今日も少しだけ思うことを思うままに書いてみたいと思います。
今日は、私の恥ずかしい勘違いをしていたという話、
「貧すれば窮する」
これって故事としては間違っているんですね。
まぁ、皆さんはそんなこと無いと思うのですが、実は二つの故事を混同していたために生じた誤りです。
正確には、「貧すれば鈍する」なんですね。
この言葉の意味を、故事ことわざ辞典で調べてみますと、下記のように書かれています。
貧すれば鈍するとは、人は貧乏になると、利口な人でも愚かになるということ。
ということで、日々の生活ばかりを気にして、頭が回らなくなる。更にそこから派生して、心が貧しくなると言う意味があるとも書かれています。
そして、私が勘違いして、混同していたというのが、こちら
「窮すれば通ず」と言い言葉です。
こちらも、先ほど同様、故事ことわざ辞典で調べてみますと、下記のように書かれています。
窮すれば通ずとは、最悪の事態に陥ってどうにもならなくなると、かえって活路が開けるものだということ。
なんですね。
故事ことわざ辞典 参照
今回のコロナ禍では、本当に大変で、スーパーマーケットや、通信事業のコンテンツ配信などを除けば大幅に落ち込み、また仕事を失った人も多々会っ有ったのでは無いかと思います。
私もお恥ずかしい話ですが、似たようなもので、どの様に暮らしていこうかと悩む日々ではあります。
しかし、ここで悩んでも仕方が無いわけで、「貧すれば鈍する」よろしく、思考を停止させてしまうとますます心も貧しくなってしまって、どうでもよいことに文句を言ったりして、ますます己を貶めてしまうような気がするわけです。
元々、「武士は食わねど高楊枝」ではありませんが、形式に拘り過ぎるようなところがあるのも事実なので、辺に自分で自分を締め付けるルールを自分に科しているのわけで。
「貧すれぞも、鈍したくない」と思っているわけです。
むしろ、「窮すれば通ず」よろしく、苦しいときこそ、見栄ではないですが、余裕があるように見せかけて、しっかりと冷静に考えることで、新たな道を開こうと思ってしまうのです。
無理だと思って諦めてしまえば、そこで終わり。
逆に、だからこそ、ここで踏んばれば、違った側面が見えてくる、そんな気がするのです。
貧すれば鈍するで、渦中の中に居るか。
窮すれば通ずで、その中に活路を見いだせるのか。
私たち一人一人の考え方次第と言えるのではないでしょうか。