「なぜ里に来た。来ようと思った?
 呼べばわたしが行く。いつもおまえは、わたしを、呼んでいた。
 なぜあのときにかぎって呼ばない!」

 寝台を回り、彼女に近づく。肩を掴もうとした手がすり抜ける。
「……なぜ、言わなかった」
 彼女の両目から大きな涙が零れる。イルスの手をすり抜けて、床につく前に消える。
「いきて……」
「………………」
「……生きて、いて、ほしかったの。

 わたしだけじゃなくて、あなたまで死んでほしくなかったの。
 一緒にいたかったけど、わたし、死んじゃったんですもの。
 あの状況じゃみんな死んじゃって、わたしが死んだこともあなたに伝わらなかった。せめて誰かに、わたしが知んだことをあなたに伝えてもらいたかったの。

 あなたを、あんなめに合わせたいわけじゃなかった。
 一緒にいたかった。でももういられないって、報せなくちゃいけないって思ったの。

 もう、一緒にいられないの。
 でも生きてほしかったの。
 あなたには、できるかぎり精一杯、生きてほしかったの」

 強い瞳で見上げる婚約者は、イルスの頬に触れようとして寸前でとめた。
 すり抜けて胸の痛む思いをしたくなかったのだろう。

 イルスは彼女の腰のあたりに手を添え、ひたい同士を合わせるように顔を寄せた。
 触れるものはない。呼吸も聞こえない。
 ぬくもりもない。

 それでも、目の前の彼女を見つめた。
 視界だけが唯一の味方のように。



「死んだものを蘇えらせることはできませぬ。
 それでも若のために、イエラ様とこの爺めは一案を練りました。
 イエラ様の死を若の記憶らかすべて消し、しばらくしてから、病死という形で別れを作ろうと」
「だが……この前まで、イエラには生身の体があった」
 そして彼女は別の男と結婚までしている。
「魔導士様のお力よ」
「ハッサム様の?」
「違うわ。ドナナ様のよ」
 イルスは瞬きした。
 細い枯れ枝のような老人を見る。

 魔導士?
 この教育係が?

「いつ、から……?」
「若とお会いする前からです。
 この爺めは養父を亡くしましてから、魔導士の師匠についてこの国を離れました。そして一人前となり、戻ってまいりました。
 若とお会いしたときには、すでに引退しておりましたが。
 そして残念ながら、どんな強大な力を持つ魔導士であろうと、生命を復活させることはできませぬ。
 そこでイエラ様の魂を入れる強い器と、爺めの力を合わせまして、生身の体に似たものを作りあげたのです」
「器?」

 婚約者の視線が揺れて、窓の外を見る。
 小さな庭。
 老人のために、賑やかな花々が咲き乱れる。
 イルスが作らせた庭なのに、いつのまにか老人しか足を踏み入れなくなった。いや、年寄りの楽しみだからと、いれさせてもらえなかったのだ。
 その庭の中央で赤々と花びらを開く、女皇のバラ。
 長期の任務から還ってきた彼に、支部長は尋ねた。
「あれを追い出すべきでしょうか?」

 珍しく支部長は悩んでいるようだ。
 二人のほかは誰もいない面会室だというのに、フードをかぶったまま。
 悩みはそこまで深いのだろうか……。



 支部長は若くして今の地位についた。それだけの素質と根性と実績がある。
 この若い支部長はどんな問題も素早くすっきり片付けるため、周囲は支部長に期待する。
 だが支部長はそんな周囲の期待など意に介さず黙々と仕事をこなす。
 その姿勢は年配たちにも効果があったようだ。

 いつか支部長は本部に呼ばれるだろう。
 だが今の姿では呼びに来た使者が還ってしまいそうだ。



「どうされました?」
「セーラのことです」
 あぁ、と彼は言った。
「妹さんのことですか」
「妹弟子です」
 弟子、の部分がやけに強調された。確かに、実の兄妹だったらまずいことになる。



 彼は支部長の相談役として選ばれた。
 どんなに有能な魔導士だろうと、一人で考え込んでも解決しないことだってある。そのため、歴代の長たちは相談役を選んできた。
 彼は、この若い支部長の迷いのない選択で選ばれた。

 あのときは感動したものだ。
 誰になさいますか、との問いに、
『では彼を』
 一秒も待たず支部長は選んだ。彼を見ていたかどうかすら怪しい選択だった。

 相談役となってからは、仕事のことから個人的なことまで相談された。
 彼は自分のことを恥ずかしげに話すことはない。あったことは事実のままに伝え、問う。
『わたしはセーラに、欲情しているのでしょうか?』
 あまりの率直さに彼はすぐさまうなずいたものだ。



「今のところ子どもたちに被害はありませんが、もっと落ち着いた環境に置くべきかと思いました」
「あなたがそう思われるのなら、本人にそう告げてみてはいかがでしょうか?」
「…………」
「彼女を身近に置いておくべきだとおっしゃったのはあなたですが、あなたがまた新しい良策を思いついたのなら、実行してみても良いかと思います」
「……………………。導師、ご勘弁願います」
 支部長は自分の過ちを認めた。

 感情に任せて嵐を巻き起こす妹弟子を、監視するという名目で支部長は自分の近くに配属させた。
 思惑たっぷりだった。
 妹弟子に余計な虫が付かないように監視したいがために手元に引き寄せ、子どもたちの中にいれば虫の発生も少ないだろうと踏んで放り込んだのだ。

 彼はなかなか策士だ。
 おかげで彼女の周りには思春期前の子どもたちでいっぱい。虫は近寄りがたいと離れていく。

 だが今度は、自分が虫になりつつあるのだろう。自分から離したいなどといってきた。
 彼は、いまさらだと思った。だが支部長は未だ自分の気持ちを認め難いようだ。



「言われたほうが楽になると思いますよ」
「言えたらどんなに楽になるだろうかと考えました」
「では、言われてみてはいかがですかな?」
「何と?」
「は?」
 彼は思わず聞き返した。
「あれに、おまえのことが好きだと告げて、あれが何と反応するでしょうか?」

 驚くか、喜ぶか、泣くか、あるいは逃げるだろう。
 そして嵐を巻き起こすだろう。

「まさに命がけです」
 その心配か、と彼は呆れた。

「恋とは常に命がけです。
 専導士セサスが巨漢の恋人と一夜をともにするときも、大師ペイレウクが母の肥満を指摘するときも、役士ギルが美しい召喚師の婚儀の際に愛を告げるときも、命がけだったのです」
 例が思いつかず真ん中が違ったような気がするが、親子愛だと思って訂正しないでおいた。
 だが支部長は気づかなかったようだ。

「常に、ですか……」
 支部長は渋い顔をした。

 自分が被害を受けるのは良いだろう。自分がしでかしたことだ。
 だが、それによって周囲に被害が及ぶことは避けなければならない。
 支部長自ら支部を破壊させるわけにはいかない。
「練習場などいかがでしょうか。多少ものが飛んでも被害は少ないかと思われます」

 あとになって、彼は自分の言葉を少しだけ後悔する。
 彼自身、その問題の嵐というものを体験したことがなかったため、軽く考えていたのだ。





 魔導士だって、恋をする。
 そんな彼らの相談役を務めた男を、人々は『恋のモーウ』と呼んだ。
 悲しい片思いも、嬉し恥ずかし両思いも、彼は円満につなげていった。
 もちろん、恋人同士ののろけも、失恋したときの愚痴だって聞いた。

 だが彼は、一度だけ過ちを犯したと言う。
 それは冷静で優秀な男が、過激な女性に愛を告げる場所に、百人程度収容可能な練習場をと勧めたことだった。
 過激な女性は彼が思う以上に過激で、練習場は半壊したそうだ。

 彼は呟く。
『せめて一千人は収容可能な広場をお勧めするべきだった』





 翌日には小さな後悔を抱くことになるなど思いもしない彼は、夜になって自室に下がると、支部長の恋の成就祈願にと、二人に似せた縫いぐるみを作り始めた。

 そして次の日、その縫いぐるみは仲良く嵐に連れ去られた。
「愛はどこまでも、か……」
 騒然とした現場で、彼の呟きなど誰も聞いていなかった。

 獲物に突っ込まれた騎獣はそのまま許婚を巻き込んで倒れ、盗賊の頭を振り落とした。
 盗賊たちは乱れた。

 護衛たちは立ち上がり、嗄れた喉から雄叫びを上げた。
 重い腕に剣を取り、砂を蹴り上げて敵に向かった。
 剣が折れると敵の武器を取り、腕を負傷すれば脚で戦った。

 護衛すべき人を取り戻さなければならなかった。
 混戦となった中央から彼女を取り戻し、ただひたすら走った。

 連れて行かなければならなかった。
 許婚の下に。
 その許婚を。



 損傷は激しく、よく見なければ彼女とはわからなかった。
 何年も会っていなかったし、彼女はずいぶん大人びていて、よく見なければならなかった。

 その頬に触れて、唇をなぞってみた。
 わがままも、文句も言わない唇。
 イルスを見上げる強い瞳はまぶたに隠されたまま、指先も冷たくなっていた。
『イエラ?』

 わがままも、文句も言わない。
 おとなしい彼女なんて、イルスは知らなかった。知らなくていいと思った。
 知りたくなかった。

 なのに、彼女は、教えてくれた。
 イルスの目の前に横たわって、冷たくなれば何も言わなくなるのだと。
 その亡骸が静かに答えてくれた。





「若はそのあと、イエラ様の敵討ちにと、護衛を引き連れて盗賊の討伐に出られました。
 あの広い砂漠から、たった一隊の盗賊を見つけ、殲滅されました。
 その後は里に戻られ、まるで抜け殻のように……」
 老人が目頭を拭った。

「盗賊討伐の功績が陛下のお耳に入り、ぜひ手元に置きたいとのお言葉をいただきました。
 ですが若は、十三人もの使者を追い返してしまわれた。あまりに無礼だとの声が上がり、処罰の話まで出てしまいました」
 それは知らなかった。
 そのときイルスの頭の中には許婚のことしかなかった。遠い皇都のことなど考えもしなかった。

「イエラ様は若を案じられ、魂だけのお姿でわたしの前においでになりました。
 お話をお聞きしたわたしは、すぐに宰相様にご進言に上がりました。
 お優しい宰相様は納得していただき、陛下へ事情を説明してくださいました。そして自ら、若の説得に里に向かわれました」

 里に宰相がきたのは覚えている。オアシスのそばで宰相補佐の地位をいただいたのだから。
 いろいろなことを話したような気がするが、最初は宰相の話すら耳に届いていなかった。今ではそんなこと、恐ろしくてできない。

「なぜ、わたしは……そのまえのことを忘れている?」
「イエラ様のご希望でした。そうでもしなければ、若は里からお戻りにならないだろうと」
「なぜ、わたしに話さなかった」
「お話すれば、若はまた、イエラ様のことだけに気を取られ、すべてを捨てておしまいになったでしょう」
「なぜ…………。

 イエラ、なぜ、死んだ」
 寝台の向こうの彼女が両手で顔を隠した。