目が覚めて外を見てみると、なんだか暖かそうだった。
今日が何月何日だったかを思い出して、そうか、そろそろ冬の終わりが近いのか、と思う。
そのままぼんやりとする頭を堪能していると、隣の姉の部屋からゴトンと音がした。
時計を見ると、朝の9時になったばかりを指している。
さっきまで見ていた夢のお陰で、昨日まで一体何が起きていたのかを一瞬忘れてしまうけれど、隣から聞こえてきた音で全てが蘇った。
そうだ、姉は明後日結婚する。
自分の部屋のドアを開けて廊下に出ると、隣の部屋で姉が何か作業をしているのが目に入った。
おはよう、と声を掛けると、いつものように「ん、おはよう」と返事が返ってくる。
こんなことだけでも瞳に涙が込み上がってくる自分に呆れてしまう。もうすぐ姉は、ここが帰るべき場所ではない人になってしまうのだ。
一人暮らしを始めると言って家を出たときは何も感じなかったのに、結婚するから出て行くとなるとこんなにも違うものなのか。そんな感情を一瞬で通り越す。
そんな私の気持ちを知らないまま、自室の整理をしていた。
真ん丸顔で、体系も真ん丸で、手や足なんかも小さくて、見た目は私よりもずっと女の子っぽいのに、中身は私よりもずっと勝気な姉。
それでも今度結婚する相手とのことで、何回も何回も傷ついて、そんなとき悶々と悩んでいた姉。そしてそんな相手との結婚を決意した姉。
彼女は私の知らないところで、どんどん強くなっていく。
居間に行くと、母が朝ごはんを食べていた。今日も猫は机の隅で寝ている。
私は椅子に座り、猫を撫でながら挨拶をし、用意されていた朝ごはんを食べる。
すると姉も居間にやってきて、母と話を始めた。段ボール箱のストックはあるかとか、透明なゴミ袋のストックはどこか、とか。
私はトーストをかじりながら、二人の会話を聞くでもなく、ぼんやりと庭で咲いている梅の花を眺めた。
いそいそとごはんの後片付けをし、餌を急かす猫にごはんをあげて、私は出かける支度をする。
服を着替えて、化粧をし、かばんを持ち、母に行ってきますと言う。
「今日の夜ごはんはいらないよ」と言うと、母が「わかった。行ってらっしゃい」と言う。
そして私は外に出た。
自分と姉はいろいろなところが似ていないけれど、それでも私は姉のことが大好きだった。
昔は大嫌いだったこともあったが、それでも今日の自分があるのは、少なからず姉のお陰だと私は思っている。
今度結婚する相手のことも、特に嫌いでもない。むしろ好きな方だと思う。
大好きな姉を任せる相手としては少々不満が残るところも確かにあるが、それでも姉が決めた人なのだ。
しかし、私が言えたことではないけれど、姉は少々注意力に欠けるとことがあると思う。
というか、私よりは注意力があるのだけれど、その自意識に満足してしまう節があるのだ。
「自分はここまで注意しているのだから、それに抜かりがあるはずがない」と信じきっている。
旦那になるであろう人は、その点をきちんと見抜けているのだろうか。
見抜けていないはずだ。
現に、姉はずっとストーカーに遭っていたのだ。
私が姉のストーカーに気付いたのは2年前のことだった。その日私は深夜に帰宅した。
普段から空を見上げながら歩くことが癖である私は、当然その日も夜空を見ながら道を歩いていた。
そして最後の曲がり角を曲がりかけたとき、本当に何の気もなしに、我が家の近くにあるマンションの一室が目に入った。今考えても偶然だとしか説明することが出来ない。
その部屋は我が家に窓だけが面していて、正面に構えているわけではないが、我が家のことを見るには何の問題もない場所にあった。
ベランダもないその部屋から、1人の男が我が家の方を見ていた。思わず私は角に身を潜め、その男の姿に意識を集中させた。泥棒が我が家を観察しているとしか思えなかった。
その男は顔を全く動かさず、ただずっと我が家の方だけを見ている。私の胸は苦しくなり、恐くて体中が固まっていくのを感じた。意識しなければ呼吸することも忘れてしまいそうなぐらいに。
そのとき、通りの反対側から誰かがやってきた。それでもその男は視線を全く動かさない。
私の中で少し崩れた緊迫感を利用して、私は思い切って右足を踏み出した。まるでロボットのように、私の足はぎこちなく動き出した。
彼に悟られないように、手で髪をかきあげたりして誤魔化しながら、まるで何も見なかったかのように玄関のドアを開けた。
こんなに意識して玄関のドアを開けたのは初めてだ。ドアノブを持つ手の小指の先までに意識が集中している。
ドアが閉まった瞬間に、ここまで安堵の溜息をついたことがあっただろうか。
そして自室に戻り、私はカーテンの隙間から、彼に気付かれないように気をつけながら、さっきの部屋の方を見てみた。
こちらからも十分見える場所に彼の部屋はあった。
そこにはもう彼の姿はなかった。しかし電気はついたままだった。
それが一層恐かった。
数日経って、彼は姉のストーカーだということに気付いた。
ある日、彼が部屋からこちらを観察しているときに姉が出かけた。すると彼は後を追うように外出した。 危険を察知して、私はすぐさま彼の後を追った。
何も知らずに電車の切符を買い出かける姉と、その後を追い切符を買う彼と、その彼を追い切符を買う私。
何も知らずにそのまま電車に乗り、携帯をいじる姉と、その姉から少し離れたところで、ちらりちらりと姉を観察する彼と、その日の朝に姉が「今日はあそこに彼氏と行くんだ」と言っていたお陰で行き先を知っている私。
笑顔で彼氏と合流する姉と、その姿を隠れて見ている彼と、ポケットに手を突っ込みながら、さっき買った棒つき飴をくわえつつ観察している私。
この時点で私は、彼が姉のストーカーだということに感づいたのだが、ほんの少し芽生えたサディズムに私は便乗した。
たった一人の姉妹に、なんとストーカーがいたのだ。姉には悪いが、こんなおもしろいことがあるだろうか。
周りから聞く恋愛話や、漫画やテレビ、果てには自分の恋愛よりも、こっちの方がよっぽどおもしろいことだと思えた。
恐らく姉にこの事実を伝えたら、彼女は警察なりなんなりに通報をするかもしれない。あるいは彼氏に相談するだろう。
こんな面白そうな事実の種を、警察やら彼氏のために利用させるなんてつまらない。これは私が見つけた種なのだ。
ならば私は私なりの方法で、この種を育てようと決意した。そして口の中で転がしていた飴を噛んで割った。
その日から、私は証拠集めに躍起になった。
携帯で写真を撮り、デジカメでも写真を撮り、そして現像をし、もちろんネガも保存した。
パソコンにデータを送り、そしてパスワードつきで保存した。
彼が姉をストーキングした日時を、書き残せるだけノートに書き残した。もちろん私の予定が入っている日は書き残せないけれど、それでも十分なほどの証拠になるだろう。
もちろん彼が姉を襲うなんてことがないように、姉を尾行している彼を尾行するときは、念のために小さいナイフを持ち歩くことにした。行く先々では、常に交番の場所をチェックした。
彼が間違ったことをしないように、こちらも急いで証拠集めをしなければ。
そして二ヶ月が経過したとき、私は計画を実行させた。
その日は生憎の雨だったが、姉は今日も彼氏とデートに出かけた。
ストーカーの彼が今日も部屋にいることはさっき確認した。
尾行することに慣れた私は、彼が外出するであろう時間に合わせて出かける準備も済まし、そして溜めに溜めた証拠の品々を鞄に入れ、そして窓の端から彼の様子を伺った。
案の定、今日も元気に彼は姉を尾行しはじめた。それに合わせて私も家を出る。
今日姉がどこに行くかも知っている。それは私もたまに出かける街なので、その場所の地図もおおまかに頭に入っている。
しかし彼は姉がどこに行くのか知らない。知らないまま切符を買う。
もう見慣れてしまった姉と彼氏の合流場面を、今日は傘を差しながら見守る。
もちろん私が姉の後をつけていることがばれてしまったら元も子もないので、愛用の傘を使うなんてことはせず、コンビニで売られている透明の傘を使う。
段々とそのときが迫っている。さっきから舐めている棒つき飴の先には、もう飴はない。さっき全て噛み潰してしまった。
そして姉と彼氏が手を繋ぎ歩き出した。しかし彼はいつもすぐは歩き出さない。一定の距離を保つために、いつも少し経ってから歩き出すのだ。私はこの瞬間を待っていた。
姉達が歩き出すと同時に、私は彼に向かって歩を進めた。私は歩くのが早い。
もう何日も何日も見続けた背中が、どんどんと迫ってくる。私の頭の中で非常事態が伝えられている。退避せよ!と体中の細胞が警告している。しかし私はそれに逆らう。
このときを待っていたのだ。このときのために、2ヶ月も準備をし、計画を練りに練ったのだ。今更計画変更なんて出来るわけがない。
右手を伸ばすために、私は傘を左手に持ち替えた。咥えていた飴の棒を柄にもなく吐き捨て、頭の中の警鐘を無視した。
そして彼が姉達に向かって足を出そうとしたそれよりも先に、私の右手が彼の右肩に触れた。
ピリッと、彼の着ている服の素材の感触が指に伝わる。その細胞伝達が脳に響き、私は一瞬声を出すことを忘れる。
彼の右足が前に歩き出そうとしたとき、やっと私の声が周りの空気を震わせた。
「あの」
彼はピクッと体を揺らし、そして動きを止めた。私も彼の右肩に手を掛けたまま動けなかった。しかし声を掛けたのは私だ。用件を伝えなければ。
「ちょっと、よろしいですか」
雨が地面を叩く音と、傘を叩く音が響く。周りにいる人の声もする。しかし私達のことは気に留めていないようだ。
彼の傘から落ちた雫が私の傘に落ち、一際大きな振動が左手に伝わる。
何も知らないで遠ざかる姉と姉の彼氏。遠くから見ていただけでは気付かなかった、彼の身長の高さ。もっと低いと思っていたのに、その圧迫感に思わずたじろぐ。
彼が少しずつ、顔をこちらに向ける。恐らく彼の視界には、私の右肩辺りが捉えられているのだろう。
少しずつ、ゆっくりと顔をこちらに向ける彼。視線が私の靴に落ちた。そしていきなり私を威圧するかのように、スッと私の瞳を正面から捉えた。
その直後、瞳孔がキュッと広がったのが分かった。私が誰かすぐに分かったようだ。
そうだ。私はあの人の妹だ。
あなたが知りたくても知ることが出来なかったかもしれないことを、私は知っている。
しかしそれとは逆に、彼は私の知らない姉を知っているのかもしれない。
私は瞳を逸らさなかった。
彼も瞳を逸らさなかった。
休日でもそんなに混まない喫茶店を知っていたので、私は彼を連れてそこに行った。
ウェイターに席を示され、私は奥の席に座った。後ろからついてきていた彼は、私の正面に座った。
私は無言でメニューを眺め、そして決め、無言でメニューを彼に提示した。彼も無言でそれを見て、そして無言で考え、そしてそのままメニューを机に置いた。
窓の外では雨が降り続いている。
ウェイターがやってきて、私達はそれぞれ淡々と注文をした。私が「紅茶をホットで」と言うと、彼はメニューのとある部分を指した。
ウェイターは流れ作業で注文を聞き終え、そして早々に立ち去り、キッチンに消えた。
その日も客は少なく、私達が座ったテーブルの周りには誰もいなかった。少し離れた席には、一人で来ている客がちらほらと散らばり、そして女同士の客が一組いるだけだ。
私は鞄を開け、そして茶封筒を出し、そしてあまりおおっぴらにならないように、この2ヶ月で撮り溜めた写真を彼に差し出した。
彼はそれを無言で受け取り、そして無言で見て、そして無言で私に返した。私に声を掛けられた時点で、もうこの流れを読んでいたという節が見て取れた。
ノートは彼がしらばっくれたときのために用意していたものなので、今は必要なさそうだった。
そしてここに来て私は、なんだか違和感のようなものを感じていた。
私が想像していたのは、もっと無様な彼の姿だったのだ。写真を見せられてすぐに謝罪の言葉を述べ、そして「見逃してくれ」と懇願し、そして泣きべそをかく。そんな様子を想像していた。
しかし今目の前にいる彼はどうだ。ウェイターが持ってきたコーヒーを悠長にすすり、そして雨の降る外の景色をぼんやりと見ている。これではまるで、私と彼がただの友達のようではないか。
事実、私はまだ彼の声すら聞いていないのだ。
なんだか拍子抜けしてしまった私は、机に置かれた紅茶にミルクを注いだ。何を思ってか、彼はそんな私の指先をずっと見ていた。
そして私がカップを口に運ぼうとしたとき、視線を再び外に戻した。
この威圧感をどうしたものか。どうしてそんなに堂々としてられるのか。ストーカーが濡れ衣なのか。そうだとしたら、写真を提示された時点で否定すれば良いのに、なぜ何も言わないのだ。
紅茶を一口飲む間だけでこんなに物事を考えたことがあっただろうか。カップを戻すときの自分の指先が震えていないことに、こんなに安心したことはあっただろうか。
考えれば考えるほど、何もかもが無駄だと思えてきた。本当に姉のストーカーであったのかという疑問や、どうして何も喋らないのかという疑問も、もう全てがどうでもいいと思えた。
恐らく雨のせいだ。雨音による思考の遮断と、視界を曇らす雨の雫。もうそれだけで脳内の容量はかなり侵されてしまうのだ。
私はなみなみと揺らぐ紅茶を見ながら溜息をつき、こちらから折れることにしようと思った。
「・・・すごい雨ですね」
私は右手で頬杖をつきながら言った。もう別に返事なんてあってもなくてもどちらでも良かったので、ほぼ独り言のようなものだった。
そして「そうだね」という彼の返事が聞こえてきたとき、正直「負けた」と思った。
以来、私と彼は友達になってしまったのだ。
以来彼と会うとき、私達は必ず近所では待ち合わせをしない。
それぞれが待ち合わせ場所に出向き、そして合流する。今日もそうだ。
もちろん彼は、姉が明後日結婚することも知っている。
姉に対する彼の想いは、なかなか難しいものだった。
姉と付き合いたいという気持ちはなく、姉の持ち物に対する執着もないので、特段姉の私物を欲しがることもないし、姉の私生活に関することも、私から聞き出そうとすることもなかった。
ただ純粋に姉のことが好きだったのだ。
たとえ姉の笑顔が彼氏に向けられているとしても、そこに嫉妬はなく、ただ姉の表情や、雰囲気や、姉が着ていることによって輝いている服や、姉の化粧、そういったものを見ていることが幸せなんだそうだ。
だから自室から姉の部屋を観察しているときも、姉が着替えをしていたりするときは、彼も自分の部屋のカーテンを閉めたりするし、姉の洗濯物がいくら手に届きそうな距離にあったとしても、それを盗むなんてことは考えられないらしい。盗撮なんてもっての他だと。
だから姉が結婚するということを知っても、彼は特に落ち込みもしなかった。むしろ口元がほころんだくらいだ。
もちろんそんな彼の言葉を全て信じたわけではないけれど、彼の素行を見ていると、もしかしたら本当なのかもしれないな、とも思えた。彼はそんな人だった。
何かを聞かれれば答え、ごはんが出てくればゆっくり黙々と食べ、本を薦められれば正直な感想を言い、そして滅多に笑わないが優しい雰囲気。
最初のうちは「姉のストーカー」としてしか見ることが出来なかったが、少しずつ私の中で、喜びという感情が芽生えてきていることに気付いたとき、私は驚いた。
今まで姉の話なんて主に母親としかすることがなかったのに、全然知らない第三者との間で、姉を大事に想う気持ちが共有することができたということ、それが嬉しいのだ。
だから私は、彼を結婚式に潜り込ませたかった。
姉がすごく幸せそうにしている瞬間を、彼の目にも映させてあげたかった。
既に姉には了承を取っている。もちろん「姉のストーカーをしていた人」という紹介ではなく、「私の友達で、姉を祝ってあげたいという人がいる」という文句でだ。
もうすぐ結婚するという状況のお陰で、姉の返事は気前のいいものだった。むしろ二次会まで出てもいいよ、とまで言ってくれた。
しかし、彼はその申し出を受け入れなかった。私は驚いた。彼にはいつも驚かされてばかりだ。すぐに理由を聞いた。
「いくら君がそう紹介してくれても、どこか後ろめたい」というのが彼の返事だった。彼はこういうときに筋を通す人だ。
しかし既に招待状は用意されているので、私はそれを渡すだけ渡し、あとは彼の判断に任せた。もちろん、渡すときに多少の説得を混ぜて。
そして結婚式当日になった。
式は素晴らしいものだった。
今まで誰の結婚式にも行ったことがなかったのだが、初めてが姉の結婚式で本当に良かったと思えた。
ありふれた言葉をいくら列挙しても、姉の笑顔は語りつくせない。もちろん相手の方も幸せそうだった。私は心から祝うことが出来た。
しかし心の半分以上は彼のことを考えていたのも、事実だ。
彼がいつ会場の扉を開けてもいいように、私は何回も頭の中でシミュレーションをした。場面が変わるたびに「今ここで彼が入ってきたら、私はあの隅を通って彼を迎えに行こう。」そういうことばかり考えていた。
会場が涙と笑顔で満たされ、滞りなく式が終了し、司会の方が締めの挨拶をし、そして会場内に拍手が溢れたときでさえ、私は頭の中でシミュレーションを繰り返していた。
式場から二次会場に移動する際、それなりにいろいろと手伝いをし、二次会場で開始の音頭が切られたとき、私はだいぶ疲れていた。
姉はシンプルなワンピースに身を包み、友人達に囲まれ忙しそうだった。勿論新郎も。
私は会場内に置かれたビリヤード台に寄りかかり、カウンターで作ってもらったカクテルをちびりちびりと飲みながら、楽しそうに騒ぐ新郎新婦とその友人を眺めていた。
両親は先に帰った。
姉の友達にも数名知り合いはいるが、特に話すこともないので、少し挨拶を交わして、そして姉の許に戻っていった。
会場内ではテンポのいい洋楽が大きな音でかかっている。今日三杯目になるアルコールで段々まどろんだ頭と、今日一日動き回ったことによる体の疲れで、私は心地よく眠かった。
お陰で、会場内に入ってきた彼の姿に全く気付かなかった。
彼は突然幽霊のように視界に入り込んできて、そしていつもの表情で私に近付き、「ひまそうだね」と言った。いつの間にか作ってもらったのか、手にはグラスまで持っていた。
せっかく今日一日ずっと頭から離れなかった人が目の前にいるのに、私はすぐに反応することが出来なかった。反応することが出来ても、もう頭の中も体ももったりとしてしまっていたので、いつものようにテンポ良く言葉を返すことが出来ず、私は笑って返事をした。
私と並び、彼もビリヤード台に寄りかかる。
そうだ、会場内には姉がいるではないか。姉に彼を紹介しなければ。もちろん私の友人として。それもずっとシミュレーションしていたではないか。
姉にこうやって声をかけて、こうやって彼を紹介して、そして笑顔でその場を終わらせて、そして。
しかしどんだけ考えても、もう足が動かなかった。声を出す気力もなかった。そういえば昨日はよく眠れなかったなぁ。カクテルは2杯目からがきついんだったなぁ。そういえば式場でもちょこちょこ走り回ったりしてたなぁ。
そんなこんなでぼんやりとしていると、気付いたら姉が目の前にいた。笑顔で「疲れたんだね。おつかれさま。」と言いながら。
はっと、隣にいる彼の方に意識を集中させた。しかし並んで立っているお陰で、彼の表情は全く分からなかった。そして私の頭の中は一瞬で「彼を姉に紹介する」という命令に埋め尽くされた。
シミュレーションしていたあらゆる段階を飛び越して、私はその場で思いつく言葉を並べた。
「この人が私の友達。お姉ちゃんのことがほんとに好きで、ストーカーまでしてたくらいなんだ。だからぜひお姉ちゃんの晴れ姿を見せてあげたくて、無理言って来てもらったの。」
そう言い終えて、私は笑った。「ちゃんと紹介出来てよかった。おめでとうお姉ちゃん。」
しかしいくら笑っても、3人でいる場の空気が和らがなかった。和らぐわけがなかった。
そうだ、姉と私は二人とも注意力がないけれど、私はこういう場面での注意力がないのだ。ただでさえ疲れているんだから注意力は減っているのに、更に酒を飲んでしまったからこうなるのだ。
私は馬鹿だ。普段絶対言わないように注意していることを、なぜかここ一番という場面で口にしてしまう。
しまったと気付き、頭の中が真っ白になったときにはもう、グラスを持った自分の右手が姉の肩を掴んでいた。
「違うの!違う!そうじゃなくて・・・!」
するとグラスに入っていたカクテルが姉のピンクのワンピースにかかった。姉が身を引いても時は既に遅く、それを証明するかのようにじわりと染みが広がった。幸い私が飲んでいたカクテルは透明で、色の心配はなかった。
私は驚いてグラスを落とした。尖った音が会場に響き、呼吸が止まってしまいそうなほどの気配がこちらに集まった。店員がこちらに駆け寄り、そして新郎も続いた。
流れ続けるBGMと、うろたえる友人達と、姉を心配する新郎と、掃除用具を取りに走る店員。そして呆然とする私と彼。私たち二人だけが動けずにいた。
もう何もかもが終わってしまったと思った。それと同時に、彼のストーキングを証明するために書き残したノートのことを思い出した。
純粋に、ただ姉のことが好きで、それだけのためにずっと姉を見ていた彼。私が書き残したノートは、彼のストーキングを証明するためじゃなくて、彼の気持ちを証明するためにあったのだ。
こんなときになって、やっとそんなことに気付くなんて馬鹿げてる。
ずっと気付いていた。私はずっと罪悪感に襲われていたのだ。
とても綺麗な気持ちのまま、ただずっと姉を見ているしか出来なかった彼の気持ちを、ただ私の娯楽のためだけに利用していたことに。
あらゆる感情に襲われて、私は視線を天井に向けた。なぜか私が泣きそうなのに、泣けない。しかしこんなときにでもアルコールは私の脳を冒していた。疲れも順調に溜まっていく。心の中に突如押し寄せた感情が更に体力を奪い、もう今すぐここで気を失って倒れたくなるくらい、足の力がものすごいスピードで抜けていった。
すると彼の声が耳に入ってきた。彼は自分の口を私の耳に近付け、こう囁いた。
「今日は、帰るね。」
それを聞いて私は精一杯の気持ちが込められた視線を彼に向けたが、彼は私に目を合わせないまま出口に向かって歩を進める。出口近くにあったテーブルにグラスを置き、ドアノブに手をかけた彼だけが、 動揺に包まれた会場内で唯一冷静且つ自然に動いていた。私はその背中を追う。
途中で足がもつれて転びそうになり、近くにいた人にぶつかりそうになる。呂律の回らない口でお詫びを言い、入口のドアを開けた。
2年前に穴が開くほど見つめた背中が、帰り道をたどろうとしていた。
「ごめんなさい!」
こう叫ぶと、彼は少し足を止めて、振り返らずにただ首を横に振った。
そうだ。彼はいつもこうだ。それが彼なのだ。
本当は今だって、私が初めて彼に声を掛けたあのときだって、心の中はすごく揺れているはずなのだ。でも何も言わない。
言わないのではなく、言えないのだ。だからこそ姉のことだって、ただ見ているだけしか出来なかったのだ。
撮り溜めた写真や、あのノートは、ただ事実を残したものではない。彼の性格をもきちんとそこに映し出していたではないか。私は馬鹿だ。
すると、後ろでドアの開く音がした。振り向くとそこには姉がいた。
矢継ぎ早にこみ上げる感情を瞳に映し出す私を見ながら、姉は彼の名前を尋ねた。彼女もまた冷静だった。
そして彼の名前を呼んだ。彼の動きが止まった。もちろん彼は振り返らなかった。
なぜか私は、さっき私がつけてしまったワンピースの染みに目線を落とした。そして「良かった、乾かしたらまだ使えそうだ、このワンピース。」と思った。そうしたら少しだけ気持ちが落ち着いた。
そんな頓珍漢な私を尻目に、時間は姉の言葉を乗せて進んだ。そして姉は彼の背中に向かって、言った。
「・・・今度、三人で」
いつも自信がなさそうな彼は、今そのときも所在がなさそうだった。今まさに、願ってもいないはずだろうが、この場の主役であろうとしているのに。
少しだけ猫背である彼の背中を、街頭の明かりが走っていた。
その背中めがけて、姉は続きの言葉を告げた。
「ごはんでも食べに行きましょうか。」
彼は何も反応しなかった。私も反応出来なかった。
「でもきっと、私は君を憎んだりしない、と思うの」
私はその文章の意味が分からず、真顔で姉の顔を見た。そういえば姉は国語が苦手だったとそんなことを思った。そして私の顔を真顔で見つめ返しながら、姉は続けた。
「だって、妹と一緒にいるんだもん」
私に「ね?」と言う姉。振り返らない彼。
そして再びドアが開いた。振り返るとそこには新郎がいた。それを合図に、彼は振り返らないまま、そのまま帰り道を歩き出した。
きょとんとする新郎と、新郎に笑顔を向けながら会場に戻る姉と、そんな二人を視界の隅にいれつつ、彼の背中を見る私。
このまま音信不通になったら彼は私の前から消えるだろうと思っていたけど、きちんと携帯は繋がった。
そして三人でごはんも食べに行った。
彼がしてきたストーキングの事実を知ったとき、姉は純粋に嫌そうな顔をした。このとき初めて彼が謝罪した。
でもそこで私がフォローをすると、姉は単純に信じているようだった。やっぱり姉は注意力が足りないと思う。
もし、二人が同級生とかだったとしたら、二人は何の問題もなく友達なり恋人なりになっていたのかもしれない。
そして姉は我が家から出て行き、私の隣の部屋には誰もいなくなった。
しかし彼は今でもあの部屋に住んでいる。