テレビニュースは終わらない

金平 茂紀
テレビニュースは終わらない (集英社新書 400B)
この人は昔、筑紫の番組とかよく出ていたTBSの人か。童顔だったけど、意外とトシとってたんだな。上田ボーン賞というものが、どんだけのもんだかもよく分からんが、その受賞が例の人質3人組に対するパウエル発言を引き出したことだったというのは知らなかった。パウエルが貰うなら、まだ分かるが、この人は、ただインタビューしただけなのに、これがスクープというものなのかな。わざわざ故米原万里さんを引っ張り出して、お墨付きを得るのも、なんだかだが、党派性を批判しながら、あの3人組を賛美するのは矛盾していないか。第一、本人がその賞を貰ったこと自体、本人が言うところのマスコミが人質バッシング一辺倒だったということの反証ではないか。TBSに限らず、テレビや新聞が人質の「バッシング」報道をしたという印象は全くないし、朝日の日曜版かなんかで山形浩生が3人組を批判的に書いたというのが例外だった様な気がする。「自己責任」という言葉が出てくるのは日本だけという論理も、後にアフガン人質事件で、著者が評価する韓国のマスコミでも、責任論が主流になったことで破綻している。インターネットやブログを、目の敵にするのも大人気ないし、「みるだけで悲しくなる」という表現には上から目線の傲慢さも感じる。知性に溢れたチョムスキーに対して、荒唐無稽の罵詈雑言のブロガーというのも、一方的な見方ではなかろうか。その対談をみた訳ではないが、そのブロガーからみれば、チョムの方が荒唐無稽の世界にある訳で、例の如く「知識人」の論理を振りかざして、対話を拒否したのではないかとも思う。TBSの記者がマスコミの責任だとか、偉そうに講釈垂れても、全く説得力ないのだが、自分たちが「一般大衆」とかけ離れた存在であるという意識はある様だ。しかし、一般大衆の目線に近づくことは「視聴率狙い」の浅ましき行為で、自分たちが、無知な「一般大衆」を指導していかなくてはならないという考えているフシがあるからどうしようもない。反権力、中立公正とかを金科玉条にしてるくせに、自民党、共和党政府以外の「金銭的スポンサー」である企業とか、「精神的スポンサー」である国家、政党、宗教団体の批判はできないテレビニュースなど早く終わってほしい。
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ドストエフスキー 謎とちから

亀山 郁夫
ドストエフスキー―謎とちから (文春新書 604)
何十年ぶりかというドストエフスキー新訳が話題になった著者による解説本。仮にも国立大の学長さんになるには、それなりの工作が必要だったかとも思うが、ここ何年は新訳一筋でやっていきたという。それだけ時間をかけた仕事である以上、新書の一つくらいはオマケで出して当然なのだろうが、これが結構、力が入ったもので、新訳も、学長も、新書もと、とにかく仕事はキッチリこなさないと気が済まない人なのかもしれない。もしかしたら、カラマーゾフさけでなく、ここに出てくる全作品を新たに翻訳中なのかもしれない。聞く所によると、村上春樹のライ麦みたいな、確実に売れるクラスでなくても、その筋の専門家が出す新訳ものは結構売れているらしい。たしかに、戦前の岩波文庫とかの訳を未だに再版し続けているのも変な話なのだが、ドストエフスキーも我々が馴染んだ江川卓訳を、イマドキの子たちも読んできた訳か。別に私の世代でも、そんなもんを読む「文学少年」はそう多くはなかったが、「興奮しないでください」の方の江川卓も知らないイマドキの子たちが、『カラマーゾフの兄弟』みたいな陰気臭いものを読むことはあまり想像できん。「ネクラ」には、今やケータイ小説とか、BLやらもあるだろうし。ということで、ネクラOBの私は、新潮文庫(角川だっかな?)で出てる前タイトルくらいは読んだ記憶があるのだが、あらためて作品の解説をされてみて、粗筋すら覚えていないことに愕然としてしまった。今でも、内容がカスの新書とかを前に読んだのを忘れて、2度読みしてしまうことがあるのだが、ドストエフスキーを新訳でもう一度読まんといかんとなると、これは辛い。江川卓に挑戦する著者の新説はたしかに興味をそそられる部分(「去勢派」なんてものにはビックリ!)があるのだが、もう「性」を突き詰めてみる気力もない。とりあえず、この新書一冊でドストエフスキーを復習したことにしておこう。
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若き世代に語る日中戦争

伊藤 桂一, 野田 明美
若き世代に語る日中戦争 (文春新書 607)
この伊藤桂一という人は1917年生まれの有名な小説家らしいが、小説というものはサッパリ読まん私は知らん人だった。何でも日中戦争にも従軍した人なのだそうだが、その話を中心に弟子の野田明美さんという人が「聞き手」として対談するという形式。小説家に弟子がいるというのは、昔は普通のことだったのだろうが、迂闊にも現在もその制度が残存しているとは知らなかった。もっとも「弟子にしてください!」と押しかけ女房みたいな真似をした訳ではなく、カルチャーセンターの講座で教えを受けたのがきっかけだったとか。大学の指導教員などを「お師匠さん」などと呼ぶ人はたまにいるのだが、脚本とかマンガの世界みたいに一般的でないにしても、そうした形で弟子を持つ小説家も存在するのだろう。もしかしたら、書生なんてヤツもどっかで生き残っているのかも知らんが、渡辺淳一が「秘書」と称して若い女性を5人くらい「事務所」に抱えていたのは、週刊誌でみたことがある。てなことは、本の中身と関係ないのだが、『諸君!』に連載されていたものというから、まあ内容は想像通り。........でもなかった。慰安婦賛歌みたいなものもあるが、これは文芸家としては当然のことだろう。八路軍の力みたいなものを認めているのは、実際に戦場で戦った者の実感だろうが、それは、中国の側にも言えることで、毛沢東の「日本軍感謝発言」が軽々しく聞こえる程、日本軍と戦火を交えた者は、日本軍の戦力、兵士の戦意について、軍人として敬意を感じるのは自然のことであった。国民党軍がこの両者に比べて、お粗末であったということもあるのだが、中国の対日認識が変化したのも、日本軍を知る「老紅軍」が表舞台から、ほぼ姿を消したということと無関係ではなかろう。この伊藤氏は中国における「大人」の退場を嘆いているのだが、偉大な先人を越える為に、「抗日」を平和な時代にしなければならない現代の中国人指導者に「大人」を期待するというのも無理な話である。福田もアレだが、靖国とか、ガス田とかで、奴さんに多少は「抗日」の材料を提供してあげるのも、日本の「大人」の役割ではなかろうか。
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