鹿島御子神社(福島県南相馬市鹿島区) | 碧風的備忘録

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鹿島御子神社(かしま みこじんじゃ)

 

福島県南相馬市鹿島区に鎮座。延喜式内社。旧社格は郷社。

『日本三代実録』における『陸奥国鹿島苗裔三十八座』のうちの一座。

御祭神として、武神や地震鎮めの神である武甕槌大神の御子神である

軍神・鎮火の神・医術の神である天足別命(あまたりわけのみこと)

主祭神としてお祀りし、その他に風神の志那都比古命志那都比売命を祀る。

 


こちらの鹿島御子神社は、以前記事にした石巻市の鹿島御児神社と同じく、

茨城県に鎮座する鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神の御子神である

鹿島天足別命(かしま あまたりわけのみこと)を祀る神社であることから、

『鹿島御子神社』という社名になっています。

鹿島神宮拝殿と御神木の杉(茨城県鹿嶋市宮中)。

 

御祭神である天足別命は、武甕槌大神や経津主大神・経津主大神の御子である

阿佐比古命とともに、奥州の邪気・邪神を征討するために旅をしていました。

奥州平定を遂げて地方開発に取り組まれた後、天足別命は真野の地に残り

鎮まられました。

 

天足別命が真野の地に鎮まられた当時、仮の住まい(仮宮)を稚児沼という場所に

造営し、そこに住まわれていました。

その頃、真野の地では『第六天魔王』と名乗る賊徒が横行しており、ある朝、

第六天魔王は天足別命の仮宮を襲撃し、火を放つという暴挙を行いました。

 

仮宮に放火された天足別命は、すぐ冷静に『火伏せの神事』を行って四方八方に

広がった猛火を鎮めました。その時、武甕槌大神の御使いである鹿の群れが現れ、

川から水に濡れた笹の葉を咥えて来て仮宮を水でうるおし、火が再び広がることが

ないように備えました。その後、天足別命の御神徳により、第六天魔王などの

賊徒が真野の地で横行することはなくなったということです。

 

この伝説に基づき、毎年1月の第二土曜日(14日頃)には、午後18時から厄年や

崇敬者の男衆たちが、町の大通りの一軒一軒に「火伏せー!火伏せー!!」と

御神水を浴びせかけながら駆け回る『鎮火祭(火伏せ祭)』が斎行され、

翌日の第二日曜日(15日頃)の早朝には、御神歌とともに御神楽を奏して、

天高く『天燈籠』を掲げ、近くにある旧社地で神事を行なった後、

沿道の氏子などが神官に「ご祝儀~!!」と言って浄水を浴びせかけて祝います。

衣冠が浄水でずぶ濡れになり、冬の寒さで氷結したままの神官は社殿に戻り、

その後の神事で天下の罪穢れを祓い清め、その後1年間、悪火が起きないように

祈願し、氏子崇敬者の諸祈願を執り行う祭典が催されています。

 

第12代景行天皇の御代、日本武尊による東征の折、鹿島御子神社に

武運長久の祈願を行い、その霊験により賊徒などは速やかに平定されたことから、

鹿島御子神社は軍神の御社として武人たちから崇敬を受けていました。

 

もともと、鹿島御子神社は、現在の鎮座地から200メートルほど南の

県道267号線沿いの場所に鎮座していました。

現在、旧社地には『鹿島御子神社旧蹟』と書かれた石碑が建てられています。

【延喜式内 鹿島御子神社 旧蹟】石碑。

大同元年まで、この石碑がある場所に鹿島御子神社が鎮座していたという。

 

第51代天皇である平城天皇の御代である大同元年(806年)4月17日、

鹿島御子神社は旧社地から現在の鎮座地に社殿が造営されました。

当時は社僧や神官などが多数在籍し、神領十七石を有し、親神の武甕槌大神を祀る

常陸国一之宮の鹿島神宮から毎年幣帛を受けておりました。

 

延喜5年(905年)、鹿島御子神社は軍神・鎮火神・医術神として信徒や崇敬者が

多く、古来から由緒深い神社であったことが評価され、当時編纂されていた

律令書である『延喜式』のうち、官社に指定された神社について書かれた

『延喜式神名帳』において、磐城國行方郡に鎮座する霊験深い八社の神社のうちの

一社として記載されました。

 

また、醍醐天皇は自ら武運長久を祈願し、御神体を神社に納められたという。

相馬藩の歴史風土記である『奥相志』によれば、御神体は『衣冠剣を持つ』と

書かれています。

 

時が過ぎ、寛永13年(1636年)には陸奥相馬氏の第16代当主である相馬義胤公から

篤い崇敬を受けていたことから、鹿島御子神社は社殿の修理補修や祭典費の供進、

神地献納などを受けました。

 

慶安2年(1649年)には、後の相馬中村藩第二代当主である相馬義胤公が

祈願成就への報賽として社殿を造営しました。義胤光による上棟文では、

『平義胤公(相馬義胤公)の子孫繁栄と息災延命、郡内の安全・藩主と住民が

仲睦まじく、豊作になるように祈願するために鹿島大明神の御宮を造営する』と

書かれているそうです。

 

大同元年に旧社地から現在地に遷座してからも、上記のように代々の領主から

明治維新まで篤い崇敬を受けており、文政3年(1821年)9月には暴風により

境内の樫の木が折れて御宮が大破した際には、文政7年(1825年)に

陸奥相馬藩第11代藩主の相馬益胤公により神社の社殿を再建されるなど、

歴代の相馬藩主により社殿の修繕や神田の寄進が行われてきました。

 

明治4年(1872年)の太政官布達により神社の社格が制定されると、

鹿島御子神社は明治9年(1877年)11月に郷社に列格し、大正15年(1926年)には

幣帛供進使参向指定社となりました。

 

その後も今日に至るまで、鹿島御子神社は軍神・鎮火の神・医術の神など、

様々な事柄に御神徳を顕著に示される神社として崇敬者から信仰されています。

 


南相馬市鹿島区に鎮座する、延喜式内社の鹿島御子神社です。

鹿島御子神社はJR常磐線鹿島駅の北西に鎮座しています。

車で参拝される場合、境内と境内南側に数台駐車する場所があります。

 

鹿島御子神社鳥居。

 

鹿島御子神社参道。

 

 

入母屋造りの鹿島御子神社拝殿。

 

鹿島御子神社の【鹿島宮】扁額。

 

鹿島御子神社の護摩壇。

多珂神社日鷲神社などと同じく、鹿島御子神社でも拝殿内に

吉田神道の流れをくむ護摩壇が置かれ、例祭などで護摩祈祷が斎行されています。

 

一間社流造の鹿島御子神社御本殿。

御本殿の背後には杉の御神木がそびえ立っています。

 

余談ですが、鹿島神宮御本殿の裏手にも杉の巨木があり、その後ろに

『鏡石』といわれる磐座があります。

鹿島神宮御本殿と杉の巨木。

 

同様に、鹿島神宮奥宮裏手にも杉の巨木があり、その後ろに

地震鎮めの霊石とされる『要石』があります。

鹿島神宮奥宮と杉の巨木。

 

これらの鹿島神宮における【社殿→杉の巨木→鏡石・要石などの磐座】という

配置の共通性について研究している方もいるという話を伺いました。

 


鹿島御子神社の境内社です。

 

境内社の雷神社。御祭神として雷神を祀る。

雷は『稲妻(いなづま)』というとおり、田んぼに落雷があると、その田んぼは

豊作になることから、雷神は豊作の神であるとされています。

こちらの雷神社は、鹿島郷内の田んぼなどの落雷があった際、そこに

豊作祈願の神として祀られていた雷神社をまとめて合祀したものということです。

 

足尾神社石碑

御祭神は不明ですが、茨城県石岡市に鎮座する足尾神社の御祭神と同じく

国常立尊・面足尊・惶根尊の三柱か、栃木県日光市足尾に鎮座する

猿田彦神社の猿田彦神だと思われます。

こちらの足尾神社は道案内の神とされ、また、足の病を患っている人は

この石祠に靴や草履を納めて、平癒祈願をするといいとされています。

 

聖徳太子石碑。御祭神として聖徳太子を祀る。

聖徳太子は。法隆寺などの建築に尽力されたことから土木建築の神と

されており、土木工事業者や建築業者から篤く崇敬されているそうです。

 

鹿島御子神社の『要石(かなめいし)』

地震鎮めの霊石とされ、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮をはじめ、

各地の鹿島神社でも同様の要石を見ることができます。

 

鹿島御子神社の大欅。

『夫婦欅』と呼ばれる二本の欅の大木で、樹齢300年以上とされ、

『福島県みどりの文化財』として指定されています。

 

山神や大神宮・湯殿山などの石碑。

 

御本殿右手の御社。こちらは宮司社家の祖霊社ということです。

 


鹿島御子神社の御朱印です。

御朱印などの授与品は、境内北側にある社務所でいただくことができます。

鹿島御子神社御朱印。

以前は写真左側の御朱印のように幣束型の御朱印や【鹿島宮司之印】という印で

御朱印をいただくことができましたが、2017年からは神社の由緒にある

笹の葉を咥えた鹿を象った印と【延喜式内鹿島御子神社】という社名印に

リニューアルされたということです。

 

なお、鹿島御子神社では、兼務社である延喜式内社の上栃窪冠嶺神社や

鹿島区山下字馬見塚に鎮座する浅間神社などの御朱印もいただくことができます。

 


< 地図 >