「21世紀の「脱亜論」 ――中国・韓国との訣別」
(祥伝社、2015年)
◆◆◆ 出版社による紹介 ◆◆◆
http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=9784396113988
「日清戦争の前に戻りゆく東アジア。
いま耳傾けるべき、福澤諭吉130年前の警告!
日本は今こそ〈特定アジア〉と距離を取り、
〈開かれたアジア〉に目を向けるとき
本書の内容より
◎なぜ、いま「脱亜論」なのか
◎反日ファシズムに燃えているのは世界で三ヵ国だけ
◎台湾映画『KANO』が意味するもの
◎中国の冊封体制のもとに里帰りする韓国
◎柳田國男(やなぎたくにお)が『海上の道』で示唆(しさ)したこと
◎なぜ岡本太郎は、沖縄の「御嶽(うたき)」に心打たれたのか
◎〈特定アジア〉三ヵ国と距離を置くべき理由
◎中国と朝鮮・韓国は、いまも昔も主従関係にある
◎台湾と韓国で対日観が大きく異なる理由
◎分子生物学、遺伝子学から読み解く日本人の出自
◎アメリカに依存しない「新・脱亜論」のあり方
■「脱亜論(だつあろん)」の真意と、アジアとの新しい関係
明治18(1885)年に発表された「脱亜論」は、日中朝の三国で手を携(たずさ)えて欧米列強に対峙していこうと考えていた福澤諭吉が、中朝の現状に絶望し、その路線を断念した諦念を表明したものだった。
日本は明治以降一貫して、朝鮮が華夷(かい)秩序から脱し、独立するよう多大な労力を払ったが、無駄に終わった。100年たって今日また、韓国は華夷秩序に回帰しようとしている。もはや日本は「一衣帯水(いちいたいすい)」などという幻想は捨てて、中朝韓以外のアジア諸国と、今まで以上に紐帯(ちゅうたい)を強め、連携を深めていかなければならない。」
◆◆◆ 著者 ◆◆◆
http://kohyu-nishimura.com/profile.html
「西村 幸祐(にしむら こうゆう)
昭和27年(1952年)東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科中退。
在学中、第六次『三田文学』の編集を担当、「ニュー・ミュージック・マガジン」(現「ミュージック・マガジン」)、レコーディング・ディレクター、コピーライターを経て、80年代後半から主にスポーツをテーマに作家、ジャーナリストとしての活動を開始。89年より産経新聞F1特集の企画・執筆を担当。F1取材で世界を飛び回っていたが、93年のワールドカップ予選からサッカーの取材も開始。95年、雑誌「2002倶楽部」(ビクター)をプロデュース、産経新聞で「2002年W杯を考えよう」シリーズのインタビュアーを1年間務める。「人物発見伝・三島由紀夫」を「メンズ・ノンノ」(集英社)に発表。96年、日本初のサッカーオンラインマガジン「2002JAPAN」(現「2002CLUB」)編集長に就任し、00 年「サッカーウイナーズ」(新潮社)をプロデュース、「Number」に「白からの出発---岡田武史とコンサドーレ札幌」を発表。02年、カブール市民がW杯をテレビ観戦する「2002CLUB アフガンプロジェクト」を企画、アフガニスタンでのW杯パブリック・ビューイングを実現させた。
2002年日韓W杯取材後、拉致問題、歴史問題などスポーツ以外の分野にも活動を広げ、2003 年3月、「メディアの解体」を「現代コリア」に発表。「拉致家族と朝日新聞&筑紫哲也の深すぎる溝」を「諸君!」7月号に発表。
その後、「諸君!」「正論」「WiLL」などのオピニオン誌や「SAPIO」「リベラルタイム」などの報道誌、「歴史通」などの総合誌を中心に評論、ノンフィクション、レポートを執筆。また、言論誌「表現者」の編集委員を務めるかたわら、「撃論ムック」「ジャパニズム」をそれぞれ創刊して編集長を務めた。
現在、アジア自由民主連帯協議会副会長、戦略情報研究所客員研究員、CS局チャンネル桜キャスター。執筆の他、TV、ラジオにも出演。
また、印刷、電子、電波を問わないメディア開発や、それらを縦断する〈マルチメディア〉活動にも取り組む。政治経済から、文化、スポーツ、音楽、建築、サブカルチャーまでを網羅する、まったく新しい批評・情報誌の発行が夢。
◆◆◆ 著者自身による紹介 ◆◆◆
http://kohyu-nishimura.com/21seiki-no-datsuaron.html
「平成27年4月2日刊行の『21世紀の「脱亜論」―中国・韓国との訣別』(祥伝社新書)について
福澤諭吉が「脱亜論」を書いた当時、まさに日本は時代の分水嶺で、もがき苦しんでいた。その「脱亜論」の一三〇年後の意味はどこにあるのか。実は、福澤の「脱亜論」はアジア蔑視ではなく、特別な東アジアとは別の道を歩もうという「別亜論」に過ぎなかった。つまり、現在ではますますその意味が重要になっていることを、本書は詳(つまび)らかにするであろう。閉じた特別なアジアから、開けた普通のアジアと連携し、世界と繋がることが「21世紀の脱亜論」なのである。 日本は特定アジアと文明圏が異なっていること。日本人は特定アジアの人々と人種的にも異なっていること。そして、日本は古代から特定アジアから離れていた時代に、平和で安定した時代を築いていた事実。そんな事実を解き明かすことが、日本の今後の進路の取り方にヒントを与える第一歩になるのである。」
「『21世紀の脱亜論』発売記念! 西村幸祐トークライブ ~戦後70年と21世紀の脱亜論~(フル収録)」 YouTube2015年4月8日
https://www.youtube.com/watch?v=3IPQuwFcnOo
「「21世紀の脱亜論」を読む(その1)①西村幸祐 AJER2015.4.24(5)」 YouTube2015年4月23日
https://www.youtube.com/watch?v=WaTZXeTGiGM
◆◆◆ 私の感想等 ◆◆◆
トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」がよく売れている。
しかし、読みこなせている人はほとんどいないだろう。
そこで、便乗した解説書が多数出版されている。
中には、「資本論」と結びつけ、マルクスを現代に甦らせようとする輩もいるようだ。
マルクスなんぞは葬り去っておけばよい。
読んではいないのだが、佐藤優氏と池上彰氏は怪しいように思う。
「21世紀の資本」については、高橋洋一氏の解説書でサクッと要点を掴んで片付ければよいだろう。
我々が国の行方を考えるにあたっては、「21世紀の「脱亜論」」を読んだ方がよいと思われる。
甦らせるべきは、福澤諭吉なのだ。
私は本書の発売当日に書店に行き、店員に本書の入荷を尋ね、中年の女性店員がコンピュータで在庫状況の検索しようとしたところ、「”だつあろん”ってどういう字ですか?」ときかれてしまった。
「福澤諭吉の脱亜論ですよ。」と言ってみたが、その店員には通じなかった。
それから「脱亜論」と書くことを説明し、店員が検索し、入荷していることが明らかになり、本書を持って来てくれた。
帯に大きく印刷された福澤諭吉が印象的だった。
何を言いたいかと言うと、一万円札に印刷されていて誰でも知っている福澤諭吉の、今日のアジア情勢を考えるにあたり見直されて然るべき「脱亜論」を、大の大人(しかも書店の店員)がどういう字を書くかというレベルで全く知らなかったということだ。私にとっては予想外だった。
マスメディアが「脱亜論」を適宜取り上げておればこんなことにはなるまい。
高校用の教科書を基にした「もういちど読む山川日本史」(山川出版社、2009年)を確認してみたが、「脱亜論」は載っていなかった。
福澤の姿は一万円札で見るものの、福澤の魂は葬られてしまっている。
我々が相変わらず「閉ざされた言語空間」に生きていることを実感した。
本書はそういう言語空間に挑むものである。
南京大虐殺を記載せず、通州事件を記載したことで話題になっている中学校用教科書の市販版である「市販本 新版 新しい歴史教科書」(自由社、平成27年)の188,189ページには、「脱亜論」が大きく載っている。旧版にも「脱亜論」は載っていたが、南京大虐殺を載せず、他方で通州事件を載せることにより、「脱亜」の傾向がより強まっていると言えよう。
「脱亜論」を知る人が増えることが期待される。
ちなみに、著者の西村幸祐氏は、昨年6月5日からチャンネルAJERに出演しているのだが、初回の題名が「『21世紀の脱亜論とは何か①』西村幸祐 AJER2014.6.6(4)」だった(https://www.youtube.com/watch?v=DvXYyMrKbis)。「ジャパニズム 第17号」(青林堂、2014年2月)を開いてみたら、西村氏の論考に「二十一世紀の大東亜会議は特定アジアからの「脱亜」がテーマ」と書かれていた(20ページ)。
したがって本書は昨年12月に発売された「21世紀の資本」にインスパイヤされた便乗商品ではない。
本書の言わんとするところだが、上で引用した出版社の紹介文がよくまとまっている。
「韓国は華夷秩序に回帰しようとしている。」というのは、帯に書かれている「日清戦争の前に戻りゆく東アジア。」ということと同義である。
冷戦の世界観だと韓国は西側陣営の仲間だと考えがちだが、そういう感覚でいると東アジア情勢を見誤ってしまう。東アジア情勢は、冷戦より遥か前の、日清戦争前の状況に近い。
そこで、日清戦争以前に書かれ、わが国は華夷秩序の外にいるべきだと説く「脱亜論」が再び意味を持ってくるということだ。
「脱亜論」は、「我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」という一文で締めくくられる(「脱亜論」は時事新報の無署名の社説だが、時事新報は福澤が創刊した新聞なので、福澤の考え方に即していると考えられる。23ページ)。
「脱亜論」は、1960年代に一般に知られたことがあったのだが、その時は戦前日本のアジア軽視の悪しき思想として取り上げられていた(37,47ページ)。
しかし、これは誤解である。「脱亜論」が書かれた当時の最大の脅威はロシア帝国だった(42ページ)。清や朝鮮には防波堤になることが期待され、福澤自身も朝鮮の開化派である金玉均らを支援していたのだが、甲申政変や清仏戦争を経て、その期待は散った(42~46ページ)。かくなる上の「脱亜論」だった。
おそらく1960年代当時は、進歩的文化人を僭称する輩たちの間では、戦前日本の悪口を言い、ソ連を賛美することが流行していたのだろう。そういう思考回路では、ロシアの脅威を前提とした「脱亜論」を正しく読むことは不可能だ。進歩的知識人を更に劣化させたような近年の「痴呆的真面目顔」にはもっと不可能だろうが(70ページ参照)。
現在の最大の脅威は中国だ(71ページ)。「脱亜論」が出された当時よりも危機は迫っていると言える。「脱亜論」は現在の方がより妥当するかもしれない。
本書で特徴的なのが、いわゆる特定アジア(中国・韓国・北朝鮮という東アジア反日ファシズム国家群)に遠慮なく「Good bye」するために、様々な角度から考察が行われているところである。
人によっては、会話の中で中国批判に及んだ時、「中国からは文化などの恩恵を受けてきた」「中国は同じアジア人だ」などと言われ、中国様に逆らうなんてとんでもないということを言われたことがあろう。
現実にわが国の敵として中国が存在するにもかかわらず、中国に対する尊敬や親近感、はたまた贖罪意識を捨てられない人がいる。
本書はこういうくだらない感情をバッサリと斬り捨ててくれる。中韓との訣別に後ろめたさなど持たなくてよいのだ(22ページ)。
ある意味、実用的な本だ。
特定アジアに対する無用の感情を捨て去ることによって、我々は清々しく手を携えるべきアジアを考えることができる。
我々に必要なのは支那朝鮮に対する遠慮ではなく、国家の生き残りのための深謀遠慮だ。必要なのは「謝罪」ではなく「謝絶」だ。
なお、ASEANはかつては中国の手に落ちたと言われた時期もあったが(西村幸祐「安倍政権一年を振り返る」(ジャパニズム17号(2014年2月号)、青林堂)21ページ)、安倍政権の外交によって、現在では日本を強く信頼している(本書154~157ページ。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press23_000019.html)。特に、特定アジアシンパのマスメディアが嫌っている「積極的平和主義」が(http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312170427.htmlなど)、ASEANからは強く支持されているのが印象的だ。中国から侵略を受けているフィリピンのアキノ大統領は特にこれを支持していると言ってよいだろう(http://www.mofa.go.jp/mofaj/s_sa/sea2/ph/page3_000823.html、http://www.asahi.com/articles/ASH634QJ6H63UHBI01L.html)。本書は中国を「21世紀のナチズム」と言って批判するが(97ページ)、アキノ大統領も今月3日の講演で中国をナチスにたとえており、同様の認識だと言ってよいだろう(http://www.afpbb.com/articles/-/3050683。NHKはこのナチス発言を報じなかった。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150603/k10010101961000.html。日テレの「ミヤネ屋」も報じなかった。https://twitter.com/kohyu1952/status/606343044695101441)。
手を携えるべきアジアはむしろこちらの方だ。
本書で紹介されている稲作文化の伝播経路は、支那朝鮮に対する愛着を大きく変える一因になるのではないか。
私が子供の頃に読んだ学習漫画には、確か、稲作文化のない原始的な日本に種籾を持った支那人が漂着し、日本人はここではじめて米の味を知り、それ以後その支那人から稲作文化を教わった、という描き方がされていたと思う。
ところが、近年の遺伝子研究によると、支那大陸から伝来した温帯ジャポニカ米はわずかであり、伝来後も従来通り熱帯ジャポニカ米が主流を占めたとのことだ。熱帯ジャポニカ米は焼畑耕作で栽培するが、これは中世中頃まで続き、水田がよく見られるようになったのは近世以後とのことだ(74~77ページ)。
また、稲作文化は朝鮮半島を経由して日本に伝来したという説があるが、遺伝子を見るに、むしろ逆だという考え方も成り立つとのことだ(63~66、74~77ページ)。
米を食べる文化が日本にもともとあったのか支那から伝来したかという認識の差は、中国への愛着にも影響を与えることだろう。さらに水田耕作が日本に伝播するにあたって朝鮮半島を経由していないとなると、韓国への愛着にも影響を与えるだろう(北朝鮮に愛着を抱いている人はほとんどいないだろう。)。
あらためて考えてみると、支那から水田耕作の技術が伝来してきたとしても、その後、わが国独自の改良が重ねられている気もする。
最近の話題としては、日本人の遺伝子が支那人・朝鮮人のそれと大きく異なることが挙げられる。先月29日、NHKの「おはよう日本」がこの話題を取り上げたとのことだ(http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5845.html)。
Y染色体のハプロタイプは民族的同一性を判別するのに重要な部分であるが、日本人は構成因Dの割合が多いのに対し、支那人・朝鮮人はこれをほとんど有していない。この点に着目すると、日本人に近いのはチベット人だ(59~63、145~148ページ)。
日本人と支那人・朝鮮人は民族的に近いと思って彼らに親近感を持っている人には、衝撃だろう。
むしろ、民族に着目するならば、チベット人に対する民族浄化を行っている支那人を糾弾せよ、という主張の方が正当性を有する(148,149ページ)。
ちなみに、ここで言う日本人は、沖縄もアイヌも含んでいる(145~147ページ)。
本書は、沖縄をわが国から分断して中国の属領にしてしまおうという工作活動が盛んに行われているこの頃の情勢を見て(150~152ページ)、文化の観点からも沖縄は日本であるということを論じている。
岡本太郎が「御嶽(うたき)」を見て「言いようのない激しさをもったノスタルジア」を直感したが、沖縄には神道の原型を見ることができる(77~81ページ)。また、沖縄の聞得大君も伊勢斎宮と位置づけがよく似ており、ここにも日本文化の原点を見ることができる(152~154ページ)。
他にも脱亜を後押しする様々な論述がなされている。
本書では、「脱亜」のその先に見据えるべき「脱米」についても考察されている(177,178ページ)。
本書は、韓国と北朝鮮の「いざとなったら日本が助けてくれる」という甘えを指摘し、ここに日清戦争前との既視感を見出している(55ページ)。
しかし、これは私の意見だが、日本にも「いざとなったらアメリカが助けてくれる」という甘えがあるのではないか。
だから憲法9条を改正しようという風潮もいまいち盛り上がらないし(http://www.sankei.com/politics/news/150602/plt1506020028-n1.html参照)、昨年の総選挙や今年の統一地方選挙で共産党が議席を増やすという現象が起きるのではないか。
この甘えが国を滅ぼしかねない。
福澤には「独立自尊」の精神があった(185ページ)。
「脱亜」を進めた最初の代表的人物として、本書は聖徳太子を挙げる(5ページ)。
聖徳太子は、支那朝鮮情勢を見極めて、ここぞという時機をとらえて冊封体制を脱した(112ページ。関連書籍として竹田同上138~143ページ)。
現代のわが国を見るに、安全保障をアメリカに依存する体制からいかに脱却するかが問題となる。
アメリカの軍事力低下・アジアでのプレゼンス低下は指摘されているところだし(170,171ページ)、そもそもアメリカの軍事力がどうだろうが関係なく自立は進めていかないといけない。
安倍晋三内閣総理大臣は、4月29日(現地時間)、アメリカ連邦議会上下両院合同会議において「希望の同盟へ」という演説を行った(http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001149.html)。「失われた20年」の間に、「ジャパン・パッシング」とさえ言われたことを思うと(特にクリントン政権。「ルック・チャイナ」姿勢。倉山満「嘘だらけの日米近現代史」(扶桑社、2012年)154ページ)、日本がアメリカ議会で堂々たる存在感を示し、日米和解を決定づける演説をするとは、感慨深い(西村氏による評論として「メディア・スクランブル 韓国には近づくべからず」(WiLL2015年7月号、ワック)28,29ページ。安倍総理自身による回顧として「和解と誇りと希望と新時代の日米同盟へ」(正論2015年7月号、産経新聞社)54~63ページ)。安倍総理は、この演説の中で、「日米同盟」という言葉を使った。
しかし、安倍総理の祖父であり、昭和32年(1957年)にアメリカ議会上院・下院それぞれで演説した岸信介総理は、日米安全保障条約改定前、「日米安保条約は、大日本帝国と満州の関係」だと見ていたそうで、昭和35年(1960年)の改定によって対等に近づいたとは言え、依然として対等の同盟関係とは言えないだろう(倉山同上118,119ページ)。
従来、アメリカは、日韓対立を嫌い、日本に対して歴史問題で韓国と対立することを避けるよう圧力をかけてきた(179ページ)。
しかし、朴槿惠韓国大統領の珍外交によって、アメリカも韓国について考えを改めるようになってきただろう(180ページ)。そしてリッパート駐韓大使暗殺未遂事件やシャーマン国務次官講演への韓国メディアの激しい反発もあり、アメリカはさらに考えを改めることを迫られていると考えられる(188~192ページ。最近の関連記事としてhttp://www.sankei.com/premium/news/150603/prm1506030008-n1.html)。
そこで本書は、わが国は「21世紀の脱亜論」を基礎にしてアメリカと戦略論を突き合わせ(180,181ページ)、さらにアメリカの財政難に乗じて、第七艦隊を賃借せよという大胆な提言を行う(184ページ)。第七艦隊賃借にはある”おいしい”特典が付いているのだが、それは本書を読んで確認されたい(関連書籍として、宮崎正弘「日本が在日米軍を買収し第七艦隊を吸収・合併する日」(ビジネス社、2015年))。
「脱米」とは、「脱亜」を前提としない向こう見ずな共産党的な反米ではなく、わが国がアメリカ依存を脱して、独立国として米国と対等関係に近づいていくことを意味する(178ページ参照)。
本書は冒頭において、「脱亜論」が書かれてから130年目、日露戦争勝利から120年目、日露戦争勝利から110年目ということを指摘する(3ページ。関連動画として、https://www.youtube.com/watch?v=vYRzSzuqCoY[西村氏講演]、https://www.youtube.com/watch?v=s1frl0QyOhE)。
実は、本書には指摘されていないが、あるものが100年目を迎えている。
高校野球だ(http://www1.nhk.or.jp/sports/koukouyakyu100/)。
高校野球が始まったのは大正4年(1915)だ。発足当初は全国中等学校優勝野球大会だった(http://www1.nhk.or.jp/sports/koukouyakyu100/description/)。
本書は台湾に注目すべきだと論じている。
そして、台湾映画「KANO」を大きく取り上げる(34~36、130~145ページ。http://kano1931.com/)。
この映画は、昭和6年(1931)に甲子園に出場して準優勝した台湾の嘉義農林中学野球部を描いたもので、昨年2月27日に公開された(大会の結果についてはhttp://www1.nhk.or.jp/sports/koukouyakyu100/results/summer-1931/)。
そして、高校野球100周年の今年、日本でも上映された。
「映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』予告編」 YouTube2014年12月19日
https://www.youtube.com/watch?v=XDS8HOA4eW4
本書は、文部省唱歌「我は海の子」を例に出し、日本人は南方の海へ大きく開かれた世界観を持っていたことを指摘する(66~71ページ)。
南方のアジアでまず重視すべき国が台湾なのだ。
韓国も台湾と同じく日本による統治を受けた。
しかし、片や韓国は日本を絶対悪とする反日ファシズムに陥り、「マトリックス」としての日本を描くばかりとなり、片や台湾は日本を客観的・相対的に見ることのできる、「現存在」の日本と向き合える隣人となった(136,137ページ)。
反日ファシズムの「閉ざされた」アジアではなく、言葉を交わすことのできる「開かれた」アジアにこそ我々は目を向けるべきである。
日韓関係と日台間系のこの差は、なぜ生じるのだろうか。
古田博司氏が言う「国家理性の傷」が関係していると考えられる(120,121ページ。http://www.sankei.com/world/news/131108/wor1311080028-n1.html)。
この「国家理性の傷」という言葉は是非とも知っておきたい言葉だ。
と言っておきながら定義がいまいちよくわからないのだが、国家の歴史的な存立基盤が弱い様、建国の理念や国体の脆弱性、などと考えておけば大過ないと思われる。
韓国は、李氏朝鮮においては民は虐げられ、非文明国だった。その後、日本統治を受け、民はこれを満喫した。その後、大東亜戦争敗北によってなんとなく独立した(1948年建国)。日本統治が嫌で独立戦争を戦ったという歴史もなければ、李氏朝鮮復活という形式もない。独立闘争の歴史を創作してみるも、国父であるはずの李承晩が出てこない(創作の手がかりが見つからないほど何もしていないので)(120ページ、倉山満「嘘だらけの日韓近現代史」(扶桑社、2013年)171~176ページ)。
韓国は地球上に存在する歴史的基板が甚だ弱い。韓国は「国家理性の傷」を取り繕うべく、とにかく日本統治を否定して、反日で国民をまとめ上げることにした。
台湾は、大東亜戦争敗戦後、蒋介石率いる国民党によって酷い目に遭わされた(1947年の2・28事件)。1949年に国共内戦に負けた蒋介石が国民政府を台湾に移して中華民国となる。
台湾にもともと住んでいた内省人にとっては、外省人に支配される謂れはないわけで、台湾にも「国家理性の傷」はあるだろう。ただ、韓国とは違って反日にはならなかった。
台湾の歴史はずっと植民地だったわけだが、台湾人は、台湾はどこにあるのかと、アイデンティティを模索している(143,144ページ)。
他方、わが国は本来、古代から連綿と続いており、「国家理性の傷」などとは無縁だ。
しかし、大東亜戦争に敗れ、東京裁判史観を押し付けられてから、歴史が「日本は悪い国だ」というものに書き換えられ、自国を滅ぼすことが正しいこととなり、「国家理性の傷」を抱えることになった。
古田氏は、内閣総理大臣が靖国神社に参拝できない靖国問題も「国家理性の傷」の問題だと指摘する(120,121ページ。http://www.sankei.com/world/news/131108/wor1311080028-n4.html)。
私としては、4月9日の天皇皇后両陛下のペリリュー島での慰霊が思い起こされる(http://www.sankei.com/life/news/150409/lif1504090021-n1.html)。パラオでは慰霊ができても、国内の靖国神社では慰霊ができない。こんなおかしな話はない。次世代の党の西村眞悟前衆議院議員は、「戦後政治」が天皇陛下の靖国神社御親拝を阻害していると喝破する(http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1088)。
靖国神社は、わが国の「国家理性の傷」を象徴している。
そして、靖国問題の誤解を正していくことが、「国家理性の傷」を乗り越えることであり、脱亜にも通じていく(125ページ)。
本書では冒頭において、政府主催の日清戦争・日露戦争の戦勝記念行事が戦後になって一度も行われていないことを指摘し、わが国は醜いと批判する(3,4ページ)。この醜さは、「国家理性の傷」が膿み、悪臭を放っているところから来るのだろう。念のために述べておくと、靖国神社には大東亜戦争の戦没者だけでなく、日清戦争・日露戦争の戦没者も祀られている(http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html)。マスメディアを見ていると、「靖国神社=A級戦犯=太平洋戦争」と関連づけられ、日清戦争・日露戦争の戦没者を忘れてしまうだろう。
安倍晋三内閣総理大臣は、平成25年12月26日、靖国神社に参拝した(古田氏の上掲記事は同年11月8日掲載)。
安倍総理は「日本を取り戻す」を掲げる。
安倍総理の外交は脱亜論と言って差し支えない(84~90ページ)。
安倍総理は、平成24年12月27日、プロジェクト・シンジケートに、「アジアの民主安全保障ダイアモンド」という論文を発表した(http://www.project-syndicate.org/commentary/a-strategic-alliance-for-japan-and-india-by-shinzo-abe 発表当時、報道した新聞は産経新聞と東京新聞のみ。)。
安倍総理はこの論文で、南シナ海に進出する中国を脅威とし、オーストラリア、インド、日本、米国ハワイの「ダイアモンド」によって海洋権益を保護しなければならないと説く。
現実に行われている外交・安全保障政策もこれに沿っている。
この「ダイアモンド」に韓国は含まれていない。
朴槿惠大統領が今年3月1日に「(韓日は)自由民主主義と市場経済の価値を共有する重要な隣国だ」と発言した翌日である同月2日、この発言を否定するかのように、外務省ウェブサイトの韓国の「基礎データ」の記述から「自由と民主主義、市場経済等の基本的価値を共有する」の文言が削除された(196,197ページ、http://www.sankei.com/politics/news/150304/plt1503040025-n1.html)。
脱亜論には「輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助と爲らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず。之を喩へば比隣軒を竝べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も殘忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正當の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没するものに異ならず。其影響の事實に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず、我日本國の一大不幸と云ふ可し。左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。」と書かれている(http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html)。
要するに、わが国が支那朝鮮と仲良くしていると、欧米人に日本は支那朝鮮みたいな前近代的な非文明国だと誤解されかねないという話である。
翻って現在、韓国はもはや法治国家の体をなしていない(http://www.sankei.com/column/news/150120/clm1501200001-n5.html)。その韓国の朴大統領に「韓国と日本は価値を共有する」などと言われ、わが国がこれを否定しなければ、日本も非法治国家だと他国に誤解を与えてしまうだろう。だから即座に否定するのがよい。朴発言の翌日に外務省HPの記述が変わったのは偶然かもしれないが、「脱亜論」を思うに、非常に適切な時機に変わったと思う。
また、安倍総理が日中関係について言う「戦略的互恵関係」は、上で引用した「寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。」と似たようなものではないかと思う。中国に対して無用の感情を抱かないということだ。昨年11月10日の安倍総理と習主席との無表情の握手は、この関係を象徴していたとも言えよう(http://www.sankei.com/west/news/141111/wst1411110024-n1.html)。
対して、鳩山由紀夫元総理の「東アジア共同体構想」にしても、副主席の習近平に「30日ルール」を破って今上陛下に謁見することを許した暴挙にしても、はたまた小沢訪中団にしても、鳩山政権の外交は安倍政権とは真逆で、日本を華夷秩序に組み込む方向性を有していたと言える(117~120ページ)。
マスメディアでは依然として、わが国は華夷秩序に組み込まれるべきだという論調が大勢を占めると言ってよいだろう。
もしそうでないのなら、支那朝鮮からわが国を守るべく、安全保障法制整備や特定秘密保護法制定に協力的になるはずだ。また、韓国に占領され、華夷秩序の一部に組み込まれてしまった竹島を奪還しようという世論を喚起するはずだ。しかし、朝日新聞など、そうなっていない(西村氏の関連書籍として「マスコミ堕落論 反日マスコミが常識知らずで図々しく、愚行を繰り返すのはなぜか」(青林堂、平成26年))。
そういう「言語空間」ではあるが、北朝鮮は当然として、中国や韓国と仲良くすることには無理があるんじゃないの?と、薄々気づき始めた日本人はかなりいるのではないか(本書の副題は「中国・韓国との訣別」だが、北朝鮮とは既に訣別しているという含意だろう。)。
それが最近の例だと、アジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加すべきかについて、回答者の過半数が反対に回ったことに表れていると思う(http://www.sankei.com/politics/news/150330/plt1503300042-n1.html)。
内閣府の世論調査でも、中国や韓国に対する親近感が低下しているという結果が出ている(15~17ページ。http://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-gaiko/2-1.html)。
昨年、私は、内閣府が行った世論調査で平成25年度の「悪い方向に向かっている分野」の1位が「外交」だったことに驚いた(http://ameblo.jp/bj24649/entry-11802343962.html、http://survey.gov-online.go.jp/h25/h25-shakai/2-3.html。「良い方向に向かっている分野」の17位。http://survey.gov-online.go.jp/h25/h25-shakai/table/PH25110017.csv)。平成26年度の調査結果はさらに驚きで、「悪い方向に向かっている分野」で前回1位の「外交」が上位5位以内にすら入らなかった(http://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-shakai/2-3.html)。では安倍外交は国民に理解されて支持されているのかというと、「外交」は「良い方向に向かっている分野」の上位5位以内にも入っていない。「外交」は、「悪い方向に向かっている分野」の6位で、「良い方向に向かっている分野」の13位だった(http://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-shakai/table/PH26110018.csv、http://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-shakai/table/PH26110017.csv)。安倍政権の外交方針に特に変化はないことを考えると、国民の評価の仕方が改善してきたのだろう(中韓への親近感が下がると安倍外交の支持が上がる)。しかし依然として十分に適正な評価をしているとも思えない。
歴史的転換点とも言える激動の東アジア(187ページ)。
戦後70年間にわたって「国家理性の傷」を克服できず、自国の存立のために必要な備えもできず、わが国は外交・安全保障の立て直しが急務となっている。
そして、安倍政権はこれに取り組んでいるが、反日野党と反日マスメディアが痴呆的真面目顔で阻害する(https://twitter.com/kohyu1952/status/605274378922651648、https://twitter.com/kohyu1952/status/605397250974433280)。
こんな状況はおかしいと思いながらも、なかなか確信を持てない人はたくさんいると思う。さらにそういう考えを口に出すのは難しい。
中国や韓国を批判せず、仲良くしようという態度でおれば、「平和主義」の「いい人」として見てもらえる。他方、中国や韓国を敵視すれば、「軍国主義」「排外主義」「差別主義」の「過激派」と見られてしまうかもしれない。得も言われぬ不安がある。
また、マスメディアはこれはこれで信用されている権威だ。これが作り出す「空気」に逆らう勇気を持てない人もいるだろう。
そういう人にこそ、「脱亜論」を知ってほしい。
福澤諭吉という権威中の権威が、いろいろと考えた挙句に、支那朝鮮と仲良くするのは無理、という結論に到ったのだ。
中国や韓国と仲良くしなければならないという決まりなどないのだ。時には仲良くすることを諦めてもいいのだ。ましてや彼らに土下座しなければならないという決まりなどないのだ(韓国の李明白前大統領は、日本が韓国と仲良くしたければ、天皇は土下座しろ、という意味を含む発言をした。17~20ページ)。
そんな決まりなんかないことは知ってるよ、という政治に関心の強い人も、福澤を見直すことで、より説得的な話ができるようになるのではないかと思う。
一万円札を見る度に「脱亜論」が想起されるようになれば、国民の外交・安全保障についての考え方も変わってくるだろう。
「亜細亜東方の悪友」に親しめば親しむほど、はたまた謝罪すればするほど、わが国の存立は危うくなる。
国民一人一人がこの「悪友」に対する無用の親しみを捨て、「謝絶」に到ることが、わが国の安全保障をより確かなものにする。
福澤諭吉の130年前の警告に、今こそ耳を傾けるべきである。
そして、福澤が生きていた時代には植民地であり、大東亜戦争を契機として独立を果たした南方の国々にこそ、わが国は友を求めるべきである。
それが、「21世紀の脱亜論」となる。