song love

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好きな歌や音楽についての懐想・悔想・快想など

いよいよ明日ブラジル戦。

決勝トーナメント進出でベスト32?

ということは次のブラジル戦に勝ってベスト16ってこと? キビシイ。

もしかすると初敗戦でワールドカップ敗退なんてことに? トーナメントである以上一発勝負はやむを得ないのかもしれないけれど、惜敗したチームには敗者復活戦というルールがあってもいいのでは。でないと組み合わせによる不利がでてくる。まぁそれも含めてワールドカップなのかもしれないけれど。

 

念は遅れなくて残念だけど、代わりに音楽を聴いて応援しよう。

なんでも、日本のキャンプ地はテキサス州のナッシュビルだとか。ナッシュビルといえばカントリーミュージックの聖地。当地のラジオ番組でありカントリーシンガーが憧れる殿堂「グランド・オール・オプリ」Grand ole opryがある。

当時流行だったフィドル中心のダンス大会(バーン・ダンス)ではじまり、やがてカントリーミュージック中心のショウに発展していく。ダンスもあれば寸劇もあるオペラのようなもので、オプリはオペラの訛りあるいは誇張といったもの。

 

ワールドカップは今年で100年記念というが、「グランド・オール・オプリ」も昨年100周年を迎えた。どちらも歴史のあるエンタメなのである。

 

そんなわけで好きな古いカントリーを何曲か聴いてみた。

 

まずは今の季節にふさわしい雨の歌。「雨の別離」Blue eyes crying in the rain 。

音楽出版のオーナーでもあり、ハンク・ウィリアムズを発掘し育てたフレッド・ローズの作品。初吹込みはエルトン・ブリットだったが、その後すぐ共同経営者のロイ・エイカフがうたってヒットした。その後1970年代にウィリー・ネルソンがこの歌でグラミー賞を獲るなど再評価され、エルビスをはじめ、チャーリー・プライド、オリビア・ニュートン・ジョン、エヴァ・キャシディ、シャナイア・トゥエインなど男女を問わず多くのシンガーがカヴァしている別れの歌。

 

2曲目は失恋してもなお、「もう一度君の魅力でメロメロにしてほしい」と懇願する未練節「アンダー・ユア・スペル・アゲイン」Under your spell again 。

1959年バック・オウエンスの共作でつくられ、彼の歌でヒットした。この歌もカヴァするシンガーが多い。女性のカヴァではスキータ・デイヴィスがポップで聴きやすい。バック・オウエンスといえばヒット曲も少なくない。日本で来日コンサートをしたこともあり、日本女性とのラヴアフェアーをうたった[Made in Japan]という歌もある。またビートルズの「アクト・ナチュラリ」はバックのカヴァ。

 

3曲目は一昨年の9月に亡くなったクリス・クリストファーソンの究極のラヴソング「ヘルプ・ミー・メイク・イット・スルー・ザ・ナイト」Help me make it through the night 。邦題をつければ「夜をあなたと」という感じ。

クリスのファーストアルバム「クリストファーソン」の中の一曲で、アルバムは不調だったが、のちに女性シンガー、サミ・スミスがヒットさせた。そして元カノ、ジャニス・ジョプリンに送った「ボビー・マギー」Me and Bobby McGee  同様多くのカントリー、ポップスシンガーにカヴァされることになった。どのカヴァも聴きごたえがあるのだが、今回は彼もメンバーだった「ハイウェイメン」で。ジョニー・キャッシュもウェイロン・ジェニングスもなくなり、もはやウィリー・ネルソンが残るのみ。光陰矢の如し。わが齢を思えばさもありなん、です。

 

おまけはカントリーではおなじみのゴスペルあるいはセイクレッドソング「スウィート・バイ・アンド・バイ」In the sweet  by and by を元気なオーク・リッジ・ボーイズで。まだ元気かな。

 

ふたたびワールドカップの話。

正直、ブラジルもそうだがフランスやコロンビアなど強豪国の試合を見ていると、果たしてこうしたチームに日本が勝てるのだろうかという気持ちになるのは否めない。まぁ、チームの相性ということもあるのでジャイアントキリングの可能性ゼロではないと思うけれど。

テレビでの元Jリーガーの解説者はほぼブラジル戦での日本の勝利を予想している。日本が負けるという人はほぼ見当たらない。まぁ「日本が負ける」なんて言う人はテレビの解説に呼ばれないのだろうが。

テレビ局もワンパターンの「日本絶対勝利」ばかりを叫んでいないで、両国それぞれを勝利と予想する解説者二人を出演させその根拠を戦わせれば、番組としてももっと面白いエンタメになると思うのだけど。

結局正しかったのはセルジオ越後氏だけだった、なんてことにならなければよいのだが。

 

ワールドカップからふと目を離すと株価の異常高騰、円安地獄、体幹の弱い消費税減税、イラン侵略戦争休止の危うさ、相変わらずのトランプ悪政、地震・台風の災害の脅威などなど、社会は相変わらず重く暗い雲に覆われている。光はいつどこからさしてくるのかという気持ちになる。それでも束の間のエンタメ、ワールドカップは楽しみたいと思うのだけれど。

午前2時、起きている自信はあるけど、2時間あまり起きていられる自信はない。

 

美輪明宏さんの訃報である。

 

記憶だけで書くと、彼のことを初めて知ったのは子供の頃、昭和30年代前半だったと思う。はじめは丸山明宏の名でシャンソン歌手として登場した。「メケメケ」という歌もタイトルと「バッキャロー」と直接的な歌詞で強く印象に残った。また、なによりも彼に対する報道が「シスターボーイ」という表現されることも子供の心に記憶された。「シスターボーイ」とは直訳すると「お嬢少年」。いわゆるその後公然化される「ホモ」であり「オカマ」のことである。

 

いまではLGBTとして社会的にも普通人として扱われるようになったが、70年余り昔の日本では差別や好奇心の対象だった。それを臆することなく、「私はゲイです」と主張することもなくただのシャンソン歌手として活動していた。

もはやテレビも普及しはじめ、我が家にも遅ればせながら新しい家族として闖入してきた頃だった。今考えると歌謡曲少年だったわたしは、よくTVの歌番組を見ていたが、残念ながら丸山青年をみた記憶はない。自己規制だったのだろう。それでもその容姿を覚えていたのはおそらく芸能ニュース番組などで見たのではないだろうか。報道ならOKだったのだろう。

 

それから数年後に自身でつくったオリジナル曲「ヨイトマケの唄」で再ブレイク。このときのこともうっすら覚えている。たしか「木島則夫モーニングショー」?の歌のコーナーだった。はじめて聞いてそのリアルリズムに強い印象を受けた。昭和30年代の後半だったと思うが、その頃までたしかに町中で道路工夫たちの姿を見ることは少なくなかった。

歌はときどき時代の栞になることがあるが、「ヨイトマケの唄」もいまでは見られない昭和20年代、30年代の社会の風景や風習が表現された貴重な歌なのだと思う。

 

彼のその後の舞台、映画でのシンガー、俳優としての活躍はつい「昨日」まで伝えられていた。それが突然の訃報である。91という享年を考えれば仕方のないことかもしれないが、ご苦労さま、ありがとうございました、と言いたい。

 

また、いまでこそゲイ自認のシンガー、俳優あるいはタレントがテレビに出演するのはあたりまえのことだが、昭和30年代にはガラスより壊れにくいアクリルの天井があった。丸山明宏はよくいう「ファーストペンギン」であった。エンタメ界でのゲイたちの「地ならし」をした功績はきわめて大きいと思う。「国民栄誉賞」を受賞してもおかしくない。高市首相だったらやってくれそうだが。

 

「メケメケ」や「ヨイトマケの唄」はテレビで何度も聴くことができそうなので、彼の原点であるシャンソンを聴いて偲びたい。なかでもいちばん好きなのが多くの日本人シャンソンシンガーがカヴァしているリュシエンヌ・ドリールの「サンジャンの恋人」。何度聴いてもどのカヴァよりも、さらにいえばオリジナルよりも美輪明宏の歌がその声も表現力もいちばんドラマチックに聴こえるのである。

とうとう6月に入った。そしてきのう関東もとうとう梅雨に突入した。

「とうとう」にとくべつ意味はないが、地味で鬱陶しい季節になったということである。

いかに地味かは、祝日がないことが示している。なにせ祝日がないのはこの6月と12月だけ。12月は祝日なんかいらない。後半にビッグイベント「クリスマス」に「大晦日」があるのだから。6月のイベントといえるのはせいぜい1日の「衣替え」くらい。それだって気候変動とやらで5月のうちにとっくに上着は脱いでいる。

 

「ジューン・ブライドがあるじゃないか」と言われても、万人のイベントではない。ほんとにこの蒸し暑い時期にみんな集まってお仕着せのセレモニーをやるのかなぁ。ホスト、ゲストとも汗だく梅雨だくの祝典。せめて短パンTシャツOKにしてもらいたい。でなければ葬儀に倣って少人数の家族婚とかね。

 

あだしごとはこのへんで、何の変哲もない6月を鼓舞する(というか鬱陶しい日々を生きる自分をだな)ために「彼ら」の歌をたからかにうたい揚げよう。

ということで6月の歌を。

 

まずはかのバレンタイン・デイと同じ匂いがする前述の「ジューン・ブライド」

1964年の初回東京オリンピックの年、ザ・ピーナッツがうたった。作詞は女流のさきがけ岩谷時子、作・編曲はピーナッツの座付き作者・宮川泰。この頃から「6月に結婚すると幸せになれる」なんて言われていたようだ。

余談だけれどピーナッツの「ジューン・ブライド」を聴こうと思ってYOU-TUBEを検索したビックリ。SHOW-WA&MATSURI (2組?))という若者グループの「ジューンブライド」が延々とでてきてなかなかピーナッツにたどりつかない。せっかくなので聴いてみたらこれが昭和歌謡的。作詞が秋元康というからそういうコンセプトなのだろう。古いわたしがいうのも何だが、昔ながらのプロポーズソング。嫌いじゃないけど。

 

気をとりなおして次の6月の歌を。

すぐに思い浮かぶのは一昨日思わず仰いだ青空のように、6月の空をうたった好きな歌。

シンガーソングライター、荒木一郎が詞・曲はもちろん編曲までやった「君に捧げるほろ苦いブルース」。1975年のヒット曲、といえるかどうか。「空に星が…」や「いとしのマックス」ほどヒットしなかった印象がある。

ブルースとはうたいながらバンジョーとクラリネットをつかったデキシー風のアレンジがとてもgood。印象的な「バイバイ」を連発するフレーズはアリスの「帰らざる日々」でもつかわれている。どちらも死のにおいがする歌で、荒木一郎が「アリスがパクった」みたいなことを言ったという記事を何かで読んだことがあった。それをいうならエヴァリ・ブラザーズの「バイバイ・ラブ」が本家だと思うのだけれど。

でも、この3曲のバイバイソング、みんな好きな歌。

 

軌道修正。そういえばもう1曲「6月の空」が出てくる歌があった。

毎度毎度の森田童子。1977年の「G線上にひとり」

この歌も死のにおいがする。彼女のベスト盤「僕たちの失敗」に入っていた。編曲は若草恵。

(いまタイミングよくカスケーズの「悲しき雨音」Rhythm of the Rain が流れてきた。YOU-TUBEの音楽を聴きながらこのブログを書いているのです)

 

最後は6月の朝が出てくるチェリッシュの「海の見える部屋」1978年。

チェリッシュも一時代を築いたグループだった。1971年の「なのにあなたは京都へゆくの」からわずか4年の間に「ひまわりの小径」「若草の髪飾り」「避暑地の恋」「てんとう虫のサンバ」「白いギター」「恋の風車」とヒット曲を連発した。

「海の見える部屋」はヒットが途絶えた頃の歌だが、作曲がかのムード歌謡を定着させた吉田正という異色の組合わせ。前述のヒット曲群はほぼ筒美京平と馬飼野俊一という旬の作曲家による。作詞はヒット曲から引き続いての林春生で、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」や渚ゆう子の「京都の恋」などを書いている。

この歌には死臭(いやな言い方だな)はしないけれど、別れのうたなので湿った梅雨にはふさわしいといえるかも。

 

あたりまえのようにオマケを。ちなみにいまYOU-TUBEから流れているのは「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」。ペギー・マーチではなくウーピーの映画のワンシーンで。それはともかく、久々にチェリッシュを聴いたのでヒット曲の中からもう一曲。個人的には「避暑地の恋」とか「若草の髪かざり」が好きなのだけれど、いい動画がなかったので「白いギター」を。これもずいぶん流れていたなぁ、当時。

 

そうでした。ひとつ忘れていました、6月のビッグイベントを。

今年に限ってはサッカーのワールド・カップがありました。今年は史上最高のチームということで森保監督も選手たちもしばしば「優勝」を口にするほど。それにしても交戦国同士が同じピッチになんてことにはならないのだろうか。まぁWBCのこともあり、日本には過度な期待はしていないがベスト16はクリアしてほしい。低ハードル高結果でひとつ。

菅原洋一さんが亡くなった。

 

何もない六月が始まったとたん、昭和の作詞家に続いて昭和のシンガーが天寿をまっとうした。残念なことだけれど、人である以上当然のことで、拍手をもって送りたい。

この人も橋本淳さんと同じ1960年代から70年代にかけて、光彩をはなったシンガーである。

 

昔はめずらしくなかったクラシック出身の歌手で、レコードデビューしたのも30歳になる直前という苦労人。ビジュアルだって?決してイケメンではない。でもその顔はどこか愛嬌があって優しさがあって多くの人たちに好かれる顔であり、雰囲気だった。そうだあの頃はああいうビジュアルがカッコよかったのだ。坂本九しかり、渥美清しかり。

 

テレビでも引っ張りだったのは歌のうまさだけではなく、あの雰囲気がテレビの向こうにいた日本人のマジョリティに歓迎されるはず、という制作側の意図があったはず。いまだとなぜか目くじらをたてられるあだ名をつけられて本人もご満悦だった。たしかハンバーグだったか。小さな娘さんも出てきてミニバーグとかなんとかいわれてウケていた。

 

歌でいえば、洋楽畑のシンガーにしてはヒット曲にめぐまれた。

初めてのビッグヒットはカヴァ曲。デビュー2年後、1965年の「知りたくないの」。オリジナルはアメリカのカントリーソングでエディ・アーノルドなどがうたった「たそがれのワルツ」I Really Don't Want to Know。 それを、タイトルを含めほぼ忠実に訳したのが大学生だったなかにし礼。すでに多くのシャンソンの訳詞をしていたなかにし礼にとっても流行歌での初ヒットとなる。当初は「恋心」のB面だった。

その翌年には今度はなかにしのオリジナルの詞と宇井あきらの曲「今日でお別れ」がヒット。この曲はさらに2年後アレンジを替えて(森岡賢一郎)日本レコード大賞を受賞している。

 

その後もタンゴ、シャンソンの本業を中心に、オリジナルでもヒットをとばし、当時でも稀有な大人向けのポップシンガーとして存在感を示していた。

 

そんななかから2曲を。

まずは1967年の「芽生えてそして」。「スキヤキ」コンビの中村八大(作・編曲)、永六輔(詞)のラブソング。ほんとに偶然だが、先日、金子由香利を聴いた影響で、ニコレッタとかバルバラ、フランソワーヌ・アルディなどのシャンソン、フレンチ・ポップスを聴いていた。その流れで岸洋子の「芽生えてそして」を聴きさらに聴き比べということで本家菅原洋一を聴いたばかりだった。その時、やはり菅原盤だなと思ったものだ。

 

最後は彼の自伝のタイトルにもつかわれている「忘れな草をあなたに」(1971年)を。曲は「下町の太陽」(倍賞千恵子)や「いのちの限り」(大津美子)の江口浩司、詞は「鳥取砂丘」(水森かおり)の木下竜太郎。昭和でいうと40年を過ぎている頃の歌なのだが、20年代、30年代のうたごえ喫茶の匂いがする歌。倍賞千恵子との競作だった。

 

知人は2年前だったか90歳すぎてのコンサートを観にいったそうで、今年に入っても歌手活動を続けていたようだ。ほんとうに歌一筋で頭が下がる。ごくろうさまでした。

 

別れがたいのでもう一曲、「本職」のタンゴを。戦前からファンには人気の「小さな喫茶店」

作詞家の橋本淳さが先月亡くなったと報道されている。

 

橋本淳さんといえば1960年代から70年代にかけて一時代を築いた作詞家である。

1968年の流行歌史に残るヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)をはじめ、作曲家・筒美京平と組んだヒット曲は数知れない。

また同時期、作曲のすぎやまこういちや鈴木邦彦、井上忠夫らとのコンビで、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、タイガース、スパイダース、オックス、ゴールデン・カップスなどに詞を提供し、大げさに言えばグループサウンズのヒット曲を「独占」した。

ほかでも前述のいしだあゆみをはじめ、ザ・ピーナッツ、奥村チヨ、平山三紀、欧陽菲菲らのヒット曲を書き、当時の歌謡ポップス界を席巻した。佐伯孝夫、阿久悠とともに昭和を代表する作詞家といえるだろう。

 

また父は児童文学者であり詩人の与田準一で、音楽に関しては戦前に軍歌をいくつか作詞したようだが、戦後は童謡と校歌を書いている。そうした父親の影響も少なからずあったのではないだろうか。

 

個人的には青春真っただ中の頃で、あふれんばかりの楽曲で楽しませていただいた。ありがとうございました。

 

知っているだけでも200や300曲はあろうかというヒット曲のなかから選ぶのは難しいが、思いついた好きな三曲を聴いて橋本さんを偲びたい。

 

グループサウンズからスパイダースの「真珠の涙」(1968年、作:かまやつひろし、編:筒美京平)

歌謡ポップスから奥村チヨの「青い月夜」(1968年、作:井上忠夫、編:川口真)とヒデとロザンナの「愛情物語」(1971年、作:中村泰士、編:馬飼野俊一)

 

ありがとうございました。