天皇御願の祭祀と神鏡 | 心の鏡

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このブログは主に神道について書いています。ブログタイトルの心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

宇多天皇以降の10世紀になると

朝廷祭祀は天皇御願(ごがん)の祭祀の占める割合が強くなってきます。

一部の主要な神社の恒例祭祀が「公祭」となっていった経緯については、

当ブログでも先にこちらに書きましたが、この頃から天皇が自らの近臣を勅使として派遣し奉幣を行う臨時祭が行われるようになりました。

これは延喜式にも載せられている天皇が発願の臨時のお祭りです。

 

 

賀茂臨時祭

宇多天皇の御代に天皇が即位前に受けた託宣により行われたもののようです。

 

 

石清水臨時祭

承平・天慶(てんぎょう)の乱の鎮定を感謝して第61代・朱雀天皇の御代に行われました。

※承平の乱は東国で起こった平将門の乱のこと。天慶の乱は瀬戸内海で起こった藤原純友の乱のことです。

 

これらの祭りは後に年中行事にも載せられる恒例の祭祀となって行きました。

 

 

神社行幸(じんじゃぎょうこう)

これらの臨時祭を踏襲しながら10世紀中ごろには特定神社にまで天皇ご自身が参拝される神社行幸が始まりました。

これは天皇御願の祭祀としては最も丁重なものになりますが、直接神前に進まれるのではなく社頭近くの行在所(あんざいしょ)に入られ、そこから勅使を遣わして拝礼されました。

朱雀天皇の賀茂社への行幸が初めてとされ、第66代・一条天皇の御代から制度化されていったようです。

石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野の各社への行幸が次第に定例化し、さらに日吉・稲荷・祇園の3社を加えて十社行幸として定例化していきました。

鎌倉期以降、上皇による行幸へと比重が移っていきます。

 

 

天皇一代一度の大奉幣

また『日本紀略』の宇多天皇の御代には、天皇のお代替わりごとに諸国50社に大神宝を奉献する記事を見ることが出来、9世紀後半には天皇一代一度の大奉幣が始まっていたと考えられています。

 

また歴代天皇に受け継がれている毎朝神祇に敬拝することもこの時代からでした。

 

 

神鏡ー八咫鏡ー

一方、八咫鏡の御形代は神鏡として宮中に納められていました。

平安時代初期には内侍(ないし)という女官によって祀られるようになりました。

その殿舎を内侍所(ないしどころ)、賢所(かしこどころ)と言いました。

内侍所は神宮の御代宮(ごだいきゅう)とされ、天皇の御拝礼が行われていました。

一条天皇の御代には内侍所の前で御神楽が行われるようになり、内侍所御神楽は、天岩戸神話に基づく神事で神楽歌を歌い舞いを舞って夕刻から明け方まで夜を徹して行われました。

これは現在も「賢所御神楽の儀」として12月中旬に行われています。

 

…というような事が「神社のいろは・続」に載っていました。