小説 やまぶきの花(37)北ヨーロッパのバルト三国の一つラトビア共和国へ | 小説 豊饒の大地 第3部 こころ 

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第3部 こころ 75歳になった男が孫娘との関わりで発見する天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

83 初々しい(憂い憂いしい)若葉マーク  

 広島市内にいたころは考えもしなかったことだが妻がいよいよ自動車学校に通い始めた。それほど不便なところであり、田舎暮らしの大変さでもある。

 子供でもない限り、車がないと半径一キロ以内の生活圏に留まってしまう。田舎では七十歳の高齢ドライバーは当たり前、七十五歳の講習予備検査(認知機能検査)を受けている方は普通、八十五歳になって、やっと免許返納の話題に参加しようかな?というくらいである。

 そもそも自動車の出現は不便だから開発され、便利だから発展した。

 田舎生活者、特に高齢者にこそ生活必需品の一つである。自動車学校は住宅から十五キロくらいのところにあり、送迎バスがあった。四十五歳の初心者だった。それまで助手席には乗っていたが運転席には始めてだった。

 私は急遽、自動車学校の先生の役も引き受けざるを得なかった。休日、近くの野球場の駐車場でカーブ、クランク、ウインカーの出し方、左右の確認・・。教官だった。本人が一番真剣だった。

 交通規則の筆記試験は何とかなるにしても技能試験のハードルはかなり高く一日二時間の教習は助手席で見ていても「大丈夫かな?」と思った。自動車学校の先生にも言われたらしい。

 「うわぁ~これじゃ、終わるのは雪が降るんじゃないかぁ~」と。助手席に乗った先生に「皮肉っぽく、ぐちゃぐちゃいわれて、うるさくて、うるさくて」何年か過ぎて話してくれた。五月十四日入学、六月二十一日仮免許合格、予定より四時間くらいの追加時間練習で合格だった。

 私も合格に合わせて中古の車を近くの自動車屋さんで探してもらった。ほどなく白のダイハツ・ミラが届いた。 本体価格五十八万、その他を含めて六十五万九千円ほどだった。もちろん四輪駆動車だった。

 これで生活範囲が広がった。

 車の前後には初々しい若葉マーク?いや、運転者は初々しい、というより”憂い憂いしい”人。若葉マークも少し黄色くなった若葉マークにみえた。中年女性ドライバーの誕生だった。

 私は三交代が続いていた。時折従業員が急遽休んで、四時間早出の事もあった。夜勤の時など寝ついて間もなく、電話で早出の要請を受けたことも一度や二度ではなかった。

「眠たい、寝れない」もう諦めるしかなかった。この三交代勤務も災害時の緊急の対処だと思えば意義ある事だった。おかげで「どんな時間帯でも働ける、動ける」自信がついた。

 長男が十一歳、小学校五年生になっていた。日頃の無愛想を取り返す意味もあって家族で鳥取県の伯耆大山の登山に八月十八日から二泊三日の旅に出かけた。家族で旅行といえるほどの旅は始めてだった。運転手は私だった。家から日本海を目指して北上し、国道を北に走り、出雲、松江、安来と島根県の市を抜け県境を越えて鳥取県米子から今度は南に下っていった。

 会社が契約している保養施設で自炊しながら早朝登山だった。千七百二十九メートルを登りきった。山頂で日本海から吹きあげる風が火照った身体に心地よい冷気を与えてくれた。眼下に見える米子から境港に向かって延びる弓ケ浜の海岸線は絵に描いたようで自然のもつ景観の美しさに気持ちまで晴れ晴れとしてきた。

 平成八年(1996年)は平穏な一年だった。

 

84 妻が長期出張、残された私と息子

 平成九年(1997年)三月末、教会の要請で妻が急遽ヨーロッパ北欧の地、バルト三国の一つラトビア共和国に出かける事になった。

 旅費などの個人の経費はすべて自己負担(家庭)だった。

 滞在する期間も、帰国予定日も決まっていなかった。

 本人ともう二人の婦人。妻の語学能力は英語、しかもブロークン。

 私は海外渡航は二泊くらいの韓国に出かけたくらいだったが、妻は教会に入教した若い頃、ヨーロッパ、アメリカの青年男女とともに韓国、日本、アメリカを回ってキャンペーン活動をした経験から得たブロークン英語だった。

 私もラトビアと聞いてもバルト三国の一つくらいでそれ以上の知識はなかった。まだソ連から独立し十年も経っていなかった。

 

 家には六年生の息子と三交代勤務の私が残ることになる。これをどう乗り切ってきくか。少々難問だった。息子を夜中に一人にしておくことは普通の親ならできないだろう。実家の母の応援を求める事もできた。私は成長した後、どうこの期間を過ごしたか、どういった感情を抱いて思い出すか・・・・と考えながら思案した。

 結論として会社と交渉することにした。「配置替えが可能なら替えてもらいたいし、それが不可能なら退社するつもりです」と。私のこれまでの勤務評価はそう悪く無いと思っていたが申し出が申し出なのでどう結論がでるかちょっと不安だった。

 二、三日後、結果が返ってきた。同じ部の常日勤へ配置替えという結論になった。私の代わりに誰かが三交代に入ってきたが良く覚えていない。これで大きな山場は越えた。昼は給食があったが、朝と夜の食事のメニューは少々考えなければならなかった。妻が出発したのは七月十四日だった。

 毎朝、出勤する時刻に息子と二人で家をでた。帰りはショッピングに立ち寄ったので帰宅時間は何時もより遅くなった。それから食事の用意が始まった。一応、まともな食事を提供したはずであった。

 食事が終わったあとは片付け、洗濯と寝るまで慌ただしく過ごした。夏休み中は部活もあった。私が昼間不在の時、事故など緊急の連絡は固定電話のみだった。携帯電話など未だ普及していない時代だった。

 八月も忙しかった。妻の仕事の物品販売の御客さんの品物を私が代わって届けた。同じ町内で有りながら町村合併で知らないところもあり、住所と地図を頼りに目的の家を訪ねていった。始めて訪れる集落もあって良い勉強にはなった。

 お盆は雨模様で見えなかったが二人で県内の天文台に星の観察に出かけた。また、話題になった宮崎駿監督の映画「もののけ姫」を見に広島市内まで出かけた。毎日、毎日が忙しかった。ただ忙しかった。

 食事作りと洗濯と片付けと・・・・。 

 帰国したのは九月十九日だった。私と息子で過ごしたこの期間は、私にとっては良い思い出になった。帰国して七日目、妻が居眠り運転私は通勤距離が二十キロくらい長くなって通勤時間が一時間くらいになった。二週間くらいは見習い期間だったで自損事故を起こし左側のドアを大きく損傷してしまった。妻は眠っていたのが幸いしたのか無傷だった。片側のドアを取り替えて修理は終わった。

 これも思い出の一つとして残っている。父親がある期間の間、子供の生活と時間を共有して行く事の大切さが判った。子供のためではなく、父親、私にとって。最近は「人生は思い出創りの毎日だったのかもしれない」と思うようになってきた。