ここで大雑把に9世紀初めから平安中期までの歴史の流れを記しておきます。
9世紀初め
桓武天皇や嵯峨天皇が政治を主導
この間、藤原氏北家(ほっけ)が一族から天皇の妃を出すなど天皇家との結びつきを強めて次第に勢力を伸ばす
藤原氏とは?
乙巳の変・大化の改新で天武天皇と活躍した中臣鎌足がのちに藤原姓を賜り、
藤原氏の祖となりました。
天児屋根命が祖神…天岩戸事件の時に岩戸前で祝詞を奏上した神様
中臣(藤原)鎌足
鎌足の息子の不比等は、娘たちを文武天皇や皇太子だった聖武天皇に嫁がせた
鎌足の孫、(つまり不比等の息子)には男が4人いて、
それぞれ北家、南家、式家、京家を興したという訳です。
で、その藤原氏北家が天皇の外戚として摂政・関白を独占して行った政治を摂関政治と言い、その時代を摂関期とも呼びます。
平安時代には氏神の祭祀や氏寺の管理、一族の官位推挙に当たる者を、
それまでの氏上(うじのかみ)に代わって氏長者(うじのちょうじゃ)と言いましたが、藤原氏のほとんどの氏長者は摂関を兼ねて絶大な権力を握ったそうです。
ちなみに…
その家柄を摂関家(摂家)とも呼び、のちに近衛(このえ)家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の五家(五摂家)に分かれました。
そうそう、上皇陛下からのお妃選びに際しては、それまでの慣例で
「皇太子妃は五摂家から」と言われていたところ、戦後で、そうでなくなったんですよね。
しかし宇多天皇は菅原道真を重用
話を元に戻しますが、藤原道長が10世紀末に権勢を誇りますが、そこに至るまで藤原氏は他の氏族を策略をもって退けてきました。
しかし、仁和3年(887年)に即位された、第59代・宇多天皇は、藤原氏を外戚とせず、太政大臣だった藤原基経の死後、摂政・関白を置かず、学者・菅原道真を重用しました。
ところが、第60代・醍醐天皇の時代に菅原道真は策謀により政界から追放されてしまうのは、このブログを読まれている神社巡りのお好きな方々は天満宮、天神参拝でご存じかと思います。
延喜・天暦の治と称賛
10世紀前半から中ごろは、醍醐天皇と村上天皇が親政を行われ、これは後に延暦・天暦の治と称賛されました。
格式の整理・編集を命じ、班田を励行し、延喜の荘園整理令を出すなど律令政治の復興に努力されました。
平将門の乱など
この頃、東国では平将門の乱(承平の乱)、瀬戸内海では藤原純友の乱(天慶の乱)が起こりました。