現代中央アジア

オリヴィエ・ロワ, 斎藤 かぐみ
現代中央アジア―イスラム、ナショナリズム、石油資源
文庫クセジュなので140ページ弱しかないのだが、えらくコンパクトにまとめてきたなという印象。これは分厚い研究書を読むより理解が早いかも。2001年初版で2005年改定版を底本にしている。その後ニヤゾフが死んだり、アカエフが失脚したりと中央アジアも動きがあるのだが、ようやく過渡期が過ぎたという感もある。旧ソ連の指導者が創設された新たなナショナル・ヒストリーを以って、国民国家への統合を進めるというのも皮肉な話だが、その矛盾点についても詳しく記述されており、スターリンの民族政策にその原点を求めているのには興味深い。特にその根拠となった「言語」が如何に混乱を招いたかは大変勉強になる。しかし、中央アジア各国がソ連崩壊時に独立を強く求めておらず、CIS加盟やエリツィンに対して否定的だったことは知っていたが、行き場を失いかけないロシア系住民が反対していたかと思いきや、イスラム系住民の人口増加でソ連がイスラム化することを嫌ったエリツィンがベラルーシとウクライナと組んでソ連を自然死させたと、中央アジアでは理解されているとは知らなかった。多くの国で独立後に共産党書記が指導者に横滑りしたことからも分かる様に、ソ連の中でのイスラム連邦がイスラム系住民の望みだったのだという。この辺はバルト三国の動きとは正反対なのだが、独立後のロシア系住民の市民権の扱いについても両者は対極的である。中央アジアの場合、ロシア系(スラブ系)住民がいなくなると立ち行かなくなるという事情はあったのだろうが、バルト三国やチェチェンの様な「ナショナル・ヒストリー」が確立されておらず、かつ歴史、国境、民族、言語、文化までが都合により人為的に創生されたり、変更されてきたという歴史が影響しているところが大きいのだろう。中央アジアの統合が進まないのも、モンゴル、トルコ、ロシア、ソ連といった外来の権力の下でしか、力の均衡を維持できなかったこととも関係あるのかもしれない。人工的である国境という概念を自然なものにするには、国民国家の形成しか道はないのだろうか。
★★★
親米と反米
吉見 俊哉
親米と反米―戦後日本の政治的無意識
このタイトルで岩波新書だけど、著者は吉見俊哉ということで、カルスタ系の本。副題が「戦後日本の政治的無意識」とある様に、「親米」も「反米」も少数の政治的扇動者を除けば、大部分の国民にとっては無意識に揺れ動くものだということを考察している。単純に色分けすれば、戦前は反米、戦後は親米ということになるのだろうが、日米関係の始まりが黒船からとしても、「親米」時代も、「反米」時代も、ごく限られた年数であった。「安保」が「戦後民主主義」の延長線上にあったとすれば、「鬼畜米英」もまた、「自由」や「モダニティ」の延長線上にあったと考えるべきであろう。60年代の世界の趨勢が「ピープルズ・パワー」なら、30年代は「ネーションズ・パワー」が世界の趨勢であった。ならば、現在の世界的な反米潮流になぜ日本は参加しないのかというところが、著者ならずとも疑問が生じる点なのだろうが、それが「戦後日本の政治的無意識」ということだとすると、やはり違和感が残る。「アメリカ」という機軸で世界を見る限り、「親米」と「反米」は「正義」か「悪」かの二項対立で単純化されるものなのだが、もはや「政治的無意識」が「アメリカ」という機軸に対する無意識を意味するという前提自体が破綻しているのではなかろうか。それを政治的後退とするか、思想的進歩とするかは、憲九を巡る不毛な争いと似ているものがあるのだが、左右問わず政治的扇動者が「アメリカ」でも「靖国」でも「憲九」でも「政治化」してしまい、「踏み絵」としてしまうことに、元来「政治的無意識」である国民は嫌気がさしていることだけは間違いなかろう。
★★





