鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

国鉄は戦後赤字続きだった

監査報告書から転記したので、昭和27年以降しか記載できていませんが、概略で見る限りでは、昭和31年までは赤字決算が続き、昭和32年から黒字に転換し、昭和38年まで連続して黒字決算を続けたとしています。

 

昭和32年に大幅な黒字に転換した背景には、運賃値上げが功を奏したとされています。

当時の国鉄は、国内輸送をほぼ独占する状況で有り、その反面、経済成長は続き、鉄道の輸送力は逼迫している状況にありました。

 

そこで、昭和32年度を初年度とする、第一次5カ年計画がスタートするのですが、この目的は老朽設備の取り替による近代化も織り込まれていました。

なお、この辺に関しては弊ブログ国鉄があった時代特別編 第7話 に詳細が書かれていますので、こちらから引用してみたいと思います。
13年ほど前に書かれた記事ですが、概ね間違っていませんので、多少の解説を加えながら進めていきたいと思います。

昭和29年~31年は赤字決算でしたが、戦前の輸送力水準にほぼ戻った昭和32年度からは第1次5ヵ年計画もスタートしました。
 第一次5ヵ年計画を前に、運賃値上げか国の補助を入れるかの点が審議されました。

結局、国鉄としても企業体としての独立採算を堅持することを選択しました。これにより、国家財政の負担を軽減し、直接国民に税負担を加重しなくてすむという考え方に基づくものであり、多少の合理化は止むを得ないと考えたようです。
 当時の国鉄は、元々運輸省の現業部門が独立した形となっているため、運輸省以上に、官僚意識が強く、国家のためにといった職員が多かったと聞いています。

ここで注目していただきたいのは、5カ年計画というのは本来であれば、国家的事業で有り、国の税金を投入してでも行うべき事だったと思うのですが、そこで出した政府の判断は補助を入れないという方針でした。

政府にはお金がなかったので、国鉄にひたすら依存した

当時の政府には、財源が少なく地方交付税の配分にも腐心していました。

また、公営競技(公営ギャンブル)と呼ばれる、競輪・競馬・競艇などが地方自治体で開催される背景には戦後のGHQによる指導もあったと言われていますが、これも復興資金獲得のために行われたものであったと言われています。
このように、当時の政府には余力が無く、国鉄などから地方納付金という名目で、固定資産税の半額を徴収したのもそうした政府の懐事情からでした。

実際、国鉄は前述したとおり、国内輸送をほぼ独占しており、高速道路なども整備されていない時代に有っては、高速に移動できる手段は鉄道しかなかったのです。
昭和32年度を初年度とする、第一次5カ年計画は、国鉄の運賃値上げで資金を確保することとされました。

上記の図で、昭和32年に226億円もの黒字決算を出したのは、運賃値上げによるものが大きく、この黒字を利用して第1次5ヵ年計画は進められることとなりました。

このように、国鉄が独占期間であるとしても、経済成長の片翼を国鉄に依頼するやり方は、果たして正しかったと言えるのでしょうか?

十河総裁の下、政府を支えるもう一つの運輸省?

なお、話は前後しますが,昭和31年からは、現在のJRの分割民営化時にも参考とされた支社制度が導入されます。

詳細は後述しますが、この当時に既に国鉄を民営化する案もあったことがその背景にあったと言えそうです。
支社制度は、 全国を6つに分割するもので、「北海道・東北・関東・中部・関西・西部」の6支社を設置するものでした。

その後、九州・四国・新潟が分離して、9支社体制となりました。
なお、この辺は次回詳述します。
こうして、国鉄は公共企業体としての機動性を獲得するために、本社の権限を支社に委譲するとともに、老朽車両の取り替えなど行いつつ、施設の増強改良などを政府の支援を受けずに、むしろ地方納付金と言う名目で、地域の為にお金を払い続けながら、政府の意向でローカル線の建設などを推進していくことになりました。
さらに、資金調達も自ら行うこととされ、不足分は市場で集めることとされていました。
これには、主に鉄道債券(政府保証付き)の発行で調達することとなっていました。
新幹線の建設に際しては、国際銀行からの借り入れを決定するなど(これには政府としても佐藤栄作(元大阪鉄道局長、後の 第61・62・63代内閣総理大臣)を歴任の尽力もあったと言われています。

国鉄を支えた民有車両方式

国鉄は、自らの資金でもしくは民間の力を借りながら、特にこの時期注目すべきは、民有化車両でした。

文字通り、民間の車両工場が保有する鉄道車両を何年かの年賦で国鉄が買い上げる形として考えるとしており、同じ車輌製造費用で、より多くの車両を整備することが出来るようになると考えていたようです。

 

詳細は改めて後述しますが、国鉄側の輸送力不足にある車種を選定して、車両製造工場の余力なども考慮して、三等寝台車100両や、気動車(キハ17形等)90両などが製造されることになりました。

交通技術1956年1月号から、引用

 

なお。契約に対しては下記のような条件が車両メーカー側と交わされたと、交通技術1956年1月号に記載されていましたので、併せて参考までに記載します。

引用元は、引き続き、交通技術1956年1月号です。
 

借入条件として提示されたものは、次の通りである。

  1. 全両数を賃貸借契約により借入使用する。
  2. 賃借料は次のとおりとする。車両減価償却費(3~4.5%)+金利(6%)(客車および貨車は耐用年数30年として3%の償却をデイーゼル動車は20年として4.5%の償却を、また金利は市中金利を仮りに1割2分(12%)と予想し、生産費のうちに含まれる材料費の割合を50%と見倣して、その分のみをとったと考えられる)
  3. 製作監督は、従来の製作契約の方法に準じて行う。
  4. 借入使用中、無過失により生じた車両の損害は、国鉄の負担とする。従って保険料は考慮されない。
  5. 主要材料について、国鉄が委託調達することは、行わない。

続く

 


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