松下通信を支えた50人
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松下通信を支えた50人:山田兼敏


20101月某日5

松下通信の役員は主に事業部長や本部の部門長から選ばれた。当然ながら松下電器の決裁を必要とし、そのたたき台は社長や人事部長等限られた役員でまとめられ事前に漏れることはなかった。各役員の力量は様々で、その人となりも様々だった。中には飛び切りの人格者もいれば、多くの社員が恐れるこわもての役員も毎年一人二人はいた。1974年から取締役4年、常務取締役4年を務めた山田兼敏は、そんなこわもての代表格とも言える人物だった。


「山田兼敏は、いつも恐い顔をして“事業は人、モノ、金”と口癖のように話し、製造部門の整理整頓を何より重視する役員でした。自身の担当する事業部にこだわらず製造部門に現れては窓のサッシを指でこすり、ホコリがつけば近くにいる担当者を怒鳴りつけ、結果として松下通信全社の製造部門に引き締めた雰囲気を作りました。これは山田氏の大きな功績に入るはずです。」

原田はさらに話を続けた。
「かってPanasonicブランドで電卓を出していたことがあり、その生産を担当していたのが松下通信の電卓事業部で事業部長は山田氏でした。電卓事業はカシオ、シャープの後塵を拝し苦戦していたので、労使協議会の中で組合役員をしていた私が厳しく追及し激しい論戦になったことがあります。労使協議会終了後、“原田くん、後で私の部屋に来てくれ”と言われ焦ったことがありました。」

中松氏は、それは大変でしたねと興味を示し、原田は続けた。
「山田氏は私を事業部長室に入れると一方的に話を始めました。這えば立て立てば歩めの親心という言葉があるが、電卓事業は今やっと立ったばかり、組合が親心で言ってくれるのは理解しているがもう少し段階を見てほしい、必ず歩き、走り始める、と、そういった内容でした。予想外に穏やかな口調で組合の追及を親心と表現したことに驚きました。」

原田は、普段はこわもての山田兼敏にも意外な一面があることを強調した上で、中松氏に今月はここまでとの確認をとった。

 

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松下通信を支えた50人:唐津一


20101月某日4

松下電器が旧通産省を主管としていたのに対して松下通信は旧郵政省との関りが強く、その結果として旧電電公社やNTTから人材を入れることが少なくなかった。

唐津一はそうした人材の草分けとも言える人物で、旧逓信省、旧電電公社を経て松下通信に入り、1971年から7年間取締役、5年間常務取締役を務めた。

原田は唐津一の実績や人となりの説明を始めた。
「電電公社から松下通信に入社した唐津一は、事業部門を持たずに自身の高い知識と見識から松下通信全体の品質管理技術や先端技術開発の向上に大きく貢献されました。上下分け隔てなく接し、普段は凛としながらも難しいことをわかりやすく説明される際にはいつも笑顔がうかがえました。多くの社員が彼に親しみを感じていたと思います。いつだったか忘れましたが松下電器の全経営幹部を集めた経営委員会で先端技術について基調講演をされたときは、初めて唐津一を知った幹部も驚きの表情でまさに圧巻でした。」

唐津一なら私も何冊か本を読ませていただいたと思いますとの中松氏の言葉に原田は話を続けた。
「多分、著書は50冊近くになると思います。1981年には品質管理技術の最高峰であるデミング賞本賞を受賞されました。前年1980年の受賞者が豊田章一郎氏ですからいかにすごい賞であるかがわかります。松下通信の役員退任後は松下電器の技術顧問や東海大学の教授に就任され、東京都の技術行政面でもご意見番として活躍されました。松下グループの幹部の中では珍しく外部に対して発信を続けた人物、と言えるのではないでしょうか。」

 

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松下通信を支えた50人:黒岩幸衛


20101月某日3

「松下通信が総合直後から急成長を続けたという点では経理業務でも経営を支えた人材がいるはずですね。」

今度は中松氏から原田に尋ねた。

「そうです。経理業務での第一の功労者は黒岩幸衛です。彼の役員就任期間は、小蒲元社長の役員就任から社長退任までの期間とほぼ一致しており、小蒲体制の懐刀として、今でいうCFOの役割を果たしました。1969年から3年間取締役、6年間常務取締役、さらに6年間専務取締役、そして2年間、監査役を務めています。」

具体的にはどんな業績があったのですかと中松は聞いた。
「経理部門のトップとして役員就任直前には株式二部上場を実現し、役員就任後に一部指定替えを果たしました。株式公開に合わせて経理部門を強化し、経営の透明化を進めました。これが経営の強化にもつながったと思います。」

原田は一息入れて話を続けた。
「松下通信では、本部部門として人事部、経理部がありますが、各事業部にも人事部門、経理部門がありました。黒岩幸衛は、この体制をフルに生かし、毎月、各事業部から販売実績、計画比、前年比を速やかに出させ、会社全体の経営概況を早期に明確にする体制を確立しました。この経営概況は、毎月の総合朝会で全従業員に周知徹底され、事業部間の競争意識を高める役割を果たしました。」

「なるほど、経営の透明性を高め、それで従業員のやる気に結び付ける、というのはすごいですね。」
中松氏は黒岩幸衛の手腕をあらためて感心した。

 

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松下通信を支えた50人:新屋純之輔


20101月某日2

松下通信の事業の3本柱は、無線機器と自動車機器とAV機器の3つの事業。この内、自動車機器事業を初期の段階で育てたのは新屋純之輔だった。


新屋純之輔は、1962年の自動車ラジオ事業部発足時に事業部次長に就任し、1974年までの間、自動車ラジオ事業部、自動車機器事業部を牽引して、自動車機器事業を松下通信の大きな柱として成長させることに貢献しました。役員としては1968年から1978年までの10年間、取締役に就任されています。」
原田は一気に中松氏に説明した。

「自動車ラジオは、松下通信発足前から、いすず、日産、トヨタへの納入を始めていて松下通信設立時にはすでに大きな事業になっていましたが、1962年に音響事業部から分離して独立の事業部となってからさらに大きく成長しました。1963年には綱島地区に生産設備を新築して月産10万台まで高まりましたが、さらに1967年には佐江戸地区に月産20万台体制の新工場を建設しました。1972年にカーステレオ生産累計100万台を達成し、翌1973年にはカーラジオ生産累計1000万台を達成しています。いずれも新屋氏の見事な手腕による賜物でした。」
中松氏はただうなずくしかなかった。

 

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松下通信を支えた50人:パナの大きな壁


20101月某日1

年が明け、約束の日に中松氏はやって来て珍しくプライベートな話を始めた。

「こう見えても結構仕事が入っていまして時間に追われている毎日なのです。ところが今年の正月はぽっかり休みが取れまして、久しぶりに家族で実家の仙台へ行ってきました。」

原田は、家族のことを聞くべきか仙台のことを聞くべきか迷った後で、結局、話題にしやすい仙台のことを聞くことにした。
「仙台はどの辺ですか。」

「実家は泉区にあります。比較的新しい街で、仙台駅から車で30分ほど、地下鉄も走っています。」

「泉区なら松下通信仙台研究所のあったところです。今は何と呼んでいるのか忘れましたが、仕事の関係でよく行きました。仙台にはかなり思い入れもあるのです。駅近くの国分町界隈は独特の雰囲気ですね。」

しばらく仙台の話が続いた後で、中松氏の方から話題を切り替えた。
「昨年は、松下通信が何故解体されたのかという話になりましたが、いろいろ調べさせていただき、当時の松下電器本社と松下通信の関係が少しわかり始めました。まだまだ確認しなければならない点が出てきそうです。」

一息おいて中松氏はさらに進めた。
「ところで、松下電器は一通りの構造改革の後、2006年に中村社長から大坪社長に代わり、2008年に社名をパナソニックに変更しました。本来ならばエネルギー溢れる会社になっているはずですが、どうも明るい展望が見えませんね。」

「その点はおっしゃる通りで、OBとしても頭の痛いところです。最大の問題はテレビ事業の進め方に課題があることです。プラズマテレビの優位性が本当に市場で認められて液晶に勝つことができるのか、そこが難しいところです。プラズマテレビにかけた以上、パナソニックがこれから大きな壁を迎えるのは避けられないと思います。」
原田はそうした説明をして、再び松下通信を支えた50人の話に戻すことにした。


 

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松下通信を支えた50人:ひとつの疑問


200912月某日4

「原田さん、話をお聞きしていて、どうしても一つわからないことがあります。」

原田が、松下通信を支えた50人の一人として川田隆資の話を終えた時、中松氏が突然切り出した。

「私は日経新聞の要請を受けて松下通信の歴史を振り返ろうと原田さんにお会いしました。これまで原田さんの話をお聞きし、何人かの松下通信のOBにもお会いし、そして自分なりに松下通信の過去の記事を調べてみました。その結果、松下通信ほどの素晴らしい会社はそんなに見当たらないということがわかってきました。松下通信は、間違いなく松下グループの技術をリードし、産業分野での市場をリードしていました。そんな松下通信を“破壊と創造”という名目のもとに、なぜ解体してしまう必要があったのでしょうか。中村社長は、なぜ本社改革を後回しにして松下通信や九州松下といった元気のいい子会社にメスを入れる必要があったのでしょうか。どう考えても理解できないおかしな話です。」

「そうです。今振り返ればその通りです。以前、鈴木記者からも同じような質問を受けたことがあります。」
原田は、中松氏の疑問に大いに賛同した。自分の思いに近づいてくれたことでうれしくなった。しかし、同時に二人が同じような思いでは先に進む上で支障をきたす、との思いも浮かび別な切り口で説明した。

「日経新聞から“松下の中村改革”という本が出ていますが、この中にはこの点に関しての記載はありません。いろんな考え方があると思いますが、中村社長がなぜ松下通信を解体したのかは直接お聞きしたわけではないのでわかりません。出来れば知りたいのは、あの時、中村社長はご自身の果たすべき役割をどう判断されていたのか松下グループの課題をどう捉えておられたのか、そしてご自身が松下通信という会社にどういう思いを持っておられたのか、という3点です。」

「そうですか。いま中村元社長にお会いしてお聞きしたとしても説明いただくことは難しいでしょう。松下通信の解体を進めた背景の考え方がよくわからないという点がわかっただけでもとりあえず納得です。松下通信の歴史を調べる上での一つの課題としましょう。これは私の宿題にして下さい。」
中松氏はにっこり笑ってそう答えた。

「この点はこれから考えるべき大きなポイントにするということで、今日はこの辺で終りにしましょう。次は来年になりますが、また松下通信を支えた50人の話に戻りましょう。川田隆資社長の次は、もう一度遡って役員クラスから続けさせていただきたいと思います。」

二人は翌年の日程を打ち合わせ、お互いに年の瀬の挨拶をして別れた。

 

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松下通信を支えた50人:川田隆資


200912月某日3

「松田章社長が後継に指名した6代社長川田隆資は、当然ながら松下通信を支えた50人の代表的人物です。」

原田は、いつもより強い口調で説明を始めた。

「御成門近くのホテルでマスコミ関係者に対して行われた川田社長就任披露の会場で、経歴や人となりを初めて知った記者が、この説明が本当ならすごい社長、と驚嘆していたのを覚えています。」

中松氏は「ホー」と原田の顔を見た。

「社長就任後は、まさに記者が驚いた通りの破竹の活躍でした。会社として常に若々しく成長を常に何かに挑戦を、と訴え、通信事業・プロAV・カーエレの3つの分野で世界トップを目指すシステム事業で業界リーダーとなる、を経営方針に掲げました。どの事業部にも市場1位となることを求め、技術出身の社長にもかかわらず実現不可能とも思えるような目標を設定し、見事に実現させてきました。携帯電話やカーナビの分野でシェア1位を獲得できたのはまさに川田社長のリーダーシップの賜物です。産業用分野を担う松下通信で市場1位を目指せと訴えた初めての社長で、特に3G:第3世代携帯電話の開発では、オール松下の支援を得て、NECと共に世界最速での端末&基地局の商品化を実現しました。社長在任期間は、1993年からグローバル1兆円を達成した2001年までの8年間となりました。」

「川田社長時代の原田さんのミッションは?」と、中松氏が尋ねた。

「社長就任時は、私は技術本部で企画管理部長の任にありましたが、4年後に経営企画部長として社長の直属スタッフとなりました。事業部中心の松下通信では、本部スタッフにあまり力はありませんが、それでも特に松下電器との関係において好きなようにやらせてもらいました。経営企画部長を3年勤めた後、再び技術本部に戻りました。」

原田は、話したいことはいくらでもあるといった顔をしながらも、自分の話はポイントだけに留めた。


 

 

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松下通信を支えた50人:松田章


200912月某日2

松下通信を支えた50人として原田が次に上げたのは松田章だった。

「松田章は、松下電器の常務を退任して5代目社長に就任しました。常務と言っても家電分野の担当で、松下通信にはその人となりを知る人はほとんどいませんでした。軋轢が生じてもおかしくない状況でしたが、心優しいリーダであることが社内ですぐに理解され、敵を作ることはまずなかったと思います。」

「背景を調べる必要がありますが、なかなか思い切った人事ですね。」と中松氏。

「松田章社長は、社員の基本的な心構えとして、お客様第一ベクトルを合わせる明るく楽しい職場3点を訴えると共に、社長自ら若手課長職を対象とした研修会:松田塾を主宰し、これまでとは違ったわかりやすい手法で松下通信の風土改革を果たしました。事業面では2つの事業本部を設け、二人のベテラン専務にその運営を託しました。綱島地区事業場を中心とした情報通信事業本部は川田専務が担当し、佐江戸地区事業場を中心としたAV事業本部は唐川専務が担当することでより強固な経営体制が生まれました。それまでの松下通信は、どちらかと言うと個性の強い事業場の集合体のような体制でしたが、松田章社長の下で初めて一体感が醸成され始めたように感じました。そういう点で大きな功績を残されたように思います。」

「社長在任期間は確か4でしたね。」と中松は聞いた。

「そうです、4年です。就任時は、当時組合3役だった私に“4年だけ”とささやくように言われました。本気にはしていなかったのですが、退任時に“約束通り4年”と話された笑顔は今でもはっきりと覚えています。」
原田は、感慨深げにそう答えた。

 

 

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松下通信を支えた50人:石沢命孝


200912月某日1

中松氏は12月半ばにまたやって来た。

「実は松下通信のOB2名にお会いし会社幹部の切り口から大変興味深い話をお聞きしました。綱島と佐江戸の事業場も拝見してきました。綱島はすでに閉鎖されていて金属板に囲まれて少し異様な光景でした。」
中松氏はこれまで以上に松下通信の歴史に興味を持った様子だった。

原田は、松下通信を支えた50人として石沢命孝を次に上げ、話を再開した。
「第4代の社長には、それまでビデオ・音響事業を牽引してきた石沢命孝がわずか2年間の役員経験の後、選ばれました。前小蒲社長が無線機器事業出身で、この分野を最重点事業としてきたことから、石沢社長の登場は誰の目にもやや意外でした。おそらく当時の松下電器社長がビデオ事業出身の谷井昭雄であったことが関係しているのかも知れません。もし小蒲社長自身が後継者に石沢命孝を選んだとしたら大変なバランス感覚の持ち主だったということになります。石沢命孝は、社長就任当時、“勝てば官軍”という言葉をよく使っていたことを覚えています。今考えてみればご本人の正直な思いで意味深い言葉でした。」

「確かにこの展開は意外ですね。」と中松氏はつぶやいた。

「社長在任期間は約3年半と短命に終わりましたが、石沢命孝は松下通信の成長を維持すべく精力的に事業を展開しました。今では犯罪撲滅に貢献しているNシステムの開発納入携帯型自動車電話日本語ワードプロセッサーCCDカラーカメラハイビジョン中継車ホール音響システム等の商用化は石沢命孝社長の時代でした。海外事業ではフィリピン松下通信イギリス松下通信を設立し海外拠点を強化しました。また、自身の出身大学である東北大学の近くに松下通信仙台研究所を設立し、自ら社長に就任して地元の優秀な人材確保に努めました。」

「なかなか頑張りましたね。」と中松氏。


1988年は松下通信創立30周年に当たり、仕入れ先や販売会社も含めて様々な形で記念行事を行いました。4月に大々的に開催した技術内覧会では、松下通信の開発成果を一堂に集めて松下グループ内外の注目を集めました。」
原田は、石沢命孝が松下通信の華々しい歴史の一翼を間違いなく担ったという点を強調した。

 

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松下通信を支えた50人:小蒲秋定


200911月某日4

「次は松下通信を支えた50人の大本命です。歴代社長7名の内、松下幸之助初代社長は別格として、最も実力のあった社長小蒲秋定です。社長として十分な威厳とカリスマ性を持ち、卓越したリーダーシップで会社を牽引して移動体通信事業を大きく育てました。小蒲社長の時代に松下通信はいわゆる一流企業の仲間入りをはたしました。」


4人目は小蒲秋定社長ですか。」と中松氏。

「小蒲秋定は無線機器技術者として無線事業部長を経験の後、昭和43年から経営陣に入りました。取締役3年、常務取締役1年、専務取締役4年を経て、昭和51年に第3代社長に就任、社長在任期間は10です。社長就任年の売上高は853億円、社長退任時の売上高は3,172億円と実に4倍近くに飛躍しています。小蒲社長の下で、自動車電話の商用化LANの商用化カーエレクトロニクス事業の展開RAMSAブランドの立上げ輸出の強化アメリカ松下通信・ドイツ松下通信の設立、等が進められました。NECや富士通をライバルとし、すき間産業という言葉で事業展開に機敏な動きを求めました。」

「素晴らしい社長だったというのはよくわかります。原田さんとはどんな関りがあったのですか。」と中松氏は尋ねた。

「小蒲社長の時代、私は組合の三役でしたので労使として向かい合っていました。何しろ実力社長ですので個人的には対等とは程遠い関係で、経営上の課題としてソフト開発の強化を迫りましたが反論されるばかりでした。が、実際には松下電器と共同出資でソフト会社をスタートさせましたのでさすがと感心しました。昭和58年のディズニーランドのオープニング式典は、小蒲社長が会社代表として、私が組合代表として二人で出席したことがいい思い出です。式典後は私がスペースマウンテンに挑戦し、小蒲社長はカリブの海賊で楽しまれたそうです。」

「小蒲社長のことは様々な観点から調べる必要があるようです。50人の話は今日はこれくらいにして、また来月お伺いさせていただきます。」

私もいったん話を終わらせたいと思っていたので阿吽の呼吸だった。

 

 

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