そのベイトリールで、陵から7Gのサスペンドミノーを投げて巻いて、15歳の少年が63センチのバスを釣ったのだから
fresh water perfection
使えないなら、使えない人の問題なんじゃねぇのと、たまには悪びれる事なく語ってみようか。
道具も進化してきたからこそ、この機種もあって、いつでも進歩の途中にある。
だから最新鋭の技術を組み込んだ釣り道具を否定する気はさらさらない。
問題になるのは、人間が追いついていかなければ、人は道具に使われる様になること。
何の道具でもそうであるのなら、釣り道具の場合はなおさらだと思うのは、俺が釣りを・釣り人をかいかぶり過ぎているからなのかもしれない。
釣りという遊びは、少なからず自然環境にプレッシャーを与える。生き物をいためつける。
「また来いと 離す魚は 狂い逃げ」だ。
俺は修行が足りていないから、自分の制御できる範疇の道具を使っていく。
理解出来ている自信がなければ、フィールドと魚にプレッシャーのかからない方を選択する。
この遊びに「道」をつけて恥ずかしくないと思えるまでは、本当をいうと釣り人の一生では足りなかったことに気付いてしまっている。
自分の力量に見合ったベイトリールで投げるとき、まるで手のひらからラインが放出できている様に思える。
それはすこぶる気分のいいものだ。と薦めたい。
ルアーフィッシングを初めて以来、一度たりとも「最新」に自分が追いついていた事などないのだ。
二十代、ドが過ぎるほどにバス釣りをした。狂者のごとく釣りをして、納得のいく大きさのバスが釣れるまで投げた。今日がだめなら一旦帰って仕事を寝ぼけながらこなして、また投げた。だめならその次の日も。
そうして恥ずかしい時も経て、いまこんな「良い加減」の道具たちを眺めながら53を目前に思うことは、あえて言えば「俺ですら」ルアーフィッシングというものを通して得るものの、あるいは釣りというものの真実の、良いところ0.01%も自分のものにできたかどうかだ。
謙虚である以外に手はない。せめてそう思っていないと、恥ずかしくて恥ずかしくて、こんなに楽しい釣りの話もできやしないのだ。
その2機のどちらが彼が初めてロクマルを釣り上げた時の道具だか分からなくなっていたが、クルクルクルクルとハンドルを回しているうちに、蘇ったちょっとした出来事の記憶から小さな傷を思い出してわかった。
手前のそれが彼の記念碑的なその道具だ。
こんなに価値の高いベイトリールがあるだろうか。
価値と価格の均衡は、経済論では解明不可能。それが釣り道具の特性であって宿命だ。
それはいつも、思い出と目標もしくは妄想の狭間で、右肩上がりに変動する。
https://ameblo.jp/biwako-angler/entry-12391070305.html
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