日鷲神社(福島県南相馬市) | 碧風的備忘録

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日鷲神社(ひわしじんじゃ)
 

 

福島県南相馬市小高区女場に鎮座。旧社格は村社。
御祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)
相馬藩編纂の歴史地理書である『奥相志』によれば、
御祭神は天日鷲命・金鳶命(天加奈止美命)・天長白羽神を祀るという。
 
御祭神の天日鷲命(別名:金鳶命・天加奈止美命)は、天長白羽神と同じく
天太玉命の従者とされる神で、天孫である瓊瓊杵命が降臨される際に
供奉したという三十二柱の神々のうちの一柱であるという。
 
天日鷲命は弓矢の神・軍神とされており、手には弓矢と兵杖を持ち
大鷲に乗る姿であるとされ、戦の際は大鷲として顕現し、軍を先導する
神であると伝えられている。

 


『奥相志』に記載されている由緒によれば、

日鷲神社は、もともとは下総国豊田郡沼森邑に鎮座していた
大形神社という神社であったという。
 
平将門公が下総国にいた頃は大形神社を崇敬しており、
「鷲宮(天日鷲命)は神代より弓矢の神であり、鷲は猛々しい鳥である。
我が軍が敵国に入れば、天日鷲命は大鷲として顕現し、
我が軍旗を導いてくださる。もし我が軍に味方してくださるのであれば、
子孫は末永く守護神としてお祀りしましょう。」
神前で誓いを立てた。すると、平将門公の軍は連勝を重ね、
関八州を平定することができたという。
 
平将門公は、天日鷲命への報賽として神社を造営し、神田を寄進し、
厳かに酉の神事を行ったという。
また、将門公の一族は、天日鷲命の霊験と神威に感謝し、一族が所有する領地に
天日鷲命を勧請して武運長久を祈願した。
『奥相志』が編纂された当時、平将門公一族の領地で天日鷲命を祀る神社は
下総国に8社、武蔵国に4社、上総国に4社、常陸国に2社、下野国に3社
鎮座していたという。
 
下総国の鷲宮では「酉の市」が有名で、小さな細杷(熊手)が授与される。
この細杷は「意のままに貨財を集めることができるように」という願いが
込められたもので、商家の者達がよく求めに来るという。
また、霜月(旧暦11月)の初酉日に行われる神事では早芋頭(はたいもがしら)が
売られるので、多くの人々がこれを買いに来たという。
早芋頭を買うことは、戦において敵の首をとり、功績を上げることにつながるとされた。
 

文治年間、源頼朝公は、下総国稲鳥邑に鎮座する鷲宮を修繕し、
神田を寄進し、神馬を献上して、自らの開運を祈願する。
 
相馬氏初代当主である相馬師常公は、治承4年頃から源頼朝公の配下となり
しばしば軍功を上げたという。
文治5年(1189年)9月の奥州合戦に参戦する際、相馬師常公は
遠祖である平将門公と同じように鷲宮に参拝したところ大いに軍功を上げ、
頼朝公より報賞として奥州の行方郡を与えられた。
奥州合戦から凱旋した後に、師常公は報賽として鷲宮を修繕し、
より深く崇敬するようになった。
 
元亨三年(1323年)頃に相馬重胤公が、総州相馬郡から
奥州行方郡に下向する際に、
領地の鎮守神である鷲宮(日鷲神社)、妙見神祠(相馬太田神社)、
塩釜祠(上太田塩釜神社)の祠官が神輿と共に付き従った。
相馬太田神社(南相馬市原町区)
 
塩釜神社(南相馬市原町区上太田)
 
三社の神輿は暫くの間は太田邑の榎塚地内に置かれたが、
鷲宮の神輿は太田邑の別所田中の地に納められた。
行方郡に勧請された当時、鷲宮が鎮座していた
『太田邑 別所田中』付近とされる場所。現在の相馬太田神社の東側にある。
 
貞治3年(1364年)頃に太田村から現在の小高区女場の地に遷座され、
歴代藩主により、鷲宮は武運長久の神として篤く信奉され、
戦いが起こる度に参詣を受け、戦勝祈願が行われたという。
明治5年(1872年)に諸般の事情により、社名を鷲宮から『日鷲神社』に改称した。
また、東北の鷲宮ということで、別名『奥州鷲宮』とも称されている。
 

2017年は酉年ということもあり、鳥にちなむ神社を
数社ピックアップしてみます。
まずは、福島県南相馬市小高区女場に鎮座する、日鷲神社です。
 
日鷲神社鳥居と参道入口。
 
日鷲神社社標。天然石を用いたもので、
『日鷲神社』の文字部分は職人がタガネで手彫りしたものだそうな。
 
参道の石段。こちらの石階段は148段あり、一の石段と三の石段は
文政12年(1829年)に当時の宮司が自力で造営したものとのこと。
 
入母屋造の拝殿。
 
一間社流造の御本殿。女場に遷座してからは
御本殿のみ鎮座していたそうで、拝殿は明治時代に初めて建造されました。
御本殿は弘化3年(1847年)に造り替えられたもので、以前は茅葺だったが、
平成元年(1989年)に銅板屋根に吹き替えられた。
茅葺の厚さを考慮しての屋根だったものを銅板葺きにした影響により、
普通の流造の御本殿よりも反りの角度がきつい屋根の御本殿になったそうです。
 
境内社として、社殿左側には山津見神社の石碑、
参道石階段脇には子安神社・養蚕神社、若宮八幡神社
そして、道祖神と女陰石があります。
山津見神社の石碑。
 
子安神社・養蚕神社と養蠶神の石碑。
左側の社殿内部に子安神社と養蚕神社が相殿でお祀りされているとのこと。
 
若宮八幡神社。
もともとは近くに鎮座する綿津見神社の境内社だったが、
氏子さんの要請を受けて東日本大震災後に日鷲神社の境内に遷座したものという。
 
女陰石と道祖神の石碑。
女陰石を何回か撫でると、夫婦円満・子孫繁栄の御利益があるとのこと。
 
参道の石階段からすぐの左には授与所や社務所などがあります。
また、その隣には『御祈祷殿』があります。
入母屋造の御祈祷殿。
 
御祈祷殿の内部には御神座と吉田神道の護摩壇があります。
これは、江戸時代に藩主であった相馬昌胤公が
吉田神道を学び、藩内の寺社に広めた影響だそうです。
そのため、相馬地方の神社の多くでは、護摩壇を用いた祈祷が
現在でも催行されています。
 
御祈祷殿内部の御神座と護摩壇。
上の方には『鷲宮大明神』の扁額と「細杷(熊手)」があります。
 
『鷲宮大明神』扁額。
由緒ある物だそうで、文字が扇や矢、如意宝珠などの
縁起の良い物で構成されています。
 
日鷲神社の護摩壇。
日鷲神社の護摩壇は二分割できる特殊な構造になっており、
昔は出張祈祷の際に祭場に護摩壇を持ち運んでいたそうですが、
現在は動かしたり分割できないように固定しているそうです。
 
明治38年制作の日鷲神社境内図。
 
日鷲神社の人気者、狛犬の「くらのすけ君(くーちゃん)」。
 

日鷲神社の御朱印です。
 
御朱印は御祈祷殿左側の宮司さんの御自宅か
授与所でいただく形になります。
御朱印などの拝受を希望される方は、事前連絡をおすすめ致します。
 
また、神社の由緒にも記載されている『細杷(熊手)』の授与も
行われています。
日鷲神社の細杷(熊手)。これは一番小さいもので
約30cmほどのかわいらしいサイズです。
 
少しづつ復興が進む小高区で、精神的拠り所として
地域のつながりの再生に取り組まれている日鷲神社です。
小高区には相馬小高神社や延喜式内社の益多嶺神社(甲子大黒社)も
鎮座しておりますので、合わせて参拝してみてはいかがでしょうか。
 

< 地図 >