熱量がこもりすぎて超長文になりました ※読めるものなら読んでウホ【岐阜読演会レポ】 | 夢はなくとも 希望はなくとも 

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「満員御礼!!!!」

 

 

一番伝わるのは、

面と向かって

膝と膝を突き合わせて、

相手の目を見て

一人ひとりに

伝えていくことだと

僕は思っています。

 

 

僕がこうして

ブログやメルマガで

文章を書くことよりも

まだやっていないけれど

YouTube等で

動画で話すよりも

やっぱり、

リアルな場所で

一人ひとりに

伝えていくことが

伝わり方が

全然違うなと感じているところですはい。

 

 

ウエダミツトシです

こんにちは

 

image

 

昨日は、

お初となる

岐阜での「読演会」でございまして。

 

 

先輩カウンセラーの

長谷川つぐみさんに

お声がけいただき、

満員御礼で開催することができましたとですはいっ!!

 

 

以前、

名古屋では

3回くらい(?)

読演会を

開催したことがあるのですが、

なかなか

定期的に開催することができず、

今回こうして

つぐみさんに

「岐阜でやりませんか?」

という風に

お声がけいただかなければ、

実現することはなかったことを考えると、

京都から岐阜の方角へ

足を向けて寝られないですね。

本当に

ありがとうございました。

 

 

さて今回、

岐阜で解説した本は

こちらです。

 

image

 

 

補足説明的な感じで

前著のこちら

 

image

 

 

も一緒に

ずばり

 

「お金」

 

について

丸々2時間お話してきました。

 

 

僕はいままで

「お金」をテーマにした本は、

何冊も読んできたのですが、

 

「お金の正体に迫る」

 

ものとしては、

この本の内容が

ずば抜けていると思っています。

 

 

『きみのお金は誰のもの』は、

物語になっているので、

非常に読みやすいのですが、

めちゃくちゃ

本質を突いていると思うので、

絶対に読むといいと

僕は思いますよー。

 

 

それで、

僕がこの本を通して

何を伝えたいと思ったか、

なのですが、

それはすでに

この記事で書いていること

そのまんまなんですけども

 

 

 

この世界は贈与でできている

 

ということです。

 

 

これは、

第5章の

「社会の謎 未来には贈与しかできない」

に書かれてあることです。

 

 

僕はここを読んで

衝撃をウケました、

あ、

受けました(ウケてどうする)

 

 

「この世界は贈与でできている」とは、

どういうことかというと、

基本的に僕たちは、

 

与える

 

ということしか

できないってことです。

 

 

いただく

もらう

受け取る

 

さらには

 

奪う

搾取する

 

にしても

結局のところ、

僕たちがしていることは

 

与える

 

ということだけなんです。

 

 

意味がわかりませんね。

 

 

いただく

もらう

受け取る

っていうのは、

「与えられる」側の視点での言葉ですよね。

ということは、

必ず、

そこには相手がいて、

その相手が、

自分たちに

与えてくれているわけです。

 

 

行為としては、

「与える」側にしかないのがわかります?

 

 

いただく

もらう

受け取る

「与えられる側」は

なんにもしていないんです。

 

 

ただ「与えられている」だけなんです。

 

 

「いやいや、

 ちゃんとお金払ってるし」

 

と言う人がいると思いますが、

それが幻想。

 

 

「お金」にフォーカスしすぎた人たちの

謝った認識です。

 

 

僕たちがしていることは、

「与える」ということだけであって、

それ以外に「ない」んです。

そしてそれが

現象として起きているので、

「等価交換」のように

見えているだけです。

 

 

僕たちがしていることは

「与える」ということだけ。

それが

ありとあらゆるところで

いろんな場面で起きているので、

それを見る側によっては

「等価交換」

という風に見えている。

 

 

もっと

現代の価値観に照らし合わせて

言い換えると

こういうことです。

 

取引をしている

 

そういう認識になってしまっているのです。

 

 

たしかに、

何かモノやサービスを

提供したときに、

その対価として

「お金」を受け取ってはいると思います。

それが「違う」と言っているのではなくて、

それ自体が

「与えている」

そして

「ただ与えられている」

というそのことなのです。

 

 

お金を支払った側は、

たしかに

そのモノやサービスを提供してくれた人に

「お金」という形で

対価を支払った。

 

 

じゃあ、そのお金は

どこから流れてきた?

 

 

あなた自身が

「労働」という形で

雇用主に「与えたから」ではないでしょうか?

 

 

あなたが

「労働」を提供して(与えて)

雇用主から

お金を与えられた。

そしてその与えられたお金を使って、

モノやサービスを提供している人に

お金を与えたんです。

 

 

そしてさらに

あなたから与えられたお金を使って、

あなたにモノやサービスを提供した人は、

また別の誰かに

お金を与えていくのです。

 

 

「与える」ということしか起きていない!!

 

 

僕は、

この事実に驚愕したのです。

 

 

モノやサービスを提供することも

お金を支払うことも

この世界で起きていることは

「与える」ということのみで、

それが常に起き続けていることによって

この世界が回っているんだということに

驚きました。

 

 

そして、

いかに自分の

この世界を見る目が

曇りまくっていたかを

思い知らされました。

 

 

僕は

僕がかけている「色眼鏡」によって、

この世界を眺めていたがゆえに、

この「与える」ということしか起きていない

この世界の営みを

 

取引をしている

 

という風に

謝った認識を持っていたんだということに

気がついたのでつ!!

 

 

そもそも

取引なんて起きていない。

僕たちがしていることは

本質的には

「与える」ということのみで、

その「与える」という循環、営みのことを

現代の価値観に当てはめて

「取引をしている」という風に

勘違いしていたんです。

 

 

間違っていたんです。

 

 

僕のものの見方が。

 

 

なぜ、

こんなことになってしまったのか。

それには、

いろんな洞察ができると思います。

 

 

そもそも僕たちは、

この貨幣経済システムが

盤石になった社会に

産み落とされて、

それが「当たり前」の世の中で育って、

経済活動をしてきました。

 

 

だから、

「取引をしている」ということ自体に

何の疑いも持つことなく、

 

そういうもの

 

として

ずっと認識してきたんです。

 

 

そりゃ

何を見たって、

「取引」に見えるわ。

「パートナーシップ」というところにすら、

 

取引を持ち込んじゃうわ

 

って話で。

 

 

「わたしは

 こんなにあなたを愛しています。

 だからわたしのことも

 (わたしが愛しているのと同じように)

 愛してください」

 

っていう風にやっちゃってるんです。

 

 

そこに愛はあるんか?

 

 

ない!!

 

 

いや、

ないことはないんだけど、

正確に言うと、

 

愛を見失っている

 

んです。

「取引」に見えちゃってる。

 

 

だから

対価がないことに、

「それはおかしい!」

「不公平だ!」

みたいに感じてしまっている。

 

 

なんか変じゃね?

 

 

愛ってそういうものですかね?

等価交換ができる類のものですか?

って話で。

 

 

「愛」こそ

「与える」ことしか

できないものじゃないでしょうか?

僕はそう思います。

 

 

何かを得るために「与える」

これは取引です。

「愛」ではない。

というか、

「愛」の低レベルでの現れだと思います。

そして「愛」って、

別に高尚なものでもないと思うのです。

 

 

僕はタイムマシンを開発したこともないし、

誰かが開発したタイムマシンに

乗ったこともないので、

自分の目で

縄文時代を見たことはないのですが(当たり前だ)

聞くところによると、

縄文時代って、

「争いの形跡が見当たらない」

という風に

言われています。

 

 

僕自身が、

一次情報に触れて

確かめたわけではないのですが、

縄文時代には

どうやら

「争い」がなかったそうです。

 

 

何故か?

 

 

おそらく

理由はとってもシンプルで、

 

争う必要がなかった

 

んだと思います。

 

 

「愛の本質」を見抜いていたから。

つまり、

「取引」ではなくて、

「与える」という事実を

ちゃんと

理解していたんだと想像します。

 

 

縄文時代には、

「お金」はまだ

存在していませんでした。

だから、

現代の人が

古代の人々の生活を想像して

「物々交換をしていた」という風に、

僕たちに伝えたのですが、

それが間違いです。

 

 

そもそも

「物々交換」なんてしていなかった。

古代の縄文人たちは、

ただ「与えていただけ」なんだと

僕は思います。

 

 

たとえば、

魚を釣るのが上手い人がいた。

その人は

たくさんの魚を釣ってきた。

それを

一人で食べることができなかったため、

近くにいる人たちに

 

「魚食う?」

 

という風に

ただあげた。

 

 

またある人は

山に入っていって

山菜を取ってくるのが好きだった。

その人は、

どこにどんな山菜があるのかを

よく知っていたので、

たくさんの山菜を取ってきた。

でも、

その山菜も

全部一人で食べるのは

量が多かった。

だから、

周りにいる人たちに

聞いてみた。

 

「この山菜食う?」

 

そうやって、

ただあげてたんです。

 

 

これがずっと

延々と起きていって、

「与える」ということが

続いていった。

その結果、

 

奪い合う必要がなかった

 

んだと思います。

 

 

だって、

自分が何も提供しなくたって、

たくさんの魚や山菜を取ってくる人たちが、

タダでくれるからです。

 

 

与える側も

「これをあげたんだから、

 それをよこせ」

とは言わなかった。

言わなくたって、

与えられるから。

争う必要が

1ミリもなかったんです。

そういう価値観で

生きていたのが、

おそらく、

縄文人たちだったのではないでしょうか?

 

 

知らんけど。

 

 

見たことないから、

わからんけど、

「僕は」

そのように想像します。

 

 

たくさんあるから、

余ったから、

必要な人にあげる。

これをずっと繰り返していった結果、

何もしなくても

すべてが与えられるという

大安心の中で生きていたんじゃないですかね。

 

 

そしてそれは、

どんなに規模が大きくなっても

根本的に起きていることは

今も同じです。

 

「与える」

 

ということしか起きていない。

それを

「取引をしている」

という風に

誤認識した人たちばかりになっている。

それが「いま」です。

「愛」を見失っているんです。

 

 

頭をやわらかくして

 

 

考えてみてくだされ。

 

 

現代社会から

「お金」そのものを

完全に無くしてみたところを

想像してみていただきたいのですが、

この世界から

「お金」そのものが無くなったとして

僕たちがしていることは

全く同じだったとします。

そこでは、

一体何が起きているでしょうか?

 

「与える」ということしか起きていないでしょ?

 

たとえば

スーパーに行ったとします。

そこで

キャベツが欲しい人がいました。

その人は、

お店の人に言います。

 

「キャベツもらっていっていい?」

 

そして

お店の人はこう言います。

 

「いいよ」

 

コンビニに行って、

おにぎりが欲しい人がいたとします。

その人は、

店員さんに言います。

 

「おにぎりもらっていいっスか?」

 

店員さんはこう言います。

 

「あ、どうぞ」

 

と。

 

もしこれが、

延々と続いていったら、

僕たちは

何も困らないということが

わかりますか?

 

 

こういうことを言うと、

 

「そんなことしたら、

 独り占めしようとするやつが出てきて

 大変なことになる」

 

という人がいるのですが、

そりゃごもっともな意見なのですが、

それが当たり前になっている世界で、

一体誰が

独り占めしようとするのでしょうか?

という話で。

 

 

「お金」がないんですから、

独り占めして

高い値段で

転売することもできないんです。

 

 

独り占めする意味がないんです。

 

 

自分が何もしなくても

欲しい物があるところに行けば

それがあって、

それを与えてくれる「人」がいる。

そして自分も

いままでと同じように

「労働」という形で

誰かに与えている。

 

 

この「与える」という循環の先に

取引をする

あるいは、

奪い合うということに

意味がないのがわかると思います。

そしてそこにあるには、

 

大安心の世界

 

です。

 

 

見失っている「愛」を思い出し、

僕たちがしていることの本質は、

「取引」ではなくて、

「ただ与える」

ということだったんだと、

クッソ当たり前な事実を認識したときに、

僕たちははじめて

「お金の奴隷状態」から解放されるのではないでしょうか?

 

 

「お金」はあっていいです。

「お金のない世界」を標榜したところで、

こんなに便利なものはないんだから、

どうせみんな使うんだから、

ただの絵に描いた餅になると思います。

 

 

「お金」はこれからもあっていい。

でも、

もうそろそろ

「お金教」から脱会して、

お金と適度な距離感で

ただの道具として使う、

そんな社会に

移行するタイミングなのではないでしょうか。

 

 

この本にも書いてありますが、

本来、

「お金」は

贈与を

半強制的に促しているものなんです。

 

 

「ただ与える」というだけだと、

その範囲が狭いんです。

 

 

せいぜい、

身内か

あるいは、

親戚、地域の人たちくらいのものです。

 

 

でも、

「お金」が

ダイナミックに移動することによって、

世界中の人たちが

自分たちが持っているものを

地球の裏側にいる人たちにまで

与える(届ける)ことができるのです。

 

 

これって

考えてみたらすごいことですよね?

 

 

お金があることによって、

それが移動することで、

自分が会ったこともない人たちに

幸せを運ぶことができるんです。

悲しんでいる人たちを

笑顔にすることだってできる。

 

 

それが僕は、

「お金」の本来の価値ではないかと思います。

 

 

すんげー長い話になってしまいましたが、

(いつものことだ)

ここまで読んできて、

これからもまだ

「取引」の感覚で生きますか?

それとも、

「贈与」の感覚で生きますか?

 

 

どっちが良い悪いではありませんので、

それは

ご自身で選べるものではありますが、

ただ僕から言えることはひとつです。

 

 

「贈与」の感覚で生きていった先には、

大安心の世界が待っています。

 

 

僕は、

大安心の世界に行きたいと思います。

 

 

このことを

これからも僕は、

伝えていきたいと思っています。

 

 

こうして

ブログやメルマガで

文章にして伝えてもいいのですが、

やはり

一番伝わるのは、

面と向かって、

「心から」伝えることだと思いますんで、

一人ひとりに、

「僕たちは与えるということしかしていない」

「世界は贈与でできている」

ということを

伝えていこうと思います。

 

 

ということで、

そんな僕の身勝手な会に

お付き合いいただいた皆さま、

本当にありがとうございました!!!!

 

 

image

 

 

また来るぜい、岐阜!!

 

 

《終わり》image

 

 

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