貨物輸送今昔 24 車掌車のお話 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

 最近の貨物列車では、積雪区間を走る貨物列車以外は無粋な円盤式反射板になってしまいましたが、昭和時代には、貨物列車の最後尾には車掌車と呼ばれる車両が必ず連結されていました。
機関車の汽笛共々、なんとも絵になる風景であり、レールのジョイント音とともに闇の中に消えゆく赤いテールランプは子供心にも哀愁を感じさせてくれるものでした。

そんな、貨物列車にアクセントを持たせていた車掌車は昭和60年のダイヤ改正で原則として廃止されることになりました。
昭和59年2月のヤード系輸送の廃止により多くの車扱い貨車に余剰が生じたことや、防護無線の整備などが、主な理由とされています。

定期列車としては、2000年まで紀勢本線の貨物列車(稲沢~新宮間の紙輸送列車)が最後まで使われたと記録されていますが、恐らく山間部での無線が届かない場合などを考慮したものではないかと考えております。


さて、車掌車は、読んで字のごとく、貨物乗務の車掌が乗る車両(昭和45年からは列車掛(係)が乗務)していました。
若い方には、車掌車は甲種回送の両端に設けられる控え車のような存在であったりしますが、形式名は「ヨ」【車掌(しゃしょう、の「よ」】から来たものです、Wikipadiaには、「ヨ太郎」と呼ばれて親しまれたと書かれているのですが、実際に部内で使われていたかは判りませんが、緩急車ならぬ、「寒泣車」に関しては、坂本衛さんの著書にも出てきますが、国鉄部内誌、国鉄線昭和30年1月号にも以下のように綴られています。

戦前の代表的な車掌車ヨ2000とその内部 照明は天井から吊す石油ランプ、暖房は当然のことながら無しの車内 交友社100年の国鉄車両から引用

 

戦前後における貨物緩急車の荒廃は特に惨憺たるもので、「寒泣車」の異名さえ奉られた位である。
その緩急車も、ここ数年間の各方面の協力で着々と整備、改善が進み・・・
と書かれるように当時は、かなり劣悪な環境であったことが窺えます。

戦後荒廃した車掌車に代えて増備されたのが、ヨ3500形と呼ばれる車掌車で、4枚窓両端がオープンデッキの貨車でした。
戦前に製造された、ヨ2000形が、ストーブなどの暖房装置も無く室内灯も石油ランプだったのに対して、石炭ストーブが整備され、車軸発電機により室内灯も点灯するようになっており、これらは特殊緩急車と称して運用が定められていたそうです。

ダルマストーブが設けられているワムフ100の車内 交友社100年の国鉄車両から引用

 

このあたりは、坂本衛さんの著書で下記のように記されています。
少しだけ引用させていただきますと
  ヨは列車別にきっちりと運用が決まっており、そんな列車はおおむね古参車掌の乗務に充てられていた。反面、新米車掌は明けても暮れてもワフばかり。今思えば差別、虐待、いや人権蹂躙ともいえる勤務体制でありたか、当時としてそれは当然のことと受け止めて、誰ひとりとして文句を言う人はいなかった。
注:戦前形のヨ2000形も昭和30年代後半には、車軸発電機取り付けなどにより電灯及びストーブなどの設備がなされたと100年の国鉄車両には記されています。

と書かれています、ここでワフというお話が出てきましたので、もう少し補足させていただきますと、ワフは貨車と車掌車を一体化した車両でいわゆる合造車といえるものであり、主にローカル線などでの輸送に供されるものでした。

そして、戦後に製造された車両がワフ29000という車両でした。

この車両は、照明もストーブも無い車両であり、昭和30年から製造されるワフ29500より見劣りしたため、昭和41年から近代化改造が進められストーブや照明などを設置したほか、ワフ29500に準ずる車体に改造されたそうです。

ワフ29000形、後にデッキが設けられることになりました。     

    昭和30年から製造されたワフ29500、照明・ストーブなど居住改善が図られた。

 

これら緩急車は照明も暖房装置も設置されておらず、冬の夜間勤務は大変であったと思われます。

なお、車掌車も緩急車も車掌が乗務するという点では同じですが、ワキ1000の車掌車として使われたワムフ100は一般の車掌車同様の装備が設けられていたようです。
さて、そろそろ時間も来ましたのでこのへんでヨ太郎話をおしまいにしたいと思います

 

 

ワムフ100 画像wikipaedia