貨物輸送今昔 25 自動車の貨物輸送昔々 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

  貨物輸送今昔

本日も貨物輸送のお話にお付き合いください。

今日は、自動車を運んだ貨車たちというお話をさせていただこうと思います。
平成8(1996)年には、軽自動車4台を積んで輸送できる24ft「ワイドコンテナ」UM21Z型が誕生し、倉敷ターミナルから新潟ターミナルの間で、1日2~3個が搭載されて輸送されたそうですが、平成10年(1998)年には規格が変更されて使用できなくなったとも言われています。

さて、今回は、昭30年代から50年代にかけての自動車輸送についてお話をさせていただこうと思います。

まず、自動車が普及しだした昭和30年代(1955年から1969年)特に昭和35年頃までは自家用車の販売台数も少なく、一部の自動車は、製造工場で作られてから販売店までは専属の運転手が走って届けると言う非効率的な方法が行われていました。
ただ、これでは複数の自動車を輸送するために多くの運転手を確保する必要があり、販売台数が増えてくるとそのコストも馬鹿にならなくなってきました。
また、販売店まで車を届けると帰路は鉄道を利用するのですが、その際の切符を不正利用する輩が多くて、国鉄としても頭を悩ませた等言った記事も出ておりましたが、直接貨物輸送とは関係が無いので割愛させていただきます。


昭和30年代の輸送方法は、長物車に自動車を直接積載するもので、自動車自体が小さかったこともあり、下の写真のように4台を積載していました。

 

また、更に改良して、更に2台を上段に乗せて6台を一気に運べるようにしたシム15という貨車も開発されました。
この貨車は、クレーン車で荷役する必要があり、効率的とも言えませんでしたしコストもかかるものでした。

この方式は、国鉄の部内誌、国鉄線の昭和37年10月号に、国鉄の中部支社管内のトヨタに働きかけて、私有貨車を製作してもらったことから始まったとされています。
当時の記事から引用させていただきますと

 

 この点に着目した国鉄では、今回中部支社管内にあるT自動車に働きかけ、写真(①~④)にみるような自動車専用の貨車をつくって貰い、同時に国鉄としてもできる限リの便益をこれに与えることとした。
なお、写真①~④と書かれているのは下記の写真になります。

その後本格的な自動車輸送用の貨車として開発されたのが、ク9000と呼ばれる車両で、昭和40(1965)年度に2両が試作され、その後昭和41(1966)年には量産車としてク5000形22両が増備され、さらに昭和42(1967)年には40両増備されました。
当初は疑心暗鬼であった自動車メーカーも、その輸送効率に着目し、貨車の増備が追いつかないという状況になったそうで、昭和42年7月までに更に200両増備されるなど、近代化を進める国鉄貨物にしてみれば久々の明るい話題でした。
ク5000の概要は下記の通りです。

自動車工場で作られた新車をそのまま、輸送することを目的に作られた車両で、1200ccから1900ccクラスで8台(当時の規格は 長さ:4.7m以下、幅1.7m以下、高さ:2.0m以下)、360ccで12台【当時の軽自動車の規格は360cc(当時の規格は 長さ3.00m、幅1.30m、高さ2.00m)を載せることができるとされました。

現在の車は1.7mを越している車が多いので、逆に今の基準では貨車もあまり積めないということになったかもしれませんが。当時は小型自動車は、車幅が1.5m未満で全長も4m弱と全般に小ぶりでしたので十分な搭載台数を確保できたと考えられます。

以前の長物車で運んでいたことと比べれば大幅に合理化された積み込み方法となっていました。

天鉄局のアルバムから、百済駅の積載風景

 

一番の特徴は、なんといっても貨車に自走で積み込めることでした。
特に上段には専用のスロープを使ってのせられるになっており、輸送中は車1台1台にシートカバーがかけられ、専用列車としてはかなり目立つ存在でした。(初期の写真を見るとカバーは掛けられていませんので途中から変更されたと思われます)
本格輸送時には、カバー掛けることになったようで、カバーを収納するために量産車では、床下にシート格納箱を設置した他、下段床を全面的に塞ぐなど改良が施されました。

 

 

最高速度は一般の貨車と同じ85km/hとそんなに速くはありませんでしたが、物資別適合貨車の走りと言えましょう。

なお、自動車メーカーからの要望と思われますが、車高の高いバン等も輸送したいという要望に応えるため、ク5000の改良型として昭和42年にはク9100 形が試作されました。この車両は中間に特殊な2軸を挟んだ連接構造の車両でしたが量産されることはありませんでした。

 

当時の交通技術の記事から引用させていただきます。

             3軸低床式ク9100形式の試作なる

 

自動車の積載効率を向上し、乗用車に限らず車高の高いパン、軽トラックなどの積載を可能にして汎用性を高めようとの要望から、低床・連接式の3軸車運車ク9100形式が試作された。
2軸ボギー車としてはク5000形式より車長を伸ばすことは不可能であり、低床構造を採用することも難かしいうえ、実積載荷重が小さいため4軸を必要としないことから、連節式3
軸低床構造が採用された。車輪直径は790mm、連結器中心高さ(空車時〉は850mmの特殊寸法を採用している。走り装置は通常の2段リンク式であるが、担(にない)バネには逆反りの特殊形状を用い、中間軸には特殊なガイド装置を用いている。ク5000に比べl,500cc級の乗用車が2台増積でき、195mm車高の高い車の積載が可能である

交通技術 8月増刊号から引用


自動車輸送は国鉄にとってはお得意様だったのですが、スト権スト以降荷主の信頼を失うこととなり、貨物輸送はさらなる低迷に入ることになるのですが、その辺は別の機会にさせていただきます。

 

続く