先週、大学のOB会で只見線に乗り会津若松まで行ったことを書きました。
そのときに使った切符が「えちごツーデーパス」というお得な切符。
仲間と話していく内に東北へ合宿旅行に行ったときにイロイロあったことが話題に出ましたのでショートストーリーで振り返って見ることにしました。
当時はこんな切符がありまして、今で言う東日本フリーパスに近い感覚の切符でしょう。
発行は「昭和」が印刷されていてまだまだ「昭和時代」が続くと信じていた頃です。
(ちなみにこのA,Bは正式な対切符ではなくて日付が別です)
1.紫煙地獄
仲間と釜石線に乗ったとき、美里山倶楽部は途中遠野から合流することにしていました。
夕方仕事を終えた方々が乗ってきた車両はキハ58の2両編成だったと記憶していますが、ホームに着いた車内を見ると真っ白に輝いていました?
デッキのドアを開けると車内の端が見えないくらいのタバコの煙。紫煙を通り越していてタバコを吸わない美里山倶楽部にはとても車内にいられずにデッキに出ましたが、そこでもタバコを吸うおっさんが3人くらいいて、花巻までの1時間くらいは地獄でしたよ。
車内でタバコが当たり前で、吸わない方が肩身が狭かった時代ならではの出来事でした。
2.若乃花の家
今年7月に亡くなった二代目「横綱若乃花」は東北青森の大鰐町の出身でした。
弘前に泊まった時、当時全盛期だった「横綱若乃花」の生家に行ってみようと言う話がでまして、大鰐駅から人づてに聞いて行ってみると表札に「若乃花の家」とありましてみんなで大笑いしていると、中からお父さんと思われる方がでてきて少し話をすることが出来ました。
若乃花本人は3月と言えば春場所「大阪に行って稽古しているよ」とのことでした。
3.吉永小百合が来る?
多分当時の切符だと思いますが帰りですね。発が金木、着が五所川原、日付が31日で料金が340円みたいです。
いや、でもね、ガセでした。
そんな有名人が来るのなら金木の駅がごった返すでしょ。
雪の中、1時間待って斜陽館が開場して聞いたけど「え~、そんな話は聞いてませんよ」で終わりましたが、せっかく朝早く来たからと人数は足りなかったけど団体割りで斜陽館に入る事が出来て十分見学してきました。
4.五能線幽霊列車
多分こんな編成だったと思います。
何故か後端にスハフ42とオハフ61、緩急車が2両連結していました。
しかし、一番最後尾の車両は回送扱いで室内灯も消されてデッキにはクサリが張っていました。
しばらくはスハフ42にいたんですが、「なんで回送なんかね?」とみんなが??
しばらくして車内が落ち着いた頃車掌が歩いてきて「みなさんは東能代まで通しだね、後ろの車両は土崎へ持っていって解体するけど決して入らないで」と言うので、「なんか床板でも抜けるんですか?」と聞いたら、
「実は後ろの車両には幽霊が出るんだ」と真顔で言われました。
「デッキから海へ飛び落ちる」、「勝手にオルゴールが鳴る」、「勝手に手動ブレーキがかかる」、「トイレで用をたしている女性に下から青大将が足に絡みつく」
等々の怖い話を車掌さんの仕事の合間に1時間くらい聞かされてみんな信じ切っていましたよ。
現代の車両しか知らない方は良く分かりませんね。
5.日本国有鉄道土崎工場
東能代から別部隊が合流して全員で秋田に向かい、土崎工場を訪れました。
これがもらった冊子です。
当時叔父が土崎工場に勤めていた関係ですんなり工場見学がOKになりました。
構内図も冊子に書いてあってアチコチ連れ回されましたが、そのときの写真が見つかりません。
当時土崎工場で扱っていた特急や急行のなつかしい名称も書いてあります。
この時土崎工場ではD51の1/5ライブスチームを制作中でした。
叔父が後でこっそりと「本物のナンバープレートはもうないけど1/5のD51 のプレートは余分があるから明後日でも家に取りに来て」言ってくれましたので、明後日叔父の家に行ってみましたが工場で緊急事態が発生して帰れないということ。
仕方なく後で送ってもらうこととして東北を後にしましたが、しばらく経って叔父が若くして亡くなりまして、ナンバープレートのことも忘れていました。
時を経て平成に入った頃に叔父の息子、つまり従兄弟が結婚することになり結婚式に出席すると「親父から聞いていたD51のプレート持っているからそのうち送るよ」というありがたい話・・・だったんですが、その従兄弟も少し経って白血病で亡くなりまして未だ幻のD51 1/5ナンバープレートです。
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