鹿島御児神社(宮城県石巻市)(2019-01-27追記) | 碧風的備忘録

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鹿島御児神社(かしま みこじんじゃ)

 

宮城県石巻市日和が丘に鎮座。延喜式内社。旧社格は県社。

『日本三代実録』における『陸奥国鹿島苗裔三十八座』のうちの一座。

御祭神として軍神・武神・剣神・雷神・地震鎮めの神とされ、

茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)と、

武甕槌命の御子神である鹿島天足別命(かしま あまたりわけのみこと)を祀る。

 


神代といわれるほどの大昔、二柱の強大な軍神が葦原中国に降臨されました。

武甕槌命経津主命といわれる二柱の軍神は、天孫瓊瓊杵命が

葦原中国に降り立たれる前に、葦原中国を治める国津神の頭領である

大國主大神との国譲り交渉の使者として派遣されたのでした。

大國主大神は、国譲りの可否について、息子である事代主神と建御名方神に

委ねると返答しました。

 

そこで、三保の岬で釣りをしていた事代主神のところに天之鳥船神という

空を飛ぶことができる神を派遣し、返答を求めました。すると、事代主神は

国譲りについて承認し、自らは船をひっくり返して青柴垣の中に隠れてしまった。

 

もう一柱の建御名方神は、大國主大神と交渉する武甕槌命と見ていきり立ち、

相撲対決を挑むが、武甕槌命の手を掴むと氷や剣に変わり、その力を恐れて

引き下がった建御名方神を武甕槌命は勢い良く投げ飛ばしました。

建御名方神は恐怖を感じて逃げ出し、遠く州羽の海(現在の諏訪湖)まで逃げたが、

それを武甕槌命は追撃してとどめを刺そうとしました。しかし、建御名方神は

『州羽から外に出ないし、父上や兄上の考えに同意します…。』と

武甕槌命に降参しました。

 

大國主大神や事代主神との交渉や、建御名方神との拳での語らいを終え、

大きな戦いを起こすことなく葦原中国の国譲りを完了した武甕槌命と経津主命は、

その後、北の地域に住み、天孫や天津神に従う意思を示さない悪神や鬼神などを

平定する旅へ向かったのでした。

 

北の地へ向かう途中、現在の久慈川の河口付近で星の神である

甕星香香背男(みかぼしかがせお)という者が支配する地にやってきた。

その地の草木や石は武甕槌命と経津主命に服従する意思を示したが、

甕星香香背男とその一族は二柱の軍に服従する意思を見せませんでした。

 

久慈川を挟んで、南側に武甕槌命と経津主命の軍が陣を築き、

北側に甕星香香背男の軍が陣を構え、ついに両軍の間に戦いが起こりました。

天津神の中でも特に勇猛な軍隊を保有する武甕槌命と経津主命でしたが、

対する甕星香香背男とその軍勢は地上兵力だけではなく海上兵力といった

強大な軍勢を保持していました。

 

これらの統合戦力を有する甕星香香背男の軍勢の攻撃の前に、

武甕槌命と経津主命の軍勢も制圧するための決め手を欠いてしまう状況でした。

そのため、武甕槌命と経津主命は、武力にも知恵にも優れ、織物の名手である

配下の建葉槌命(たけはづちのみこと)を最前線に投入しました。

 

建葉槌命とその軍勢は大甕の西方の静(しず)の地に陣を設け、戦いが始まります。

対する甕星香香背男は巨大な岩塊に变化し、建葉槌命に抵抗しました。

しかし、甕星香香背男の变化した岩塊を建葉槌命は金の靴で蹴り壊し、

建葉槌命の知恵と武力を用いた見事な戦略と采配により、甕星香香背男の軍勢は

ついに攻略・制圧されました。

茨城県日立市の大甕神社(おおみかじんじゃ)拝殿・御本殿と甕星香香背男社

建葉槌命と甕星香香背男(天津甕星)を祀る。

御本殿は『宿魂石』という甕星香香背男の御魂が宿る大岩の上に鎮座しています。

大甕神社の北西にある、大甕神社古宮跡に立つ石碑。

大甕神社古宮の鎮座していたこの地は、建葉槌命の御陵であると伝わっています。

 

さて、甕星香香背男を攻略した武甕槌命と経津主命ですが、より北方の東夷を

征伐し、辺土の開拓経営を行うために北の大地へと船で向かいました。

 

鹽竈神社の社伝によれば、信州の諏訪から陸奥の津軽に向かった二柱は、

塩釜の地で配下の神々と製塩を行い、民衆の生活と健康の改善に

取り組んでいた塩土老翁神という神に、現在の七ヶ浜町の鼻節浜で出会います。

塩土老翁神の先導で『多賀の大宮』に祀られた武甕槌命と経津主命は、

より北を目指して海路を船で進んでいきました。

『多賀の大宮』とされる、延喜式内社の多賀神社(多賀城市高崎)。

 

武甕槌命と経津主命は、自らの御子神たちを船に乗船させておりました。

武甕槌命と経津主命の親子を乗せた船がたまたま現在の石巻の沿岸に到着し、

停泊するために錨(いかり)を操った際、錨が石を巻き上げたことから

神々が到着した場所を『石巻(いしのまき)』と名付けたことが地名の発祥に

なったという言い伝えがあるそうです。

 

石巻に上陸された武甕槌命と経津主命親子は、東夷の支配する大地に

最初に降り立った大和民族の大先達と言える存在で、開拓の先駆者として、

また地方開発の祖神としても崇敬されています。

 

鹿島御子神社は古くから、藩主や家臣たちからも武神を祀る御社と

いうことから篤い崇敬を受け、社領・御神宝・社宝の寄進や社殿の修繕などが

執り行なわれてきました。

明治7年(1874年)には村社、大正10年(1921年)に郷社、昭和10年(1935年)には

県社に列格されました。

 

鹿島御児神社では、上記のように祭神として武神の親子神をお祀りしている

ことから、職業繁栄の守護神・悪疫除けや鬼門除けの神・安産の神・海上安全の

守護神として崇敬され、殊の外、交通安全の神としても崇敬を集めていると

いうことです。

 


平安時代の歴史書である『日本三代実録』において、

【陸奥国には、鹿島大神(武甕槌大神)の苗裔神(末裔神)を祀る神社が

三十八社鎮座している】…という記載があります。

 

宮城県内には亘理町の鹿島天足和気神社鹿島緒名太神社

富谷市の鹿島天足別神社などの武甕槌命の御子神の名前に因む神社が

数社あります。

鹿島天足和気神社と鹿島緒名太神社(宮城県亘理郡亘理町)。

 

鹿島天足別神社(かしま あまたりわけじんじゃ)(宮城県富谷市)。

御祭神として武甕槌命経津主命を祀る。

 

また、福島県南相馬市にも天足別神を祀る鹿島御子神社が鎮座しています。

南相馬市鹿島区に鎮座する延喜式内社・鹿島御子神社(かしま みこじんじゃ)

御祭神として天足別神と風神の志那都比古命・志那都比売命を祀る。

 

また、石巻市内には経津主命の御子神を祀ると伝わる神社が二社あります。

石巻市折浜地区には、経津主命の御子神の阿佐比古命を祀る

延喜式内社の香取伊豆御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)が鎮座し、

石巻市和渕に鎮座する延喜式内社の和渕神社も香取伊豆御子神社の論社と

されています。

折浜地区の香取伊豆乃御子神社(左)と和渕町の和渕神社(右)。

 


石巻市の日和が丘に鎮座する、延喜式内社の鹿島御児神社です。

鹿島御児神社は旧北上川の左岸、日和山と呼ばれる丘陵地の上に鎮座しています。

日和山から旧北上川河口方向の眺め。

 

創建当初の鹿島御児神社は牡鹿郡真野村に鎮座していたいたという説があります。

『封内風土記』によれば、鹿島御児神社は誰が勧請したのか不明とのことですが、

相殿神として香取神・息栖神・貴船神・糺神をお祀りしていたということです。

また、『鹿島腰掛石』という長さ七尺(約2.1m)・幅三尺五寸(約132cm)の名石が

社殿のそばにあり、この名石は鹿島御児神の依代ではないかと考えられています。

真野鹿島御児神社社殿(左)と真野鹿島御児神社御本殿(右)。

真野鹿島御児神社の御祭神は、幣束によれば武甕槌命ということです。

相殿神として、社殿内部に八雲神社と蛇類社の小祠がお祀りされていました。

『石巻の歴史』という郷土資料によれば、真野鹿島御児神社には

香取社・息栖社・貴船社・糺社・牛頭天王社・蛇類社・稲荷社・薬師堂が

お祀りされていたそうです。現在相殿にお祀りされている牛頭天王社と蛇類社は、

上記の牛頭天王社と蛇類社と思われます。

 

鎌倉時代後期、葛西家が関東より所領として与えられた牡鹿郡へ下向する時、

家老である都沢豊前という者が悪天候により漂着し、真野村に『小屋館』という

仮の居城を作りました。そして、小屋館の丑寅(北東)に鎮座していた鹿島社を

再興して田地を寄進し、この田地のある場所を宮田と呼んだ…と、

封内風土記の補遺編である『安永風土記』には記されています。

 

その後、葛西家が現在の日和山に『石巻城』を築城する際、崇敬していた

真野村の鹿島御児神社は日和山の北西の鹿島台という場所に遷座され、

享保19年(1734年)に再び日和山の南麓へ遷座されることになったそうです。

伺ったお話によれば、真野鹿島御児神社の御神体を乗せた船は、

現在の石巻市雄勝町船戸神明の地から日和山に向けて出発したのだそうです。

 

もともと、日和山は『好日山』と呼ばれ、神社が鎮座している社地は

『鹿島台』と呼ばれていたそうです。

船を操る人々は、日和山に登って潮勢を観測して晴れや雨などの天候を予測し、

海の色から風波の変化を読み取ったことから『日和山』と呼んだといいます。

そのため、日和山に鎮座する鹿島御児神社は通称『日和山神社』とも呼ばれます。

 

さて、神社の境内に向かいます。

鹿島御児神社の駐車場は神社の北側に2ヶ所ありますので、そちらに

駐車することになります。

日和山の鹿島御児神社鳥居。

東日本大震災後、こちらの鳥居から見える石巻市街地の光景が

よくテレビで放映されていました。

2012年1月当時の日和山から石巻市街地の眺め。

 

境内に入ると、南側に大きな鳥居、北側に南面して社殿が鎮座しています。

鹿島御児神社参道入口。

左側の赤い枠で囲まれた場所は自動車などの交通安全清祓所です。

右側には祈祷受付や神札・御守・御朱印の授与を行う社務所があります。

 

鹿島御児神社参道・境内。

 

入母屋造の鹿島御児神社拝殿。

こちらの拝殿は昭和45年に増改築がされたもので、鉄骨コンクリート造で

屋根は銅板葺のものとなっています。

 

鹿島御児神社御本殿。

こちらの写真は東北地方太平洋沖地震後の2012年に撮影したものです。

鹿島御児神社の御本殿は江戸時代に建築された木造・入母屋流造のものでした。

しかし、2011年の東北地方太平洋沖地震により被災してしまいました。

被災した鹿島御児神社御本殿。

瑞垣や幣殿との接続部が地震で倒壊・亀裂が発生しています。

そのため、2013年内に解体されることになりました。

これらの御本殿の写真は、神職さんの案内と許可と受けて、

当時、特別に撮影させていただいたものです。

武甕槌命と鹿島天足別命の御神体を奉安していた御帳台が安置されていた、

鹿島御児神社御本殿外陣・内陣。こちらの写真も許可のもと撮影したものです。

中央正面の一段高くなった場所が御神体が納められていた御帳台が奉安されていた

『内陣』で、宮司さんですら滅多に見ることができない聖域です。

 

お話しでは、内陣には『天皇陛下が着座される高御座のように立派な御帳台』が

奉安されていたそうです。御本殿が倒壊する危険性があったため、

御神体と御帳台は幣殿部分に設けた小さな御本殿内に動座され、2017年現在も

そちらにお祀りされています。

 

2017年3月、神奈川県横浜市の伊勢山皇大神宮の御本殿の古材を組み上げて

再建することが決定しました。そのため、新しい鹿島御児神社の御本殿は、

伊勢山皇大神宮御本殿として使用されている『神明造』のものになるそうです。

 

しかし、社殿を解体し、横須賀からの輸送と組み直しを行うには費用が1億円に

上り、境内復旧整備にも費用がかかることから、現在、鹿島御児神社では

御本殿再建と境内整備への御奉賛をお願いしています。

→【鹿島御児神社 本殿御造営・境内復旧整備の御奉賛お願いについて

 


鹿島御児神社の境内社です。

 

社殿左手の日和山天満宮。御祭神として菅原道真公を祀る。

 

稲荷神社(左)・八幡神社(右)。

御祭神として稲荷神社は倉稲魂命、八幡神社は誉田別命(応神天皇)を祀る。

上記の日和山天満宮と八幡神社は安永年間に村民により勧請とのことです。

 

日和山愛宕神社

御祭神として火の神・火防の神であるである迦具土神を祀る。

こちらの愛宕神社は嘉禄年間に勧請された神社でしたが、その後荒廃しました。

しかし、文禄年間に伊達政宗公が朝鮮国へ渡海した際、村に住む船人の

阿部土佐というものが愛宕大神に祈願したところ、暴風などに遭うこともなく

無事に帰国できたので、荒廃していた愛宕神社を再建したのだそうです。

そして、昭和41年に鹿島御児神社境内に遷座されたものということです。

 

善海田稲荷神社(ぜんかいだ いなりじんじゃ)

震災後も、日和山の南側の南町2丁目に鎮座する稲荷神社で、

北上川の河口の守護神として『善海明神(よしうみみょうじん)』や『川口明神』と

してお祀りされていました。しかし、いつ・誰がお祀りしたのかは不明と

『封内風土記』には記載されています。

もともと、鹿島御児神社の別当が稲荷神社の祭祀を執り行っていたようですので、

震災後に鹿島御児神社境内に遷座されたのかも知れません。

 


鹿島御児神社の御朱印です。

御朱印は参道入口の御守などの授与所で拝受できます。

鹿島御児神社御朱印。

左側が去年くらいまで授与されていた社名印と社紋の御朱印です。

右側が2017年から授与されている御朱印です。

 

2017年現在の御朱印には干支の印と『大吉』の印、そして、

神社の営業部長である猫の『シャム夫君』の印が増えています。

鹿島御児神社・営業部長のシャム夫。

神社境内でのんびり過ごしています。

 

また、2018年末からはシャム夫と神社の風景がデザインされた

オリジナル御朱印帳と、シャム夫がかわいく描かれた絵馬が頒布されています。

鹿島御児神社のオリジナル御朱印帳とシャム夫の開運招福絵馬。

 

オリジナル御朱印帳は青色とピンク色の二種類があり、表側には

社殿前の鳥居と、日の出と太平洋を見つめるシャム夫の後ろ姿が、

裏側は太平洋側から見た桜満開の日和山の風景が描かれています。

御初穂料は御朱印帳が御朱印込みで1500円、絵馬が500円です。

 

震災で被災しましたが、再建へ取り組んでいる鹿島御児神社です。

鹿島大神である武甕槌大神は武神であり、また、地震鎮めの神でもあります。

御子神の鹿島天足別命とともに、再建へと進む鹿島御児神社と石巻の地を

末永くお守りくださることを祈念いたします。

 


< 地図 >

・鹿島御児神社公式サイト→http://www.kashimamiko.org/

・鹿島御児神社Facebook→https://www.facebook.com/kashimamiko