松下通信を支えた50人
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松下通信を支えた50人:パナの大きな壁


20101月某日1

年が明け、約束の日に中松氏はやって来て珍しくプライベートな話を始めた。

「こう見えても結構仕事が入っていまして時間に追われている毎日なのです。ところが今年の正月はぽっかり休みが取れまして、久しぶりに家族で実家の仙台へ行ってきました。」

原田は、家族のことを聞くべきか仙台のことを聞くべきか迷った後で、結局、話題にしやすい仙台のことを聞くことにした。
「仙台はどの辺ですか。」

「実家は泉区にあります。比較的新しい街で、仙台駅から車で30分ほど、地下鉄も走っています。」

「泉区なら松下通信仙台研究所のあったところです。今は何と呼んでいるのか忘れましたが、仕事の関係でよく行きました。仙台にはかなり思い入れもあるのです。駅近くの国分町界隈は独特の雰囲気ですね。」

しばらく仙台の話が続いた後で、中松氏の方から話題を切り替えた。
「昨年は、松下通信が何故解体されたのかという話になりましたが、いろいろ調べさせていただき、当時の松下電器本社と松下通信の関係が少しわかり始めました。まだまだ確認しなければならない点が出てきそうです。」

一息おいて中松氏はさらに進めた。
「ところで、松下電器は一通りの構造改革の後、2006年に中村社長から大坪社長に代わり、2008年に社名をパナソニックに変更しました。本来ならばエネルギー溢れる会社になっているはずですが、どうも明るい展望が見えませんね。」

「その点はおっしゃる通りで、OBとしても頭の痛いところです。最大の問題はテレビ事業の進め方に課題があることです。プラズマテレビの優位性が本当に市場で認められて液晶に勝つことができるのか、そこが難しいところです。プラズマテレビにかけた以上、パナソニックがこれから大きな壁を迎えるのは避けられないと思います。」
原田はそうした説明をして、再び松下通信を支えた50人の話に戻すことにした。


 

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松下通信を支えた50人:ひとつの疑問


200912月某日4

「原田さん、話をお聞きしていて、どうしても一つわからないことがあります。」

原田が、松下通信を支えた50人の一人として川田隆資の話を終えた時、中松氏が突然切り出した。

「私は日経新聞の要請を受けて松下通信の歴史を振り返ろうと原田さんにお会いしました。これまで原田さんの話をお聞きし、何人かの松下通信のOBにもお会いし、そして自分なりに松下通信の過去の記事を調べてみました。その結果、松下通信ほどの素晴らしい会社はそんなに見当たらないということがわかってきました。松下通信は、間違いなく松下グループの技術をリードし、産業分野での市場をリードしていました。そんな松下通信を“破壊と創造”という名目のもとに、なぜ解体してしまう必要があったのでしょうか。中村社長は、なぜ本社改革を後回しにして松下通信や九州松下といった元気のいい子会社にメスを入れる必要があったのでしょうか。どう考えても理解できないおかしな話です。」

「そうです。今振り返ればその通りです。以前、鈴木記者からも同じような質問を受けたことがあります。」
原田は、中松氏の疑問に大いに賛同した。自分の思いに近づいてくれたことでうれしくなった。しかし、同時に二人が同じような思いでは先に進む上で支障をきたす、との思いも浮かび別な切り口で説明した。

「日経新聞から“松下の中村改革”という本が出ていますが、この中にはこの点に関しての記載はありません。いろんな考え方があると思いますが、中村社長がなぜ松下通信を解体したのかは直接お聞きしたわけではないのでわかりません。出来れば知りたいのは、あの時、中村社長はご自身の果たすべき役割をどう判断されていたのか松下グループの課題をどう捉えておられたのか、そしてご自身が松下通信という会社にどういう思いを持っておられたのか、という3点です。」

「そうですか。いま中村元社長にお会いしてお聞きしたとしても説明いただくことは難しいでしょう。松下通信の解体を進めた背景の考え方がよくわからないという点がわかっただけでもとりあえず納得です。松下通信の歴史を調べる上での一つの課題としましょう。これは私の宿題にして下さい。」
中松氏はにっこり笑ってそう答えた。

「この点はこれから考えるべき大きなポイントにするということで、今日はこの辺で終りにしましょう。次は来年になりますが、また松下通信を支えた50人の話に戻りましょう。川田隆資社長の次は、もう一度遡って役員クラスから続けさせていただきたいと思います。」

二人は翌年の日程を打ち合わせ、お互いに年の瀬の挨拶をして別れた。

 

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松下通信を支えた50人:川田隆資


200912月某日3

「松田章社長が後継に指名した6代社長川田隆資は、当然ながら松下通信を支えた50人の代表的人物です。」

原田は、いつもより強い口調で説明を始めた。

「御成門近くのホテルでマスコミ関係者に対して行われた川田社長就任披露の会場で、経歴や人となりを初めて知った記者が、この説明が本当ならすごい社長、と驚嘆していたのを覚えています。」

中松氏は「ホー」と原田の顔を見た。

「社長就任後は、まさに記者が驚いた通りの破竹の活躍でした。会社として常に若々しく成長を常に何かに挑戦を、と訴え、通信事業・プロAV・カーエレの3つの分野で世界トップを目指すシステム事業で業界リーダーとなる、を経営方針に掲げました。どの事業部にも市場1位となることを求め、技術出身の社長にもかかわらず実現不可能とも思えるような目標を設定し、見事に実現させてきました。携帯電話やカーナビの分野でシェア1位を獲得できたのはまさに川田社長のリーダーシップの賜物です。産業用分野を担う松下通信で市場1位を目指せと訴えた初めての社長で、特に3G:第3世代携帯電話の開発では、オール松下の支援を得て、NECと共に世界最速での端末&基地局の商品化を実現しました。社長在任期間は、1993年からグローバル1兆円を達成した2001年までの8年間となりました。」

「川田社長時代の原田さんのミッションは?」と、中松氏が尋ねた。

「社長就任時は、私は技術本部で企画管理部長の任にありましたが、4年後に経営企画部長として社長の直属スタッフとなりました。事業部中心の松下通信では、本部スタッフにあまり力はありませんが、それでも特に松下電器との関係において好きなようにやらせてもらいました。経営企画部長を3年勤めた後、再び技術本部に戻りました。」

原田は、話したいことはいくらでもあるといった顔をしながらも、自分の話はポイントだけに留めた。


 

 

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松下通信を支えた50人:松田章


200912月某日2

松下通信を支えた50人として原田が次に上げたのは松田章だった。

「松田章は、松下電器の常務を退任して5代目社長に就任しました。常務と言っても家電分野の担当で、松下通信にはその人となりを知る人はほとんどいませんでした。軋轢が生じてもおかしくない状況でしたが、心優しいリーダであることが社内ですぐに理解され、敵を作ることはまずなかったと思います。」

「背景を調べる必要がありますが、なかなか思い切った人事ですね。」と中松氏。

「松田章社長は、社員の基本的な心構えとして、お客様第一ベクトルを合わせる明るく楽しい職場3点を訴えると共に、社長自ら若手課長職を対象とした研修会:松田塾を主宰し、これまでとは違ったわかりやすい手法で松下通信の風土改革を果たしました。事業面では2つの事業本部を設け、二人のベテラン専務にその運営を託しました。綱島地区事業場を中心とした情報通信事業本部は川田専務が担当し、佐江戸地区事業場を中心としたAV事業本部は唐川専務が担当することでより強固な経営体制が生まれました。それまでの松下通信は、どちらかと言うと個性の強い事業場の集合体のような体制でしたが、松田章社長の下で初めて一体感が醸成され始めたように感じました。そういう点で大きな功績を残されたように思います。」

「社長在任期間は確か4でしたね。」と中松は聞いた。

「そうです、4年です。就任時は、当時組合3役だった私に“4年だけ”とささやくように言われました。本気にはしていなかったのですが、退任時に“約束通り4年”と話された笑顔は今でもはっきりと覚えています。」
原田は、感慨深げにそう答えた。

 

 

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松下通信を支えた50人:石沢命孝


200912月某日1

中松氏は12月半ばにまたやって来た。

「実は松下通信のOB2名にお会いし会社幹部の切り口から大変興味深い話をお聞きしました。綱島と佐江戸の事業場も拝見してきました。綱島はすでに閉鎖されていて金属板に囲まれて少し異様な光景でした。」
中松氏はこれまで以上に松下通信の歴史に興味を持った様子だった。

原田は、松下通信を支えた50人として石沢命孝を次に上げ、話を再開した。
「第4代の社長には、それまでビデオ・音響事業を牽引してきた石沢命孝がわずか2年間の役員経験の後、選ばれました。前小蒲社長が無線機器事業出身で、この分野を最重点事業としてきたことから、石沢社長の登場は誰の目にもやや意外でした。おそらく当時の松下電器社長がビデオ事業出身の谷井昭雄であったことが関係しているのかも知れません。もし小蒲社長自身が後継者に石沢命孝を選んだとしたら大変なバランス感覚の持ち主だったということになります。石沢命孝は、社長就任当時、“勝てば官軍”という言葉をよく使っていたことを覚えています。今考えてみればご本人の正直な思いで意味深い言葉でした。」

「確かにこの展開は意外ですね。」と中松氏はつぶやいた。

「社長在任期間は約3年半と短命に終わりましたが、石沢命孝は松下通信の成長を維持すべく精力的に事業を展開しました。今では犯罪撲滅に貢献しているNシステムの開発納入携帯型自動車電話日本語ワードプロセッサーCCDカラーカメラハイビジョン中継車ホール音響システム等の商用化は石沢命孝社長の時代でした。海外事業ではフィリピン松下通信イギリス松下通信を設立し海外拠点を強化しました。また、自身の出身大学である東北大学の近くに松下通信仙台研究所を設立し、自ら社長に就任して地元の優秀な人材確保に努めました。」

「なかなか頑張りましたね。」と中松氏。


1988年は松下通信創立30周年に当たり、仕入れ先や販売会社も含めて様々な形で記念行事を行いました。4月に大々的に開催した技術内覧会では、松下通信の開発成果を一堂に集めて松下グループ内外の注目を集めました。」
原田は、石沢命孝が松下通信の華々しい歴史の一翼を間違いなく担ったという点を強調した。

 

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松下通信を支えた50人:小蒲秋定


200911月某日4

「次は松下通信を支えた50人の大本命です。歴代社長7名の内、松下幸之助初代社長は別格として、最も実力のあった社長小蒲秋定です。社長として十分な威厳とカリスマ性を持ち、卓越したリーダーシップで会社を牽引して移動体通信事業を大きく育てました。小蒲社長の時代に松下通信はいわゆる一流企業の仲間入りをはたしました。」


4人目は小蒲秋定社長ですか。」と中松氏。

「小蒲秋定は無線機器技術者として無線事業部長を経験の後、昭和43年から経営陣に入りました。取締役3年、常務取締役1年、専務取締役4年を経て、昭和51年に第3代社長に就任、社長在任期間は10です。社長就任年の売上高は853億円、社長退任時の売上高は3,172億円と実に4倍近くに飛躍しています。小蒲社長の下で、自動車電話の商用化LANの商用化カーエレクトロニクス事業の展開RAMSAブランドの立上げ輸出の強化アメリカ松下通信・ドイツ松下通信の設立、等が進められました。NECや富士通をライバルとし、すき間産業という言葉で事業展開に機敏な動きを求めました。」

「素晴らしい社長だったというのはよくわかります。原田さんとはどんな関りがあったのですか。」と中松氏は尋ねた。

「小蒲社長の時代、私は組合の三役でしたので労使として向かい合っていました。何しろ実力社長ですので個人的には対等とは程遠い関係で、経営上の課題としてソフト開発の強化を迫りましたが反論されるばかりでした。が、実際には松下電器と共同出資でソフト会社をスタートさせましたのでさすがと感心しました。昭和58年のディズニーランドのオープニング式典は、小蒲社長が会社代表として、私が組合代表として二人で出席したことがいい思い出です。式典後は私がスペースマウンテンに挑戦し、小蒲社長はカリブの海賊で楽しまれたそうです。」

「小蒲社長のことは様々な観点から調べる必要があるようです。50人の話は今日はこれくらいにして、また来月お伺いさせていただきます。」

私もいったん話を終わらせたいと思っていたので阿吽の呼吸だった。

 

 

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松下通信を支えた50人:松下正治


200911月某日3

「次に上げたいのは、松下幸之助創業者の娘婿松下正治です。彼は、松下通信を支えた人物というより、最も長い間、松下通信の経営に関わった人物と言ったほうが相応しいかも知れません。」


「なるほど」と中松氏は頷いた。

「創業から12年半は取締役として、続いて15年間は会長として、さらに1年間取締役に就かれた後、松下通信の役員としては退任されました。しかし、その後も松下通信の毎月の取締役会にはオブザーバーとして欠かさず出席されていました。結局、彼は、松下通信創業時から松下通信の消滅時まで通して松下通信の経営に関わっていたことになります。」

原田は一息入れた後、話を続けた。

「何しろ松下電器本社の会長でもあり、オブザーバー出席と言っても、松下通信の取締役会でも主役になることは自然の流れであったと思います。彼にとっては、松下電器での立場と異なり、松下通信には特別な思い入れも持たれていたようで、毎月の取締役会への出席を楽しみにさえしておられたはずです。松下通信の経営陣にとっても彼はありがたい存在で、取締役会は十分な準備をして温かくお迎えしていたようです。とは言え、取締役会で発言する役員にとっては緊張の場でもあり、実際に役員や事業部長の人事についても少なからず影響があったと思います。」

原田は、これはあくまで個人的な私見です、という言葉を付け加えることを忘れなかった。

 

 

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松下通信を支えた50人:山口三津男


200911月某日2

「次に上げるべきは、松下通信創業時に最も重要な役割を果たした山口三津男です。私がこれから上げようとする50人の中で、実は唯一私が会ったことがない人物です。正確に言えば昭和49年に半年ほど勤務が重なっているようですが、向こうは専務、こちらは転勤してきたばかりの新人という立場で、お会いする機会はなかったように思います。」


「もしかするとすれ違いぐらいはしていいたかも知れませんね。」
中松氏は笑いながら軽口をたたいた。

「当時、第9事業部長に就任したばかりの山口は、松下幸之助社長から松下通信設立の意向を受けました。2年半に及ぶ周到な準備により創立手続を終えた後、おもには松下幸之助社長のもとで10年半の間、常務取締役として、さらに二代目田中社長のもとで6年間、専務取締役として松下通信の土台作りに邁進しました。」

「新しい組織を作る時はこういうひたむきな人物が不可欠ですね。」

「山口は、新会社発足式の挨拶で、通信機器を一般大衆のものとするために、優れた技術を結集してフィロソフィーを持った会社にしたいと抱負を述べました。スタートから急成長を続ける中で次々と課題が発生しますが、解決に向けて日々奮闘を続けたと思います。松下通信が世間にも名の知れた会社として育つまでの彼の貢献は本当に大きいものでした。住友銀行出身の田中社長の時の退任は、やり遂げたというよりも、まだ志半ばで無念の思いがあったと聞いています。」

「・・・・・・・・・」中松氏は無言だった。

「松下通信退社後は渡辺測器(現グラフテック)に移られ、社長として思いきり手腕を発揮して社業発展に貢献されたそうです。」

 

 

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松下通信を支えた50人:松下幸之助


200911月某日1

作家の中松氏に原田から説明を始めた。
「松下通信を支えた50人として、まず上げなければならないのは何と言っても松下電器の松下幸之助創業者です。」

中松氏は「それはそうですね。」と相づち。

「松下幸之助が松下電器を創業したのは大正7年・1918年。その40年後に、家電とは異なる全く新しい会社の設立を決断します。産業分野の将来性を見抜き、新会社設立と東京進出を指示するとともに、自ら初代社長に就任されました。特に無線通信分野を最重視されていてそのために社名も松下通信工業になったものと思われます。」

「原田さんはお会いになられたことはないですね。」
中松氏が確認してきた。

「新入社員だった中央研究所時代に何度かお目にかかりましたが、松下通信設立は入社以前のことで、すでに松下通信の社長は退任しておられました。」


少し間をおいてから、
「松下幸之助社長は、松下通信が飛躍をするためにいくつもの仕掛けをされましたが、その最大のものは、当時の組合と協議して「三者協定」を結び社員の身分を松下電器と同格にしたことです。これで社員の意気が上がり、松下グループ内の人材交流が活発化し、優秀な新入社員が入るようになりました。人材がなければ松下通信の発展はなく、松下通信の発展がなければ松下グループの産業分野の拡大も望めなかったことで、見事な判断であったと思います。」

 

 

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作家中松氏登場


200910月某日

10月に入ってから日経鈴木記者から電話が入った。松下通信についての取材については大きな取組なので、記者がお受けするより作家の方がいいのではということになり、神奈川出身で企業がらみが得意の中松氏に会ってもらいたいとのことだった。

そして翌週、中松氏が馬車道の会社にやってきた。まだ30歳前と思われる若く優しそうな作家は、すぐに私が大阪出身と見抜いた。

「松下電器に入ったのは昭和46年、配属は中央研究所でした。昭和49年に松下通信に転勤になり、以来、横浜の住民になっています。」

中松氏はすぐに本題に入った。
「松下通信については以前から興味はありましたが、知識は一般の人と変わらないレベルでした。鈴木さんから話を聞き、この会社の生い立ちに改めて驚愕しました。いろんな切り口からお話をお聞きしたいと思いますが、まずはこの会社を支えた50という観点からお聞きするのはいかがでしょうか。もちろん原田さんからの主観的な判断で結構です。」

「それはいいと思いますし進めやすいと思います。私自身は、事業部の技術者、組合の専従役員、経営企画責任者、技術企画責任者と様々な立場で多くの方に関わりました。とんでもない優秀な人、実に個性的な人、役員にも思慮深い人もいれば強面の人もいました。様々な人が松下通信を支えてきました。ぜひ可能な限り話をさせていただきます。」

そして中松氏は翌11月に再びやってきた。

 

 

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