
秋はどこへ行った。もう初冬なのか。
♪プラタナスの枯葉舞う冬の道で… なのか。
枯葉が舞うのはまず秋だろう。
♪秋の枯葉の 最後の一枚が はかなく散るのを 見たくないから
弘田三枝子の「ロダンの肖像」の一節。作曲したのは川口真(ちなみに作詞はなかにし礼)。
川口真も好きな作曲家です。
筒美京平に比べると作った曲もヒット曲も多くない(比べるから)のだが、その日本人の心にしみるリスナー・フレンドリーな曲調は少しもひけをとらないと思っている。
2021年に84歳で亡くなったが、生まれたのは1937年(昭和12)の11月5日。つまり今日。兵庫県は神戸にて。
どのような音楽青春時代を送ったのかは書かれているものがないので不明だが、神戸から岡山へ移り東京藝大の作曲科を中退しているとか(大ざっぱ)。
その後どういう経緯で作曲家の道へ入ったのかも詳細はわからないが、芸大の作曲科に在籍したくらいなのでそうした素養、志向は当然あったはず。
いいろいろ調べてみると音楽修行はどうやらいずみたくの元で行っていたようだ。
だとするといずみがライフワークにしていたミュージカルの音楽やCMソングなどに取り組んでいたのではと思われる(とくに編曲)。
同じ芸大出身でいずみたくの元で流行歌の作・編曲を学んでいたのがジャズピアニストの渋谷毅。川口真の2歳後輩になる。
1960年初演のいずみたくのミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の編曲をしたのが渋谷。川口もその他の曲「勉強のチャチャチャ」や「帰っておいで故郷へ」などの編曲を手伝っていたようで、ほかのミュージカルにもスタッフとして参加していたことは充分考えられる。
川口が流行歌の世界で頭角をあらわすのは「二人の銀座」(山内賢/和泉雅子・1966)からはじまるベンチャーズ作曲の一連の歌の編曲からだが、それは後の話として、ファースト作曲は何か。よくいわれるのは弘田三枝子の初のオリジナルヒット曲「人形の家」(1969)だが、「二人の銀座」と同じ年、やはり山内賢・和泉雅子のデュオで「エレキファンタジー/二人の虹」を作曲しリリースしている。これは「ユー・アンド・ミー」のB面だが、翌67年にはやはり山内・和泉の「星空のふたり」を書いている。こちらはA面だった。どちらも柳の下にドジョウはいなかった。これらの曲が作曲デビューかどうかは不明だが、「人形の家」より早いことは間違いない。
今回は川口真作曲の我的3曲を。
まず1曲目は、どうしているのでしょうか、ちあきなおみの「円舞曲(ワルツ)」。
1974年リリースで作詞は阿久悠。年代からいっても阿久悠、新進気鋭の時代。
1969年「雨に濡れた慕情」でデビューしたちあきなおみ17枚目のシングル。大ヒットとまではいかなかったようだが、そこそこヒットしたのでは。同じ年に「かなしみ模様」を書いている。こちらはその年の紅白歌合戦でうたわれている。
どちらもポップスというよりも演歌の匂いがする。そういうリクエストがあったのかもしれない。へえ、これも川口真なんだと思わせるような歌だが心にしみる名曲。編曲ももちろん川口真。いうまでもないが、阿久悠の詞は天才的だね。ワルツ好きなもので。
次はそれより4年前の1970年の「時の流れのように」(ヴィッキー)。前にふれた「人形の家」(弘田三枝子)が作曲家としての初ビッグヒットだが、そのメジャーデビューの翌年に作った一曲。
ヴィッキーは1967年にフレンチポップ「恋はみずいろ」でデビューしたギリシア人。「恋はみずいろ」は日本はもとより世界的ヒットとなった。その後日本では「カーザ・ビアンカ」や「悲しき天使」もヒット。日本人ソングライターのオリジナル曲でもいけるのではということで1967年に「待ちくたびれた日曜日」(詞:小薗江圭子、曲:村井邦彦)がつくられ、その流れで1970年にリリースされたのがこの「時の流れのように」。
作詞は「翼をください」や「学生街の喫茶店」、「私鉄沿線」など数多くのヒットがある山上路夫。ちなみに山上の父はナツメロファンには懐かしい「港の見える丘」や「君待てども」などを作詞・作曲した東辰三。
川口真とは彼が師事していたいずみたくと山上が「相棒」だったことからのつながり。
とにかく耳触りの良い、サービス精神旺盛の曲である。
思い浮かぶだけでも「人形の家」(弘田三枝子)、「積木の部屋」(布施明)、「絹の靴下」(夏木マリ)、「さよならをもう一度」(尾崎紀世彦)などヒット曲も多く、好きな歌も多いので最後の1曲は難しい。いろいろ考えて残ったのは「手紙」(由紀さおり)、「熱帯魚」(岩崎宏美)、「逢いびき」(伊東ゆかり)の3曲。
「熱帯魚」は岩崎宏美ですでに聴いているので、「手紙」か「逢いびき」。ともに作詞はなかにし礼。前者は別れの歌、後者は不倫の歌。どちらも流行歌の王道で、どちらもいかにも川口真らしいメロディーでありアレンジ。今回はヒット力は小さかったあまり聴く機会のない「逢いびき」を。
カヴァポップスからの脱皮をはかっていた伊東ゆかりの初ヒットが1967年の「小指の想い出」。この曲で伊東ゆかりのブームが到来し、「恋のしずく」「朝のくちづけ」「知らなかったの」と次々にヒットをとばしたが、やがてブームも終焉。それでもシングル盤を出し続けるだけの実力はあり、1976年66枚目のシングルとしてリリースしたのがこの「逢いびき」。編曲も川口真。伊東ゆかりにはその6年前の1970年にも「裸足の恋」を書いているがこちらもヒットには結びつかなかった。
静から動へ盛り上げるメロディとアレンジは川口真の本領発揮。伊東ゆかりの歌唱、なかにし礼の詞ともども聴いてる者の胸に刺さります。テレビドラマ「金曜日の妻たち」に先がけること6年あまりの不倫ドラマを書いたなかにし礼もスゴイ。
話かわって、高市総理の支持率が80%越えだとか。スゴイな。ホントかよと思った。なにせあの独裁者プーチンが70数%なのだから。とくに若い層の支持が高いのだとか。ここで黴の生えた常套句を言わせていただこう。「今どきの若い奴らときたら」。でもある意味気の毒。あとは下がるしかないのだから。どこらへんで止まるのかな。年が明ける頃には50%切ってたりして。
アメリカではニューヨーク州知事選で民主党のマムダニさんが勝ち。他に2州での知事選でも民主党が連勝しているようで、潮目や風向きが少し変わってきたのかな。はやく「サ州ヨナラ トランプ」になってほしいけど。
トピカルな話題で終るのは寝心地がわるいのでオマケを。
久々にヴィッキーを聴いたので、それに触発されて彼女もうたっていた「白い十字架」を。これはオリジナルがドイツのクラリネット奏者、ヘンリー・アーランドつくった曲。学生時代アルバイト先の同僚から借りたまま、半世紀以上経っているのにいまだに手元にあるというシングル盤レコード。イイ奴だったな。それにくらべて。まぁイージーリスニングが輝いていた頃の話です。

風の強い1日でした。
飛ばないというふれこみの帽子が飛ばされた。被り方がわるいのだけど。
ドジャーズフィーバーいまだ続いております。
昨日はあのベッツ、フリーマンのラストシーンが見たくてニュース、スポーツニュースを何度見たことか。一夜明けても依然ドジャーズの嵐やまず。正直、もう食傷気味です。明日はロスでのパレードのオンパレードでしょう、テレビは。もちろん見ます。
昨日は試合終了の直後にやはりMLB好きの知人から電話が。通知番号を見てすぐに予感が。やはり「その話」だった。電話はかけた人が話すべきで、こちらは聞き役。とにかく大谷ファンだが「野茂からのMLBファン」が彼の口ぐせ。イチローでも大谷でもなく、ということなのだ。「わたしなんかその20年以上も前のマントル、マリスからのMLBファンだよ」などとは決して言いませんが。
でも誰であれMLBやドジャーズの話は苦痛ではない。彼いわくあの日のヒーローは9回表に同点ホームランを打ち、9回裏にバックホームプレイでアウトにして窮地を救ったロハスだと。ごもっともです。
10分以上電話で話して(いや聞いて)切った後、その知人と先日食事をしたときに出た話で耳の残ったことを思い出した。
そのとき彼はこう言った。
「同じ孫でも娘の孫の方が可愛いよな」
「……」
はじめは男の子の孫より女の子の孫のほうが可愛いのかと思ったが。そうではなかった。
彼には男と女、ふたりの子どもがいてともに結婚し息子さんには女の子と男の子のふたりの孫が、娘さんには男の子ひとりだけの孫がいる。彼が言っているのは息子さんのふたりの孫よりも娘さんのひとりっ子の男の孫のほうが可愛いということ。もちろん孫は誰も可愛いのだが、突き詰めていくと?そうなるのだそうだ。
祖父母は子育ての反省をこめて孫を溺愛するというあたりまでは理解していたつもりだが、「孫の格差」までは深く考えたことはなかった。
彼いわく、子どもをつくるというのは男女の「共同作業」なのだが、出産という実体は女だけのものだというのだ。だから息子さんが選んだお嫁さんから生まれた子ども、つまり彼にとってその孫は、彼とは血のつながらないお嫁さんの実体であり、彼の長男に実体はないというのだ。
たしかに物理的に考えれば子どもは女性が生んだのであって、男は「お手伝い」をしただけなのかもしれないのだが。
わたしにも長男、次男、長女にそれぞれ孫がいるのだが、そんなことを考えたことはなかった。どの孫も遠方で暮らしているので頻繁に合うことはできないのだが、会えば可愛いというか、オモロイやっちゃと思う。写真を送ってもらってもそう思っていた。
だが知人から「孫愛格差論」を聞かされたあと、妙に気になる。長男の孫より長女の孫のほうが可愛いのか。改めて考えてみるとたしかに、娘の子(孫)のほうが気になるというか、オモロイと思う。ただそれは、長男の孫の方が年齢が上でつき合いも長く、長女の孫はまだ幼く付き合いも短くて新鮮だから、と思うのだが。
そんなことを考えていたら、「じゃあ子どもはどうなのか」と思ってしまう。子どもたちと等しく対応してきたのかと。
正直に言うといちばん密に接したのは長男だろう。これは誰でも思い当たるところがあるのではないだろうか。割をくうのは次男で、やはり子育ての鮮度は落ちるし、先輩(長男)を優先させてあげねばという「義理」もあって、ついつい対応が雑になったり。長女は女の子ということもあり、歳もやや離れていて子育てもふたたび新鮮度があがったり。堪らないのは次男坊。
実はわたしは次男で、小学生の頃までは親に「なんで兄ちゃんばかりヒイキするんだよ」とゴネるアクタレだった。だから次男坊の気持ちはなんとなくわかる。
本心はともかくわたしの子どもの次男坊は、表だった反抗期もなくもちろんわたしに悪態をつくこともなく育ってくれたので、それほどひどい「子ども格差」を感じさせずにすんだのではと勝手に思っている。
子どもたちにも、孫たちにもそれぞれ異なった個性があって、親や祖父母はそれぞれに合わせるように接する。その行為がときによって「差別」にみえたり、受け止められたりすることがあるのだろう。それに親や祖父母の個性も加わるのだから面倒くさい。そう考えると「子格差」「孫格差」はあるのかもしれない。
ただ孫だって「お婆ちゃんは好きだけど、お爺ちゃんはフツー」とか、子どもだって「ママは好きだけど」「パパは嫌い」ということもめずらしくないだろう。孫や子の「親格差」「祖父母格差」だってあっても不思議ではない。
まぁ、相手がどんなに幼くても「人間関係」は複雑なんだということで、それがこじれれば反感、嫌悪、憎悪が生まれるのはあたりまえのこと。極端なことをいえば、血がつながっているゆえの親殺し、子殺し、祖父母殺し、孫殺しだってあるのだから。
たいへんな結論になってしまいました。あの知人があんなこと言うから。だからといってわたしは知人に対して悪意はもちろん、殺意を覚えることは決してありませんが。
こんな話になってどんな歌を聴けばよいのか。
孫といえばあの歌が思い浮かぶが、改めて聴くとなるとちょっと躊躇ってしまう。
「孫」という言葉が出てくる歌で唯一知っているのは坂本九の「九ちゃんのツンツン節」(昭和38年 1963)。高校時代に見初めた彼女と結婚し子どもをもうけ、やがて孫ももうけるという夢物語。
曲はP.D.で旧制高校の「蛮歌」からきているのではないかという説がある。「東京流れ者」などもそうである。詞は坂本九自身。編曲は「スーダラ節」をはじめハナ肇とクレージーキャッツの一連の歌の作・編曲者としてしられる萩原哲晶。
1曲だけではさみしいのでもう1曲坂本九のノヴェルティソング「九ちゃんのズンタタッタ」(昭和36年 1961)を。作詞はこちらもクレイジーの一連の歌の作詞を担当した青島幸男。この歌では作曲も。「明日があるさ」も彼の作詞作曲である。編曲は坂本九が在籍したパラダイスキングのボスであるダニー飯田。
これも一目惚れした彼女をなんとか口説き落とそうという若者の涙ぐましいモーション て今ごろいわないか。何て言うのですか「アタック」?「ナンパ」? とにかくそんな話で、結論は相思相愛のハッピーエンドになる。音源では伝わらないが、当時のテレビでは九ちゃんがオチを歌ったエンディングでコーラスのパラキン連中がノロケ話に「フザケルナ」とばかり九ちゃんを袋叩き風にするのがお約束だった。そんな光景もなつかしい。半世紀以上むかしの歌です、どちらも。

昨日も今日も最高の試合を堪能させてもらった。
ありがとう、ドジャーズ。
2試合ともテレビとネットに釘付けだった。
2試合ともダブルプレーという超劇的なフィニッシュだった。2試合ともウイニングボールを獲ったのはフリーマンだった。
堅実で軽快なレフト、キキ・フェルナンデスとショート、ベッツはまさに職人技。シビレた。
MVP山本、当然だよね。マンシー、ロハス、スミス、フリーマン、大谷、佐々木……
リーグ優勝でMVPになった大谷が言っていたように全員で勝ち取ったワールドチャンピオンだね。
それを踏まえて最高に称賛されるべきはロバーツ監督だね。打順、投手起用、諸々その采配は運も含めてアメージング。
とにかく地区優勝戦から含めて長いポストシーズンでしたがこれで終了。来年の春まで半年余りオフMLBというかロスMLBというか。
先週のシリーズ3戦目、延長18回サヨナラ勝ちのときなど、どうしても出かけなくてはならない用事があり、7回5対5の同点で無念あきらめの外出。3時間あまりの用事を済ませ、どっちが勝ったかなとネットにつなぐとなんとなんとまだやっていた。おかげでフリーマンのサヨナラホーマーの感激に浸ることができた。
その試合も含め素晴らしきベースボールを満喫した。ついでに言うわけではないが、今年の日本シリーズも目を離せない好ゲームが続き、野球の素晴らしさに酔うことができた。ソフトバンクのファンでもなく、阪神のファンでもなく、それでも面白いテレビがないのでついつい見てしまう。それが面白い試合の連続で、ならば明日も明後日もと最後まで見てしまった。まさに短期決戦の緊張感と面白さだね。
その感激をひきずりながら天皇賞に臨んだが見事に惨敗。3歳馬同志で来る? まぁ世の中そんなにいいことばかりじゃない。調子にのりなさんなよ。という戒めなのだろう。
さいごに音楽でも。
[I LOVE L.A.]はランディ・ニューマンが歌っているドジャーズの勝利の歌だそうだ。ヤンキースの「ニュヨーク ニューヨーク」やシカコ・カブスの「ゴー・カブス・ゴー」は聴いたことがあるけど、これは初耳。にわかファンがバレるよね。
MLBに欠かせない歌といえば「私を野球に連れてって」Take Me Out To The Ball Game だろうが、わたしにとってはメジャー・リーグ・ベースボールというとなぜか思い浮かぶ歌がある。昔、オールドMLBのドキュメント映画をテレビでみたときにBGMとして流れていた歌だ。MLBの成り立ちはもちろん、ベーブ・ルース、ジャッキー・ロビンソン、テッド・ウィリアムズ、タイ・カップからウィリー・メイズ、ミッキー・マントルなどMLBをつくりあげたスラッガーの面々が登場する映画だった。
そんな懐かしい映像のバックに流れていたのが「マギー、若き日の歌を」When You and I Were Young, Maggie でアメリカでは[MAGGIE]としても親しまれている。ベースボールとはまったく関係ないがこの懐かしい歌を聞くと、かの映画のようにトウモロコシ畑のなかからシューレス・ジョーをはじめオールドプレイヤーたちがぞくぞくとグラウンドに現れて来そうな気がするのだ。

細長く100m以上続く公園の一角に10本あまりの金木犀が並んでいる。
家から駅までゆく動線からはすこし外れたところ。
いまは金木犀の最盛期。途中で公園を出ていってもその芳醇な香りはついてくる。
だから、急いでいない帰路はすこし♪遠回りして帰ろ、である。「彼女ら」の甘い視線を感じながらその傍を通りぬけるのはなかなか快適。まぁ、桜もそうだけどあと何年かすればTHE END となるのだから仲よくしようよ。
ここのところ今年の秋は最短かと思うほどの寒さだが、きのうなど公園の各所にタンポポが咲き始めていた。一週間ほど前の残暑のせいかもしれない。でも10月のタンポポは多分はじめて。なにしろ金木犀の香りのなかでタンポポを愛でるのだから。この寒さでタンポポもフライングしたことを後悔しているに違いない。
そんな公園で思わす出た口笛が ♪りんごの花ほころび 川面に霞立ち という「カチューシャ」。やっぱりタンポポのせいかな。
「カチューシャ」はロシアの歌で、戦後昭和の人々が愛しうたった洋楽だ。everydayではないけれど。シベリアに抑留されていた日本人が帰国後持ち帰ったのが「共産主義」と「ロシア民謡」というのが伝説だろうが、とにかく「カチューシャ」や「トロイカ」は戦後の「うたごえ運動」の人気ソングだったし、小中学校の音楽授業でもとりあげられた。
わたしも子どもの頃から好きというか耳に残る歌だった。
とにかく小学校にあがるかどうかという頃、父親が鼻歌で口ずさんでいるのを聞き逃さなかった。父親は流行歌などいっさい無関心でクラシックばかりを聴いているような人間だった。それが幼いわたしの前で無意識だったのだろうが、♪君なぁあき里にも 春は忍びよりぬ とうたっていた。ただそれ以外のロシアの歌は聴いたことがなかったのだが。
小学校の高学年になると音楽の授業でこの「カチューシャ」を習ったはずである。「はず」というのははっきり記憶していないから。それでもそう思うのは音楽の男の先生がロシアミュージックが大好きで、授業中もそうだが昼休みになるとアコーディオンをかかえ校庭に出て、「コロブシュカ」を弾きながら女子生徒にフォークダンスを教えていた様子を二階の窓から見ていたからだ。「黒い瞳」も「赤いサラファン」も「ボルガの舟唄」も「バルカンの星の下で」もその先生から習った記憶がある。
もうひとつ小学生での「カチューシャ」といえばクラスの女の子の思い出がある。
背は小さくて、眼は大きくていつも怒ったような顔をして男子を攻撃する「みっちゃん」だ。その彼女のルックスでいまでも憶えているのが髪にさした黒い「カチューシャ」。その髪飾りが「カチューシャ」という名称であることを、女子たちの会話ではじめて知ったのがそのとき。だから♪岸辺に立ちてうたう カチューシャのうた と聞こえてくるとカチューシャをしたみっちゃんが浮かんでくるのだ。その時わたしには隣のクラスに好きな娘がいたのでとくにみっちゃんを気にしていたわけではないのだが。
その髪留めの「カチューシャ」は大正3年、トルストイの原作を元に上演された芸術座の「復活」のヒロイン、カチューシャがしていた髪飾りを誰からとなくその名にちなんで呼び始めたことから定着したといわれている。それが今のヘアバンド型だったかどうかは不明だが、あの形の髪飾りを「カチューシャ」と呼ぶのは日本だけらしい。
ちなみにその舞台で松井須磨子によってうたわれレコード化された「カチューシャの唄」(詞:島村抱月、相馬御風 曲:中山晋平)は日本初の流行歌といわれる。
話は飛んで7,8年。19の春にそのみっちゃんと再会したのである。所は東京駅前は丸の内。彼女は某大手商事のOLさん。わたしは浪人中。アルバイトでビルの清掃をしていたフロアが彼女の勤める商事会社だったというまるで三文小説のような話。そこでふたりは筋書きどおり恋に落ちるのである。ただ残念ながら今回はまだ「カチューシャ」にまつわる話があるので、ふたりの行く末はまたいつかの機会があればということで。
それから4年、わたしは大学を出て(途中で)、家を出て、二十三区を出て、東京郊外のAという街で初めてのひとり暮らしを始めた。なにはともあれ働かねばならない。
映像制作会社のカメラ助手、地方新聞社の営業、印刷会社の刷版、生来の飽きっぽさで、仕事はすべて中途半端。半年もてばいいほう。そのときの愛読書はいまあるかどうかしらないが「アルバイト・ニュース」。
そのあと就職したのが隣の埼玉県のある工業団地のなかにあった社員100名あまりの化学工業会社。その資材課になんとかもぐりこんだ。仕事はほとんど一日中会社内の広い資材置き場でドラム缶を転がすという純肉体労働。青空の下でからだを酷使する仕事がしたい、若い頃にはそんな思いに駆られる時期がある。
そこで遭ったのがひと回り以上先輩のFさん。
資材課は課長、係長とFさんと私の四人。入社早々気づいたのは課長係長によるFさんへの言葉によるイジメ。義憤に駆られて、と言いたいところだがなにせわたしは新米。できることは休憩時間にFさんと将棋などをさしてことさら仲良くするくらい。
Fさんは無口な人だったが、それでも現場でドラム缶を転がすふたりだけの作業中は世間話も。そのうちわたしに心を許してくれたのか会社の近くにある家へ食事に誘ってくれた。
Fさんの家はご両親と奥さんとの四人暮らし。休日や早朝、夕方などはFさんも農作業をする兼業農家だった。そこで酒と食事を御馳走になり、会社では見られないやや饒舌なFさんとひと時をすごすのである。月に1度はお誘いがかかり、奥さんの家庭料理を楽しみに出かけていった。
そして年末の忘年会。資材課は製造課との合同で30人くらいで駅前の料理屋の座敷を貸し切って行なった。入社から半年以上経っていたので製造課にも顔見知りができ、居心地はわるくなかった。そのうち始まったのが「のど自慢大会」。若い奴からということでわたしも何かうたわされたのだが、憶えていない。カラオケ出現以前の時代、マイク一本のアカペラでである。
そのうちFさんにマイクが。Fさんと歌が結びつかず、そんな話もしたことがなかったので、どんな歌をうたうのだろう、と興味がわいた。
Fさんは固辞した。カラオケのない時代、日本人は圧倒的に「歌わない人」が多かった。それを強要するのはいまでいえばハラスメントということになるのだろう。しかし時代は半世紀あまり昔の話。課長がFさんに「歌ぐらいうたえんのかい」と強要した。
恥かしそうに半笑いになったFさんはマイクをもらってゆっくり立ち上がり、眼を閉じてうたいはじめた。
♪ナーヴィソーキ ベレナ クルト……
…………
ヴィハチーイラ ナベレ カチューシャ
意味はわからないがそのメロディーで「カチューシャ」であることはすぐ理解できた。なかなかの歌声だった。宴会の参加者たちは原語でうたっているということもあり「意外だ」という顔つきで聴き入っていた。わたしも。課長の様子をうかがうと圧倒されたように固まっていた。
それから半年あまり経った初夏、わたしはまたまた悪いクセが出て会社を辞めてしまった。Fさんに挨拶もせずに。その後、元同僚からの話でFさんが地方の国立大学出身だということを聞いた。どういう事情があったのかは知る由もないが、そのときFさんと「カチューシャ」の結びつきが腑に落ちたような気がした。
これがわたしの「カチューシャ」ストーリーである。
だいぶ長くなってしまったが、ついでなので「カチューシャ」の歌についても少し。
カチューシャはかつてはロシア民謡といわれていたが、いわゆる詠み人知らずのフォークロアではない。1938年ミハイル・イサコフスキー(詞)とマトベイ・ブランデル(曲)によってつくられた流行歌である。それはまた日本でゆうところの軍歌でもある。1940年代につくられた「バルカンの星の下で」もそうだという。
♪りんごの花ほころび 川面に霞たち
という歌い出しは直訳だが、原曲ではそうした岸辺に立った女性・カチューシャが戦(いくさ)に往った恋人を思って歌をうたう、というふうに続いていく。
戦場へ往った恋人や夫あるいは友だちに思いをはせるという歌はどこにでもあるのではないだろうか。たとえば「虹と共に消えた恋」の元歌でアイルランドの「シューラー・ルン」がそうだし、カントリーでは「河のほとりで」などがそう。
日本では当時そうした歌は「女々しい」といって作ることができなかったが、「愛国の花」をはじめ「兵隊さんよありがとう」「父よ貴方は強かった」「勝利の日まで」など後方から戦地へ赴いた「身内」への思いをうたった歌はいくつもあり、その思いは同様だったはずである。
日本語詞はうたごえ運動の主導者・関鑑子(あきこ)と「高校三年生」や「東京のバス・ガール」を書いた丘灯至夫の共作。この「カチューシャ」をはじめロシア民謡と呼ばれたロシアの歌は戦後のうたごえ運動(職場やグループでのコーラス)や「灯」などのうたごえ喫茶で日本中にひろまっていった。
原詞が聴けるYOU-TUBEの「カチューシャ」ロシア版はほぼ軍服姿なので時節がら聴かずにおくが、個人レベルでいえばロシアであれウクライナであれ、戦場へ往かざるをえなかった愛する人を待つ人の心は同じはずである。
カチューシャ原語版が聴けないのでオマケで「行商人」を。

出かけなくてはならないのに延長戦。最悪だ。
朝7自前に起きてドジャーズvs.フィリーズをネット観戦。食事をし、出かける支度をし、仕事の準備をしながら。すべてイニングの間にパパっと。
今日は投手戦で、両チーム7回に1点ずつとって延長戦に。それまででは佐々木朗希の好投が光った。とにかく敵も次回先発予定のエースを投入するという総力戦。
このシリーズではタイブレイクのルールがなく、決着がつくまでだって。参ったな。
それでも試合は11回、ドジャーズ、ツーアウト満塁でフィリーズの投手がピッチャーゴロをコボしてさらにキャッチャーに暴投して試合終了。ドジャーズのサヨナラ勝ち。なんか喜劇のオチみたいで笑ってしまいました。野球もやっぱりメンタルゲームなんだなぁ。
余韻にひたる暇もなく急いで家をでた。
行先はかかりつけのクリニック。15分遅れ(電話は入れておきましたが)で先生に何度も頭を下げた。野球観てたってバレてたかも。
待たされることなく診察室に入り、左腕にインフルエンザの、右腕にコロナのワクチン注射の2連発で、ものの10分あまりでクリニックを後にした。
それから仕事場へ、こちらはいくら遅れてもいいのだ。大谷の相変わらずの不振は気がかりだけど、とりあえずドジャーズが次のステージに進めたので安堵。相手はカブスになってくれ。
しつこいですが最後の夏の思い出ソングを。
「夏の思い出」が「あの夏の日」になってさらに。
俳句の添削じゃないけれど、意味が通れば余分な言葉はカットする。「あの夏の日」だって「日」を省略して「あの夏」で充分。
そんな歌を3曲聴いてみた。
まずは石川セリ再登場。
彼女の代表曲といえば「八月の濡れた砂」だろう。
深夜ラジオの人気パーソナリティが推してヒットにつながったという伝説がある。わたしはそのラジオは聞いていなかったが、仲間内で藤田敏八監督の映画「八月の濡れた砂」が評判となっていたので何人かで映画館へ足を運んだ。半世紀あまり昔の話だ。村野武範主演で、弟分の童貞卒業を手助けするという日活最後の青春映画だった。フランス映画の「冒険者たち」を思わせるラストの海上のヨットの鳥瞰シーンとそれにかぶる主題歌は印象的だった。あとは返り討ちにあって嬲りものにされる泥棒役の山谷初男とヒロイン?(ほんとは藤田みどりだろうけど)のテレサ野田の下手さかげん(後になればそれがかえって瑞々しかったり)が印象的だった。話は遅れてきた太陽族たちの他愛のない遊びを描いた青春挫折物語だったが、失望と倦怠が伝わってくるこの主題歌がなぜか心に残った。
作曲は「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)、「グッド・ナイト・ベイビー」(キングトーンズ)のヒット曲がある(浅川マキの「ちっちゃな時から」も)むつひろし。作詞は「真赤な太陽」(美空ひばり)、「天城越え」(石川さゆり)、さざんかの宿(大川栄策)など、後年演歌のヒット曲が多かった吉岡治。「真夜中のギター」(千賀かほる)もあったけど。
編曲はわたしの持っている音源では「ペペ」となっているがネットでは「秋葉洋」となっているものもある。ぺぺの詳細は不明だが70年代はじめに日本で活動したバンドマスターでアレンジャーにフィリピン人のペペ・メルトがいる。他に由美かおるのクリスマスソングをアレンジしている。秋葉洋はラテンバンド「ロス・インディオス」のギタリスト。ロス・インディオスといえば、この歌の印象的なイントロを奏でるアルパの奏者がメンバーのチコ本間だということを以前なにかで読んだことがあった。
ピアノやトランペットもいいけれど、あのイントロはやっぱりオリジナルのアルパがいい。アルパ奏者のルシア塩満もレパートリーにしている。
その「八月の濡れた砂」の舞台になったのが湘南。そして湘南サウンドといえば加山雄三、ザ・ワイルドワンズ、サザン・オールスターズに続くのがTUBE(チューブ)。
次の「あの夏」ソングはTUBEの「さよならイエスタデイ」(1991)。最強ライバルのいる湘南サウンドにあって、ラテンテーストでその特長をだしているのがTUBE。サンバのリズムがラテン好きには心地よく、「ガラスのメモリー」ともども好きな歌。
TUBEは1985年のデビューからしばらくは外部のソングライターによる提供曲をリリースしていた(「シーズン・イン・ザ・サン」も詞・亜蘭知子、曲・織田哲郎)が、はじめに前田亘輝が詞を書くようになり89年頃から前田亘輝(詞・曲)、春畑道哉(曲)のコンビでつくりはじめ、ヒットを連発する。「さよならイエスタデー」はデビュー6年目13枚目のシングル。TUBEをすべて聴いているわけではないので小声でいうがこの歌は「女歌」で、彼らにとってはめずらしいのでは。
恋多き女もはじめての男は忘れられないっていう歌。♪戻れぬ純情 ってうたうけど ♪憎んでも恨んでもいいから 忘れないで なんて充分純情だよね。
前回のワイルドワンズにサザン、そして今回のTUBEに映画「八月の濡れた砂」と湘南の歌が続いた。「夏は湘南しかないのかよ」とツッコみたい気分だけど、そんなことはない。残念ながら東京には海水浴場がなくて? 夏はやっぱり逗子とか片瀬とか由比ガ浜など神奈川県へ出かけることが多い(実際子どものころはそうだった)のだが、東京から近場のビーチというなら湘南だけではない、同じ隣接県の千葉にだってある。
最後はそんな湘南に異を唱えた?画期的な歌。夏の終りを飾るのに最もふさわしい歌。Mi-keのうたった「想い出の九十九里浜」(1991)を。
九十九里浜は千葉・房総半島の東海岸にある砂浜で銚子の手前まで60キロ以上続いている。それだけに海水浴場も多く近年はサーフスポットも少なくなく、若者に人気のビーチがいくつもある。
以前は湘南が歌や映画で輝きすぎ、九十九里というとどこか暗いイメージがあった。都会と田舎とか。湘南のビーチが白い砂(なわけはない)なら九十九里は灰色の砂とか。
個人的には子どもの頃は湘南ばかりだったけれど、九十九里には高校の3年間毎夏通った。九十九里の白里に友人の別荘があり、そこへ毎年何人かで便乗していたのだ。別荘といっても友人の父親が経営する会社が福利厚生施設として借りていた普通の民家だったのだが。それ以来九十九里浜からは遠ざかっているが、当時は湘南にくらべとにかく最寄駅から海岸までの距離が遠い、という印象があった。でも砂浜は湘南と同じようなもので、海の家やビーチのステージでのバンド演奏など少しも変わらなかった。
Mi-Keはトリオの女性ユニットで、「想い出の九十九里浜」がデビュー曲。メンバーはリードヴォーカルの宇徳敬子、コーラス&ダンスの村上遥、同じく渡辺薫。
この曲はふた昔前のグループサウンズへのノスタルジィというかオマージュというかパロディというか、そんな曲。Mi-Keはその後2年余り活動し、売りの「GSもどき」のシングル盤11枚をリリースした。
作曲・編曲はミュージシャン&プロデューサーの織田哲郎。主な作品は「夢みる少女じゃいられない」(相川七瀬)、「碧いうさぎ」(酒井法子)、「負けないで」(ZARD)など。「シーズン・イン・ザ・サン」(TUBE)も。
詞はやはりプロデューサーであり音楽制作会社(当時)「ビーイング」をつくった長戸大幸。作詞作曲もするがどちらかというとプロデュースが本業のようで80年代を中心に
BOØWY、TUBE、B'z、ZARD、WANDS、DEENなどの「横文字短名バンド」をてがけている。
「想い出の九十九里浜」はほぼGSのヒット曲のタイトルを羅列しただけの歌。「夕陽が泣いている」、「君だけに愛を」、「花の首飾り」、「好きさ好きさ好きさ」、「神様お願い」、「バラ色の雲」、「長い髪の少女」、「遠い渚」、「真冬の帰り道」、「落葉の物語」、「いつまでもいつまでも」、「あの時君は若かった」と12曲がピックアップされているが、なぜかそのうちタイガースが3曲、スパイダースが2曲と特別扱い。まぁ、人気グループだからといえばそれまでだが。それをいうならブルーコメッツが入っていない。♪今は遠い渚(シャープホークス) のところを♪あれは青い渚 じゃだめだったのか。まぁ、作者の好みだといわれれば返す言葉はなけれど。
朝などクシャミが出るほどの寒気を感じる秋になった。完全に夏は終った。ちょっと早いけど、今年のわたしの「夏の思い出」とは何かと考えてみた。
ゲリラ豪雨で2度もずぶぬれになったことかなぁ。帽子から靴下まで全身はもちろん、カバンの中まで水浸し。文庫本から、スマホ、財布となかの札、通帳、カード、領収書などなど全滅。スマホだけは水が浸みていて、すぐにカバーを外してよく拭きとったおかげでその後の使用に問題がなかったことが不幸中の幸い。
あとは電気代が例年になく高かったこととか、米やコーヒー、果物……物価高はきりがない。後になって「あの時の夏は、気温と物価が高かったね」なんて。たいした夏ではなかったけれど、来年こそは「思い出になる夏…」なんて。と思いたいけど、果たして「来年の夏」があるのかどうだか。
とってつけたようだが、石破さん気の毒だ。戦後80年見解が公明党の自民党決別宣言で霞んでしまった。もしかして誰かさんが知っていてシナリオどおりに事をはこんだのかも。なんて。