図書室に行く途中。
 次の角を曲がろうとしたとき、
「うわっ」
 角の向こうから、声とともに本が飛んできた。
 ドサドサッと本が落ちる音に続いて、ビタンッと何か重い物が落ちる音。

 ちょうど角から両手が飛び出してきて、床に倒れた。
 ピクリとも動かない。
「…………」
 恐る恐る近付くと、人が倒れていた。
 蛙が潰れたような格好は見事としか言い様がない。

 周囲を見回したが、誰もいない。
 無視して通り過ぎるわけにもいかず、白い制服の肩を突いてみる。
「大丈夫ですか?」
「いたたたた……」
 良かった、生きていた。

「あぁあ本が!」
 床に打ちつけたらしい鼻を赤くして、上等生は慌てて本を拾う。
 ヨウスもいくつか拾って差し出したが、上等生はすでに両手いっぱいに抱えていた。

「…………」
「あー……」
「…………お持ちしましょうか?」
 目をキラキラさせて上等生が頷く。
 悪い人ではないようだ。



 上等生は、ランディックと名乗った。
「本当に助かるよ。
 寮室が二階で、昇るだけで大変だったんだ」
「あの……俺は中等生なので、寮棟の入口までしか入れません」
 え、とランディックが目を丸くする。

「俺……って、君……」
 嫌な予感がした。
 いや、今更予感なんて無駄にしかならない。

 おもわず立ち止まったランディックは、信じられないといった顔で宣った。
「君は、男だったのか……?」
「残念ながら」
 自分自身、何が残念なのかわからないまま、ヨウスは頷いた。

「あー………でもまぁ、そんな決まりがあったかな?」
 再び歩きだしたランディックは、見事に話を逸らした。
「まぁ、わたしが一緒だから、気にすることはないよ」
 うんうん、と無邪気に笑うランディック。

 本館から西側の渡り廊下を歩いて行くと、立派な建物の玄関が見えた。

 上等生は、その大半が貴族子弟。
 彼らのための西寮棟は、本館よりも手の込んだ造りになっている。

 石壁のすべてを覆い隠す壁布の刺繍。
 窓枠に彫り込まれた彫刻。
 階段の手摺は滑らかな布で覆われ、廊下は顔が映るほど磨き込まれている。
 どこかの城に迷い込んだようだ。

 広い階段を登り、一番端の部屋がランディックの寮室だった。
 寝台はひとつなので一人部屋だろう。
 なのに広さは、二人部屋の東寮よりもやや広いかもしれない。

「助かったよ、ありがとう。
 帰りは大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です」
 ランディックの穏やかな笑顔に見送られ、元来た道を引き返す。

 上等生がランディックのように親しげな人間ばかりだったら。
 小・中等生との交流も生まれ、西寮の立ち入り制限などなかっただろうにと、ヨウスは考えても無駄なことを思った。
 どの国でも一緒だ。
 権威のために、民との境を厚くしようと努める。

(たまに違う人もいるけど……)
 大陸南方の人懐こい人を思い出し、懐かしいと一瞬でも思ってしまったことに凹む。
 散々迷惑を被ったので、思い出さないようにしていたのに……。



 棟内は本当に豪華だった。
 ただの学生ではないからというだけでは済まされないくらい。

 壁に掛けられた絵画や、台座に乗る壺、大きな花瓶に生けられた花。
 東寮では絶対にお目にかかれないだろう。
 ルフェランだったら価値がわかったかもしれないが、ヨウスにはサッパリわからない。
 ただ、居心地の悪さを感じただけだ。

 足早に廊下を歩き、階段の中程まで降りた時、声をかけられてドキリとする。
「西寮で何をしている?」
 振り返れば、白い制服の青年が二人。
「ランディック様のご用が終わって、下がるところです」
 ふーんと、二人は頷いた。

「……おまえ」
 二人のうち、金髪が何かに気付いてヨウスに近付く。
 ヨウスの前髪を掴みあげ、無遠慮に顔を覗き込んでくる。
 先ほどの武科生のほうがまだ良かったと思うほど力を込めて掴まれ、ヨウスは眉を寄せる。

「おまえは男か?」
「……はい、男です」
 金髪は前髪を放すと階段を戻り、二人でコソコソと話しだす。
 勝手に動くわけにもいかず、ヨウスは前髪を押さえてただ待つしかなかった。

 しばらくすると、上等生たちは不気味なほどの笑顔を作った。
「ちょうど良かった。
 人手を探していたんだ。
 手伝ってくれ」
「は? ……俺は……」
「すぐ済むよ」

 一人が降りて来てヨウスの腕を掴むと、強引に引っ張る。
「あの……」
「頭数を揃えたいだけなんだ」
「じっとしてるだけでいいからな」

 金髪に腕をに引っ張られ、もう一人に背中を押されて三階に連れて行かれる。
 三階はまた別世界だった。
 二階よりも広い廊下、高い天井。
 扉と扉の感覚も広く、特別な人物のための空間だと気付いた。
 だが、ルフェランは大人だ。
 自分だけ不合格だったことなど気にもとめないふりをする。
「今日から史学も入るんだっけ?」
「文学を増やしても、講師の授業は増えないし」

「史学はどっちを?」
「国史と帝史を二・一くらいで」
「帝史はキッついよ~?」
「らしいな。
 だから試験は国史を受けるつもりなんだ」
 賢明だね、とルフェランは笑った。



 二人はそれぞれの教室に向かうべく別れ、昼休みに這い出て来たトルクと三人で昼食を摂った。

 午後からは、まだ残っている酒を流すんだと、トルクは訓練場へ行くようだ。
「ヨウスも一緒にどうだ?
 汗かくと気持ちイイぞ!」
 爽やかに笑う口元の白い歯が眩しい。

「ヨウス止めろ。
 死ぬぞ」
 ルフェランが止めてくれた。
 もちろん、まだ死ぬ気はない。

 トルクは飛び跳ねるような足取りで行ってしまった。
 あとは史学か文学の初級を取るだけだ。
 気が楽になったのだろう。

「夕方はクワイトル司祭様のとこ?」
「いや、今日は休み。
 お二人で会食に呼ばれているらしい」
「じゃぁ、僕は実家に帰るから、また明日」
 ヨウスは文学、ルフェランは法学の授業を受けにまた別れた。



 午後の授業が終わり、本館から出たところでトルクを見かけた。
 武科の生徒と数人連れ立って、街に出かけるようだ。
 大柄な集団で、嫌でも目立っていたので、声をかけるのを躊躇った。

 しかし、ヨウスに気付いて、トルクが手を振る。
「ヨウス!
 フロに行かないか?」
 互いに近付いたところで、ヨウスの鼻は汗の匂いを嗅いだ。
「遠慮するよ」
「大丈夫だって。
 ちゃんと男湯にいれてやるから!」
 女湯に入ったら、さすがのヨウスも捕まる。

「トルディス、そいつがお前が言ってた美人か?」
 トルクの肩に、一人の武科生が手を置いた。
 屈強な肩はトルクよりも大きい。
「そうそう。
 美人だろ?」

 武科生たちに立ちはだかれ、ヨウスの周囲が陰った。
 物凄い威圧感を感じる。
 自分はこんなに小さかっただろうか。

 令息でもあり、武科生でもある彼らは堂々としていた。
 その迫力は他の生徒が遠巻きに去って行くほどだ。
 いつもはルフェランに世話を焼かれているトルクが、自然に馴染んでいるのがおかしい。

「本当に男か?」
 別の武科生がヨウスの前髪をヒョイと上げた。
 至近距離でふーんと唸りながら、品定めの目線で眺める。
 堪らずヨウスは一歩退いた。
 前髪がハラリと落ちて顔を隠す。

 ヨウスの前髪を逃した手を自分の顎にあて、ニヤリと笑う武科生。
「なるほど。
 トルディスが惚気るだけのことはある」
「…………」

「ノロケはないだろ、サクス?」
 サクスと呼ばれた武科生の背をトルクが叩くと、彼はトルクを見てニヤリと笑った。
「ヘタなご婦人より相手になる」
「おいおい、止めてくれよ?
 俺がランたちに殺される」

「文科生に何言ってるんだ。
 都に帰ったらお堅い騎士になるんだろ?
 遊べるのは今のうちだぞ」
「止めてくれ、フィード」
 武科生たちの弄りを払い、トルクがヨウスの前に立つサクスを押し退ける。

「司祭様のところか?」
「いや、今日は……図書室に」
「行けよ。
 ヘンなのに捕まらないようにな」
 肩を掴まれて反転させられる。
 軽く背中を押されて歩きだしたが、しばらくはトルクたちの会話が耳に届いていた。

「フロで剥いてみたらはっきりするだろ」
「剥かなくても男だって」
「見たことがあるのか?」
「ないけど……」

「…………」
 身の危険を感じたヨウスは、一度も振り返らずトルクたちから離れた。
「ルリのことで」
「……ルリ……?」
 ヨウスは酒杯を仰いで飲み干した。
 強い。
「昼間、ルリを頼って、俺に用のある子が来たんだ」
「……うん?」

「実習で旨くできたからって、お菓子を差し出された」
 よくあることだ。
 ティセットが学生だったときから毎日のように、ヨウスに貢ぐ学生は絶えなかった。

 だがヨウスは、
「受け取らなかったんだろ?」
 全員から貰うわけにはいかないからと、最初から何も受け取らない。

 なのに、きっと今回は、趣向が違っていたのだろう。
 わざわざ話すなんて。

「俺が離れたあと、ルリが八つ当たりを受けたんだ」
「ケ、ケガは?」
「ないと思う」
「いつ?」
「今日。
 ティスのところに来る前に」

 怪我がなかったことには安心した。
 ルリは何も言わなかったから、ヨウスが教えてくれるまで知らなかったはず。
 ヨウスのおデコ殴打事件は知らせに来たのに。

 心配させたくなかったのだろう。
 ルリらしいと思う反面、複雑だった。
 その後、何事もなかったようにヨウスとやって来たのだと思うと、余計に。

「…………」
 胸の辺りに靄つくものがあった。
 強い酒に当たったのかもしれない。



「ごめん……。
 もう少し気をつけるよ」
「って言っても、キリないだろ?」
「…………」
「何なら、彼女でも作ったらいい。
 諦めるやつもいるかも」
「…………」

 ヨウスは良い顔をしなかった。
 こんな美人が女の子と手を繋いで歩くなんて光景は想像できなかった。
 現実にあったとしても、姉妹か友人だと思うだろう。

「ちなみに、好みとかは?」
「好み?」
「こんな子が好き、とか」
「…………」
 難しいことだっただろうか。
 ヨウスは真剣に悩みだした。

 まだしばらくは、彼女のかの字も縁がなさそうだ。



 散々呑み散らかした学生たちは、ご機嫌なトルクを引き摺って帰った。
 みんなフラフラしていて帰り着けるか不安だったが、東寮長のランスが迎えに来てくれた。
 さすが寮長。
 鉄面皮だろうと頼れる男だ。

 あれからヨウスは店終いの手伝いまでしてくれて、いつもと変わらない頃に上がることができた。
 いつもはなかなか話せないからと学生たちに注文の嵐を受け、気疲れしたようだ。

 遅いから泊まっていけ、なんて言えない居候のティセット。
 せめて送って行くと言ったのだが、ヨウスは断った。
「ティス、俺は女の子じゃないんだ」
 ご尤も。

「気をつけてな」
「ありがとう」
「こっちこそ、助かったよ」
 おやすみ、と言葉を交わして二人は別れた。



 それから二日後の朝。
 仕入れから帰って来たティセットは、トルクの姿に目を丸くした。

「どうした?
 忘れ物か?」
 何も落ちていなかったはずだ、と思いながら品を荷車から降ろしていく。
 その腕を、トルクに強く掴まれた。

「おい、痛い」
 ティセットの声など耳に入らない様子で、トルクは告げた。
「……ヨウスが、襲われた」



   *  *


 祝宴の翌日。
 いつものようにルフェランが寮室まで迎えに来た。
「トルクは潰れてて、今日は休みなんだ」
 やはり二日酔いか。

「ランスは?」
「朝は新入りの面倒見て、午後からは寮長会議」
「忙しいんだな」
「だからあんな顔になるんだ」
 ヨウスはせめて笑いを噛み殺した。

 二人で並んで歩いていると、東寮生から「おめでとう」と声がかかる。
 もちろん、ヨウスにだ。
 言われるたびに、隣りの肩がピクリと動くのが少しかわいそうな気がした。