荘園と武士団の成り立ち | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

荘園と武士団の成り立ち

 

 班田制度実施不可能ー国司の力、大きくなるー

平安中期以降(10世紀)になると、地方では、もはや班田収授の制度は実施不可能になってきました。

こうした中、朝廷は国司に一定額の税の納入を請け負わせ、一国内の政治を委ねるようになっていき、国司の力も次第に大きなものになっていきます。

 

 国司も人任せに

やがて11世紀後半になると、国司も交代の時以外は任国に赴かず、代わりの者を派遣して、

その国の有力者を指揮して政治を行っていくようになりました。

 

 荘園の成立

その国の有力者とは、土地を開発していった開発領主たちで、

彼らの中には土地を天皇や貴族・大社等に寄進する者も出てきました。

貴族や大社寺を領主として仰ぎ、税を逃れようとしたのです。

荘園の成立です。この流れは11世紀半ばには全国に広まっていきました。

 

 

 地方の有力者たちが武装

このような状況の中、地方の有力者たちは武装するようになり、各地で紛争が発生していきます。

 

 

 鎮圧のために派遣された貴族が武士に

その各地の紛争の鎮圧のために派遣された中・下級貴族の中には、

そのまま現地に残り、武士となって地方政治に関与する者もいました。

やがて彼らを中心に武士団が形成されていきます。

 

 

 承平・天慶の乱 成田山VS神田明神

そんな時に起きたのが10世紀前半の承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱です。

承平の乱=平将門の乱 今も東京都内の大手町に将門の首塚がありますね。

また、千葉県の成田山新勝寺の始まりは、お寺の公式サイトにも載っていますが、

天慶2年(939年)自分で「新皇」と名乗って朝廷と敵対した平将門の乱が鎮まるように、

寛朝大僧正が、弘法大師空海が自ら彫刻・開眼した不動明王を京都からはるばる今の成田山まで運んで奉安して護摩祈祷し、21日間の祈祷の最後の日にとうとう平将門が敗北して東国に平和が訪れ、大僧正が京都に帰ろうとしたところ、ご尊像が動かずこの地に留まるよう告げ、それが開山縁起だとか。

それで平将門を討ったのが俵藤太、のちの藤原秀郷で、藤原の子孫が苗字に藤がつく佐藤さんとか伊藤さんとかで、平将門が祀られているのが神田明神なので、ご先祖様がどちらの血縁か?又は、どちらを信仰しているか?で、宿敵側にお参りすると災いが起きると恐れられているとか。

でも、確か昭和時代のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」でその平将門を演じたのが加藤剛って言う俳優さんじゃなかったかな?あれ、本名じゃないのかもしれないけど「藤」入ってましたよね?

ちなみに私は成田山新勝寺には何度もお参りしているのに、そこより近いはずの神田明神には、お参りした事が無いんですよね。

別に避けている訳じゃないんですが、不思議と神田明神には行ったことがないんですよね。

 

天慶の乱=藤原純友の乱 瀬戸内海で起きました。

 

関連記事 平安時代中頃まで【1】

 陸奥 前九年の役 後三年の役

11世紀になると、陸奥(みちのく)の国で前九年の役と後三年の役が起こりました。

 

そして清和天皇の末裔である清和源氏と桓武天皇の末裔である桓武平氏などは地方武士団を広く組織して大きな勢力を築いていきました。

 

八幡太郎 源義家の活躍については長くなるのでまた今度。