朝鮮通信使

仲尾 宏
朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交 (岩波新書 新赤版 (1093))
このテーマについては日本と韓国(北も)ではかなり受け止め方が違っていることは周知の通りなのだが、今回は岩波新書なので、スタンスをどちらに置いてあるのかは明らかなこと。わざわざ「文禄・慶長役」ではなく、「壬辰倭乱」を使用する宣言するのもどうかと思うが、日本と日本文化優越主義が権力とその情報操作によって、はびこりはじめているからというのを執筆の理由にするのはどうなんだろう。少なくともコレに関しては韓国と韓国文化優越主義が権力とその情報操作によって、はびこりはじめてるとするの妥当かと思うのだが、日韓友好の掛け声を隠れ蓑に、朝鮮が日本に文化を伝えてあげたということを主題にした企画行事も目白押しだ。日韓が同床異夢の状態で歴史を語るのは、当然なのかもしれないが、日本人は岩波や明石でオブラートに包んだ片一方の「歴史認識」を学べるという点だけは幸せといえるのかもしれない。それにしても、学んだ「先進的な朝鮮文化」のうち、日本の民衆に残されているものが「唐人踊り」とか「唐子踊り」というのも、両国の「歴史認識」のギャップを示している様で面白い。まあ「西洋の学問を即席で学ぶ為」に、日本に大挙して押し寄せた清末の中国人留学生と似たような構図であるが、そうした意味では、その実体はさておき、韓国人にとって、日本の「韓流」とは革命的なことだったのかもしれない。もっとも、ここぞとばかり、「朝鮮通信使」も「韓流」に押し込んでしまうのは強引な気がするが。
★
中国を追われたウィグル人

水谷 尚子
中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書 599)
『諸君』に掲載されたものをまとめたらしいが、その筋ではカルト的人気を誇る水谷尚子女史も、こちらの方面に手を出してしまうと、今後の中国研究に支障が出ないかちょっと心配。東史郎や愛国青年を批判的に論評しても、「侵略戦争」を否定している訳ではないし、その方面の研究という「アリバイ」もあるから大丈夫なのだろうが、「反国家分裂法」に関わる禁断の果実に手を出すと、いくら「反日」の対象外である中国語を流暢に話す日本人女性であっても、容赦はないだろう。もちろん、ここに出てくるウィグル人の状況を知ると、そんなヤワなことは言ってられなくなるのだが、著者の勤務先は東大の様に何かあったときに守り通すことができるのだろうか。K大とかW大とかは「中国の抗議」に屈した過去があるのだが、中国での後ろ盾でもあるのだろうか。最近多い反「反日」としての単純な「反中」に対する嫌悪感は著者が常々語っていることなのだが、ウィグルもチベットも台湾も、はてはインドまでも反中国の枠組みで同列に置いてしまう乱暴さは、それこそ「右傾化」で片付けられてしまっても仕方なくなるのではないか。ウィグル人の運動にもいろんな潮流があり、独立を目指すにせよ、人権侵害を訴えるにせよ、漢人との関係性を否定してしまうことは非現実的なこととも言える。著者はウィグル料理が好きで、ウィグル人は漢人の様に精神的圧力を感じることもないとしているが、そのアプローチには漢文化を介さざるおえない以上、著者としても民族的な漢人の否定はできえない。これから亡命者は精神的にも文化的にも「中国」と完全に乖離して、国内の運動との間に軋轢が生じるかもしれない。その手法が「イスラーム」にしても「民主主義」にしても、国内のウィグル人にとっては外来の価値観であることには変わりがないだろう。
★★★
母親に向かない人の子育て術

川口 マーン惠美
母親に向かない人の子育て術
ドイツ在住の著者はこれまでいい仕事をしているのだが、その「高く評価されている鋭い批評精神」がスポッと抜け落ちたような新書仕事だった。なんだかブログに自分のこどものことばかり書いている親バカみたいな話だなと思ったら、「ウェブ・マガジン」に連載されていたものの様で、批評から、ノンフィクション、翻訳、小説、歴史に至るまで健筆をふるう著者の一息入れた「書き物」なのだろう。子育て術は病気ものと並んで、普段、本を読まない人でも、必要に迫られ頁を開くという意味で、出版的には安定した需要が期待できるジャンルだから、ジャンルを問わず書き続ける著者としても、この辺を開拓する必要性はあったのかと思う。ドイツ人のダンナが中国に単身赴任中というのも、日本的な話なのだが、ハーフの年頃3人娘を抱えたドイツでの子育て話は、日本で同じ境遇の母親たちに参考になるようなことは、あまりないのではないのか。その辺は著者自身が一番分かっていることは、このタイトルにも現されているのだが、やっぱり、この著者は「自分の仕事」を貫いてほしいと思うのは、父親には向かない読者の勝手な話である。
★
預言者ムハンマド

鈴木 紘司
預言者ムハンマド (PHP新書 (475))
ハッジ・アハマド・鈴木氏のPHP新書第二弾だが、前回同様、日本人ムスリムとして、その宗教的責務を果している様に感じる。ムハンマドは預言者であって、神ではないのだが、そこに批判的要素や「定説」と異なる物語を挿入することはやはり許されないものなのだろう。預言者が五人目の妻を娶り、その妻が息子が離縁した元妻だったことは問題視されたそうだが、それも、うやむやのままである。男尊女卑や、好戦的といった現代イスラムのマイナス・イメージを否定する材料を揃えたつもりなのだろうが、預言者が十五歳年上の四十女と結婚して尻にしかれていたという話も、妻の死後、六歳の女の子と婚約して、その子が大きくなるまで、繋ぎの女性と結婚したなんて話を聞くと、男尊女卑ではないと言われても考え込んでしまうものである。例の「イスラームは平和の宗教」という言説も、この本の多くが戦闘描写に割かれているという事情では矛盾も感じてしまう。ユダヤ人とか多神教徒に迫害を受けながらも、熱心に布教したという、宣教ストーリーも、現代の新興宗教のエセ伝説の雛形になっている様な気がする。イスラームが寛容な宗教なら、こんな罰当たりなことを言っても怒られない筈だが、無宗教の人間自体が生きるに資格なしとされてしまうのはたまらない。結局、イスラームを理解するにはムスリムになるしか道はないということなのだろう。
★★




