒の1人が共産党当局に密告し、許浩彬と信徒たちは平壌の大同保安署に連行されました・・・。許浩彬たちが獄に入れられたのは1946年8月ころのことです。一向に出獄が許されませんでした。腹中教の信徒たちは白い服を着て毎日監獄の外から祈りを捧げましたが、一向に出獄は許されませんでした。
それはまたソウルにいた文総裁(文鮮明総裁)が平壌に行き、景昌里に集会所を開いて伝道していた時期でもありました。共産党の暴挙が極限に達していた時です。そして許浩彬が監獄で苦難に遭っているいるこの時、文総裁も李承晩のスパイという根拠のない疑いをかけられて、大同保安署に収容されていたのです。無念でならないのは牢獄にいた腹中教の信徒たちが文総裁が自分たちと一緒に収容されているにもかかわらず、この方こそ再臨主であると気づけなかったことです。文総裁は百日にわたり獄苦を受けながらも看守に見つからないよう細心の注意をはらって許浩彬に何度も連絡をいれました。しかし彼女は「文鮮明」が何者であるか、悟ることができなかったのです。
文総裁は過酷な拷問を受け、瀕死の状態になりながらも、生きて解放されましたが、その一方で腹中教の信徒たちは拷問によって命を落とし、残った人々も韓国動乱で散り散りになってしまいました。これは天の啓示に気づくことの出来なかった人々がどれほど惨めな末路をたどらなければならないかを示す、生きた教訓です。これらの教団は再臨主を向かい入れる道を準備し、新婦を探し出すために、神様から啓示を受ける事を唯一の目的としていました。私の母がいた教団はこのように信じられないほどの苦難を経たのです。
次回に続く