この当時は、通信会社での業務で本格的にIT技術者としての歩みを進めるとともに、これ以外にもPCのセットアップなどの仕事も並行していたことがありました。現場での展開作業が中心で、単純に現場でPCをセットして、展開作業をするだけなので結果的にはなかなかスキルアップ出来ないという ジレンマはありました。 社内ヘルプ的なことで数多くのトラブルシューティングを経験していれば、社内SE等の道もあったのでしょうが、ついつい広く浅く色々経験してしまうのが私の悪い癖ですが。

その頃に、何を思ったか鉄道ジャーナリストと宣言したのでした。

まぁ、取材も行かないようなのがジャーナリストと言えるのかとか言われましたが、鉄道資料を子細に分析するのもジャーナリズムだと言っていただける人もいましたので、敢えてそのままにしてきたわけです。

実は、そのような看板を上げていた?からか否かは判りませんが、テレビ局からオファーが来たりすることがありました。

一番思い出に残っているのは、山陽新幹線には兵庫県に西明石・姫路・相生と双方のホームに列車が停車できるような仕組みがあるのかと言ったテレビ番組の出演依頼があったことが有りました。他にも、番組の企画でと言った電話などもあったのですが、実際に近畿ローカルで出演したのは、これが最初だったでしょうか。

大阪駅で待ち合わせして、姫路まで新幹線で移動、片道40分で新幹線ホームで取材、その後大阪に戻り夕方今度は自宅で取材を受けることになりました。
家にクルーがやってきて、30分ほど話をして帰っていったわけです、実はこの番組を見たことがなくて一時期youtubeでも見られたみたいですが、現在は削除されているので、まぁ、それはそれでいいんですけど。

ちょっとした成功体験と言えましょうか。

ただし、派手に声を上げるタイプではないので、単発の花火みたいに終わってしまうのが玉に瑕です。

ずっと、そこから連鎖的に広がって行くような繋がりが持てないので、いつも中途半端で終わってしまうと自己嫌悪なのです。

 

それでも、何も無いところから、こうした取材などがあるようになったことには多少なりとも誇らしさを感じたものでした。
そうして、この頃から少しずつですが、鉄道に関する専門家だと自分で言い聞かせる日々が始まるのですが、中々上手く行かないものです。

このようにして、派遣社員として働きながら、自分らしさの取組を始めるのですが、ここで感じた重要な事があります、そしてこれは私の最大の反省点ですが。

名乗る限りは本気で名乗れという事に尽きると感じます。

自分が、アマチュア半分ですよといえば、相手もそのように接する。逆に、自分はプロですよと接すれば、その時点で仮に、そのポジションに足りなかったとしても、やがて自身がそれを意識しているとそれらしく振る舞えるようになると感じました。

それ故に大切なことは、まず自身の言葉なり、決めたことに責任を持つべきだと思うわけです。

最近も、以下の名刺を示しながら、交通権学会など複数の学会などのも顔を出していますが、その時に申し上げるのは。

鉄道史の専門家です。

そんな風に言い切るようにしています、ただ、未だに研究家というタイトルでよいのか、もっと別のしっくりする名前にした方が良いのか、そんな風に葛藤する自分がいます。

特に、最近ではローカル線のあり方とかを積極的に発言するのであれば、もっと他の名前が良いだろうと思ってしまうのです。

 

そして、私は50歳からは、正直収入の殆どはIT関係の業務で得てきたわけですが、改めてこうして考えるときに、鉄道史を長く編集してきた、そうした粘り強さが、キッティングや現場設定等の地味な作業にも反映されていったのかと思うし、その反面、ロジックで考える癖が鉄道ジャーナリストとして活躍してく中で特に役に立ったのではないかと改めて思ってしまうのです。

まだまだ、ここで諦めてしまうことなく、更に前に進みたいと思ってしまうこの頃なのです。