「講師、落ち着いて下さい」
 ランスがヤーフェ講師を引きはがしてくれる。
「ヨウスほら、教えて上げなよ」
「…………。
 ゴーラ地方はたしかに、カフィダーナ大陸にあります」
 ヨウスは慎重に口を開いた。

「ゴーラ地方は、活火山の東で間違いありません。
 ただし、ゴーラ地方は大陸最南地ではなく、大陸でいえば南南東。
 東側の最南端は、ガラハル地方。
 ガスティアン族と始祖を同じくする、ゴドバ族の居住地があります。

 祖先の代に、ゴドバ族族長の息子たちが仲違いをし、三族に分かれました。
 ゴドバ族、ゴートハ族、ガスティアン族。
 このうち、保守派だった長男のゴドバ族と、革新派だった三男ガスティアン族は、互いに過干渉はせず、今も協力関係にあります。

 ゴートハ族だけは、残念ながら商隊や他族を襲う危険民族として、南の帝国の討伐対象です。
 また危険民族には、悪名高いコカチ族も含まれています」

「…………」
「…………」
「…………」
 ヨウスが口を閉じても、三人は口をぽかんと空けたままだった。

 鉄面皮ランスの珍しい表情に、ヨウスはじーっと見てしまう。
(魚みたいな顔……)
 もちろん声にだしては言わない。

 最初に覚醒したのは、見られていたランス。
 自分が間抜けな顔をしていたことを知り、驚愕してワナワナと震える。
 そんな様子もまた珍しいと、ヨウスは観察を続けた。



 苦悩するランスを見ていたヨウスは、ふと手を掴まれて振り返った。
「クォーズ君……」
「は、はい」
 間近に迫ったヤーフェ講師の顔。
 良く見ると黒子かと思っていたのは、墨の跡だ。

「ガラスト語、読める?」
「簡単なものだったら読めます」
「お願いしても、いいかな?」
「試験のあとから始めていいですか?」
「もちろんだともって、それって今度の中級試験?」
「はい、語学を受けます」

 それまでニコニコと笑顔だったヤーフェ講師の表情が凍りつく。
「君……。
 き、君、古語の授業、受けてないの?!」
 何か驚きどころがあったのか、ヤーフェ講師は勢いよく立ち上がった。

「はい。中等生なのでまだ難しいといわれて、受けていません」
「で、でもでも、ガラスト語は、読めるんだよね?
 どうしてぇ?」
 なぜ、どうしてなのさー、と泣き出したヤーフェ講師。

 ヨウスの制服を鷲掴みにし、顔に押し当てておいおいと泣く中年男。
 鼻水だけは付けないでほしい。



「ヨウス、断ったほうが良くないか?」
 正気に戻ったルフェランが言う。
 確かに、講師といえど、こんな変人には関わりたくない。

 と、ヨウスが断ろうとしたら、
「待って待ってお願い待ってぇえ!」
 ヤーフェ講師がヨウスの脚にしがみついてきた。
「……っ!」

 怖い。

 ただもう、怖いとしか言い様がない。

「ヨ、ヨウス!」
 慌ててルフェランがヨウスを引っ張る。
 講師の乱れように衝撃を受けたランスも、遅れてヤーフェ講師を引きはがそうと服を引っ張る。
 だが、ヤーフェ講師の熱意はそんなものにピクリとも動じなかった。
「まぁ、そう気に病まず。
 それにしても、クォーズ君はそんなに頭が良いのかね?」
「…………」
「…………」
「…………」

 なぜか、いや、おそらくわざとではないだろうが、ヤーフェ講師が尋ねた先はルフェランだった。

「ヤーフェ講師。
 ヨウス・クォーズはこっちです」
 さすが鉄面皮ランス寮長。
 何事もないかのように突っ込んでくれた。

 ルフェランから、ランスが指差す方へ視線を移動させるヤーフェ講師。
 その仕草は山羊に似ている。
 そして山羊のようなヤーフェ講師は、ヨウスを見てカエルのように跳ねた。
「は?!
 クォーズ君は男生徒だと聞いているが?」
 ヤーフェ講師は心底驚いた様子で、奥歯の虫歯まで見せた。

 ルフェランが肘でヨウスを突く。
「…………」
 そうっと手を上げてみるヨウス。
 ヤーフェ講師の瞳がカッと見開かれる。
「…………っ」

「がんばれヨウス。
 負けるな!」
 何に打ち勝てと言うのだろう。
 ルフェランの励ましは無駄に傷を深くした。

「ヨウス……クォーズ、です」



 ヤーフェ講師は長いこと沈黙した。
 ヨウスを頭から靴の先まで眺め、へー、ほー、と頷く。
「いやコレはまた、へー、ほー」
「…………」
 真正面からジロジロと見られ、ヨウスはおもわず俯いた。

「ヤーフェ講師、ご用は何でしょうか?」
 呼ばれた本人は当てにならないと、ランスが用件を尋ねてくれた。
 それまで本題を忘れていたらしいヤーフェ講師は、パチクリと目を瞬かせる。
「あー、そう……そうだったね」

 実はね、と言ったヤーフェ講師は何かに気付いたらしく、慌てて事務所に戻った。
 戻ってきたときには、手に一冊の本を持っていた。
「わたしは趣味で古代史を研究していてね。
 ガラスト語を解読したいんだけど、なかなか手強くてねー」

「それで、ヨウスになぜ?」
「図書室でガラスト語の本を借りている人を調べてもらったんだ。
 これを解読してほしくてね」
 先ほど持ってきた本を三人に見せる。

「…………」
「…………」
「…………」
「……読めるんだったら言っていいんだよ、ヨウス?」

「…………ご」
「ご?」
「ゴーラ、地方史……編纂、集……」
「何そ」
「やっぱり?!」
 ルフェランの言葉を遮り、興奮した喜声を上げるヤーフェ講師。

「南大陸カフィダーナ。
 砂の海砂漠の最南、活火山ボルカノの東。
 戦闘民族の元祖、ガスティアン族の居住地」
 そこまで一息に言うと、ヤーフェ講師はキラキラした眼差しをヨウスに向ける。
「だよね!?」

「……ち……違います」
「ウソ!?」
 ヨウスの答えにヤーフェ講師は動揺したが、他の二人には大きな間違いに感じなかった。
 だって、読めないから。
 そこがどこなのかもわからない。

「な、ど、ど、な、どどこ?」
 あまりの衝撃に、ヤーフェ講師はヨウスの制服にしがみついた。
 真ん丸の目がウルウルとしていて、今にも泣き出しそうだが、かわいそうどころか恐ろしくてしかたない。
「初級か中級の先生が、上級の先生にイイ生徒がいますよって、まず言うんだ。
 それで、上級の先生が面接して、許可、不許可を出す。
 許可がでたら、初級から上級の先生の前で特別試験を受けられるんだ」

「それと、俺が呼ばれた意味につながりが?」
「上級の先生に呼ばれるってことは、飛び級の可能性が大きいんだよ」
 と、ルフェランは教えてくれたが、やはりピンとこなかった。



「ランス」
 寮棟の玄関口で立ち止まったルフェランが振り返る。
「ヨウスはこのまま僕が連れてくよ」
「いや、俺も騒ぎを起こした。
 講師に説明しておくべきだろう」

 ランスの堅苦しい言葉に、真面目だなぁ、と笑うルフェラン。
「おまえたちが適当すぎるんだ」
 歩きだしたその背に向かって、ランスがいつもより軽い口調で言った。
「いぃやー、寮長が堅いんだよ」

 な、とルフェランが背後のヨウスに同意を求める。
 だがヨウスの背中には当の寮長がいるものだから、気軽に「そうだな」なんて言えるはずがない。

「…………」
「ほぉら、ランスが怖い顔で脅すからー」
「地顔に文句をつけるなっ」
「ヨウス、大丈夫だからな。
 ランスは顔が怖いだけで、イイやつなんだぞ」
「取って付けたように言うなよ!」

「ランスほら、あのヘンな顔して」
「ばっ、ばか!」
「あれスッゲー笑えるんだよ」
「うるさい忘れろ!」
「アハハハハだめだ、ハハ、思い出しちゃった」
「忘れろって!」

「…………」
 人を間に挟んで言い合わないでほしいと、ヨウスは切に願った。


   *  *


 本館の事務所には、まだ数人の講師が残っていた。
 試験が近いので生徒は中には入れない。
 しかたなく入口近くの講師に頼んで、ヤーフェ講師を呼んでもらった。

 男性講師が一人、小走りにやって来た。
「いや、急にすまなかったね」
 そういって、ボサボサの髪をさらにかき混ぜる男性講師。
 本当にこの人が上級の講師なのだろうかと驚いていると、
「ヤーフェ講師、ヨウス・クォーズを連れてきました」
 本物らしい。

 ヨレヨレの制服は色褪せ、下衣の裾は綻んでいる。
 珍しい眼鏡はわざとなのか斜めに、大きな鼻の上に乗っている。
 そして、なんといっても、髪と同じボサボサのヒゲ。
 鳥の卵が乗っていても不思議ではないだろう。

「……おや、ランス寮長。
 わざわざ連れて来てくれたのかね」
「実は少々、騒ぎが起きまして」
「そうかそうか。
 うん、じゃ、立ち話もなんだ、廊下に行こう」

 ヤーフェ講師にいわれ、三人は廊下途中の休憩所に移動した。
 そこは廊下の一部が幅広くなり、外観は出臍のようになっているのだろう。
 壁際に長椅子が置かれ、小さな机がぽつんとあるだけ。
 窓の外はすでに夜闇。



 先に忙しい寮長の話を聞いたヤーフェ講師は、大きな口をぽかんと空けて驚いた。
「あー、いやいや、それは悪かった。
 残念ながら、飛び級のことではないんだよ。
 試験が近いというのに、こんな時にわたしが呼び出したのが悪かった」
「いいえ、わたしも配慮するべきでした」