鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

今回も石田禮助総裁が現在に転生したらという事で、総裁に語っていただきました。

今回は、鶴見事故の話などを中心に書かせていただきました。鶴見事故は、昭和38年11月9日に発生した事故で、走行中の貨車が途中で脱線、そのまま電柱に激突して反対側の線路を支障、その煽りでとなるの電車も脱線、通過中の電車の側面を横切る形となり、衝突された電車は台枠から上がえぐり取られる形となり、160名以上が死亡する大事故となりました。当時の総裁の心境なども併せて伺いながら、その後どのような舵を切っていかれたのかを伺ったのが今回の話となります。

 

総裁、前回はありがとうございました、そして、再び及びだてしてしまったこと、深くお詫び申し上げます。

総裁は、昭和38年5月20日に第5代国鉄総裁として十河信二氏の後任として就任されたわけですが、その半年後には鶴見事故が発生し、総裁m非常に衝撃を受けたと伺っております。その辺についても教えていただけますでしょうか?

 

最初に私の鶴見事故に関する見解などを含めて以下のようなご質問をさせていただきます。

 

特に、三河島事故の場合は、乗務員の不作為的な部分がありましたが、鶴見事故は正直避けようのない事故だったと理解しています。更には、五方面作戦があったからこそ、現在の東京の交通網は非常に充実させることが出来た、然しそれ以上に当時の通勤ラッシュは現在の比ではなかったと承知しております。大きな決断でありましたが、全て国鉄の言わば自主調達財源という事で、道路や港湾が税金で整備される中に有って、矛盾があったのも事実だったと理解しております。 

「ノー・モア死出の片道キップ:忘れぬうちにやってきた“鶴見事故”」『サングラフ』第14巻第1号、サン出版社、1964年1月、doi:10.11501/3551063。, 日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=5024991による

鶴見事故の様子、国鉄総裁の決断

「ノー・モア死出の片道キップ:忘れぬうちにやってきた“鶴見事故”」『サングラフ』第14巻第1号、サン出版社、1964年1月、doi:10.11501/3551063。, 日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=5024991による

 

石田禮助は以下のように回答してくれた 

加藤君、君の言う通りだ。よくぞそこまで、当時の国鉄が置かれていた構造的な歪みと、現場の痛みに気づいてくれた。
ブログに載せるなら、この部分こそが「なぜ国鉄が後に破綻へ向かったのか、そしてなぜ私が『卑ではない』筋を通し続けたのか」 を語る上で、最重要の核心になる。腹を割って話そう。
鶴見事故の「避けようのなさ」と、乗客を詰め込んだラッシュの地獄
君の指摘通り、三河島事故(昭和37年)は信号見落としなどの人為的要素が重なったが、鶴見事故(昭和38年)は競合脱線、つまり「貨車がなぜか一瞬浮き上がって脱線し、そこへ絶妙のタイミングで上下線の電車が突っ込んだ」という、当時の科学では解明しきれない、現場にとっては「避けようのない不条理な大惨事」 だった。

   東海道本線鶴見・横浜間における運転事故 報告書 全文(後編)

 

 

だからこそ、私は恐怖したんだ。どれだけ現場が真面目に働き、運転士が細心の注意を払っていても、「線路の容量(キャパシティ)が限界を超えていれば、いつでも大事故は起きる」 という現実を突きつけられたからだ。
当時の東京の通勤ラッシュは、今の比ではない。乗車率300%近く、窓ガラスが乗客の圧力で割れ、ドアが閉まらないから駅員や学生のアルバイト(押し屋)が文字通り乗客を車内に「押しつぶして」詰め込んでいた。
そんな超過密状態の線路に、旅客列車も貨物列車も、隙間なく交互に走らせていたんだ。まさに薄氷を踏むような毎日だった。五方面作戦(複々線化)という大手術は、東京の交通網を未来へ繋ぐために、文字通り「やらなければ、いつまた何百人も死ぬかわからない」 という、文字通りの背水の陣だったんだ。
実際当時の朝ラッシュ時は300%等という信じられない状況が続いていおり、
「道路は税金、鉄道は自腹」という国の致命的な矛盾
そして、加藤君が今見事に突いた「財源の矛盾」こそが、私が国鉄時代に一番怒り、大蔵省や政治家どもに机を叩いて怒鳴り散らした最大の問題だ。
当時、国は「高度経済成長だ!」と息巻いて、自動車のための道路や、物流のための港湾を、国費(つまり国民の税金)を使ってジャブジャブ整備していた。ところが、同じ国のインフラであるはずの「国有鉄道」に対しては、「国鉄は独立採算制なんだから、自分たちの稼ぎと借金(財政投融資)で全部やれ」 と、突き放したんだ。
これがどれほど無茶な話か、経済人なら誰でもわかる。
新幹線の建設に、五方面作戦という天文学的な巨額投資、さらには安全対策。これらをすべて、国鉄の「運賃収入」と「利息のつく借金」だけで賄えというんだ。
そのくせ、政治家どもは「国民の生活を守るため」と言って、運賃の値上げを法律で何年も凍結し、自分の選挙区には「赤字になるとわかっているローカル線」を無理やり作らせようとした。
入る金(運賃)は縛られ、出る金(建設費・安全対策費)は天文学的。おまけにインフラ整備はすべて自腹の借金。これで経営が成り立つわけがないだろう。国鉄の財政破綻へのカウントダウンは、まさにこの時から始まっていたんだ。
経営者としての私の闘い
私は三井物産で「入るを量りて出ずるを制す」という商売の基本を叩き込まれてきた。だから、この国の歪んだ構造には我慢がならんかった。
私は総裁として、ただの役人のように「はい、わかりました」とは言わなかった。
「道路と同じように、鉄道の基盤整備にも国費(税金)を投入しろ!」と時の首相である佐藤栄作や大蔵省に迫り、運賃制度の改定(グリーン車などの新設)や、不採算路線の見直しを断行した。
世間からは「冷徹な合理化主義者だ」「冷たい総裁だ」と批判もされたよ。だがね、加藤君。これをやらなければ、国鉄は安全対策の金すら出せなくなり、また鶴見事故のような地獄を繰り返すことになる。それだけは、何が何でも阻止せねばならんかった。
私の「合理的思考」は、お金をケチるためじゃない。「国の不条理なシステムから、現場の命と、乗客の安全をどうやって守り抜くか」 という、私なりの命がけの防衛戦だったんだ。
――どうだね。今の東京の綺麗な満員電車や、張り巡らされた複々線のレールは、こうした「国の矛盾」と戦いながら、現場と私が泥をかぶって、借金まみれになりながらも意地で作り上げた血と汗の結晶なんだよ。