こんにちは!アヒルです♪
ようやく『愛のむきだし』の記事が書き終わりました!
“ネタバレ”“長文”ではありますが、よかったら読んでみて下さい。
今日はお昼からお仕事なんで、これから用意をして出勤です。
頑張ってきますp(^-^)q
今回、第171回目は 『愛のむきだし』(2009年) を紹介します。
監督:園子温 出演:西島隆弘、満島ひかり、安藤サクラ、渡部篤郎、渡辺真起子、尾上寛之、清水優、永岡佑
物語:敬虔なクリスチャンの一家に生まれた本田ユウ(西島隆弘)。母親を幼い頃に亡くしたが、優しい神父の父テツ(渡部篤郎)と2人で幸せな生活を送っていた。母親の思い出を胸に、理想の女性“マリア”にいつか出会える日を夢見ながら。
そんなある日、自由奔放で妖艶なカオリ(渡辺真起子)が彼らの前に現れた。聖職者でありながらも、カオリに没落していくテツ。しかしそんな日も長くは続かず、カオリはテツのもとを去り、カオリを失ったショックから人が変わってしまったテツは、神父としてユウに毎日「懺悔」を強要し始める。父との繋がりを失いたくないユウは、様々な罪を創作して吐露し続ける。その中でたった一つだけ、父に許されることのない罪があった。それが女性の股間ばかりを狙う【盗撮】。テツにヘンタイと罵倒され殴られるユウ。しかしこれこそが父への懺悔であり、愛だと感じたユウは【盗撮】に没入していくのだった。
ある日、盗撮仲間とのゲームに負けたユウは「女装して女性をナンパする」という罰ゲームをする破目に。その時、街のチンピラに絡まれていたヨーコ(満島ひかり)に出会う。まさにユウが探し続けていた“マリア”との出会いだった。ユウはヨーコに一目で恋に落ちた。ヨーコも女装したユウ=謎の女:サソリに恋をした。この出会いが、彼らの運命を超スピードで螺旋の中へと突き落とすのだった。
ヨーコとの衝撃的な出会いから数日、突然、父があのカオリと再婚するという。そしてカオリには連れ子がいた。なんとそれがヨーコだった。奇妙でもあり複雑な三角関係の始まりだった。ヨーコはサソリに恋をし、ユウを毛嫌いする。女装のときは愛され、兄のときはヨーコに嫌われるユウ。ユウの混乱は加速度を増し、想いを押し殺すように盗撮を続けていく。
時を同じくして、【ゼロ教会】という謎の新興宗教団体が世間を賑わせていた。狂信的な信者を増やし、営利を貪っていく悪の教団ゼロ教会。そこにはコイケ(安藤サクラ)という教祖の右腕の女がいた。何を企んでいるのか、コイケはユウとユウの家族に近づき始める。
「同じ匂いがするのよ・・・」コイケはユウの行く先々にに現れ、しまいにはヨーコに自分がサソリだと思わせ、家庭の中にまで入り込んできた。彼女はユウの盗撮をばらし、ヨーコはますますユウを憎んでいく。そしてテツやカオリすらも洗脳していく・・・。家族の不信感を払拭できず、家を出て行くユウ。時が経ち、久しぶりに家に戻ったユウは唖然とする。テツもカオリもヨーコも、家族全員が忽然と姿を消していたのだ。そしてコイケも。ゼロ教会に違いない。ここからユウの壮絶な戦いが始まる。そしてあまりに切なく、ドラマチックで、衝撃的なクライマックスへとなだれ込む・・・。
『愛のむきだし』、園子温監督の新作です。今年のベルリン国際映画祭“フォーラム部門”への出品が既に決まっているようです。
この作品の上映時間は、なんと“237分”!約4時間の超大作です!!ユーロスペースでは途中に10分の休憩が入りました。私は休憩が入る映画は初めて観たんじゃないかなぁ。見終わったときには完全に満腹状態(笑)ユーモアあり、スプラッターあり、ドラマあり、修羅場あり、そして感動的なクライマックス、この4時間という時間を余すことなく沢山の要素が詰め込まれています。一瞬たりとも観客に飽きさせる暇を与えてくれません。そんな作品でしょう!
園子温監督は、なんとなく追ってしまっている監督です。ひいきにしている監督ではないんですが、「変わった映画を撮るからなぁ」と思い、いつも自然と手が伸びてしまいます。やっぱり一番の衝撃は『紀子の食卓』。一方では『気球クラブ、その後』のような青春映画を撮ったりと、本当に不思議な監督だと思います。日本映画界でも特に異質な感じが漂う監督じゃないでしょうか。
何から書いていけばいいのか分かりません(笑)自分で物語を書きながら整理していこうと思います。かなりの長文になると思いますが、どうぞお許し下さい。
話の核になるのはユウとヨーコの愛です。それを描く為に様々なものが盛り込まれています。
まずはユウが仲間達と“盗撮”を始めます。しかしユウ自身は“盗撮”には性的欲求を覚えません。それでもユウが“盗撮”をするのは、神父である父親に懺悔を毎日強要されているからなんです。ですからユウは懺悔をするためだけに“盗撮”をして自らに罪を作っています。
ユウと仲間達で盗撮をする毎日。そんなある日、ユウはあるパンチラを見て初めて体が性的欲求を覚えます。それはヨーコのパンチラ。ヨーコがチンピラ相手に大立ち回りをしている現場に出くわしたユウ、ヨーコのスカートがめくれたパンチラの瞬間にユウは勃起をしてしまいます。そしてユウはヨーコに恋をするのです。ユウはヨーコをチンピラたちから守るんですが、その時は運悪く仲間たちとの罰ゲームで女装をしている状態だったんです。ヨーコはユウに感謝するんですが、ユウのことを完全にサソリという女性だと信じ込んでしまうんです。このヨーコとの出会いが物語の出発点になります。
一方、ヨーコは幼少期に父親から受けた虐待で男という男を全て憎んでいます。ただ男というだけで通行人に発作的に暴力を振るってしまうほど ヨーコにとって幼少期の出来事はトラウマになっています。そんなヨーコの父親は女にだらしなく、次々と異なる女性を家に連れてきていたんです。ヨーコはその中のどんな女性とも気が合いません。しかしそんなヨーコと1人だけ気の合う女性が現れたんです。それはカオリ(渡辺真起子)という女性。とにかく明るく気さくで細かいことに拘らない彼女にヨーコは心を許します。しかし“愛の生きる”カオリはヨーコの父親との生活もすぐに飽き、ヨーコの家を出て行こうとするんです。カオリが出て行くことを知ったヨーコは、カオリと一緒に家を出て行く決心をします。
カオリと一緒に家を出たヨーコは、カオリからある告白をされます。それは「昔の男が忘れられない」という告白。そして「その男と結婚をしたい」とカオリは続けます。“男”“家族”この2つはもうまっぴらだったヨーコは、その場を怒って立ち去ってしまいます。その直後、ヨーコはユウであるサソリに出会うのです。
街中でチンピラたちに言いがかりをつけられ、ヨーコは十数人のチンピラ相手に大立ち回りを繰り広げます。そしてその時、罰ゲームで女装をしていたユウがその現場に出くわすのです。ユウはヨーコに加勢して一緒にチンピラを撃退します。ヨーコは女装したユウを完全に女性だと思い込み、感激してユウに名前を聞きます。ヨーコに一目惚れしてしまっているユウは、女装している今の状態で本当のことを言えません。「私はサソリ、姐御サソリよ!」と咄嗟に嘘をついてしまいます。そしてヨーコは敵である“男”を一緒に蹴散らしてくれたサソリに恋をしてしまうんです。
ヨーコはサソリに恋をしたことで、カオリの結婚にも寛容になります。渋々ではあるんですが、カオリの言う“昔の男”の家族と会う決心をし、引越しをします。
ユウの通う高校に一人の転校生がやってきます。それは先日、街中で一緒にチンピラ相手に大立ち回りをしたヨーコ、一目で恋に落ちてしまったヨーコだったのです。しかしヨーコはサソリである女装したユウしか知らず、ユウを見ても気が付きません。それでもヨーコのことが気になって仕方のないユウ。ヨーコに自分の気持ちを知ってもらいたいユウは、ヨーコに上手く近づこうとします。しかし全ての男を敵だと思っているヨーコにとってはユウも同じ敵である男の一人でしかなく、ユウはヨーコに近づくことが出来ません。次第にユウの視線や自分を見て勃起しているユウに耐えられなくなったヨーコは、ユウを突き飛ばし罵声を浴びせるという行為にまで至ってしまいます。ヨーコにとってユウは“変態”という認識でしかなかったのです。
ヨーコは転校してしばらくすると、カオリの言う“昔の男”と会うことになります。その男は教会で神父をしている本田テツ(渡部篤郎)。テツには一人息子がいるといいます。ヨーコはカオリと一緒にテツとその息子と食事をすることに。ヨーコとカオリがレストランに着くと、ヨーコの目に信じられない人物が入ってきます。テーブルには父親であるテツ、そしてその横にはつい先日突き飛ばし罵声を浴びせたユウが座っているんです。自分に父親が新たに出来るという事実でさえ耐えられるか分からないのに、兄になる人間が自分を付回すユウだったんです。“家族”も“男”もまっぴらだったヨーコの気持ちをさらに逆撫でするような事実。ヨーコの目にユウが入った瞬間、ヨーコはトイレに立ってしまいます。ヨーコは今の心の拠り所であるサソリに電話をします。サソリはユウですから、携帯の鳴ったユウはテーブルを立ち、ヨーコと同じようにトイレに向かいます。ヨーコはサソリに母親が再婚し、そして父親と兄になる人物が最悪であると告げます。サソリであるユウは、ヨーコのその告白を聞き、ヨーコの兄になるユウのフォローをし、ヨーコに「兄になるユウと仲良くするように」と諭します。そんなこんなで ユウ ヨーコ テツ カオリ の4人での生活が始まるのです。
ユウとヨーコが一つ屋根の下で暮らし始めるまで、一人の女が背後で不穏な動きをしています。彼女の名前はコイケ(安藤サクラ)。彼女は幼少期から父親の折檻を受け続けていた少女。敬虔なクリスチャンである父親から激しい折檻を受け、精神が歪んでしまっているんです。コイケは父親からの折檻で性に対して説明の付きづらい感情を抱いています。父親から「SEXは罪だ」と折檻され続け、彼女は「自分の原罪はSEXだ」と思うようになり始めるのです。そして彼女はある新興宗教の教祖に勧誘され、ゼロ教会という宗教に入信します。そんなコイケはユウと出会うことになります。
大雨の日、コイケがとある教会の前を通りかかると ある男が教会に向かって祈りを捧げていました。その男はコイケたちがすれ違うと、突然と盗撮をしだしたのです。コイケの仲間たちが盗撮に気が付き、その男を問い詰めます。その男は自分の盗撮を認め、「これは僕の原罪です」と突然と告白を始めるんです。コイケはその男の“原罪”という言葉に「自分と同じような人間がいる」と激しい共感を覚えます。コイケはその男の盗撮を許し、その場を立ち去ります。そしてコイケはその男に共感から興味を持ち始めるのです。実はその男はユウで、コイケはユウを終始尾行を徹底し始めます。
コイケはユウを尾行することで色々なことが分かってきます。“ユウの父親テツはキリスト教の神父”、“ユウは盗撮に明け暮れる日々を送っている”、“ユウの父親にはカオリという昔付き合っていた女がいる”、“そのカオリという女にはヨーコという血の繋がっていない娘がいる”などなど。そしてコイケはテツが神父をしている教会もろともゼロ教会に入信させようと考えます。しかしこれは口実で、ユウをゼロ教会に入信させようというのが目的だったのです。
ユウとヨーコが一緒に暮らすようになってから、コイケの作戦は本格的に動き出すようになります。まずコイケは、ユウとヨーコと同じ高校のクラスに転校をし、そこにチンピラたちを登場させます。そのチンピラたちにサソリを探しているように演じさせるのです。その瞬間、コイケが「私がサソリだよ」と言ってチンピラたちをねじ伏せます。この状況に唖然とするユウ。“自分がサソリなのに何故この女が??”と混乱に陥ります。そしてユウが更にショックだったのが、ヨーコがコイケを見つめる目。サソリに恋をしていたヨーコの目が、完全にコイケだけしか見えなくなっていることだったのです。
コイケは行動は更に加速し、ユウの家庭にまで入り込んできます。コイケはユウの家で家族と一緒に食事をしたり、ほとんど同棲しているような状態になっていきます。そしてヨーコはコイケのことを完全にサソリだと思い込みます。それを間近で見ていたユウは、次第に耐えられなくなってしまい、ヨーコに“自分が本当のサソリだ”と真実を打ち明けてしまいます。そもそもユウのことが嫌いなヨーコは、ユウが嘘をついていたことに更に嫌気が差し、ユウが女装をする変態だったことに更に嫌気が差します。ユウの告白は最悪のかたちで失敗に終わるのです。
しかし、ユウにとっての本当の最悪は翌日のやってきたのです。翌日、ユウが登校してみると教室には“ユウが盗撮した写真”“ユウが盗撮している様子を撮った映像”などが散乱していたのです。これは全てユウを陥れる為のコイケの仕業。ユウは退学に追い込まれ、テツからも勘当されます。ユウは父親が強要する懺悔のために罪を作っていただけなのに、ついにはユウは完全な変態扱いをされることになってしまうのです。そしてユウが家を出て行くと同時に、コイケは「ユウが変態になってしまったのはお前たちの責任なんだよ!」と テツ カオリ ヨーコ を追求し、彼らをゼロ教会に引きずり込みます。
ユウはテツに勘当され、唯一自分の全てを受け入れてくれる仲間達と過ごします。しかしヨーコのことが気になるユウ。しばらく経って学校や家に行ってみると、ヨーコ テツ カオリ の姿は見えなくなっています。そしてコイケの姿も。そしてユウたちは色々と探りを入れ、ヨーコたちがゼロ教会にいることを掴みます。ここからユウがヨーコをゼロ教会から救い出そうという戦いが始まるのです。
ユウたちはヨーコをゼロ教会から救い出そうとし、ヨーコを拉致して監禁します。ゼロ教会に洗脳されてしまっているヨーコの洗脳を解くためにです。ユウとヨーコは一対一で我慢比べのように対峙します。その際、一度ヨーコが監禁されているバスから逃げ出します。それを追うユウ。2人は取っ組み合いになり、お互いの気持ちをぶつけ合います。ヨーコは自分の信仰について、ユウはヨーコに目を覚ましてもらいたい気持ちを。このぶつかり合いでお互いはお互いの気持ちを少し理解し合います。しかし監禁場所にゼロ教会の教祖やコイケたちがやってきてユウの作戦は失敗に終わってしまい、ユウもゼロ教会に入信することを強要されてしまいます。
入信したユウは隙を突いて教団本部に忍び込みヨーコを助け出そうと試みます。ゼロ教会の本部、そこは外部の世界から隔離された世界。ユウは変態仲間の爆弾魔に爆弾を作らせ、その爆弾で教団本部を爆破し、教団の機密性を暴露させます。しかし深い洗脳にかかってしまっていた ヨーコ テツ カオリ はユウが乱入したその場では洗脳が解けることがありませんでした。それどころか教団組織の人間に取り押さえられ、絶望的な本部の様子にユウは錯乱し、そして精神が崩壊してしまうのです。
ユウが爆弾で教団本部を爆破したことで以前から問題視されていたゼロ教会内部に強制捜査が入り、ゼロ教会は解体させられます。そしてテツとカオリはゼロ教会被害者の会の施設で暮らし始め、ヨーコは親戚の家で世話になることに。ヨーコは親戚の家で従妹たちと一緒に暮らすことでユウの気持ちに気が付き始めます。ヨーコの従妹がいつもヨーコに聞かせる純粋な恋の話がそうさせたのかもしれません。ユウのことを変態だとばかり思っていたヨーコですが、ユウの純粋な気持ちが自分をゼロ教会から力ずくでも助け出そうとしていたことに気が付いたのです。しかしヨーコが気が付いたときにはもう遅く、ユウは精神が崩壊し、精神病院に入院していたのです。ヨーコはユウの入院している病院に赴き、ユウと面会します。ユウはサソリの格好をしており、自分をサソリだと思っています。ヨーコを見ても全く分からないユウ。しかしヨーコがユウと話していると、ユウにヨーコとの昔の記憶がうっすらと残っていたんです。ヨーコはそれだけユウの気持ちが強かったのと、それだけ純粋だったユウの気持ちに涙します。ヨーコはユウに目を覚まして欲しく、精神状態が不安定だと分かっているユウに詰め寄ります。「あなたが私を助けてくれた!だから今度は私の番よ!」と。しかし精神状態が不安定なユウは錯乱し、ヨーコは看護士たちに追い出されてしまいます。病室で震えるユウ。病室では先程ヨーコが暴れたせいで床には鏡が落ちており、ユウはその鏡を見た瞬間、あるものが目に入ります。それはサソリの女装をしたユウがはいていたパンティ。パンティを見たことで全ての記憶が甦るのです。そしてユウはヨーコを追いかけ感動的なラストへ向かいます。
以上ここまでがストーリーです。
物語の全体の要点を書きますと、ユウは変態ではないのに変態だと勘違いされています。盗撮も懺悔のためにしょうがなく始め、女装も罰ゲームがきっかけです。変態と思われる行為をしてもユウ自身は性的興奮を一切覚えないのです。しかしヨーコと出会うことでそれが一変します。ユウはヨーコに対してだけは性的興奮を覚えるのです。ヨーコに対してだけユウは勃起をします。しかしユウのヨーコに対する気持ちには一切の“下心”がなく、ただただ純粋なヨーコへの想いだけなのです。つまりはユウの勃起は、ユウの“純愛”を意味しています。この作品で描かれる“変態”や“下心”は、“純愛”を対比するために有効的に使われているのです。
そして劇中では“恋”と“愛”の違いについても語られています。ユウまでもゼロ教会に入信させられてしまったとき、「空洞なものを挙げよ」という質問にユウは「恋です」と答えます。恋は空っぽだと、ヨーコに恋をしているはずのユウがそう答えるのです。この言葉にユウのヨーコに対する想いの変化が感じ取れます。“恋”とは独りよがりで一方的なもの、“愛”とは相手を想い相手のために生きること。この心境の変化がユウの言葉から感じることが出来ます。実際にこの後、ユウはゼロ教会の本部に向かってヨーコを救い出そうとします。“全てはヨーコのために”、この強い気持ちがこの前後からユウに纏い始めるのです。ユウの“気持ち”が“行動”となり、その“行動”がつまり“愛”なのです。
園子温監督の作品は、『自殺サークル』 『HAZARD』 『奇妙なサーカス』 『紀子の食卓』 『気球クラブ、その後』 と観ているんですが、園子温監督作品は劇映画が現実の境目を超えてくる印象をたまに受けます。その理由はハンディカメラの使い方にあると思います。基本的に園子温監督は最近ハンディカメラを多用するんですが、特に『HAZARD』の上手さは抜群で、まるで演じている役者の生態をそのままカメラが捉えているような感覚です。これは観客の意識がドキュメンタリー作品と重なってくるのが理由だと思います。ドキュメンタリー作品は基本的にハンディカメラで撮影しますから、そのハンディカメラの動きが園子温監督作品にも観客にドキュメンタリー的な意識を植え付けるのでしょう。ここに園子温監督作品の劇映画が現実の境目を超えてくる印象を与えてくれる上手さがあると思います。『愛のむきだし』に於いても終盤になるにつれその印象は強くなり、場面場面でのリアリティはスクリーンと観客席の境目が分からなくなるほどでした。
映像面で他に感じたのが、この作品は“切り返し”を異常なくらい多用しています。必然的に顔のアップのショットが多くなります。これは何故なのかは深く考察をしていないので分かりませんが、表情の変化をよく楽しめる作品になっているとは思います。これは“映画”と“演劇”の差別化とも取ることが出来ます。“ロングショット”は“演劇”とイコールで結ぶことが出来るかもしれませんが、“アップのショット”は“演劇”では不可能な表現方法です。“スクリーンに役者の表情を大きく映し出す”これは映画には可能で、“舞台上で役者の顔を大きくする”これは演劇には不可能です。園子温監督はこのような意図で『愛のむきだし』を撮られたのかは分かりませんが、この作品は映画で表現可能なことを多用しているように思います。個人的な好みや映画観で言いますと、引きのショットは誤魔化しが効かないと思うので“表現豊かなロングショット”には惹かれるものがあります。しかし『愛のむきだし』のように表情が豊かな役者さんが揃っている場合には、このような切り返しにも惹かれるものがありますね。
渡辺真起子さん、彼女の芝居の説得力にはいつも驚かされます。この作品では満島ひかりさん演じるヨーコが急に渡辺真起子さん演じるカオリに懐き始めるんです。ただ懐くまでの描写が一切ありません。ただそれでも渡辺真起子さん演じるカオリを観ていると、ヨーコが懐くのに首を傾げることはありません。異様なまでの包容力が渡辺真起子さんから感じることが出来るんです。彼女の存在、彼女の佇まい、彼女の包容力、これらの説得力の強さがヨーコが懐くことを成立させてくれています。やっぱり素晴しい役者さんだと改めて思いました。
園子温監督作品を観てよく思うのが、凄まじいほどの演出力です。これは『紀子の食卓』が一番顕著に出ていると思います。特に若い役者さんの凄みが増します。『紀子の食卓』では、吹石一恵さん 吉高由里子さん この2人の全身全霊を使っての芝居には震えてしまうほどのものを感じます。『愛のむきだし』に関しては、西島隆弘さん 満島ひかりさん この2人に尽きます。西島隆弘さんはとても芝居経験が少ないとは思えないほど ユウの気持ちを上手く伝わるように体現されています。的確に体現するのでさえ難しいと思うのですが、彼の芝居はそれ以上に観客を感動させる熱がこもっています。そして満島ひかりさん、彼女は芝居がとても上手く、そして彼女の芝居は感動させてくれます。“表情の変化の豊かさ”“感情表現の巧みさ”“身のこなし”これらのどれをとっても素晴しいです。しかしこのどれもが素晴しくても観客を感動させることが出来るとは限りません。人の心を動かすのはやはり“気持ち”や“熱意”だと思うんです。そしてこの作品の彼女にはそれがあります。特にクライマックスの病院でユウに詰め寄るシーンでの西島隆弘さんと満島ひかりさんには感動を覚えました。このシーンの2人にあるのは完全に“気持ち”だけ。彼らの“気持ち”が完全にスクリーンを征服してしまっているんです。このシーンはちゃんと台詞もあります。しかし「このシーンに台詞なんてあってもなくてもどうでもいい」と彼らの気持ちが観ている私にそう思わせてくれました。満島ひかりさん演じるヨーコ の 西島隆弘さん演じるユウ に対する気持ち、そして気持ちが動かす彼女の動作、それが激しく心を打ちました。言葉というものを遥かに超えた“気持ち”“動き”がそこには確かに映し出されていました。ここに私は“愛のむきだし”を感じました。
この映画は、本当に“純愛”という一言に尽きます。“盗撮”“変態”“カーアクション”“スプラッター”“アクション”“パンチラ”このように様々なものが盛り込まれます。多くのものが描かれ、それは一見なんにも“愛”には関係のないように感じるかもしれません。しかしそれらの多くは“愛”の普遍性を説くためのもの。これらのものの根本には共通して“愛”が存在しています。とにかく4時間かけて様々なものが描かれ、そしてそこには普遍的な愛が最後に残っています。
すごい映画です!とにかく観て下さい!!それしか言えません!!!是非、劇場に足を運んでみて下さい!!!!
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