ちょっと工事をしてたようです。
この講演会は、こちらの企画展「上山城 刀剣・甲冑展」に合わせて企画されたものです。
戊辰戦争時の上山藩総督、山村求馬(やまむらもとめ)って、有名??恥ずかしながら今回、初めてお名前を聞きましたよ!
目玉となる展示は、山村求馬が所用していた短刀です。山村求馬は藩の中老を務めた上級藩士で、秋田戦線で戦死したとか。
刀剣見たけど、なんかぶっとくて鋭い輝きを放っていた
上山藩って大きな歴史の中では目立たないけど、そういえば庄内藩に協力して薩摩藩邸焼き討ちに参加してましたな!
あと、北越戊辰戦争の時の加茂軍議にも参加していた。こんな遠いところをよくぞお越しくださったなあ〜
↓展示の中に、上山藩士が所持していた手札がありました。手札とは今でいう名刺みたいなもので、なんか錚々たるメンバーだぞ!
秋月悌次郎(会津藩)、花輪求馬(長岡藩)もいる〜
上山藩は越後戦線に駆り出されたほか、二本松に行ったり秋田に行ったり。遠いところばかりで大変です。
さてさて、講演会です。
講師は上山のご出身で東北大学の助教をしておられる栗原先生。内容は列藩同盟の指揮命令系統に焦点をあてており大変興味深い内容でした。
奥羽越列藩同盟は、必ずしも旧式の武器だった訳ではないというのが最近の説になっていますね。
それでは、なぜ敗れてしまったのか?なぜ列藩同盟は崩壊してしまったのか?
その原因が、指揮命令系統の難しさにあったとのこと。
上山藩は越後に出陣しまして、総督である千坂太郎左衛門(米沢)と一瀬要人(会津)の指揮下に入ります。
けっこう上山藩は、同盟に協力する姿勢を貫いていて健気に頑張っているんですけどね・・・嫌な時は嫌ってわりとはっきり談判してるので、「あっ結構言うのね」って思った。
上山藩だけではなく、他藩も”ヤチャヤチャヤチャ”と(←本当に史料にこう書いてある)言いたい放題言うので、米沢藩の千坂は困り果てたらしい
この上意下達ってのが、戦争を優位に行うための重要なポイントだったのです。
ただし、上意下達の難しさは列藩同盟だけではなく、新政府軍の方も同様だったらしい。各地の戦線で失敗を重ね問題点が見えてきて、途中から指揮系統のシステムを追加したり変更したりしています。
つまり双方とも、藩を超えた連合軍を運営するにあたり、いかに早く指揮命令系統を統一化するかが勝利への道となったのです。
ですが戦争のような非常事態において、衆議という形態は致命的な欠陥があります。
そうすると、薩長の二強っていうあり方の方がこの場合は正解だったのかな。(※土佐もいるでよ・・・)
ところで話は変わりますが。
9月3日、福島軍事局の軍議で、二本松奪還のために桑名の松平定敬公が福島口総督に就任したって。
そうだったっけ?すっかり忘れていた。
さらに9月6日には、土方歳三を福島口総督にするかどうかを協議したとのこと。
そんなことあった?!
ただし土方歳三については「生殺与奪の権を握らせていいのか」と賛否両論あって、実現しなかったらしい。
(なんで土方さんの時だけ、そういう物騒な言葉遣いをするんだよ)
もうこの時には米沢藩は降伏していたし、仙台藩も降伏を決めていたので話はお流れになり、二本松進撃も実現されなかった。
彼らは榎本艦隊と共に蝦夷へ・・・
いやあ、面白い講演会でした。勉強になった。
終始、仙台が因循だの惰弱だのとチョイチョイ悪口言われていて可哀想になってきた。上山藩にとって、仙台ってそういうイメージだったんだな。(さぞや煮え湯を飲まされたに違いない)
〜おまけ〜
幕末関連のクリアファイルをお土産に買いまくった。
右側の、人物関係図が大変緻密でよくできている。あとでじっくり眺めよう。