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song love

好きな歌や音楽についての懐想・悔想・快想など


今日は別居中のツレとデート。

ふたりとも初めての千代田線の終点、我孫子へ行ってみた。
はじめは千葉の渋谷?という柏へ行くつもりだったのだが、そこから2駅先の終点まで行ってみたいというわたしの気まぐれでそうなってしまった。

駅を降りると、我孫子がいかに文人・異人とのゆかりある街かというPRの案内板等がならんでいた。とりわけ白樺派の志賀直哉をはじめとする文人や民俗学者の柳田国男なども愛した街であることは初耳で、感心しきりだった。
それもそうだが「発展途上」の町並みがとても気に入った。スーパーやドラッグストアもあって生活には事欠かないし、かといって専門店が目白押しというのではないのが息をつけるし、なにより繁華街の臭いがまるでしないのがいい。
「終の棲家にしようかな」って言ったら、「絶対に嫌だ」とツレは笑った。都会育ちと田舎育ちの違い。

駅から10分ほど歩くと手賀沼とその公園に着く。
わたしは相変わらず初めての土地にほろ酔いしている。ツレは「水元公園のほうが広いよ」と。そりゃそうだけど。

せっかくだからと駅を挟んだ反対側も散策し、結局柏に戻って食事をすることに。上手い料理を食べ、何より好きなビールを飲んでツレはご機嫌だった。

午後4時を過ぎ、わたしはひとり帰路についた。
たまには「ツレ孝行」をしなくては。ホントに見捨てられてしまうからな。
夕暮れ時に公園を通るのは久しぶりで、スカイラインを縁どるオレンジのグラデーションがキレイだった。街路灯や公園の灯りがともりはじめている。
ふと歌が口をついた。いつもの口笛ではなく、ほぼ無人なのをよいことに小声でうたってしまった。
♪よいやみー せえまれば なやみはー はーてえなしー

「君恋し」(詞:時雨音羽、曲:佐々紅華)、オリジナルは昭和6年の作で、怪人・二村定一がうたった。それを和製ブルースにアレンジしヒットさせたのがフランク永井で昭和36年のこと。
♪きいみー こいしー くちびーる ああせえねえどー

「くちびる褪せねど」……、なんか別の歌でそんな歌詞があったな。しばらく考えて思いついた。
♪いのち短し 恋せよ少女(おとめ) 朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に

大正4年に中山晋平(曲)と吉井勇(詞)によってつくられた「ゴンドラの唄」だ。劇中歌で主演の松井須磨子がうたった。
「くちびるが褪せる」、かんたんにいえば齢をかさねるということ。
「君恋し」ではたとえ月日が経とうとも君を想うこころはかわらないという男心がうたわれている。「ゴンドラの唄」では人生はあっという間に過ぎてしまう、燃えるような恋をできるのは若いうちだけですよと、少女(おとめ)たちにうたいかけている。

100年あまり昔の人たちが「歳をとっても」「若いうちに」とloveソングをつくり、うたっている。真反対のことをうたっているようで、本質はさほどずれてはいない。
若いうちに恋をしよう。でも年を経て容貌が色褪せても、恋する心はかわらない。それが本当の恋心なのだ。なんて。とくに男の側からいうとそういうことに。まぁ反論もありましょうが。

「君恋し」は叶わぬ恋に苦悩する男のうたでしたが、そういえば「僕の君を想うこころはどんなに歳月が経っても色褪せることはない」という男の気持ちをうたった歌がありました。そんな歌を最後に。むかしから好きな歌です。

 


インターネットで白根一男さんの訃報をみた。

昭和30年代、40年代、歌謡曲華やかなりし頃に活動した高音が魅力の歌手だった。

代表曲はやはり「次男坊鴉」とか「はたちの詩集」だろう。
わたしが当時、テレビやラジオで見聞きしていたのもそうだった。
ほかでは昭和33年に発売された「青春は雲の彼方に」という抒情歌謡。舟木一夫らが一世風靡した「青春歌謡」時代にはいささか早すぎたが、いい歌でファンも多い。
残念ながらYOU-TUBEには白根一男歌唱では見当たらなかった。以前はあった。知っている方々のためにせめてカラオケでも。

ほかで映像と共に憶えているのが「嵐に立つ兄弟」
これは「あゝ上野駅」や「男船」のヒット曲がある井沢八郎とのめずらしい男のデュオ。兄弟といっても本当の兄弟ではなく義兄弟すなわちやくざの世界をうたったもので、現代なら「反社の歌」ということで制作されることはない歌かも。そのあとも「残侠の花」など何曲かリリースした。
昭和40年という年は高倉健の映画「昭和残侠伝」がヒット、シリーズ化したり、北島三郎の「兄弟仁義」がヒットするなど。若者を中心に「義理と人情」の世界に生きる任侠礼讃の風潮があった妙な時代で、暴力団が社会から排除されている現代では考えられない時代だった。

憶えているのは白根一男が兄貴分で井沢八郎が弟分。ふたりとも着流しでうたっていた。まるで唐獅子牡丹の高倉健と鶴田浩二の相合傘のように。

その後トラブルを起こして一時自重を余儀なくされるという不幸があったが、「なつめろ番組」では常連だったと報道されている。

今年の10月に亡くなっていたそうで89歳だった。
いまのところテレビのニュースでは見ていない。もしかしたらNHKでは放送したのかもしれない。当時あれだけ「お世話」になったのだから、せめて「義理」でもいいから果たしてもらいたい。

たしかに少し前に亡くなった橋幸夫ほどヒット曲があったわけではなく、知名度の点でも当時聴いていた人やよほどの歌謡曲ファン以外は知らないだろう。
戦後80年で、もはや30、40年代に舞台に立った歌手たちのほとんどはそういう忘れられた歌手になってしまっているのは仕方のないことなのだろう。でもわたしはファンではなかったけれど、しっかり憶えているし、口ずさめる歌もある。

本当にご苦労様でした。
 


用事で出かけて久しぶりにバスに乗った。

始発から終点まで行くので最後部の左端の座席に座った。
最後部は4人掛けで、右端には同年配の銀髪の婦人がすでに座っていて文庫本を開いていた。

だんだん乗客が増えてきてわたしと婦人の間の座席にも四十そこそこと思しき女性がふたり着席した。そしてバスは出発した。

車中はほぼ同輩の方々、隣の女性ふたりが際立って若い。
ふたりは席に着いたときからずっと喋り続けている。ふたりの口調で顔見知りだけれども毎日会うほどの関係ではないといった感じ。よくいう「ママ友」っていうのだろうか。

わたしはその女性に面している左耳が難聴気味なので喋っているのはわかるけれど、何について話しているのかまではわからない。ときどき笑い声も聞こえるが、まぁ失礼だが雑音にしか聞こえない。
とはいえその会話がまったく途切れることがなく続いているので、「雑音」とはいえいささか気になってきた。
バスは途中の駅駅で乗客があり、ほぼ満員になっている。そしてほとんどがわたしのようにひとりで乗車しているようで、隣のふたりの婦人の会話だけがバスのエンジン音をBGMに車中に響いているという妙な時空間。

ふと気になったのが反対の端に座っている銀髪の婦人のこと。
「ママ友」越しにチラッと目をやると相変わらず読書をしている。気にならないのかな。本の内容が入ってくるかな。などと余計なことを考えてしまう。

20分ぐらい経過し、終点まであと半分くらい。「ママ友」の会話は止まらない。どちらかが話し、もう一方が聞き役という会話ではなく、お互いに〈私が話すんだから…〉と競い合うように間髪入れずのトークショー。

少しイライラしてきた。頭に浮かんだのは何年か前に「女性はおしゃべりだから…」と言って役職を解かれた政治家のこと。そのことだけで失職したのかどうかは忘れてしまったが、あの時わたしも同感したことを思い出した。かの政治家に対して好感はもっていなかったが、わたしの長い社会生活のなかでも実感として男より女の方がおしゃべりだと思う。
リサーチしたわけではないが、よく乗る電車中では圧倒的にしゃべり、それもしゃべり続けるのは女の方である。さらにいえば30代から50代くらいがエネルギッシュ。

ただ言っておかなければならないのは、「おしゃべり」が必ずしも悪いことではないし、場合によっては周囲が助けられることだってある。言い訳じみておりますが。

40分余り、バスはようやく終点に着いた。「ママ友の会話」を乗せたまま。
反対の端の銀髪婦人もさいごまでお付き合いさせられたようだ。
わたしはやや用事に遅れ気味だったので「バスが停止するまで座席を立たないように」というアナウンスを無視して立ち上がり「スミマセン」とママ友のひとりに言い、からだをずらしてもらって降車口へ向った。

バスから折りて足早に歩きだすと、後方からママ友たちの喋り声が途切れることなくわたしを襲ってきた。「マ友じゃないぜ、ママ友だぜ」と心の中でつぶやいた。

あのふたりにこんな歌をささげたい。
作編曲:いずみたく、詞:安井かずみ、歌:伊東ゆかり
みんな好きな「役者」です。たしか、レコード大賞の作詞賞をとった安井かずみの出世作ではなかったでしょうか。
 


今11月は作詞家・佐伯孝夫の誕生月。
明治35年(1902)11月22日、東京麹町区で生まれている。
流行歌の黎明期である昭和1ケタ時代から亡くなる50年代まで、まさに戦前・戦中・戦後の昭和を生きた作詞家であり、希代のヒットメーカーだった。

もはや聴くことも少なくなったが、昭和30年代には彼が作詞した歌謡曲が巷にあふれていた。「哀愁の街に霧が降る」「東京の人」「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」「東京ナイト・クラブ」「再会」「潮来笠」「いつでも夢を」「江梨子」などなどなど。
70歳以上あるいはナツメロ好きなら一度は聴いたことがあるはず。そんな昭和の詩人・佐伯孝夫の歌をたまには聴いてみたくなるものだ。

まずは戦前の歌を。
作詞家デビューして10年あまり、自分のスタイルや流行歌のノウハウにも熟知し、ヒット曲も出て、もっとも充実していたといえるのが昭和10年代の中盤。16年には日米が相まみえることになり、流行歌の世界も制約や禁止事項で苦しくなっていくわけで、表現の自由を発揮できる戦前最後の時期だったといえるかもしれない。
そんな昭和10年代にリリースされた3曲をいずれも灰田勝彦の歌で。

まずは昭和15年の「燦めく星座」
作曲は佐々木俊一。佐伯孝夫の相棒といえばすぐに思い浮かぶのが吉田正だろう。吉田とコンビを組むのは戦後で、戦前はこの佐々木が「良き相棒」だった。
佐々木―佐伯のヒット曲としては「無情の夢」(児玉好男)や「新雪」(灰田勝彦)、「明日はお立ちか」(小唄勝太郎)などがあり、戦後でも「桑港のチャイナタウン」(渡辺はま子)、「アルプスの牧場」(灰田勝彦)、「月よりの使者」(竹山逸郎・藤原亮子)などでコンビを組んでいる。

この歌は高峰秀子主演の野球映画「秀子の応援団長」の挿入歌で野球好きの灰田勝彦も新人ピッチャー役で出演している。またこの映画には「青春グラウンド」とうやはり佐伯作詞の主題歌があり、こちらの方がメインで曲調もジャジーでノリがよく、映画の中で頻繁につかわれた。いっぽう「燦めく星座」の方は、担当者が挿入場面を忘れ、最後に気づいて灰田の特別ショットをあらたにつくったという話が残っているほど期待されざる歌だった。それでもヒットしたのは断然「燦めく星座」の方だったのだから不思議。

♪思い込んだら命がけ というフレーズを作家の太宰治がよく鼻歌まじりで口ずさんでいたという伝聞があり、当時いまでいう「流行語」のように人びとに膾炙していたのかもしれない。野球関連で「重いコンダラ」話もあるが今回は割愛。

また、この歌の中に出てくる♪燦めく金の星 について星マークをシンボルにかかげる陸軍から軟弱だとクレームがつけられたという話も残っている。“愛の星の色”を“清い星の色”に“春を呼んでは夢みては うれしく輝く”を“若い兵士の喜びを たたえて輝く”に改訂させられたが、多くの人は元歌を歌ったとか。

この頃佐伯は、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の学芸部?で映画批評を担当したり、当時始まっていた日中戦争の従軍記者として南京、九江などへ赴き、記事を書いていた。すでにビクターとは専属契約を結んでおり、記者と作詞の二刀流どころか映画の原作や脚本も書いており、まさに充実の30代を謳歌していた。

2曲目はいまでもハワイアンとして愛されている「森の小径」
戦前戦後、佐伯孝夫が作詞した数ある流行歌のなかでも個人的にいちばん好きな歌であり、詞でもある。

リリースされたのはやはり昭和15年で、印象的なハワイアンの作・編曲は灰田勝彦の兄の有紀彦。
短い詞だが、♪ほろほろこぼれる 白い花を と始まるこの歌は実ることのなかった初恋ストーリーで、まさに「白い花」が初恋を象徴している。
普通花びらの散る様子は「ひらひら」と表現されるが、佐伯は「ほろほろ」と書いた。白い花びらと彼女のこぼした涙の擬態語「はらはら」をかけたような「ほろほろ」を使ったのだろう。
抒情性あふれる「森の小径」の極致ともいえるのが3番のラストの、♪小さな肩だった 白い花夢かよ の一節。初恋の頃を回顧しているわけで、あの時二人で歩いていて図らずもふれた肩と肩の感触。それは何年たっても憶えているし、いまとなっては甘酸っぱく大切な夢なんだよなぁ、と感慨にふけっている。「植物的」な灰田勝彦の歌声と相俟っていまでもジンとくる。

果たしてこういう情景や心情がいまの人に伝わるのかな。伝わるよな。伝わってほしいな。
亡くなった俳優の小沢昭一が好きな歌でその著書で♪白い花 夢かよ の「かよ」を絶賛していた。
この「森の小径」は昭和34年に灰田有紀彦によってつくられた「日本ウクレレ協会」のいまだ変わらぬ「協会歌」でもある。

仕事では充実していた佐伯だが、私生活ではどうだったのか。
昭和2年に私淑する西條八十夫妻の媒酌で4歳下の佐藤富美子と結婚し、2男3女をもうけていたが、結婚生活はすぐに破綻。原因は佐伯の度を超した浮気で、この頃には新しく同棲した女性とのあいだでも何人かの子どもをもうけるという破天荒ぶりだった。
佐伯孝夫の「女好き」は創作的には原点ともいえるものだが、実生活ではたびたびトラブルとなり、周囲を混乱させた。戦後になっても。
それでも子どもたちや両親との交流はあったようで、父親・仲蔵の古希を祝って自費出版をしたり、小型機で東京上空を閲覧するというプレゼントをしたりしている。そんな家族思い(妻以外)のところもあった。また、母親・たねが亡くなったのも佐伯孝夫38歳のこの年のことだった。

3曲目はそれから2年、ついに日本がアメリアに宣戦布告した翌年の昭和17年につくられた「鈴懸の径」。作・編曲は「森の小径」同様、灰田有紀彦。

鈴懸つまりプラタナスの並木径を通った学生時代の想い出をうたったもので、舞台は灰田勝彦の母校である立教大学構内。いまでも鈴懸の径は健在で、そのほとりに佐伯孝夫の歌碑もある。
ちなみに佐伯の母校は早稲田であり、兄の有紀彦は慶応大学(中退)。

「森の小径」以上に短い詞だが、それだけに憶えやすく印象にも残る。♪やさしの小鈴 葉かげに鳴れば が佐伯らしく抒情的。プラタナスの小さな丸い実を「小鈴」と女性の名のように呼び、さらに「やさしの」をつけてラブ・ストーリーをイメージさせている。

当時、「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」と軍国主義台頭の世の中でよくもこんな「軟弱」な歌が許されたものだ。すでに政府によるレコードの検閲ははじまっていて敵性音楽の洋楽はもちろん、恋愛や抒情をモチーフにした歌なども禁止あるいは書き直しになるという、そんな時代だった(生きていたわけじゃないですが)。あと1年あるいは半年発売が遅れていたら日の目を見ることはなかったのではないだろうか。
いずれにしてもかのセピア色のカサカサした時代にかくも「優しき歌」が流れていたのだ。そしてそういう歌を求める人びとがいたということは、「後輩」としてもなにかほっとするものがある。

「鈴懸の径」は戦後の「ダンモブーム」の中でジャズにアレンジされて小さくヒットした。そこに佐伯孝夫の歌詞はなかったが、戦前の歌を知る者たちにとっては♪夢はかえるよ という思いがあったのではないだろうか。オマケにどうぞ。

さいごに灰田勝彦についてもひと言。
1911年ハワイのホノルル生まれ。移民一家で日本に帰郷中に関東大震災に見舞われ、そのまま日本で住むことに。
兄の晴彦(有紀彦)がハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」のバンマス兼スチールギター奏者で、のちに勝彦もヴォーカルとして参加した。
その独特のクルーンヴォイスが注目され昭和11年にビクターから歌謡曲「ハワイのセレナーデ」(詞:佐伯孝夫)で歌手デビュー。その後映画俳優としても活躍することに。
10歳あまり年上の佐伯孝夫とウマが合い、戦前・戦後を通じて多くのコンビを組み数々のヒット曲を生みだした。
1981年3月、佐伯が亡くなった後、「文芸葬」というお別れの会が行われたのだが、そこで灰田は「燦めく星座」をうたった。そしてその1年後、灰田もその生涯を閉じた。遠い昔の話である。
 

引き続き川口真を。
前回でふれたように川口真はもともと編曲家からスタートしている。
作曲つまり主旋律はギター一本、ピアノひとつでできる。もっといえば口笛あるいは歌うこと、つまり手ぶらでもできる。それに対して編曲は主旋律に効果的な副旋律をつけたり、様々な楽器を駆使して主旋律を盛り立てるという「脇役」である。もちろん編曲家の「見せ場」もある。イントロや間奏で自己主張したり、オリジナリティを発揮することもできる。
いずれにしても編曲には音楽の知識はもちろん、楽器の種類とその効果を知り、さらには音楽の組み立てに欠かせな理論を知るなど、学術としての音楽を体得していなければならない。
ただ主人はあくまで主旋律、メロディーであり、編曲はそれに手を加えより聴き手に感動をもって伝わるよう仕立て上げるのが仕事だ。決して出しゃばってはいけないし、決して控えめでもいけない。「主人」をいかに魅力的に装飾して一つの楽曲に仕上げるかが編曲の役割なのだ。つまり編曲は誰にでもできるものではなく、その技術や理論が要求されるものなのだ。

今回はそんな名アレンジャーのひとり川口真編曲の好きな歌を三つ、といいたいところだが、どうしても選別不可能でプラスワンの4曲を聴いてみたい。

多分、編曲だけをみればヒット曲ではなくてももっと素晴らしい楽曲があるのだろうが、残念ながら素人のわたしにはそれらをピックアップする能力はない。どうしてもメロディー主体のヒット曲、好きな曲で選んでいることは否めない。それでもヒット曲つまり一般に受け入れられた楽曲というのは主旋律、詞、歌唱に加えて少なからず編曲の力が寄与していると信じている。
では。

いちばん気になるのは前回も言ったように川口が実践的編曲を学んだいずみたくとの楽曲があるのか。これがあります、超ビッグな歌が。
まずは1970年に岸洋子がうたった「希望」。作曲いずみたく、作詞藤田敏雄。藤田は舞台演出家でいずみたくのミュージカルを多くてがけた。
この歌は1966年秋に公演されたミュージカル「手紙」のなかで主演の倍賞千恵子によってうたわれたものだが、なぜかレコード化はされなかった。倍賞はすでに1962年に「下町の太陽」のビッグヒットがあり、64年にはいずみたく作曲の「瞳とじれば」をリリースしている。その間、いずみは倍賞のコンサートにも関わっているので「希望」のオリジナルが売れっ子の倍賞千恵子であっても不思議ではない。舞台の中での「希望」はかなり長い曲だったといわれるが、後年レコード化されたようにショートヴァージョンも不可能ではなかったはず。倍賞千恵子は自著のなかでその理由を自分の力量不足と書いているのだが。
いずれにしても倍賞の「希望」は誕生せず、その3年後の1969年、フォークグループ「フォーセインツ」によって初レコード化された。翌年「希望」は競作となり岸洋子とコーラスグループのシャデラックスがレコーディングした。結果は後発の岸洋子ヴァージョンが一人勝ちということに。

つぎはやはりベンチャーズから。
まず知られているのは1966年の「二人の銀座」(山内賢・和泉雅子)で、このあたりから川口真の知名度があがっていく。前回でふれたようにいずみたくのミュージカルでの編曲がレコード化されているし、ほかにもカヴァポップスでも編曲をしているので、これが初編曲というわけではない。
しかしヒット曲としての実績ということならば「二人の銀座」で、以後1967年に奥村チヨの「北国の青い空」、70年には渚ゆう子の「京都の恋」、「京都慕情」、71年には欧陽菲菲の「雨の御堂筋」とベンチャーズ作曲の楽曲を手がけていく。
奥村チヨは7年前に引退した。歌手は引退しても活動再開するケースが少なくなく、彼女もと思っていたがどうやら本気のようだ。少し鼻にかかった声が独特だった。
「北国の青い空」は彼女も出演した日活映画「紅の流れ星」(舛田利雄監督)のなかのダンスホールの場面で歌っていた。軟派の渡哲也がイカしていて、その歌の直後先頭きってジェンカを照れくさそうに踊るシーンを憶えている。いい映画だった。

3曲目はやはり編曲の腕をみがいたグループサウンズのなかから。
60年代後半に熱狂状態になったグループサウンズでもかなりのバンドを担当した。リリーズ、ヤンガース、タックスマン、ワイルドワンズ、スパイダース、カーナビーツなどなど。
とりわけテンプターズでは1968年の「エメラルドの伝説」(曲:村井邦夫)以下「おかあさん」(曲:松崎由治)、「純愛」(村井邦夫)とヒット曲が多い。ほかでヒットしたといえるのはジェノバの「帰り道は遠かった」(奥村英夫)くらい。
ヒットはしなかたが、1967年「ギター子守歌」でデビューしたリンド&リンダース7枚目にして最後のシングルとなった「夜明けの十字架」(1968)は川口真の編曲。
リンド&リンダースはヴォーカルが加賀テツヤで、作曲はほとんどがリードギターの加藤ヒロシによるもの。最大のヒット曲は「銀の鎖」で大阪ではタイガースと並ぶ人気バンドだったとか。。加藤はほかのミュージシャンにも楽曲を提供しており、フォーククルセダーズの名曲「戦争は知らない」(1967)も彼の手による。同曲は作詞が寺山修司であることも知られていて、同じ年にリンダ―スの2枚目のシングル「燃えろサーキット」の作詞も寺山が手がけている。加藤ヒロシと寺山修司との出会いは知人の紹介で、寺山の「土俵」でもある競馬場でだったとか。
「戦争は知らない」の編曲は川口真ではないが(青木望)、フォークルのヒット曲「青年は荒野をめざす」(作詞:五木寛之)の作曲はヒロシではなく和彦で、編曲は川口真である。

横路にそれると際限がなくなるので最後はテレサ・テンを短めに。
テレサ・テンのヒット曲も編曲はほぼ川口真だ。

テレサについては改めていうまでもないが、アジアの歌姫である。日本では1972年のアグネス・チャンによる「ひなげしの花」のヒットと彼女の大ブレイクにより、香港発の第二のアグネスとばかり「今夜かしら明日かしら」で日本デビュー。アイドルポップス路線が本人も乗り気でなかったのか2枚目のシングルで大人の歌謡曲「空港」がヒット。

その後、国籍のトラブルなどでしばらく日本を離れていたが1984年「つぐない」で再デビュー。85、86年の「愛人」「時の流れに身をまかせ」ともども大ヒットとなった。これらはいずれも作曲:三木たかし、編曲:川口真、作詞:荒木とよひさのトリオによるもの。今回は再ブレイクのきっかけとなった「つぐない」を。


作曲よりも編曲のほうが多い川口、多作ではあるが「打率」はかなり高い。それを知ってもらうためにも、その他の川口の編曲作品を以下に(一部だけだが)。オマケでイントロがここちよいもう一曲を聴いてみた。
「いい日旅立ち」(歌:山口百恵、詞曲:谷村新司)、「初恋の人」(歌:小川知子、曲:鈴木淳)、「恋の奴隷」(奥村チヨ、鈴木淳)、みずいろの世界(じゅん&ネネ、平尾昌晃)、「白い蝶のサンバ」(森山加代子、井上かつお)、「経験」(辺見マリ、村井邦彦)、「「涙の太陽」(青山ミチ・安西マリア、中島安敏)、「恋の町札幌」(石原裕次郎、浜口庫之助)など。
以上の中に前回とりあげた「円舞曲(ワルツ)」や「人形の家」(弘田三枝子)、「積木の部屋」などのような作曲・編曲ともにという楽曲はふくまれていない。

あらためて編曲についていえば、昨今はコンピュータでつかう編曲ソフトなるものがあって、素人でもメロディー、編曲つき(さらに歌唱まで)の楽曲をかんたんにつくれるとか。プロ用のソフトもあって、今話題のAIをつかえばもはや音楽の知識や理論なくしても編曲こみの楽曲がつくれるらしい。
それで川口真もそうだが、かの森岡賢一郎とか、寺岡真三とか萩田光雄とか井上鑑とか船山基紀などなどの名アレンジャーが織りなす名曲に匹敵する楽曲が現れるのだろうか。もしかしたら彼らの「いいとこどり」をしたAIアレンジャーとかソングライターが出現するのかもしれない。
そうなると確実に言えるのは、作詞もふくめて音楽をつくるというクリエイティヴな行為が今ほど独創的で魅力的なものではなくなっていくということだ。これは音楽に限らず人間の個性・独創性対AIの問題だと思うのだが、どうなっちゃうのかな。なんとなく画一的、均一的な社会になっていくような気がしてつまらなさそう。まぁそういう世界になってもわたしはいないからいいんだけど。

テレビが訃報を報じていた。
仲代達矢さんが亡くなった。
1960年代銀幕のスタートしてずいぶん楽しませていただいた。
いちばん印象に残ているのは黒澤明の「用心棒」や「椿三十郎」での決闘シーンも見ごたえがあったが、なんといっても小林正樹の「切腹」。竹光で切腹させられた養子の仇を討ちに武家屋敷に駆けこみ、最後は自ら腹を切るという仲代演じる浪人の鬼気迫る演技に圧倒された。あの洋風の相貌で当時好きだったイタリアのマカロニ・ウエスタンにも主演したことともども、映像が脳裏で再生されてくる。
ご冥福をお祈りします。