藤原氏の権勢
村上天皇の崩御後、安和2年(969年)に左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷されると(安和の変)、その後は藤原氏の権勢は盤石となりました。
藤原北家内部では摂関の地位を巡り争いが続きましたが、10世紀末の藤原道長の時に収まります。
道長は4人の娘を中宮(皇后)や皇太子妃とし、30年に渡って権勢をふるい、跡継ぎの頼道は50年に渡って摂政・関白を務めました。
貴族社会では妻の実家に強い役割
当時の貴族社会では夫は妻の実家の庇護を受け、子は母方の手で養育されるなど母方の実家が強い役割を果たしていました。
そうしたことから、藤原氏は天皇の最も身近な親戚として権勢をふるっていた訳です。
摂政・関白は役職任命、昇進に関わる
摂政・関白は朝廷の役職任命・昇進に深く関わっていたため、中・下級の貴族は積極的に摂関家に近づき役職の任命や位階の昇進を願ったのです。
とは言え、天皇が太政官を通じて中央・地方の役人らを指揮し全国を統治するという律令に基づく形がとられていました。
主な政務は公卿の会議によって審議され、審議の結果は天皇、場合によっては摂関の決裁を経て太政官府・宣旨などの文書で命令・伝達されました。
公卿審議の先例重視から儀式・儀礼へ
その一方で、公卿の会議における審議は「先例」が非常に重んじられるようになっていき、その先例の積み重ねとして「儀式」「儀礼」が重きをなしていき、朝廷では年中行事の整備が進んでいきます。