新しい中国 古い大国
佐藤 一郎
新しい中国古い大国
新書でたまにある無害な名誉教授もの。著者はこの世代の多くの中国研究者同様、「中国文学」畑の人で、奥野信太郎の門下だという。研究対象が「古い大国」の時代で、「新中国」との乖離に悩んだ世代かと思うが、竹内好路線への反発もあったらしく、当時の中国文学会で出席者(実名あり)から「バカじゃないの」と言われたという話も出てくる。「新中国」の時代が終焉し、「新しい中国」の時代になって、ようやく「古い大国」との自由な対比が可能となったというところなのだが、若い時分の留学の機会も逸したのに、講師の話も年齢を理由に断られてしまったというのは悲しい。その恨みからではなかろうが、「漢文」軽視の中国学にはかなり批判的であって、「漢文」が日本と中国とを繋げる糸だとしているのは、「漢文」で交流できた世代へのレクイエムでもあるのだが、その糸が「歴史」には無力だったことは「歴史を鑑」としても良いのではなかろうか。「文字」でのコミュニケーションが「言葉」でのコミュニケーションより、重要視される時代はもうありえないと思うが、文献学上でも漢文力があっても、現代中国語能力が不要という訳にはこれからはいかなくなるであろう。そうした「新しい中国」に戸惑いながらも、「古い大国」が教条的に否定された「新中国」には希望を感じている様子も窺える。冒頭に毛沢東評価を巡る中国側評論家とのすれ違いが書かれているのだが、第三者の研究者には「古い大国」の文人と「新中国」の革命家という二面性を持つ毛沢東も、当事者にとっては現在まで続く、文化の政治支配を招いた調本人であることには変わりはない。
★★
戦争指揮官リンカーン
内田 義雄
戦争指揮官リンカーン―アメリカ大統領の戦争
たしかにリンカーンというと暗殺されたこともあって、「奴隷解放」とか「人民による人民のための」といった「功績」とか「名言」で、神格化されている感があるのだが、「戦争指揮官リンカーン」というのは、彼の大統領としての職務の多くを占めていた。南北戦争が「国民の歴史」であるアメリカでは、そうした側面からのリンカーン研究も活発かと思われるが、所詮は他国の内戦にしか過ぎない日本にとっては、「奴隷解放」とか「暗殺」といった「世界史」の方に関心が集中するのも当然とは言える。そうした点を考慮したのか、著者は現代のアメリカ大統領と戦争と、当時の役割の連続性に論点を持ってきて、「よいインディアンは死んだインディアンだけだ」とか、「正義を大義名分にした戦争」とか、はてはアルゴアの「スーパーフリーウェイ構想」まで、その嚆矢が南北戦争にあることを説明している。「正義」を振りかざし、敵に対して「殲滅」を実行する「アメリカ式戦争」は、私がこんなところで語るのは陳腐になるくらい、全世界中の人が疑問の声をあげている訳だが、「殲滅」を実行したインディアンと日本とドイツが「成功例」なら、「殲滅」しなかった「南部」、「ベトナム」、「北朝鮮」、「湾岸戦争でのサダムフセイン」が、その後に「不安定」の種をまいた結果になったことは否めない。イラク侵攻作戦が、そうした反省の下に成されたことは、よく指摘されることだが、そうなるとアラブに「勇気」を、アメリカに「自信」を与えてしまった日本にも責任の一環があるのかもしれない。とはいえ、そんなことはアメリカが勝手にやっていることなので、全てを南北戦争に押し付けてしまって構わないのだが、アルゴアの構想がどう関係しているのかというと、リンカーンが戦争で初めて「モールス信号」を使ったことが北軍の勝利に結びついたということが、この本の骨子となっている。後にインターネットが軍事用に開発されたことは周知の通りだが、こんなヒマツブシブログも南北戦争にその嚆矢があると思えば感慨深いものがある。
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英語を学べばバカになる
薬師院 仁志
英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想
題名がちょっと気になっていた本だったので、遅ればせながら読んでみた。よくある英語帝国主義批判ものかと思いきや、アメリカ帝国批判ものであった。著者の中では「英語=米国」という本質が確立しているらしく、その根拠も述べられてはいるのだが、ある意味、これも英語という切り口でアメリカを批判するという「道具としての英語」だとも言える。全編アメリカ批判が展開されている訳だが、第三章は「アメリカ妄想」となっていて、この辺に著者の意図が隠されているのかもしれない。アメリカ批判ものも類型化されているのだが、この著者はフランスプロパーということで、フランス的アメリカ批判であることが特徴であろう。裏を返せば、親仏反米ということになるが、フランスの「帝国主義」とアメリカの「帝国主義」も大差ない様な気がしないでもない。両者とも「共和制」とか「民主主義」なんていう大義名分で「帝国主義」をしてきた訳だが、英語が帝国主義の言葉なら、フランス語だって帝国主義の言葉だろう。もし「グローバル」の窓として英語を位置づけるのなら、西アフリカや北アフリカではフランス語がそこに位置づけられるのではないか。実際、フランス人がどれほど英語を拒否しているかというのも疑問だし、それが自国語のプライドだとしても、内在的にはプライドでも外在的には帝国主義に変化するであろう。アメリカとかイギリスの国力を抜きにしても、地球上の言語を全て平等に扱うことは不可能なのだから、坊主に憎けりゃ袈裟まで憎い式に英語の有用性まで否定してしまうのはどうかと思う。この問題で常に槍玉に挙がるのが船橋洋一を筆頭とした「英語公用語」論者たちなのだが、結局、「英語公用語」なんて跡形も無くなってしまったではないか。彼らの意図が最初から実現ではなく問題提起にあったことは明らかなのだし、もう決着が付いた問題に、これ以上お付き合いする必要もなかろう。まさか志賀直哉のフランス語公用語論を復活させようとしているのではなかろうが。
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