貨物列車今昔 16 「たから号」の話 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

  みなさま、こんばんは。
本日もご覧頂きありがとうございます。

今日もコンテナのお話をさせていただこうと思います。
コンテナ輸送がスタートしたのは、昭和34年11月にその取り扱いを開始した「たから号」ですが、この列車が誕生した当時は、道路の整備等も進んでおらず、陸上輸送の基本は鉄道、そんな時代でした。

それでも、荷主の中では、下記のような不満が募っていたのも事実のようで、昭和39年10月に国鉄線の記事では、下記のような記述が見られます。

 

  これまでの国鉄の貨物輸送が、輸送需要の増大に対処するのに急で、質的な輸送サービスの向上についてはやや不十分であったことに起因している。そして、そのことが、「国鉄の貨物は遅すぎる」、「いつ到着するのかわからない」、「適切な貨車を提供してもらえない」、「運賃自体は安いにしても、荷造費、積卸費、小運送費がかさみ、結局は割高につく」などと、いろいろな不評、不満を生んできたのであった。
このような情勢の下に、国鉄としても、貨物輸送の質的改善、近代化の一環として、コンテナ輸送に力を注いできたのである。

発足当初から10年で倍以上に増加したコンテナ輸送ですが、当初は必ずしも順調では無かったそうです。
グラフだけを見ていますと順調に伸びていますが、運転開始当初は、昭和35(1960)年に入ると、下り列車には平均30個もの空コンテナを回送しなくてはならず、輸送がアンバランスになっていたと、国鉄営業局配車課長が、国鉄線昭和39年11月号では述べらています。

その理由は、色々あるようですが、コンテナ輸送が車扱い輸送と比べて割高な運賃を設定したため、荷主が嫌ったという側面があったようです。

 

さて、少しだけここで、コンテナの歴史について簡単に振り返ってみたいと思います。

日本で「コンテナ車」が誕生したのは昭和5(1940)年頃まで遡れるそうです。
ただ、当時のコンテナは、1トンないしはそれ以下であり、鋼製もありましたが、木製や竹製もあったそうです。竹製とか木製のコンテナというのはちょっと怖い気がしますが)
昭和13年頃までには約5000個を上回るコンテナがあったそうですが、日華事変の開始などでそのまま運用が停止することとなりました。
ただ、当時のコンテナは現在のような機械化とはほど遠く、積み込み・積み卸しは人力で行われていため、その困難はかなりのものであったと思われます。

交通技術昭和31年9月号から引用

 

戦後は、昭和31年に3トンコンテナが10個試作され、長物車に連結して輸送がい行われました。
3トンコンテナは長物車に搭載し、たすき掛けで固定金具により固定するなど手間がかかるものでした。
コンテナ輸送の成績はあまり芳しいものでは無かったそうです。
その理由を、再び先程の記事から引用しますと、

   原因は、三トンという大きさが取引単位に合致しなかったこと、コンテナを取り扱う通運業者が、採算上有利な混載貨物に力を注いだこと、その他コンテナ輸送体制が整わなかったことなどであった。

として、国鉄側にも問題があったが、実態にそぐわない部分もあったと書かれています。そんな中で、引き続き国鉄がコンテナ輸送に注力した理由として国家的要請があったと書かれています。
いささか誇大な話なのですが、再び引用させていただきます。

  貨物の速達をはかるとか、到着目時を明確にするとかいうことのほかに、各企業の体質改善を進める上で流通機構の整備と関連して、流通費の軽減が国家的問題となってきたからである。

どこまで、そうした国家的要請があったのかは別として、輸出を是とした時代であれば物流費の軽減は価格に反映されるため競争力を持つという意味では重要であったと思われます。結果的に中長距離輸送も更に低廉なトラック輸送がメインとなっていくのですが、それはコンテナの話と外れるので省略します。

そのために、コンテナであれば工場などから卸元まで一貫輸送が行えることでトータルとして輸送費や梱包費が軽減できるためと書かれています。
結果的に一時的な落ち込みはあったものの、昭和40年代半ば以降は貨物輸送全体が逓減して行く中で成長を続ける貨物輸送の優等生として育っていくこととなりました。
明日は、フレートライナーのお話をさせていただこうと思います。