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「意識低い系」より「高い系」

書籍化のスカウト待ってま~す♡ノンフィクションライターが書いているフィクションって言いたくなる物語

 オフィス街の不動産屋に行った。兜町とか日本橋とか、バリっとしたスーツの男がたくさんいるのって、野放しにしてきた体が引き締まると思うの

 駅を降りてすぐの小さな不動産屋を訪ねた。まだスーツに着られてる感じの、笑うと八重歯が可愛い彼が応対してくれた。いろんなものがいろいろ不慣れな彼だけど、PCの使い方は早いわね。待って10分もたたない間にいくつも物件を出してきた。でもやっぱり、この近所から少し離れた場所にある物件だった。
 「ここは、電車で隣駅なので・・・・・・・」
 「へぇ、隣駅は全然行ったことないけど面白そうな場所よね」
 「どうでしょう、オフィス街と下町の中間みたいな場所です」
 それでも考えてもなかった下町暮らし。
 「行ってみたい、行ったことないから」
 ウーは嫌いじゃなかった。
 お兄ちゃんとならんで歩くとお母さんと息子に見えるかも……。
 駅を降りて工場と小学校がある通りを歩くと、意外と住民がいる地域だとわかった。
アーケードがある商店街は少しさびれていて、駅がある大通りのほうばかりが栄えているという悩ましい状態をどうすれば繁盛するんだろうとか考えながらウーは、お兄ちゃんが案内する場所へ向かう。
 「ここです、ここ」
 お兄ちゃんが指さしたマンションは、バルコニーにグリーンが飾られた鉄筋コンクリート5階建ての3階の部屋。
 「まあ、よさそうな・・・・・・・」
 「2DKで9万5千円。管理費3千円」
 「本当?」
でもね、階段なの。通りで丸の内に近いのに安いと思った。でも、3階なら引きこもりの体を鍛えるにはちょうどよさそう……。
 部屋に入って驚いた。リビングが畳で、ダイニングキッチンがフローリング。までは、普通かもしれないけど、ついているライトがひも付きの傘つきで、いつの時代のライト?
 「どう思う?」
 まだ学生っぽさが残っているお兄ちゃんに聞いたら、
 「やー、あはははは」
 (あははじゃねえよ、ちゃんとした物件を紹介しろよ)
トイレを確認したとき、なぜか、長い髪の毛が1本便器についていたので、
 「ね、ここ、オバケが出ると思う」
ウーは嫌な予感がした。傘ひもライトと長い髪の毛付きトイレ……。どこかの神様が、「ウーさんこの物件はやめておきなさい」と言っているように思えた。
 お兄ちゃんも若いながらも、
 「僕も霊感はまあまああるかもしれません。ここ、さっきから膝が痛いです」
 「うん、私も肩が凝ってる」
 「次ぎ、行きましょうか」
 お兄ちゃんは、たらーっと冷や汗を垂らしている。
 
 次の物件は、この場所の駅から地下鉄に乗ってウーがよく知っている町へ向かった。
 駅を降りると学生街らしい賑やかな繁華街がある。ウーが昔、よく遊んでいた町だった。駅から10分くらい歩いたところにある。
 「この町からスカイタワーが見えるという物件です」
 「ウソでしょ?だってここ、新宿寄りだよ?スカイタワーってすごくない?」

 「僕、この物件を見つけた時、場所もいいし、家賃は七万円だし、どういう物件が楽しみで絶対ウーさんに紹介しようと思いました」
 ひょっとして、ウーさん、際物物件ツアーの相方に選ばれましたっ!?てへぺろとか言っちゃうぞ。

 古い公団アパートのような物件だった。駐車場もあるけど、砂利敷きで、「自由」な空き地っぽかった。
 8階建の「8階です」
 わー、きっとエレベーターがあるよね?という期待は、七万円という家賃を聞いたときに覚悟していた。してたけど、マジで8階まで階段しかないってどうなの?
 若いお兄ちゃんは8階でもすいすい登っていく。肥満がくっついているウーは、4階に差し掛かった時にはぁはぁ、はぁはぁ、もう息も絶え絶え、
 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとまって、ちょっとまって、お兄さん、はぁ、はぁ、はぁ……」
 「あ、休みましょうか」
 5階の少し手前で、階段に腰掛けた。
 「この時点で、あり得ないと思う、この物件」
 ウーはぼそっと言った。
 「じゃ、中見ないで帰りますか」
 「待って、待って、スカイタワーは見ていくでしょ。この場所から見えるなんて、奇跡だもん」
 「僕も楽しみにしているんです」
 立ち上がるときに、お兄ちゃんはさっと手を出してウーを引っ張り上げてくれた。なんだかとっても甘い瞬間だった。
 頑張って8階まで登り、ドアを開けると部屋は、けっこう綺麗で住み心地はよさそうだった。
 窓を開けると小さく、スカイタワーが見えた。本当にスカイタワーの先のほうだけが見える。

 「すごいね、東京って高層ビルで空なんて全然期待してなかったけど、8階まで登れば、意外と景色がいいのね」
 「この物件、若い男の人なら、借りる人いると思います?」
 お兄ちゃんは8階まで登る気があるのか?
 「毎日、出勤する人は難しいかもよ?」
 二人は、部屋にしばらく座りこんで、この部屋の惜しい状態を話した。だって、やっと登った8階だもん。
 「この部屋いいね、でも8階はちょっと……」
 「僕が借りようかなと思いましたが、やっぱり8階を毎日上り下りするのはきついですよね」
 「カリなよ、そしたら遊びに来てあげる」
 「……飲み物買ってきましょうか」
 「マジで? ありがたい。若いっていいな」
 座っているウーを見てニコッと笑った彼はめっちゃ可愛く見えた。
 が、もうひとつのウーの心は、
 (あいつ、年寄りお化けに取り憑かれてるんじゃね?どう考えても8階エレベータなしの物件とか、傘ライトとか、部屋の間取りは完ぺきなのに変だよ……。ヘンすぎる……)

 間もなく、息も切らさず彼は戻ってきて、麦茶をくれた。
 「ありがとう」
 「……いいよね、この部屋」
 「……ええ、このまま住めればいいのにと思います」
 「どうする、今日はここにどれくらいいられるの?」
 「……スカイタワーにライトがつくまでというのはどうでしょう?」
 「ホント? ライトが付いているところ、まだ見たことがなかったんだ」
 ウーは、不動産屋のお兄ちゃんのサービスにうっとりするのだった。

 しかし……色恋沙汰から遠ざかること数十年。
 ウーは、お化け屋敷での出来事を話し始めた。


 暑い、暑い、部屋に戻るとエアコンのスイッチを押した。
 テレビをつけた。
 冷やしていたカルピスを飲む。
 汗がボタボタ流れる。
 タオルを風呂場から持ってきて汗を拭き拭き、もう一杯カルピスを飲む。
 はぁ~、
 フレンチを食べる人って、話の内容も高級なんだわ……。会話を高級にしたら、少しは畑仕事から逃れられるかしら・・・・・。プランターに植えたバジル。次々と花を咲かせている。
 でも、食用のバジルにするなら花を咲かせてはいけない。
 香りが落ちるから……。
 って聞いたことがあった。増やすならタネを作るには花を咲かせなくちゃね。
 

 キラキラ光るミニトマト、カーテンのようにツタを絡めたゴーヤがだんだん大きくなってきた。
 いくつかミニトマトを採取してテレビを見ていると、
 「ん?エアコン、壊れてる?」
 なんだか部屋の温度がおかしい気がする。
 エアコンの近くまで行って、スイッチをつけたり消したりしてみると、なんだか暖かい風が出ている。この期に及んでエアコンが壊れた?
 

 トイレに行くと、犬の毛玉や綿ゴミがすごく大量に発生している。
 「でたな、オバケ・・・・・・」
 負けまい、負けまい、勝つまで掃除!
 綿ゴミをゴミ箱に捨て、トイレ用のウエットティッシュで拭き掃除。
 戻ると、また大量の毛玉と綿ゴミがトイレにたまっていた。
 「ぎゃあああ」
 発狂しない、発狂しない、落ちつけ、落ちつけ、
 暑さでイライラするけど、ウーは掃除してもまた発生する埃、綿ゴミ、毛玉を根気よく掃除し続けた。カルピスに入れた氷がとけて、白と透明の層ができるまで掃除し続けると、エアコンは気持ちいい風を送ってくれた。
 「トイレ掃除したら、エアコンも治るお化け屋敷」
 ぜんぜん理解できないけど、考えたら怖くて泣きたくなるけど、女の一人暮らしはこんなオバケに屈してるようじゃ、旦那自慢のタレントに小馬鹿にされて、ますますむかつく暮らしになるんだから!

 ウーは、子もちの旦那自慢の女がキライになった。
 美容室できれいになったウーは、どこかで自分を試したくなった。手っ取り早く試すなら、フレンチレストランへ行ってひとりで食事するというミッションが最も素敵な試みだと思えた。
 イタリアンだと、大きなピザを一人で食べるのはとっても大変だし、パスタを頼むだけじゃ、何のために行ったのかわからない。それに、ウーは10代の頃にすでにイタリアンレストランで一人で食事をするというミッションはこなしたことがあった。
 絶対ひとりで食事して緊張するのはフレンチよ。
 ナイフとフォークの使い方も知らなかった高校生時代、ちゃんとマナー教室に行って習ったほど知らなかった。でも、今のがけっぷちに立っているウーにはフレンチをひとりで食べることくらいへっちゃらだった。他のお客さんはみんなともだちと来ている。楽しそうにおしゃべりしている。
 ウーは、最も出口に近い席に案内された。
 「あーあ、やっぱりまだまだ品が足りないのね……」
 自分にがっかりしては、コースメニューにひとつ、スープをプラスした。
 ビールとワインで迷って、昨日飲んだワインを思い出して、ビールが飲みたくなってしまう。
 「だめね、ビールが飲みたくなるなんて庶民の子、丸出しじゃない」
 昨日は、部屋の天井裏に住んでいるオバケがダンスを踊っていた。ドンドンドンドン、窓ガラスまで地響きで振動するので、クイックルワイパーの柄で、天井をダンダンダンダンつついたのよ。
 まるで、竹やりを持って戦うどこかの原始人みたいだった。
 「酒を飲まなきゃ頭がおかしくなりそうなんだもの」
昨日は、どこの国のワインかもわからない赤。ポリフェノールって、歯に着くよね?酔ってソファで目覚めて鏡を見たら、唇も歯も紫色だった。男らしい生活過ぎて鼻の下に髭まで生えそうな勢いだわっ!?
 「ビールお願いします」
 「お料理のメインは、カンパチ、お肉はカモでお願いします」
 メニューを聞きに来たギャルソンさんは、ちょっと残念そうな顔をした。ワインのことをきっと質問してほしかったのはわかったけど、ひとりでワインをがぶ飲みする女ってどんだけ肉食って思われそうで、まだまだウーは不慣れな女だった。

 フレンチレストランのカウンターで、ワインをがぶ飲みしているような女になりたい……。
 ウーさんの良心が、「ねえねえ、引越し代、大丈夫?」と話しかけてきたけど、女を磨かないと、都会に住めないのよっ!
 心の中の良心が、ぷちぷちっとシャボン玉みたいに弾けた。
  
 たまには美容室に行きたくなる。ううん、ウーは10代の頃、週に1回は美容室に行っていた。20代では月に1回になった。
 畑に囲まれた暮らしでは、何年も美容室に行ってない。
 でも脱出するんだから、うんと奮発して綺麗になろう!
 ウーは高そうな美容室を選んだ。高そうだから暇そうだった。
 「ご予約はしていますか?」
 「いいえ、もしすぐにできなかったらほかのお店に行きます」
 「大丈夫、店長ができます。ラッキーでしたね」
 きっとこの美容室で一番上手な人でしょ。
 「こちらのカルテに記入をお願いします。髪質などもチェックさせていただきます」
 高そうな美容室は、カルテがある。
 子供の頃は、びよういんとびょういんが似ているので、どちらも医者が行うのかなと思ってた。
 「こちらのお席にどうぞ」
 案内された席は隅っこだった。今のウーでは、窓際の客寄せパンダの席には案内してもらえなかった。美容室どころか、エステサロンにも行かなきゃならないし、スポーツジムにも通ったほうがよさそうだった。

「シャンプーを行いますので、こちらへ」
シャンプー台へ移動した。
 「痒いとことはございますか」
「はい、あちこちかゆいです。よろしくお願いします。頭皮も固くなっているような気がします。髪が薄くなったような気がします。どうか抱えている髪問題を解決してください」
「かしこまりました」
シャンプーをしてくれているのは、たぶん一番若い人だ。結構カッコいい。
カッコいい男の人にシャンプーしてもらうなんて、美容室ってば本当、天国だわ
ホストクラブに行くのは抵抗があるけど、美容室なら平気よね!

シャンプーを終えて席に戻ると、隣にお客さんが座っている。
鏡を見て驚いた。あのめっちゃ面白くて美人の女優さん!?
女優さんの隣に並んでいるプレッシャーは、イジワルなのか、サービスなのか、ウーはこの町のプレッシャーには、
「すいません、握手してもらえますか」
で、答えるのだった。
 部屋さがしで疲れたウーは、ソファに足を投げ出した。
 お風呂に入って汚れを落として、好きな番組を見ようっと!
 バスルームのドレッサーにウーの顔が映った。
 ぼさぼさ伸びた髪、疲れた顔が映った。
 (明日は、美容室に行ったほうがいいかも……)
 女子力アップって放っておくとどんどんほったらかしにできる。
 でも、知らない人に会う機会が増えると、自分を磨かなくてはかっこ悪すぎるということくらいは覚えていた。
 ウーは畑に囲まれた暮らしになって化粧品を使うことも、ハイヒールで歩くことも、美容室に行くことも忘れていたのね……。

 お風呂のお湯がたまった知らせがピピピピっとなった。
 「お風呂が沸きました、蛇口を閉めてからスイッチを押してください」
 むくんだ足がかわいそうなくらい腫れている。お風呂でマッサージをしてふくらはぎを柔らかくして、太ももをよく揉んでセルロースをプチプチ散らして撃退を試みる。
 おなかの肉も良くもみほぐし、つまんではねじって脂肪を細かくするイメージで、ああ、もっとのんびりお風呂に入っていた頃が懐かしい……。

 シャンプーは、いつの間にかコマーシャルをしているシャンプーになった。この間、ここに引っ越してきた時にお母さんが買ってくれたシャンプーだった。昔のウーは、もっと特別なシャンプーを使っていたのに、自分のことに興味が無くなりすぎて、使うシャンプーまでどうでもよくなっていたことにやっと気がついた。
 「はぁ、どんだけ女子力から遠ざかっていたんだろう……。明日は絶対美容室に行かないとブスまっしぐらだわ」

 猫背になりかけている姿勢も、ガニ股になりかけている歩き方も、つながりそうになっているまゆ毛の手入れも、ムダ毛の処理も、毛穴ケアも、明日座った美容室の鏡に映し出されてしまう。はぁ~、この町の美容室、どこに行けばいいのかわかんないし、イジワルされたらどうしよう……。はぁ~、昔行ってた美容室じゃ、都合悪いし……。
 美容室選びも結構難しいということに気がついたウーだった。

「つきましたよ」
 人情味あふれる商店街から徒歩10分と言っていた場所は、閑静な住宅地でウーはどこかわからなかった。住所のプレートが電柱に書いてあったので、お兄さんの勤めている不動産屋からもっと横浜に近い物件だとわかった。
「鍵を持ってきます」
お兄さんを待つ間、ウーは駅から徒歩10分のことを考えていた。
不動産屋はいつも少し短い早歩きの時間を言うのよね……。
「お待たせしました。さあ、こちらへ」
部屋はとてもきれいな新築物件のようだった。
「どうしようかな……。キライじゃない」
風呂も最新の設備、出窓があってウーが育てていたカニサボテンが飾れる。
洗濯機置き場も十分のスペース。
でも少々トイレが狭かった。
クローゼットは1軒分しかなくて、荷物が収まるか不安だった。

「では、次の物件へ行ってみましょう」
今度の物件は、大きな道路のそばで、車が走る音がすごかった。
マンションはすごくおしゃれで、歩道のすぐそばだった。
半地下になっているリヴィングがかっこよかったけど、冷静に見れば、
「冬、寒くない?」
「大丈夫です。床暖房が付いています」
キッチンは狭かったけど、すごくかっこいいキッチンで、ウーま今住んでいる場所のキッチンと比べたら、全然こっちのほうがいいけど、それでも少し狭いかな……。
というより、風呂場のドアを開けるとキッチンが使えない。
歩道を歩く人の足元が見える景色も不思議すぎた。
かっこよくて個性的で、なのに靴ばっかり見て過ごす?
ウーはうつむいて、もっといい部屋があったら連絡くださいと言った。
お兄さんは、もうひとつの物件を紹介することをあきらめた。
「もうひとつの物件はこの物件を見た後に紹介すると、あまりよく見えないと思います」
外に出ると、夜だった。
街のネオンが懐かしい。
でも、ウーは畑や田んぼばかりで意地悪な場所へ向かう電車に乗って、明日はきっといい部屋が見つかりますようにと願いながらお化け屋敷に戻るのだった。
 「ここで待っていてください、すぐに車を持ってきます」
 背が高い彼は、セダンでやってきた。後部座席のドアを開け、
「さあ、どうぞ」
 ついこの間まで、こんな暮らしだったのにな……とウーは運転手つきの生活を思い出した。
 自分の足で物件探しなどする必要が無かったころのウーは、不動産屋が勝手にやってきて物件を売りに来た。
  「分譲マンションは資産として有効です。女性の一人暮らしの資産運用としても便利ですよ。例えば、人に貸して家賃収入を得ます。これで購入時のローンの返済を行っても黒字利益で貯金もできます。老後のためにお金をためることもできるんです」
 ウーは、お金があるうちに思い切って小さなマンションを買えばよかったと後悔していた。

 

彼は、申し訳なさそうに3つの物件を紹介すると言った。
「あの、たくさんあると言いましたが、大家さんに確認をとりましたところ、意外といろいろとあるようで、町として安心できるところをご紹介したいと思いました。今から行く町は、人情味があって新しく住んだ人にも分け隔てなく接してくれる温かい街です。きっと楽しく暮らせると思います。僕も都内に引っ越すならこの場所がいいと思っている場所です。自信を持ってお勧めできます」
 ウーは、この不動産屋がある町に住めなかった自分にがっかりしていた。駅前の3軒の不動産屋から感じた派閥争い的な人種差別の匂いも、本当はがっかりしていた。
 「ねえ、お兄さんはどこに住んでるの?」
 「僕はお客様に自分のことを話してはいけないと教育されていますが、埼玉県に住んでいます。僕は、朝から東京に来て夜遅く埼玉県に帰る生活をしているので、オバケが出るとか住民によるいじめがあるとか全く知らずに住んでいますが、もしかしたら、あの町で仕事をしていたらわかるのかもしれませんね」
 ウーは少し、お利口になった。東京で仕事を探せば、嫌な想いをしなくても済むんじゃないかな……。
 「ねえ、どうしてオバケやいじめがあるんだと思います?」
 「事情はよくわからないけど、僕なら、そんな奴、気にせずに生きます。言いたいやつに言わせとけって思います。それでも腹が立って、我慢できなかったら言っている人間をぶっ飛ばします。でも、紹介する物件がある町ではそのようなことは起こらないでしょう。きっと楽しい未来が待っていますよ」
 
 お兄さんの言葉は、ウーを強くした。
 そっか、ぶっ飛ばせばいいのね。
 お兄さんとのドライブは、どんなに話していても飽きなかった。楽しくて勇気が出る人に会えたのは何年ぶりだろう。
 でも、ウーに対するいじめは、お兄さんの想像をはるかに超えていた。オバケよりも深刻な問題なのに、ウーは部屋に引きこもっているので知らなかったのだ。
 輸入雑貨の店でエスニックの麺と調味料を買う。
 ウーの心は震えていた。何度も後ろを振り返り、あたりを見回す。
 不動産屋では、自分の名前を書くのも住所を書くのも怖かった。
 検索されるのも、顧客名簿に登録されるのも怖かった。
 救われたのは、お兄さんが話しやすかったこと。
 (商店街の向こうまで歩いたら、どこかでお茶を……)
 この町の不動産屋は、駅前に3軒ある。
 ウーは気を取り直し、ほかの不動産屋にも行ってみようと思い立った。
 2軒目に選んだのは、小さいけど綺麗で殺風景だと思った不動産屋だった。
 中に入ると、女性が二人でおしゃべりしていた。
 「部屋を探しています、ペットが飼える部屋」
 ウーは犬を飼うのが夢だった。ところが、
 「ごめんなさい、そういう物件はありません」
 なにも調べずに、あっさり断られた。
 次に行った不動産屋は、店先に赤い張り紙がいっぱいしてある不動産屋だった。
 「売ります」「買います」「貸します」という文字が赤い字で書いてあったので赤い張り紙がいっぱいしてあるように見えた。本当はあんまり入りたくない店だった。なんだか汚くて片付いていないのが客を不安にさせるのだ。
 「ごめんください」
 不機嫌な顔のおじさんが、ぎろっとにらんだ。
 もう失敗したのはわかった。
 「あ、いいです、すいません」
 ウーは、別に人見知りなわけじゃない。でも、長い間会話できる相手とそうじゃない相手の区別はつく。
 なんだか疲れちゃった……。
 時計を見ると、まだ40分ぐらいある。
 向こうまで行ってみよう。
 アーケードに再び戻ると、洋服や帽子を見ながら、
 (この近所に部屋が見つかったらいいのに……、そしたら毎日、この楽しい商店街をお散歩できるんだけどな)
 素敵なカフェを見つけた。ウーが今住んでいる場所には無い、ヨーロッパのどこかにあるようなカフェだ。

 ケーキを食べたらお金が足りなくなっちゃうかな……。
 引っ越しにかかる費用を計算しながら部屋を探すほど、ウーの財布はさびしかった。早く新しい街で仕事を探さないと今度こそ呪い殺されるかもしれない……。
 
 「アイスコーヒーをください」
グラスで回る氷の音。ウーのかたくなっていた心が、ふうとため息をついた。何年ぶりかな。コーヒーって美味しかったんだ……。
 ウーは全然コーヒーを飲んでなかったわけじゃない。でも、いつも緊張していて厭な気持を抱えたままだったから、コーヒーのおいしさもわからなくなっていたのだ。

 コーヒーを飲み終えるとちょうど、約束の時間。アリスの国のウサギがかけだすように、ウーはカフェを出て、この町に住めるものだと信じて不動産屋へ向かった。



 「お願いします、助けてください」
 駅前の焼鳥屋がにぎわっていた。アーケードに囲まれた商店街もどこも長蛇の列ができている。

 数分並んで入ったラーメン屋は「女性限定、本日半額」。ラーメン屋は女性客でいっぱいだった。つい、さっきの出来事だ。ラーメン屋を出たウーは、本当の目的だった不動産屋へ向い、溢れる涙をこらえきれず、
 「オバケが出ない部屋を探しています」
 食事を終えたばかりというのに、力なくふらふらと勧められた椅子に座って差し出されたお茶を飲んだ。
 
 「何があったんです?」
 
「お化け屋敷に住んでいました。頭がおかしくなりそうで部屋を探しています」


 ウーの様子が尋常でないと誰が見てもわかる状態だった。不動産屋の空気は温かく、担当になった彼は背が高く男前だった。

 「仕事をしていると普通に時間が過ぎますが、一日、家にいる仕事の人はときどき確かにおかしなことを言います。住んでいる部屋を変えるというのは、みなさん事情を抱えていますが、最近、信じられないことをいうお客様が増えているんです。良かったら話を聞かせてください」

 ウーは、鼻水が垂れるのを拭きながら、
 
「たぶん、他の人と同じです。誰かに追い回されているような気がするし、部屋にお化けは出るし、どこかに普通に暮らせる場所はありますか。どうかお願いします」

 不動産屋の申込用紙に条件を書き渡すと、お兄さんはパソコンで条件が合う部屋を探し始めた。
 
 「たくさんあります。ええと、このままここでお待ちいただいてもいいですが、今日は少々混んでいて、1時間ほどかかります。どこかで買い物などを楽しんできては?」
 
 「はい、お言葉に甘えてあちこちぶらっとしてきます」

 ウーは安心した。物件はたくさんあると言っていた。お化けが出ない部屋を探し出せば脱出は成功のはずだった……。