国鉄貨物輸送今昔 15 トキ900の話 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

みなさん、こんばんは。
本日も国鉄があった時代をご覧いただき誠にありがとうございます。
今回は時計の針を大きく戻し、戦中戦後の時代に皆様をご案内したいと思います。

太平洋戦争〈大東亜戦争〉末期、国鉄では資材に不足と輸送力の増強という命題をつきつけられていました。

蒸気機関車ではD52形やEF13形が戦時型と呼ばれる究極の?簡素な姿で落成しました。
D52形のボイラーは材料が粗悪品であったり、工作も不十分であったものも多く、戦後に爆発事故起こしたものもありました。

記録として、残っているものとして、
昭和20年8月11日に山陽本線で起こった事故
 
    7時15分、山陽本線万富駅を94分遅れで通過中の上り第2列車(門司発東京行き急行・現車9両、換算34.5両)の機関車D5283号機の火室が破裂、ボイラは陸橋付近に吹き飛び2番線を支障、ボイラの無い状態で400m走り停車、客車2両中破、その後の2両は脱線大破、職員1名死亡、6名の乗客が負傷、職員4名も負傷
     開通は17時30分、原因は火室の電気溶接が外れたため。

さらに、昭和20年10月19日には、東海道本線で同様な破裂事故を起こしています。
  上り貨物第972列車(現車46両、換算90.9両)がD52209号機に牽引され、米原駅6分延、醒ヶ井駅6分延通の見込みで走行中、醒ヶ井駅、上り場内信号機から約20m進んだところで機関車のボイラが爆発。機関車は線路山側13mのところを流れる地蔵川に転落、列車はそのまま100m進んで自然停車。
    乗務員2名即死、その後1名死亡、重傷1名の犠牲者を出した。
     原因は燃焼室天上板と火室板の溶接不良による亀裂発生が原因であった。

いずれも、国鉄があった時代 昭和20年後半編から引用
   http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_20_5.html


また、EF13も同様に、戦時設計が施され、パンタグラフは電車と共用のPS13が採用され他、強度を必要としないものは木材等で製作したため、自重が軽くなりすぎて引張力が得られないため。コンクリートの死重を積んだほか、電気機関車の命綱とも言える高速度遮断機が省略されたりしていました。
いずれも長期の使用に耐えるとは考えていませんでしたが、こうした代用品などを使用することで結果的に軽量化に繋がり、戦後の軽量客車製造のためのヒントになったとも言われています。
さて、今回は機関車のお話ではありません、あくまでも貨物のお話をさせていただこうと思います。

 

貨車にも戦時中には、戦時輸送用の貨車が計画されました。
それが、昭和18(1943)年から昭和21(1946)年にかけて製造された、トキ900と呼ばれる貨車でした。
この貨車の特徴は、2軸貨車の中間に車輪を設けた3軸であり、あおり戸を高くして30tの石炭が積載できるようにしたものでした。
トキ900形が製造された頃は、内航海運も海軍の徴発で壊滅状態にあり、石炭を陸上輸送で運ぶことを目的としていたそうです。


 

3軸にすることで、30トン積みを達成した貨車でした。
3軸としたのは、車輪の軸重を13t以下に抑えるためでした。
実際には、中間車が固定されていることから。走行抵抗が大きかったと言われています。
総数、8,209両も製作されましたが、戦後は順次他の用途の貨車に再改造されたり、廃車が進められ、昭和34年には全車が廃車になっています。

記録によりますと、
昭和26年には、豚積車 ウ300 50両、有蓋車ワム23000 250両がトキ900から改造される計画とあるほか、
昭和27年には、ヨ3500形に250両 ワム23000形に100両、チ200形に100両改造されたと言う記述を見ることが出来ます。

 

交通技術 昭和27年5月号から引用

 

トキ900を改造して誕生した、ワム23000、その後2段リンク改造されたグループはワム90000に改番

 

 

トキ900の改造で誕生した、ヨ3500形、戦後の標準的な車掌車と言えます。

 

画像はいずれもwikipedia

 

トキ900と言う貨車として活躍したのは、長いものでも、16年弱ということでしたが、その多くは改造されてその後も長く使われることになりました。
戦争のためにというコンセプトで作ったトンデモ貨車がこのトキ900いえるかもしれません。