声もなく目を見張る。

 恐怖?
 いいや、ただの純粋な驚きだ。



 森から飛び出してきた騎獣は隙なく辺りを警戒している。
 騎乗しているのは若い男。
 その目は今し方自分が飛び出して来た森を見据えていた。



 ふと、男は息を吐いて怒らせていた肩を落とした。
 俯いた先に彼を見つけ、騎獣から降りて歩み寄った。
「……ぶつかったか?」

 何を言われたのか理解するのに、時間がかかった。
 もちろん、頭をぶつけられたわけではない。
 男の顔に驚いて、ぽかんとしていたのだ。

 森に鋭い視線を送っていた時には、確かに男だと思った。
 なのに、緊張を解いた瞬間には女かと思ったのだ。
 残念ながら、掛けられた声は男のもので、近くで見れば間違いなかった。

 薄汚れているが整った顔立ちが目に付く。
 彼と変わらないぐらいの歳だろう。

 ちょっとショックだ。



 男が心配げな顔で彼を覗き込んだ。
「おい?」
 彼の目の前で振られた手に気付いた。

「あ! や、うん、大丈夫だ」
 男はホッとした顔をした。

「こんなところで、騎獣もなしか?」
「え? あ、いや、騎獣は……」
 おかしなことを言う男だと思いながら、彼は後ろにいるはずの自分の騎獣を振り返った。

 ……つもりだった。

「…………」
 なぜか旅の友はおらず、大きな足跡が東へと続くだけだった。

 逃げたようだ。



「うわー!
 こっ、ここでこの状態でどうしろってんだ!」
 足を痛めて、街道のど真ん中。
 財布は懐にあるが、伯父からもらった貴重な晩飯を持って行かれた!

「いたのか、騎獣?」
 慌てる彼に向かって冷静な声が尋ねる。

「いたんだよ!
 逃げやがった!」
 おそらく男たちが飛び出て来たことに驚いたのだろう。
 気が優しくて従順な反面、非常に臆病なのだ。
 主人を置いて逃げるくらいに。

「驚かせて悪かった。
 茂みに隠れて、見えなかった」
 男も自分のせいだと気付いたらしく、素直に詫びた。

「近くの町までなら送るよ」
「え?」
 頭を抱えていた彼は、申し出に飛び付いた。
「ぜひ!」

 もう離さないと言わんばかりに、男の手を握りしめた。





  *  *





「お久し振りです、司祭様」
「五……いえ、六年は経ちますかな」
 ゆったりとした法衣を着た老司祭は、懐かしい知人の姿に目を細めた。

「立派に成長されましたな。
 見違えました」
「司祭様もお変わりなく」
「いやいや。わたしはずいぶん、歳をとりました。
 首のシワが衿に乗るのが嫌になります」

 青年は小さく笑った。
「お元気そうで、何よりです」
 年が明け、春来祭が過ぎても雪解けは終わらないだろう。

 季節は白姫。

 息も白い早朝に道を歩く人の姿は少ない。
 鳥の囀りも寂しいほど。

 道の片側から迫り出した木々が朝陽を遮り、足下のぬかるみは乾く様子もない。
 長いこと踏み付けられた街道の石畳すら、泥まみれ。
 かつて美しかったであろう様は見当たらない。

 反対側は草原の向こうに小川が横たわる。
 朝陽にキラキラと光るのは水ではない。
 まだ水は凍り、流れ出せずにいる。



 凍った朝露を白く纏う木の葉の、先から溶けた雫が落ちる。
 まっすぐに。
 下にいた騎獣の鼻先に落ちて弾けた。

 騎獣が顔を振って飛ばした水滴が、そのそばでうずくまっていたものに当たる。

 おもわず彼は身を引いた。
 鼻水を掛けられたと思ったのだ。
「サイテーだ……」
 掛けられたものはどうしようもない。
 彼はうなだれた。



 冷たい風が吹いた。

 もとから湿っていた衣服が体温を奪う。
 騎獣の背から外套を引き寄せ、肩を震わせながら羽織った。

 このままでは凍えてしまうと、無理に立ち上がる。
 途端。
「いっ……」
 顔を歪めてよろめき、そばの騎獣に手を付いた。

 それとほぼ同時に、道の片側から忙しない音が聞こえだす。
 彼はギクリと体を震わせた。

 痛む足を堪えて騎獣を立ち上がらせる。
 足腰は強いがのんびり型の騎獣は主人の慌てるのもどこ吹く風。
 苛立つくらいゆっくりと立ち上がる。

 足音が近付いてくる。
 人間のものではない。
 もっと重い―――大きいものだ。

 森の向こうから聞こえてくる、草木が荒らされる音が恐ろしく耳に響く。
 次は我が身かと思うと足の痛みどころではない。



 騎獣の背中が自分の肩に触れた時、彼は自分を呪った。
 乗ってから立ち上がらせれば良かった。

 かき分けられる草。
 踏みつぶされる枯れ枝。
 荒い息遣い。

「あぁもう!」
 続く「チクショウ」という言葉が驚きに飲み込まれた。

 森を突き抜ける物体。
 彼の頭上を飛び越える。

「……!」
 顔に恐怖を貼り付け彼は振り返った。
 友へ。



 君は今、どうしているだろう?

 風の噂に乗るでもない君のことだ。
 またどこかで、ひっそりと過ごしているのだろう。


 わたしは相変わらず、学舎にいる。
 君の予想通り、子どもたちに囲まれた賑やかな毎日だ。
 子どもは苦手だと言っていたあの頃には、思いもしなかったことだ。



 君は、どうだろう。
 相変わらず一人だろうか?

 飄々とした君が選ぶ女性を想像したが、巧くいかなかった。
 君はやはり、理解しにくい。

 もちろん、嫌いではないけれど。



 そう。
 君は理解しがたい。

 だが、良い奴だ。
 困ったことに、わたしは君を嫌いになれなかった。
 だからこうして、君のことを書き綴っているのだろう。



 君は嫌がるだろうか。
 余計なことをしたと、怒るだろうか?

 いいや。
 君は微笑んで、何も言いはしないだろう。


 君が怒るのは自分のためではない。
 君は自分のために自らを守ることをしない。

 君は誰かのためでないと本性を現さない。
 君はいつだって、自分を見せなかった。
 隠し続けた。

 ……誰にも。






 我が友よ。

 わたしは語ろう。
 君のことを。

 わたしを友と呼んでくれた君のために。
 自分のために何もしない君のために。
 わたしが君のために語ろう。

 我が敬愛すべき友を―――