とらえどころのない中国人のとらえかた
宮岸 雄介
とらえどころのない中国人のとらえかた――現代北京生活事情
「岩手日報」に連載していた中国滞在記をまとめたものらしい。新聞という「公共メディア」であり、著者の大学教員という職業からしても、下手なことは書けないというのは分かるのだが、なんだか優等生過ぎてあまり面白くはない。「異文化交流」を書く以上、「異文化」では生活の不便さとか、日本人との考え方の違いを中心にするのは仕方ないかとも思うが、そこに「優劣」という「差別」を感じるのか、交流」の方でフォローしているところがミエミエで、なんか不自然な感じもする。中国人は親切だとか、人懐っこいとか、違いを受け入れる懐が広いとか、中国人をステレオタイプ化してはならないというのが著者の持論だそうだが、元々、中国人を「差別的」に見ていない人間にとっては、こういう言説の方がステレオタイプではないかとも思える。長年、中国をやってると、「中国人」という擬人ではなく、「王さん」とか「李小姐」といった個人でモノを考える様になるのだが、それでは「とらえどころのない中国人」になってしまうから、「中国人」という地図に「王さん」を埋めて、「中国人のとらえかた」を完成させようということなのだろうか。しかし、著者は歴史認識で嫌な思いをしたことがないと言いながら、文中には明らかに「歴史」で責められている箇所が何箇所も出てくるし、「北京で暮らせたらどこの国でも暮らせる」なんていうのは、冗談にしても世界を見る眼が狭すぎる。さかんに車内で席を譲る中国人の話が出てくるのはどうだろう。80年代の北京を知っている者には北京も変わったなと思えるのだが、その前提に日本人(特に若者)が席を譲らないというステレオタイプがあるのはいただけない。中国人は自分と相手は違う考えをしているという前提でものを話すから自己主張が強いというのが著者の説だが、最近は自分が考えていることを相手も同じ様に考えているはずだから攻撃的になるという説が中国人から出されている。どちらも低信頼性社会を表していることには変わりはないのだが、やっぱり、無理に相手を理解して相手に合わせなくても、自然体で行けばいいんじゃないかな。実際、同じ日本人どころか、親兄弟でも何考えてんのかよく分からんことが多いんだし。
★
皇室外交とアジア
佐藤 考一
皇室外交とアジア
なるほど、これは興味深いテーマだ。新書なのに、ほとんど研究論文の様な体裁。崩御時や、天皇、皇室の訪問時における現地の新聞報道を徹底的に割り出すというシンプルな手法ながら、受入各国の違いが顕著に現れていて面白い。端的に言えば、積極的肯定が、東南アジア各国であり、積極的否定が、中韓及び東南アジア華字紙であるという、あまりにも分かりやすい構造なのだが、中国の様な完全ではないものの、大なり小なり、政府のコントロール下にある現地メディアも「時の政策」に左右された報道が目立っている。タイやマレーシアといった王国は「皇室外交」が機能する為、その訪問回数は群を抜いて多いのだが、概ね好意的であるのは、天皇批判が王室批判と同等の不敬であるという認識があるからだろう。それに対し、「天皇」=「戦争責任」に結びつくのが華人であって、歴史的な経緯をみれば致し方ない部分もあるし、日本でもそういう図式で捉える相当な勢力があるのだから、まあ予想通りといった感じである。人種間で違いが顕著になる東南アジア各国が中心なのだが、タイやフィリピン、インドネシアといった国では国民の同質化が進んだり、華語が禁止された歴史もあったり、著者の分析言語の関係もあり、マレーシアとシンガポールの事例が多い。ただ、中国、韓国、台湾、サウジアラビア、オーストラリア、ニュージーランドといったところもカバーしており、台湾の外省系メディアと中国メディア、香港メディアの微妙な違いなども参考になる。基本的に著者は「皇室外交」の有用性を積極的に認める立場なのだが、天皇制をめぐる議論も「皇室外交」の有効性に支えられている部分も大きいだろう。中国や朝日新聞が靖国で「天皇」を引っ張り出すのも、そうした「国民感情」を利用したものなのだるが、「日王」を堅持する韓国だけが一人割り切りないのも、興味深い。この辺は植民地支配というより、「天皇家起源」や「小中華思想」が関係しているのかもしれない。
★★★
ダーウィンの足跡を訪ねて
長谷川 眞理子
ダーウィンの足跡を訪ねて
集英社新書ヴィジュアル版ということで、ガラパゴスの写真なんかも載っているのだが、ダーウィンの「探検の足跡」は、そのガラパゴスだけ。後は著者が留学していたというケンブリッジのダーウィン・カレッジを中心とした英国内のダーウィンの足跡ばかり。著者の専門は動物行動学、行動生態学と言うことで、正にダーウィン的学問なのだが、そうした理系の話はほとんどなく、ダーウィンの生活ぶりをひたすら追い求めている。ただ、「進化論」の神学論争にも、動物行動学にも興味がない私には、その方がありがたかった。何せエクアドルには長期滞在していたが、ガラパゴスには行きたいと思ったことすらない。ゴルゴ13にも登場したロンサムジョージより、ビーグル号が人質として連れ帰って、キリスト教化して送り返そうとしたしたというフエゴ島人の方が100倍気になった。将軍様の拉致も日本革命計画の一環であったと考えれば、資本主義という「野蛮」も未開という「野蛮」も似たようなものであったろう。それを20世紀に実行してしまう将軍様もスゴイが、「シベリア抑留」も「撫順の奇跡」も、絶対的価値観が100%入れ替える「洗脳」があったからこそ、本体が破綻しても未だにその「遺産」が生き残っていたりしている。そうなると元々、絶対的価値観を有していない者を教化して送り返したところで、自己の経験を他者に施すことは難しいだろう。ダーウィンとはあまり関係のない話だが、ふと、そんなことを考えた。
★★