久保浩さんが亡くなったとニュースで知った。
78歳だったそうだ。やっぱり早いよなぁ。ご冥福をお祈りします。楽しい歌をありがとう。
デビューは昭和39年(1964)、ビクターから「霧の中の少女」でデビュー。この歌が彼の最大のヒットとなった。曲は恩師の吉田正、詞はその名コンビ・佐伯孝夫。ビクターのヒットメーカー。
この頃の歌謡曲のトレンドは「青春歌謡」だった。
青春歌謡は昭和30年代中盤から後半にかけてトレンドとなった歌謡曲のジャンル。
個人的にはその嚆矢は神戸一郎ではなかったかと思う。
神戸一郎のデビューは昭和32年で、「銀座九丁目は水の上」や「別れたっていいじゃないか」、「恋人をもつならば」などはすべて35年以前にヒットした歌だが、「青春歌謡前夜」としてそのアイドル性を発揮していた。
もちろん当時、歌手や映画俳優に対してアイドルという言葉はなかったが、平凡、明星などの芸能雑誌の表紙、紙面を飾り、映画、ラジオ、そして黎明期のテレビといったメディアで活躍した元祖アイドルといっていい存在だった。
それから松島アキラ(湖愁・36年)、北原謙二(若いふたり・37年)を経て橋幸夫につながる。
その橋幸夫は35年のデビューだが、当初はデビュー曲の「潮来笠」が象徴するように股旅ものが主流だった。それが「青春歌謡」にシフトしてゆくのは37年頃(江梨子、若いやつ、いつでも夢を)から。
もはや青春歌謡のトレンドは明らかだったが、まだ「青春歌謡」というネーミングはなかった。
そして青春歌謡が爆発、顕在化するのは昭和38年の舟木一夫の「高校三年生」から。雑誌をはじめとするメディアでもこの頃から「青春歌謡」という言葉をつかいはじめた。
またそのあとデビューした西郷輝彦と合わせて、橋・舟木・西郷を徳川家にたとえて「御三家」とも言いはじめた。
御三家のあとには、三田明、梶光夫、久保浩、安達明などの青春歌謡歌手が続いた。女性でも本間千代子や高田美和、高石かつ枝、吉永小百合らもそのトレンドの中で青春歌謡を披露したが、主流派あくまで男だった。
つまり、御三家をはじめ青春歌謡歌手を支持さらには熱狂的に推すファン=女の子たちの原型がそこにあった。
当時の男はまだ初心で本間千代子や吉永小百合に憧れても、映画を観たり、ラジオを聴くのがせいぜいで、ブロマイドを買うのも躊躇らいがちだったのではないだろうか。
いずれにしても昭和30年代後半、「青春歌謡」が短くも大爆発を起こしたのは、それまで大人が主流だった歌謡曲とは異なり、若年のそれも女性が支持したからということだろう。
それは、彼女たちが、雑誌を買い、映画を観て、さらにレコードを買うという「青春歌謡」という現象に惜しみもなくお金(小遣い)をつかいはじめたからだろう。
東京五輪を控えた日本では、高度経済成長のなか、「子ども」が自分たちの享楽を金銭で買えるほど豊かになっていたのだ。
いまでも若者はゲーム、音楽、動画などを大量に消費しているが、その小さな波は昭和30年代中盤あたりから起こっていたのだ。
その「青春歌謡」の仕掛人・遠藤実のこととか、なぜ青春歌謡が短命だったのかとか、青春歌謡と石坂洋次郎の影響、などまだ書いてみたいことはあるけど、いささか長くなりすぎたので、いずれまたということで。
ネットで少し調べてみたら、こうした一連の歌を「学園ソング」としてあり、「青春歌謡」とも呼ばれたと書いてあった。わたしの記憶では当時「青春歌謡」と呼ばれており、「学園ソング」なんて言葉はまだなかった。これは後づけだろう。
最後はやはり亡くなった久保浩さんの歌を。
個人的にはこの歌がいちばん好きだった。
きのうの続き。
やっぱり昨晩はYOU-TUBEでカントリーやブルーグラスを見(聴)まくった。
おかげで睡魔に耐えられず寝床に転がり込んだのが午前2時を過ぎていた。
おかげで今日は三食後居眠り三連発。
少々疲労気味だがあの余韻を忘れないうちに。
仕事場で聴いたテープのなかから2曲ばかり。
聴きなれた曲より久しぶりに聴いた曲が耳に残っている。
まずは[Put My Little Shoes Away]という曲。
邦題をつけるとすれば「ぼくの靴はしまっておいて」とか。
つくられたのは1873年というから南北戦争の砲煙がまだ残っていようかという頃。日本でいうなら明治5年、仇討ち禁止令が出たという遥か昔。
ソングライターはチャールズ・ブラッド(曲)とサミュエル・ミッチェル(詞)。サミュエルは新聞記者を生業としながら歌の詞を書くという二刀流でこの「ぼくの靴―」が代表曲。メロディーはいわゆるどこかで聴いたことのあるような讃美歌調だが、サミュエルのつくった詞が泣かせる。
死期が迫っている少年がベッドの中から母親に懇願する。
「ボクのオモチャは全部友だちたちにあげてね。でもあの靴だけはしまっておいて。そして弟が大きくなったらはかせてあげて。きっと似合うと思うから」
という内容。
当時はまだラジオ、レコード前史で、歌のヒット具合というのはその楽譜がどれだけ売れたかということで判断された。
この「ぼくの靴―」は10万枚以上売れたといわれている。ほとんど口コミで売れたわけなので大ベストセラーといっていい。
売れた理由はやはりその歌詞に共感が寄せられたということだろう。
この歌がレコード化されたのはその約半世紀後の1920年代。
ウディ・ガスリーも比較的早く録音していて、その後ハンク・スノウらのカントリー・シンガーやビル・モンロー、ラルフ・スタンレイなどブルーグラスとしてもとりあげられるようになる。最近はあまり聴かないけれど。
2曲目は[Lost All My Money, But a Two Dollar Bill]というこれぞブルーグラスといえる一曲。
これも「2ドル残して空っけつ」なんて邦題をつけてみる。
トラディショナルソングで「長い旅を続けてる俺だが、もう少しで家につくんだ。けどあと2ドルぽっちしか残ってねえんだ。あたりは暗くなるしいつまでたっても雨はやなまい。でももう少しで家に着く。ほらあそこで黒煙を吐いている汽車に飛び乗ればすぐに家に着くんだ。えらく長い旅を続けてきたんだ。けどあと2ドルぽっちしかねえ」
という内容。
解釈はいろろで、たとえば映画「スケアクロウ」のアル・パチーノのように自由を求め妻子を捨てて旅に出た男が、人生に疲れそれこそ長い旅を終らせるため家へ向かっているというストーリーも考えられる。また、もはや故郷がどこなのかも忘れてしまったホーボーがまさに文無しになって、神に手を引かれて家(天国)へ向い長い旅を終える、という幻想のなかにいる、なんて解釈も。
この歌もスタンレー・ブラザーズやモンロー・ブラザーズをはじめ多くのブルーグラッサーにとりあげられている曲で、動画のように[Long Jorney Home]というタイトリングでうたわれることもある。
動画で演奏している「アール・オブ・レスター」The Earls of Leicester はドブローの第一人者で昨年ブルーグラスの殿堂入りを果たしたジェリー・ダグラスが率いるブルーグラスバンド。バンド名を直訳すると「レスター伯爵」だが、これはジェリーが敬愛してやまないバンジョーのアール・スクラッグスとギター&ヴォーカルのレスター・フラットへのオマージュ。
最後に関係のない話。
小泉進次郎新農水大臣大歓迎。
与党だけでなく野党、さらにはマスコミまで腰が引けてる伏魔殿で米高騰のA級戦犯・全農JAを解体してほしい。
暑い、ふつか連続で。
朝昼はまだしも、夜は冷房がなきゃいられない。
今日は午前中に仕事を終え、久々に午後がフリーになったので、仕事場でゆったり。そして思いついたように安物のコンポの電源オン。
自宅にはないわたしの唯一のオーディオ機器で、いちおうCD、MD、テープが聴ける。
最近はもっぱらテープだが。最近といってもここのところすっかり遠ざかっていて、冬に聴いた記憶がないのでおそらく半年ぶりくらい。
テープデッキに前回聴いたテープがそのまま入っている。
テープは雑多で、カントリー、ジャズ、ラテン、歌謡曲、ポップスなどここに置いてあるだけで200本近くはある。オリジナルもあるがほとんどがレコードやCDからダビングしたもの。なかには半生記近い昔にダビングしたものもある。テープの寿命がいわれる昨今、そのうち灰になってしまうのだろう。
半年前、何を聴いていたのか覚えていないので取り出さずにそのまま作動させた。
軽快なブルーグラスが流れてきた。そうだったか。聴きなれたものだが気分がわるいはずがない。
流れてきたのは「ビューグルコール・ラグ」。
ジャズファンならご存知の1920年代につくられたスタンダードで、ベニー・グッドマンやバディ・リッチのバンド演奏で知られる。
ただ、ブルーグラスでもビル・モンロー&ブルーグラス・ボーイズやフラット&スクラッグス率いるフォギーマウンテン・ボーイズなど有名どころが演っていて、もはやスタンダードといってもいい曲。
テープはダビングしたものではなく、昔、知人にアメリカ土産でもらったオリジナルテープでそのジャケットには[Hooked on Bluegrass]と書かれている。「ブルーグラスにゾッコン」というような意味だろう。その下に「ノンストップで35曲の有名なブルーグラスを」というようなコピーが綴られている。
ただ演奏はオリジナルやトップミュージシャンのものではなく、「ウッド・ブラザース」とクレジットされている。二流といわれても仕方のないバンドではあるが、今でも活動を続けていて、グラミー賞にノミネートされたこともあるそうで、録音状態もすこぶるよい。
おそらく広大なアメリカ大陸を縦横に走り回るトラックドライバーをターゲットにしたテープで、ハンドルを握る彼らをしあわせな気分にさせるには充分だろう。
結局仕事を終えるまでの小一時間、両サイドすべてを聴いてしまった。
能書きどおりブルーグラスのフェヴァリットソングの連続だった。
久々に聴いたブルーグラスで、今日の夜はYOU-TUBEのハシゴで青草ざんまいといきたいもんだ。
そんななかからもう1曲。
ハンク・ウィリアムスの歌でしられるセイクレッドソングを活きのいいブルーグラスで。
いつもどおり長袖シャツ一枚で出かけたがいささか寒かった。仕事で合った知人は、家を出てすぐに踵を返して一枚覆って出直したとか。いいよな、後戻りできるって。そういう若さがうらやましい。
それにしても降りそで降らない妙な天気だった。これで明日は真夏並みになるというのだから。今日は仕事もいまいち。トラブルがたて続けに2度。こんなこともあるよ。
今よりなお未熟だった頃。
級友に突然映画に誘われた。
級友は男である。色黒でラグビー部。男からみても男くさいヤツだった。とくに一緒に遊ぶということはなかったが、気のいいノリのいいヤツでファッションなどの雑談を交わす程度の仲だった。
もちろんわたしにも彼にも「BL」志向などない。
その頃(今でもあるのかな)映画の公開にさきがけての「試写会」が流行っていた。わたしも含め金のない映画好きの学生はせっせとハガキでその試写会に応募したものだった。
彼はその試写会のキップを4枚ゲットし(ペア券2枚だったのかも)、その1枚をわたしにくれたのだ。
残りの2枚はというと、これが隣りのクラスの女子2名。
仮にふたりの女子をA子、B子とすると。Aは以前同じクラスで、美術や化学で同じグループになったこともあり顔見知りではあった。Bはまるで話したこともない関係だったが、もちろん顔も名前も知ってはいた。
どんな映画を観たのか、そのときの4人がどんな「感じ」だったのかはまるでおぼえていないが、夕方銀座のガス・ホールで学生服の男女4人がシートに並んで小さな銀幕を観ていたことは間違いない。
それから数日後、またラグビー部の彼がやってきてわたしに試写会の券を差し出した。今度は2枚だ。
彼いわく「B子がお前と行きたがってるんだ、いいよな」と。
先日の試写会でB子とは「遊び友達」になっているし、断る理由もなかったのでチケットを受け取った。
それから約束通りB子と試写会に行き、帰りに食事してお茶を飲んでと(学生服で)、いっぱしのデートをした。話をするのはおもに彼女で、実家がお寺なのだとか、お姉さんがイギリスへ留学しているのだとかそんな話をしていた。
それからしばらくして例の彼がまたわたしを誘った。
今度の日曜日4人で後楽園に行こうという話だった。わたしはしばし考えた。そして返事を留保した。
翌日「用事があるから行けない」と返事した。
そのあと学校内でラグビー部の彼とA子が付きあっているという噂がたった。ほんとうなのだろうと思った。
いっぽうB子は、学校で会うとなぜかわたしを避けているように感じた。
B子はちょっと気が強いけれど、いつも笑顔で一緒にいても気を使ってくれるし、純なところもあって好意をもっていた。彼女の気持ちも少しはわかっていた。でも、もうデートをするつもりはなかった。
なぜかというとA子が好きだったから。ずっと以前から。
わたしは甘党ではないが、疲れたときたまにチョコレートを味わいたくなる。
仕事でうまくいかなかったとき、甘い音楽を聴きたくなる。
今日は平日だったのに駅前広場はかなりの人出。気のせいか最近外国人が多くなっているような。中国人、韓国人は見分けがつかないけれど、中近東附近あるいはロシア・北欧系(いい加減)の人たちが多いような。
だからどうということはないけれど。彼らに共通していることは男女とも若いということ。といっても10代はいなくて、ほとんどが20代、30代。と見分けた。
日本人は子供か年寄りが目立つ広場で、外国人とはいえ若者がいるということは何となく安心する。かれらもイヤホンをしている人が多く、どんな音楽を聴いているのか少し気になる。
みたびCMを。
昨年あたりかなりのヘヴィロテで観た(聴いた)テレビCMを久しぶりに聴いた(観た)。
ポテトチップスのCMのようで、出てくる美男美女の名前はわからないが、BGMには聞き覚えがあった。というかひとつの時代の大きな曲がり角に流れていた今でも好きな楽曲(オリジナルではないけれど)だった。
1964年、まさに世の中が変わる東京オリンピックⅠの年にラジオ、テレビ、レコードプレイヤー、パチンコ屋(?)から聴こえていた洋楽ポップスだった。
1963年12月の第1週にはじめてヒットチャートのベスト20にランクインしたヴィレッジ・ストンパーズの「ワシントン広場の夜は更けて」は徐々に順位を上げていき、ひと月後の1964年1月の第1週にそれまで3週1位を続けていた「愛しのラナ」(ヴェルヴェッツ)を抜いてはじめのてナンバーワンになっている。
正月早々第1位の栄冠に輝いたわけだが、そのオリンピックイヤーの正月に世間でどんなことが起きていたかとか、自分が何をしていたかはまるで覚えていない。その数日前に行われたNHKの紅白歌合戦の出演者リストを見てみると、倍賞千恵子の「下町の太陽」、舟木一夫の「高校三年生」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」は見たような記憶がある。
あとはのちにYOU-TUBEで見たのが「悲しきハート」(弘田三枝子)と「伊豆の踊子」(吉永小百合)。紅白歌合戦はもう何十年も見ていないが、当時の大みそかは間違いなく見ていたはずだが、ほとんどは覚えていない。そりゃそうだよな、60年も昔のことだもの。
とにかくあの不思議な楽曲を日本の多くのポップスファンが支持したのだ。
個人的にはその前年あたりよりラジオで洋楽のヒットパレードを聴くようになり、日曜日の朝は決まって蒲団の中でポケトラ(なんて言わなかったな。ポッケト・トランジスタ・ラジオのことです)を耳にあてていたっけ。
だから、「ワシントン広場の夜は更けて」が1位になるまでの、ナンバーワンヒット曲、「悲しき悪魔」(エルヴィス)、「北京の55日」(ブラフォー。これは当時映画も観た)、「愛しのラナ」はすべてすぐに夢中になった曲(いまでもフェヴァリット)で、「ワシントン広場の夜は更けて」が徐々に順位をあげてきたときは、魅きこまれるとうほどではなかった。どちらかというと、リピートされていいるうちに「ああ、いいじゃん」と思うようになった楽曲だった。
でもなんでこのインストが多くのポップスファンの心をとらえたのか。正確なところはわからないけれど、わたしを含めジャズなど知らないティーネイジャにはデキシーミュージックが新鮮だったのかも。メロディラインも得体が知れないというか、不思議で新しかったし。さらにいえば主力楽器であるバンジョーも新鮮だった。この数カ月後にはキングストン・トリオの「花はどこへいったの」がランクインして、フォークブームが到来する。そしてイヤというほどバンジョーの音を聴くことになるのだけれど、それに先駆けてのあの乾いた音色はインパクトがあった。
当時はひと頃ほどではないけれどまだカヴァポップスブームが続いていて、このインストにも歌詞がつけられレコード化された。当時のファンには今でもあの、
♪しずかなまちの かたすみに つめたいかぜが ふきぬける
というフレーズが耳に残っているのではないだろうか。
訳詞(作詞)はかの漣健児。うたったのはパラキンやダークダックスだったが、個人的には♪のってけのってけ で登場した藤本好一の印象が強い。
インストに強引な歌詞をつけてしまったのは日本だけかと思ったら、本家でもエイムズブラザーズが「ワシントン広場(グリニッジ・ヴィレッジ)はフォーキーたちが集まる場所なんだ」みたいなことをうたっている。
とにかく1964年は東京オリンピックとともにポップスファンには忘れられない、いわばエポックメーキングな年だった。
「ワシントン広場の夜は更けて」がまだチャートナンバーワンに留まっていた2月、嵐の予感を告げる楽曲がベスト20に入ってきた。
それがザ・ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」で、以後またたくまに(大袈裟ではなく数か月で)「抱きしめたい」「シー・ラヴス・ユー」「ツイスト・アンド・シャウト」などが続々ランクインし、やがて上位を独占することになった。
いま思えばかの「ワシントン広場の夜は更けて」は音楽革命の予兆であり、不思議でさらに言えば不気味な曲調は、ビートルズ旋風を暗喩していたのかもしれない。なんて。
いまでも好きなビレッジ・ストンパーズ。アルバムも買ったし、以前お世話になったデキシー好きの先輩にCDをプレゼントしたこともあった。
そのCDのなかからもう一曲。




