鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

 

 分割により、地域の特性に応じた車両の開発が可能に

国鉄時代は、基本的に全国配転を考慮したデザインが求められたこともあり、性能不適合を承知で過剰装備だったり、ニーズに沿わない車両を運用せざるを得なかったりと言うことが多々ありました。

東北本線(黒磯以北)や羽越・奥羽本線や九州電化各線では、交流電化ですので、その区間だけを走る列車であれば、交流専用電車の方が効率的となるわけですが、九州も東北地区も直接線路で繋がっていますので、仙台地区も北九州地区も交直流電車にする方が汎用性は高くなり、まして昭和43年以降は50/60Hz共用を使っていることもあり、国鉄としても457系や415系国鉄時代は、基本的に全国配転を考慮したデザインが求められたこともあり、性能不適合を承知の

過剰装備だったり、ニーズに沿わない車両を運用せざるを得なかったりと言うことが多々ありました。


東北本線(黒磯以北)や羽越・奥羽本線や九州電化各線では、交流電化ですので、その区間だけを走る列車であれば、交流専用電車の方が効率的となるわけですが、九州も東北地区も直接線路で繋がっていますので、仙台地区も北九州地区も交直流電車にする方が汎用性は高くなり、まして昭和43年以降は50/60Hz共用を使っていることもあり、国鉄としても457系や415系に代表されるような車両が使われていましたので、実際に常磐線で使用されていた415系が九州地区に更にJR化後も廃車になった東日本の415系を九州が譲渡を受け入れると言ったことが行われていました。

しかし、当時のJRでは持株会社は認められず、便宜上JRグループとされたものの地域毎の別個の会社と言うこともあり、各々の会社は他社の意向を気にせず車両を開発することとなりました。
更には、新生JRの目玉として各社がこぞって新車を発表していくのでした。

 

 JR各社は昭和63年以降新車を発表

先陣を切ったのが、JR九州が投入した783系電車で、本格的にステンレス車体を特急列車に採用したもので、交直流用電車とはせず九州島内のみを運転する列車として交流専用電車となったことから、運用として下関・小郡付近まで運転と言った国鉄時代の列車設定は出来なくなりました。
電車の詳細な話は本題から外れますので省略しますが、分割民営化を象徴する出来事の一つと言えましょう。

同じように、JR東日本では常磐線の「ひたち」置換え用として、651系が誕生し、常磐線の485系を置き換えるべく導入されることとなりました。ここで注目すべきは、電車の形式を国鉄時代の原点に戻り2桁目を50番台から採用したことでしょうか。

CC 表示-継承 3.0, リンク

まったく新しいスタイルの交直流形ということから600番台を選んだものの、特急用としてほぼ定位置にあった8を使わずに50番台からスタートさせた訳で、151系電車の登場の頃に倣ってと言えましょう。

更に、JR西日本でも新車が投入されますが、西日本では直流標準電車ともいうべき車両として221系を誕生させます。

西日本の直流電化区間をどこでも走れることを基本に、MM'の国鉄形時代のユニット構成とともに、1M方式も連結できるということで、2M2T+1M1Tの3M3Tと言った、国鉄時代では考えられないユニットも誕生しました。

窓が大きく開放感がある車両は好評で、117系を主役から追いやるのは時間の問題で、一部は急行列車としても季節列車で運用されることとなりました。

117系をブラッシュアップしたような車両で、つり革も殆どないすらいるは非常に開放感のあるものでした。

 

 JR西が特急ではなく普通電車に注目したのは

 

あくまでも仮定ですが、JR西は大鉄局に本社機能を持たせたと考えるのが素直であり、大鉄局は阪急をかなり意識していたのは間違いないでしょう。

117系への拘りもそうですし、未上場(当時)ではあるとはいえ民営化された以上、利益を出さなくてはいけないということから。都市間連絡の特急よりも、身近な利用者特に阪急とJRはほぼ営業区間が被る(神戸線・宝塚線・京都線)ことから、少しでも利用者を取り返したいという思惑は相当なものだったのでしょう。

 

こうして、JR発足1年目は、互いに手探りで足元固めていく、そんな時代だったように思えます。